橘先生の過保護な再履修



俺は立ち上がって、律くんの背後に回る。
少し湿ったままの、柔らかな銀髪。
ドライヤーの温風が、指先を掠め、
髪を持ち上げた拍子に、
律くんの項――うなじが、露わになった。

――あ。
そこに、まだ薄く残っている。
俺が、先週つけた痕。
髪の間から見え隠れするその印に、
胸の奥が、ひくりと鳴った。

(……俺、こんなこと)

急に、自分のしたことの重さを突きつけられた気がして、
指先が、ほんの少し震える。

「……天音?」

律くんが、不思議そうに声をかける。

「……なんでもない」

誤魔化すみたいに、
風量を少し上げて、続きをする。
ドライヤーの音だけが、部屋を満たす。
平和で、穏やかで、
さっきまでと同じはずの時間。

なのに――
空気が、どこか変わってしまった。

「はい、……終わり」

そう言った俺の声は、
少しだけ、上ずっていたかもしれない。

立ち上がろうとした、その瞬間。
手首を取られた。

「……っ」

強くはない。
でも、迷いのない動き。
引き寄せられて、
一歩、バランスを崩す。

「律く――」

呼びかける前に、距離が消える。
ベッドか、ソファか。
もう、そんなこと、どうでもよくなる。

いつの間にか、
柔らかい感触が、唇に重なっていた。
心臓が、嫌なほど大きく跳ねる。

「天音」

名前を呼ばれても返事ができない。

平和だったはずの時間は、もう終わっていた。

ソファに押し留められたまま、
俺は身動きが取れなかった。
背中にクッションの感触。
腕の内側に、律くんの体温。

近い。近すぎる……

「……ねぇ」

耳元で、低い声が落ちる。

「さっきさ。俺の痕、見てたでしょ」

呼吸が、止まる。

「……あんなに固まっちゃって、
何想像したの?」

答えられない。
喉が、きゅっと鳴る。

「今日は一歩進むって、約束したよね」

それは確認じゃなくて、
思い出させる言い方。

覚悟を決める時間なんて、与えられないまま、
距離が、完全になくなる。
唇が触れて――
次の瞬間、深く、甘く、沈んでいく。

考える余裕がない。
息を奪われて、
体の力が、抜けていく。

(……えっちなキスだ……)

頭のどこかで、そんな言葉が浮かぶのに。
熱に、抗えない。
気づいたら、
俺は自分から、律くんのシャツを掴んでいた。

律くんの視線が首元に落ちた。

「……消えかけてたから」

彼の指が、鎖骨のラインをなぞる。

「今度は、天音もわかるところにしとく」

低く、確かな声。
そして今度は鎖骨の下に、
ほんのり色づいた赤い痕がついた。

「これで、明日からずっと
俺のことしか考えられなくなったね」

満足げに微笑む律くんの腕の中。
俺はもう、
とっくに律くんのことしか考えられなくなっていた。