橘先生の過保護な再履修



玄関に入ると、外の音がふっと遮断された。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえる。

「どうぞ」

律くんが、先に俺を部屋に入れてくれる。
並んで靴を揃える距離が、近い。
さっきまで人混みの中にいたのに、
今は、2人分の呼吸しかない。
沈黙が落ちるけど、気まずいわけじゃない。
ただ、次に何が起きてもおかしくない静けさ。

「中、どうぞ」

リビングに足を踏み入れると、
見慣れたはずの部屋が、少しだけ違って見えた。
夜だからか。
それとも――泊まる、と決めたからか。

「座る?」

「うん」

ソファに腰を下ろすと、律くんは少し遅れて隣に座った。
肩が、ほんの少しだけ触れる。

「天音」

名前を呼ばれて、顔を上げる。

「無理してない?」

律くんの声は、相変わらず穏やかだ。
でも、その奥にちゃんと不安がある。

「……してないよ」

少し考えてから、続ける。

「だって、俺も律くんが好きだから……」

正直すぎたかもしれない。
そう思った瞬間、律くんが小さく息を吐いた。

「……そっか。嬉しい」

それだけなのに、
肩の力が抜けたのが、わかる。

「じゃあ今日は、ゆっくりしよ」

“泊まる”じゃなくて、
“ゆっくり”。

その言い方が、優しくて、ずるい。

俺は小さくうなずいて、
ソファの上で、そっと背筋を伸ばした。





俺は今、ソファに座って
律くんがシャワーから上がってくるのを待っている。

あのあと、映画の感想を言いながら買ってきたご飯を
食べ終わったところで、
「シャワー、一緒に入る?」と、誘われた。が、
それは丁重に断った。
じゃあ、先に入ってきてと言われたので、
俺は初めて律くんちのお風呂に入った。

洗面所には、タオル、パジャマと新品の下着、
それから歯ブラシセットまで用意されていて……
その上、ちゃっかりサイズまでばっちりで、
俺はなんだかいたたまれなかった。


しばらくして、水の音が聞こえてくる。
シャワーが床に当たる音、
水を止めて、また流す音。
見てないのに、
見てしまっているみたいで申し訳なくなる。

(なんか、生々しい……)

頭の中で勝手に補完されて、頬が熱くなる。

(想像するな俺!)

自分に突っ込みを入れながら、
ソファのクッションをぎゅっと掴んだ。

シャワーの音が止まって、
しばらくしてから、足音が近づいてくる。

(……来る)

そう思った瞬間、
ドアが開いた。

「天音――」

振り向いた、その一瞬。

「っ……!」

思っていたより近くて、素の姿で。
濡れた髪から、ぽた、と水が落ちる。
シャワーの後の、あの匂い。
湯気みたいな熱が、ふわっと届く。

「……なに、その反応」

律くんが、ちょっと困ったように笑う。

「び、びっくりしただけ……」

心臓が、明らかに早い。
自分でもわかるくらい。

「そんな驚く?」

「だって……急に……」

語尾が弱くなる。
目を合わせられなくて、視線を逸らす。

「髪、乾かさないと」

律くんはそう言って、
ドライヤーで髪を乾かし始めた。
指が、そっと髪に触れる。
濡れたままの髪を、指で梳く感触。

(なにこれ……)

「これ、やってみたかったんだよね」

「……なにを?」

「こういうの。恋人の髪、乾かすやつ」

「そっか……」

「天音、照れてる」

「照れてない……」

「今のは無理あるよ。顔真っ赤」

「……っ」

ドライヤーの音に紛れて、
そんなやり取りをするのが、恥ずかしい。

「できた。じゃあ、今度は天音が俺のやって」

「うん」