橘先生の過保護な再履修



二人並んで、夜の街を歩く。
仕事帰りのサラリーマンや、
どこか浮かれた学生たちで、
地下鉄の構内も、電車の中も、ごった返していた。
人の流れに押されそうになった、その時。
律くんが、そっと俺の手を取る。
指先が絡んで、離れない。

俺は、わかっているはずなのに、
あえて聞いてみた。

「……ねぇ、別件ってなに?」

小声でそう尋ねると、
繋いでいないほうの手が伸びてきて、
俺のうなじに触れた。

――あの場所。
キスマークがあったところを、
指先で、そっとなぞる。
一瞬、息が止まる。

「言ったでしょ」

低く、静かな声。

「……痕、消えてるって」

人混みの中で、
そんなことを言うのは反則だと思う。
俺は何も言えなくなって、
ただ、繋がれた手に力を込めた。





地下鉄を出ると、夜の空気がひんやりしていた。
人波から一歩離れただけで、街は急に静かになる。
歩幅を合わせて、ゆっくり進む。
ネオンに照らされた夜道は、どこか映画の続きみたいだった。

「映画、どうだった?」

「……良かった。終わり方、好き」

「うん。天音、ああいうの好きだと思った」

さらっと言われて、胸がきゅっとする。
わかってもらえるのが、嬉しい。
少し歩いて、コンビニの前で足が止まる。

「寄ろっか。お腹すいてるでしょ?」

「え、いいの?」

「うん。ポップコーンだけじゃ足りないでしょ」

結局、サラダとおにぎりとお菓子を買い込んで、
また歩き出す。

「……ねぇ」

「ん?」

言葉を探している間に、律くんが先に口を開いた。

「今日は、泊まってくでしょ?」

心臓が、ドキンと大きく脈打った。

「……うん」

「嫌なら言って。天音が嫌がることはしたくない」

嫌なわけがない。
でも、軽く言ってしまうのも、違う気がして。

「……泊まり、たい……」

そう言ったら、律くんは一瞬だけ目を伏せて、
それから、安心したように笑った。

「じゃあ、帰ろう」

“家に行こう”じゃない。
“帰ろう”。

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。
夜の街を抜けながら、手はずっと繋がれたまま。
エントランスに入る直前、律くんが小さく言った。

「緊張するね」

「律くんも?」

「当たり前でしょ。俺の事なんだと思ってるの?」

「え、なんでもできるスーパーマン」

「そうなりたいけどね~。実際は好きな子を前にすると、
緊張して、テンパって、
今すぐ暴走しそうな、ただの大学生ですよ」

「そうなの?遊び慣れてそうなのにね」

「偏見です~。天音ひどい」

エレベーターの扉が閉まる。
さっきまでの会話は消え、
上に上がっていく間、
静かすぎて、自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。