橘先生の過保護な再履修



二人並んで、夜の街を歩く。
仕事帰りのサラリーマンや、
どこか浮かれた学生たちで、
地下鉄の構内も、電車の中も、ごった返していた。
人の流れに押されそうになった、その時。
律くんが、そっと俺の手を取る。
指先が絡んで、離れない。

俺は、わかっているはずなのに、
あえて聞いてみた。

「……ねぇ、別件ってなに?」

小声でそう尋ねると、
繋いでいないほうの手が伸びてきて、
俺のうなじに触れた。

――あの場所。
キスマークがあったところを、
指先で、そっとなぞる。
一瞬、息が止まる。

「言ったでしょ」

低く、静かな声。

「……痕、消えてるって」

人混みの中で、
そんなことを言うのは反則だと思う。
俺は何も言えなくなって、
ただ、繋がれた手に力を込めた。


※


地下鉄を出ると、夜の空気がひんやりしていた。
人波から一歩離れただけで、街は急に静かになる。
歩幅を合わせて、ゆっくり進む。
ネオンに照らされた夜道は、どこか映画の続きみたいだった。

「映画、どうだった?」

「……良かった。終わり方、好き」

「うん。天音、ああいうの好きだと思った」

さらっと言われて、胸がきゅっとする。
わかってもらえるのが、嬉しい。
少し歩いて、コンビニの前で足が止まる。

「寄ろっか。お腹すいてるでしょ?」

「え、いいの?」

「うん。ポップコーンだけじゃ足りないでしょ」

結局、サラダとおにぎりとお菓子を買い込んで、
また歩き出す。

「……ねぇ」

「ん?」

言葉を探している間に、律くんが先に口を開いた。

「今日は、泊まってくでしょ?」

心臓が、ドキンと大きく脈打った。

「……うん」

「嫌なら言って。天音が嫌がることはしたくない」

嫌なわけがない。
でも、軽く言ってしまうのも、違う気がして。

「……泊まり、たい……」

そう言ったら、律くんは一瞬だけ目を伏せて、
それから、安心したように笑った。

「じゃあ、帰ろう」

“家に行こう”じゃない。
“帰ろう”。

その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。
夜の街を抜けながら、手はずっと繋がれたまま。
エントランスに入る直前、律くんが小さく言った。

「緊張するね」

「律くんも?」

「当たり前でしょ。俺の事なんだと思ってるの?」

「え、なんでもできるスーパーマン」

「そうなりたいけどね~。実際は好きな子を前にすると、
緊張して、テンパって、
今すぐ暴走しそうな、ただの大学生ですよ」

「そうなの?遊び慣れてそうなのにね」

「偏見です~。天音ひどい」

エレベーターの扉が閉まる。
さっきまでの会話は消え、
上に上がっていく間、
静かすぎて、自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。