橘先生の過保護な再履修



玄関の方で、鍵が回る音がした。
次いで、ドアが開く気配。

俺は反射的に立ち上がって、廊下の方へ向かう。

「おかえり……来ちゃった」


律くんは、何も言わなかった。
代わりに一歩で距離を詰めてくると、
俺の肩に顔を埋めるようにしてぎゅっと抱きしめた。
外の冷えた空気を連れてきた服越しに、
律くんの強い鼓動が伝わってきて、心臓が跳ねる。

「……ただいま」

低い声が、耳元で落ちる。
一拍置いて、ぽつりと呟く。

「やばい」

「……なにが?」

聞き返すと、
律くんは腕を緩めないまま続けた。

「最高すぎる」

意味がわからなくて黙っていると。

「天音が、俺の家にいる」

それだけで、
全部説明がつくみたいに言う。
俺は思わず笑ってしまった。

「いるよ」

俺は律くんの背中にしがみつく。

「……早速、使っちゃった」

律くんの腕にさらに力がこもった。

「使っていいって言ったじゃん」

「うん」

「ていうか、毎日来てもらってもいいし。
なんなら住んでもらってもいいぐらい」

そこで、
律くん自身が吹き出すみたいに笑った。

「……やばいな、これ」

俺は抱きしめられたまま、
律くんのひんやりした体温が、
だんだん暖かくなっていくのを感じた。
心臓がドクドクと爆音で暴れだしている。
離れたいのに、離れたくない。
俺は、何も言えずに固まっていた。

そんな俺を見て、律くんはフッと笑う。

「冗談だよ」

ふいに律くんの身体が離れた。

「でも、半分は本気。
俺はいつか絶対って思ってるから。
だから……ちゃんと覚悟しといて」

そう言って俺の髪を一度だけ乱暴に撫でると、
律くんは何事もなかったみたいに洗面所へ向かった。

水の音がして、
手洗いをして、
うがいをする音が続く。

俺はその場に立ち尽くしたまま、
一歩も動けなかった。

(……覚悟。覚悟??)

そんな言葉、急に投げられても、
どうしていいかわからない。
まだ付き合って2週間。
キスだって、数えるほどで。

「なに?課題してたの?」

俺がグルグル考え込んでいると。
洗面所の方から声が飛んできた。

「あ……うん」

我に返って答える。

「律くんも頑張ってるし、
俺も、頑張らないとって思って」

「そっか」

短いけど、やけに優しい声。

律くんはソファに腰を下ろして、
こっちを見る。

「塾、どうだった?」

そう言いながら、
手招きするみたいに、軽く手を動かした。

――ずるい。
俺は思わずふっと笑ってしまう。
さっきまであんなに固まっていたのに、
もう浮かれてテンションが上がっている。

「うん、すごくよかった!」

そう返事をして、
俺は律くんの隣に腰を下ろした。
ソファが少し沈んで、距離が自然と近づく。

「俺、やってみようかなって思ってる。
山田先輩みたいに、
クラス受けもって授業するのはまだ難しいけど、
個別のクラスとか、律くんみたいに自習室に入るのは
いいかなって。
ゆくゆくはクラスも持ちたいけど……
とりあえず始めてみるつもり。
さっき晴人から連絡来てたんだけど、
晴人もやるって言ってた」

「そっか。いいじゃん。
向いてると思うよ。塾講。
悪くとらないでほしいんだけど、天音は天才じゃないからさ。
要領もいいわけじゃないし、ちゃんとコツコツ頑張るタイプだから。
生徒の”わからない”に、ちゃんと寄り添えると思う。
そういう人が一番向いてるよ」

「そうかな。でも、ちょっとわかるかも……
お姉ちゃんは多分、天才の部類だったんじゃないかな。
よく”なんでこんなことがわかんないの?”って
言われてたから」

「ははは、そうなんだ。辛辣だね」

「うん。T大行ってるから、もう何も反論できない」

話している内に、少しずつ不安が薄れていく。
映研の仲間や律くんがそばにいて応援してくれるだけで、
なんでも頑張れそうな気がする。
俺は体の内側からやる気がみなぎってきて、
今なら課題も頑張れそうと、
シャーペンに手を伸ばしたその瞬間。

皮のソファが、ギシッと奥深く沈んだ。