いかにも陽キャで銀髪の男が、ほんの少しだけ眉を下げていた。
記憶よりも近くて、大人で……
でも、俺が知っている「家庭教師の先生」ではなく、
このキャンパスに溶け込む、ただの一学生だ。
「久しぶりだね、天音。……大丈夫?」
差し出された手が、迷いなく俺の腕に触れる。
その一瞬で、世界の騒音が、すっと遠のいた。
「先生……助けて、吐きそう……」
次の瞬間、肩に回された腕がしっかりと俺を支えてくれる。
「大丈夫。無理すんな」
低く、落ち着いた声。
その一言だけで、張りつめていたものが一気に緩んだ。
「すみません、ちょっと。
この子、気分悪そうなんで、保健室連れて行きます」
肩を抱かれて、一歩、前に進く。
人の流れから外れるだけで、
頭の中の騒音が、少しずつ遠ざかっていく。
「……ごめんね、せんせ……」
「謝らなくていいよ、人酔いした?」
「ん……」
その言い方が、あまりにも昔のままで。
胸の奥が、きゅっと縮む。
そして保健室のドアが閉まる音を、
俺はどこか他人事みたいに聞いていた。
※
白い天井。
カーテン越しの柔らかい光。
「起きた?」
視界に入ったのは、
椅子に腰掛けて、こちらを見下ろす人影だった。
「……あ」
掠れた声が、喉から零れる。
そこにいたのは、
俺の知っている、橘先生だった。
変わらない、少しだけ困ったような視線。
「ご、ごめん。先生……
サークル勧誘中だったよね。
俺、今から学部別のガイダンスに行かないと」
「そんなのとっくに終わってるよ。ただいま15時。
よく寝たね~」
「……えっ、うそ!」
スマートウォッチで確認すると、
そこにはまぎれもなく15:11と表示されていた。
どうしよう……大事な話があったのかもしれないのに。
俺は入学初日からやらかしてしまったと、
不安と焦りがこみあげてくる。
「ガイダンスは別に行かなくても大丈夫だよ。
大した話しないし」
さらっと言われて、俺は目を瞬いた。
「え……でも」
「シラバスの見方と、履修登録のやり方の説明くらい。
それなら、俺が教えてあげられるし」
そう言って、橘先生――いや、橘 律は、
どこか懐かしい笑い方をする。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。
体調悪いまま無理しない方がいいよ」
そういって彼は俺の頭を2回、ポンポンした。
(……この癖、変わってない……)
「……ありがと。助かる」
そう口にすると、
先生は一瞬だけ目を丸くしてから、困ったように笑った。
少しの沈黙。
保健室の時計の秒針の音が、やたらと大きく聞こえた。
俺は、シーツをきゅっと握ってから、
意を決して口を開く。
「……あの」
「ん?」
「先生、なんで……家庭教師、途中でやめちゃったの?」
言ってしまってから、少しだけ後悔する。
でも、聞かずにはいられなかった。
ずっと、胸の奥に引っかかっていた問いだったから。
先生は、すぐには答えなかった。
視線を落として、何かを思い出すみたいに、短く息を吐く。
「……聞きたい?」
そう前置きしてから、
ゆっくりと、俺の方を見る。
「聞いたら後戻りできなくなるけど、いい?」
「……え?」



