橘先生の過保護な再履修



18時になって、山田先輩の授業が始まった。
山田先輩の声は落ち着いていて、
廊下に立っていてもよく通る。
板書は最低限。
でも話の流れがわかりやすくて、
気づくと夢中になって聞いていた。

(あ……これ、普通に面白い)

歴史の出来事を、
ただ年号で並べるんじゃなくて、
「なんでそうなったか」を噛み砕いて話してくれる。

(そうだ……律くんがカテキョの時もこんな感じだった)

横を見ると、晴人も同じ真剣な顔をしていた。
スマホで何やらメモも取っている。

(やば……)

俺は小さく息を吸う。
正直、高校の時の歴史の先生より、
ずっとわかりやすくて、面白い気がする。
授業って、こんなに引き込まれるものだったっけ。

途中、塾長がバイトの概要についてザックリ話に来たけれど、
俺は山田先輩の授業に意識が引っ張られていた。

あっという間に時間が過ぎて、
授業が終わる。
生徒たちが帰っていく中、山田先輩がこっちに来た。

「どうだった?」

「……めちゃくちゃ、上手かったです」

思わず本音が出る。

晴人も、勢いよくうなずいた。

「いや、ほんと。
説明の仕方、プロすぎません?」

「でしょ?」

山田先輩は、ちょっと得意そうに笑った。

「わからないところがあったら、
とりあえず俺に聞いてくれていいから」

そう言ってから、
少し声を落とす。

「まぁ、ゆっくり考えてみて。
まだ返事は急がないし、今日は見学だしね」

現実的で、ちゃんとしていて、
ちゃんと未来に繋がっている感じ。
俺は、胸の奥で静かに思った。

……ここなら。

ここなら、
やっていけるかもしれない。






塾を出て晴人と別れた後、
俺はしばらく駅前で立ち尽くしていた。

ポケットの中で、
小さな金属が指に当たる。

――鍵。

握りしめた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮んだ。

(……なんでだろ)

理由はわからないけど、でも、今、
無性に律くんに会いたい。
さっきまで一緒にいたのに。
塾まで送ってもらったばかりなのに。
それでも、この気持ちを律くんに聞いてほしくて……

もらったばかりの鍵を使うのは、
正直、少し気が引けた。
勝手に踏み込んでいいのか、
まだそんな仲じゃないんじゃないかって、
頭のどこかでブレーキがかかる。

でも――。

鍵を、そっと握り直す。

(……ちょっとだけ)

言い訳みたいに心の中でそう呟いて、
俺は律くんの家へ向かった。




「……お邪魔します」

誰もいないとわかっているのに、声が自然と出た。
中は相変わらず、無駄なものが何ひとつない。
床も、棚も、きれいに整えられていて、
生活感はあるのに、散らかっていない。

――ただ。
デスクの上だけは、例外だった。
開きっぱなしの参考書。
付箋だらけのノート。
書きかけのメモ。

俺はソファーを背もたれにして、
床に座り込んだ。
カバンから課題を取り出してノートを開く。

……集中しよう。
そう思うのに、
ペンを持つ指先が、少しだけ落ち着かない。
それでも目の前のデスクを見ると、
胸のざわつきは少しずつ静まっていく。

(俺も頑張らないと……)

律くんのいない部屋。
でも、そこかしこに律くんの気配を感じる中で、
俺は自分の課題と向き合った。