俺はもう、変に駆け引きするのをやめた。
「……お二人のバイト先の塾、ですか?」
そう言うと、
山田先輩は一瞬きょとんとしてから、にやっと笑った。
「はい、その通り」
やっぱり、という気持ちと少しだけ肩の力が抜ける感じ。
「うち、正直ちょっと人足りてないんだよね。
それもあるんだけど……でもさ、現実的にいい提案だと思わん?」
そう言って、先輩は机に肘をつく。
「塾ってさ、勉強を教える場所じゃん。
必然的に、教育学科の学生が多いんだよ」
俺と晴人を交互に見て、続ける。
「だから実習にはめちゃくちゃ寛容。
『この期間は入れません』って言っても、
あーはいはい、行ってらっしゃい、って感じ」
「……それ、理想すぎません?」
思わず本音が出ると、
山田先輩は満足そうにうなずいた。
「で、そもそも授業を教える、勉強を教えるってこと自体が、
将来の実習の予行演習みたいなもんでしょ」
なるほど、確かに。
「しかもね――」
先輩は、少し声を落として言う。
「居酒屋とかでバイトするより、破格の時給です」
その一言で、
俺と晴人は同時に顔を上げた。
「どう?」
そのタイミングで、
横にいた律くんが自然に口を開く。
「それでも不安なら、俺みたいに中高生の
テスト前の自学習スペースで、臨時の講師に入るって形もあるよ」
「臨時、ですか?」
晴人が食いついた。
「うん。毎週固定じゃない。
行けるときに入る感じだから、シフトで悩まなくて済む」
カップ麺の湯気の向こうで、
律くんはいつも通り落ち着いた顔をしている。
「実習が入ったら、その期間は入らなきゃいいし。
無理しなくていいんだよ。
それを見越して多めにバイト雇ってる。
でも、春に前の4年生がごっそり抜けちゃったからね。
今は募集中なんだ」
――無理しなくていい。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
俺は晴人の方を見る。
晴人も、さっきまでの沈んだ顔じゃなくて、
少しだけ前向きな表情をしていた。
現実的で、ちゃんと先のことも考えられていて、
それでいて逃げ道もある。
悪くないどころか、かなりいい話だ。
「俺もさ、これから予備試験とか司法試験の勉強で、
もっと忙しくなると思うんだよね」
不意に、律くんがそう言った。
「だから……天音が来てくれたら、嬉しいな」
そう言って、
律くんは小さくにこっと笑った。
――その瞬間。
机の下から、
そっと何かが触れた。
驚いて視線を落とすより先に、
それが律くんの手だとわかってしまう。
太ももに、軽く触れるだけ。
掴むでもなく、なぞるでもなく、
ただ、そこにいるってわかる程度。
……やばい。
心臓が、体の内側でうるさくなる。
一気に血が上って、顔がじわっと熱くなるのがわかる。
(……悪魔だ)
心の中で、誰にともなくそう呟いた。
さっきまで、
将来とか、バイトとか、
すごく大事な話をしていたはずなのに。
急に、頭が回らなくなる。
律くんは何事もなかったみたいに
カップ麺をすすっていて、
周りも普通に会話を続けている。
――俺だけが、
とんでもないことに気づいてしまったみたいだ。
――ずるい。
こんなの、
断れるわけがないじゃん……



