橘先生の過保護な再履修



俺はすぐに返事ができなかった。
頷いた気もするけど、それはきっと条件反射だ。
そんな俺の隣で、晴人が少し背筋を伸ばす。

「山田先輩、俺、前向きに検討したいんですけど、
見学とかってできますか?」

その瞬間、
山田先輩の顔がぱっと明るくなる。

「もちろん大歓迎だよ!」

即答だった。

「じゃあさ、てんくんも晴人くんも、
5時にB駅来れる?」

「はい、行けます」

晴人は迷いなく答える。

――え。

俺は、そのやり取りを横で聞きながら、
口を開くタイミングを完全に失っていた。

五時。
今日。
B駅。

頭の中で言葉を組み立てようとした、その時。

「俺、今日予備校まで時間あるから天音送ってくよ」

律くんが、何でもないことみたいに言った。
俺はまだ、
「行く」なんて言ってない。
断ってもいないけど、了承もしていない。
なのに。

「じゃ、そういうことで!」

山田先輩がまとめるように手を叩いて、
話は次の話題に移っていく。
誰も、俺の返事を待たなかった。
気づいた時には、もう「行く流れ」になっていて。
今さら「やっぱり無理です」なんて、
言える雰囲気でもなくて。
……取り消せなかった。

机の下では、まだ律くんの指が俺のロンTを摘まんでいる。
太ももに残った感覚も、やけに生々しく残っていて……

俺はすこし伸びたカップ麺を無理やり胃に押し込んだ。





四限が終わって、俺は正門の前で律くんを待っていた。
スマホを確認しようとして、
結局ポケットに手を入れたまま、校舎の方を見る。
その時だった。

向こうから、ひとつの集団が歩いてくる。
周りより、やけに目立つ。
声が大きいとか、騒いでいるとか、
そういうわけじゃないのに――。

いわゆる――陽キャ軍団ってやつだ。
その中心にいるのは、光をはじくみたいな銀髪。
夕方の光に透けてキラキラして見える。
男女混じりでみんな楽しそうに話していて、
服装も、雰囲気も、全部が軽い。

……同じ大学生なんだよな。
きっと2つしか年は違わないはずなのに。
その差が、うんと離れているみたいに感じる。

俺は無意識に、自分の足元を見る。
ロンTに、少し擦れたスニーカー。
別におかしくはない。
でも、あの輪の中に立つ自分は、
どうしても想像できなかった。

――やっぱり、違う世界の人だ。

そんなことを考えて、
勝手に、少しだけ卑屈になる。
その瞬間。

「天音!待たせた!」

聞き慣れた声がして視線を上げる。

集団の端から、
律くんがこっちを見つけて、
手を振りながら走ってくる。
俺の前で立ち止まって、
少し息を切らしながら笑う。

「ごめん、待った?」

「全然。今来たとこ」

そう言うと、
律くんは安心したみたいに目を細めた。

「よかった」

それだけで、
胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどける。
律くんは、さっきの集団の方を一度だけ振り返ってから、
何でもないみたいに言った。

「じゃ、行こっか。B駅」

その声は、俺だけに向けられている。
俺はうなずいて、律くんの隣を歩き出した。

さっきまで感じていた距離が、
嘘みたいに縮まっていく。
――安心した、はずなのに。
なぜか胸の奥で、黒いモヤみたいなものが動く。


(……この人の好きな人は俺だ)

自分でわかってしまった。

――これは独占欲だ。

俺は律くんのシャツの裾をそっと掴んだ。
自分から手を繋ぐ勇気はない。
けれど、律くんに触れていたいと思ってしまったのだ。