橘先生の過保護な再履修



いかにも陽キャで銀髪の男が、ほんの少しだけ眉を下げていた。
記憶よりも近くて、大人で……
でも、俺が知っている「家庭教師の先生」ではなく、
このキャンパスに溶け込む、ただの一学生だ。

「久しぶりだね、天音。……大丈夫?」

差し出された手が、迷いなく俺の腕に触れる。
その一瞬で、世界の騒音が、すっと遠のいた。

「先生……助けて、吐きそう……」

次の瞬間、肩に回された腕がしっかりと俺を支えてくれる。

「大丈夫。無理すんな」

低く、落ち着いた声。
その一言だけで、張りつめていたものが一気に緩んだ。

「すみません、ちょっと。
この子、気分悪そうなんで、保健室連れて行きます」

肩を抱かれて、一歩、前に進く。
人の流れから外れるだけで、
頭の中の騒音が、少しずつ遠ざかっていく。

「……ごめんね、せんせ……」

「謝らなくていいよ、人酔いした?」

「ん……」

その言い方が、あまりにも昔のままで。
胸の奥が、きゅっと縮む。

そして保健室のドアが閉まる音を、
俺はどこか他人事みたいに聞いていた。





白い天井。
カーテン越しの柔らかい光。

「起きた?」

視界に入ったのは、
椅子に腰掛けて、こちらを見下ろす人影だった。

「……あ」

掠れた声が、喉から零れる。

そこにいたのは、
俺の知っている、橘先生だった。
変わらない、少しだけ困ったような視線。

「ご、ごめん。先生……
サークル勧誘中だったよね。
俺、今から学部別のガイダンスに行かないと」

「そんなのとっくに終わってるよ。ただいま15時。
よく寝たね~」

「……えっ、うそ!」

スマートウォッチで確認すると、
そこにはまぎれもなく15:11と表示されていた。

どうしよう……大事な話があったのかもしれないのに。
俺は入学初日からやらかしてしまったと、
不安と焦りがこみあげてくる。

「ガイダンスは別に行かなくても大丈夫だよ。
大した話しないし」

さらっと言われて、俺は目を瞬いた。

「え……でも」

「シラバスの見方と、履修登録のやり方の説明くらい。
それなら、俺が教えてあげられるし」

そう言って、橘先生――いや、橘 律(たちばな りつ)は、
どこか懐かしい笑い方をする。

「……ほんとに?」

「ほんとほんと。
体調悪いまま無理しない方がいいよ」

そういって彼は俺の頭を2回、ポンポンした。

(……この癖、変わってない……)

「……ありがと。助かる」

そう口にすると、
先生は一瞬だけ目を丸くしてから、困ったように笑った。


少しの沈黙。
保健室の時計の秒針の音が、やたらと大きく聞こえた。

俺は、シーツをきゅっと握ってから、
意を決して口を開く。

「……あの」

「ん?」

「先生、なんで……家庭教師、途中でやめちゃったの?」

言ってしまってから、少しだけ後悔する。
でも、聞かずにはいられなかった。
ずっと、胸の奥に引っかかっていた問いだったから。

先生は、すぐには答えなかった。
視線を落として、何かを思い出すみたいに、短く息を吐く。

「……聞きたい?」

そう前置きしてから、
ゆっくりと、俺の方を見る。

「聞いたら後戻りできなくなるけど、いい?」

「……え?」