橘先生の過保護な再履修



恋人になったからといって日常は変わらずやってくる。

改札を抜ける人の流れも、
掲示板に貼られたレポートの締切も、
埃っぽくて誰かの香水の匂いが残る廊下も、
全部いつも通り。

 ――なのに。
俺の世界だけ、ちょっとだけ違う。
隣を歩く律くんが、
当たり前みたいに肩が触れる近さにいる。
「あまね」と呼ぶ声がいつもより少しだけ甘い。
俺を見つめる視線が、逃がさないって感じで……
それが、少しだけ怖くて、嬉しい。
きっと誰にも気づかれない変化だと思う。
けれど、確実に律くんは恋人オーラを出している。

それだけで心臓が忙しい。

恋人同士になってからもう、二週間。
それでも俺は、この距離感にまだ慣れない。


「天音、今日空き時間あるよね?映研来る?」

「……2限が空きだけど……」

(だから、なんで知ってる……)

「じゃあ、俺も2限空きだから生協でご飯買って集合ね」

「わかった。じゃぁ、あとでね」

「了解」


律くんと付き合いだしてわかったことがある。
律くんは忙しい。死ぬほど忙しい。
弁護士が三大難関資格の一つなのは知っていたけど、
想像以上だった。

俺が起きる時間にはもう机に向かっていて、
授業の合間も、映研の隅で問題集を開いてる。
空きコマは図書室。
月水金は予備校。司法試験専門のやつ。
たまに塾の臨時講師。
その合間に、俺。

……どう考えても、時間の使い方がおかしい。

しかも、司法試験の予備試験?
とやらが、もうすぐあるらしく、今は追い込みらしい。
今年は記念受験で、
来年にその予備試験合格を目指すと言っていた。
なんというか……
もう抜け目がない。
将来設計がはっきりしていて、そこに迷いなく
最短距離で進んで行ってる感じがすごすぎる……


一方俺は、まだ大学に慣れるのに必死でバイトすらも
始めていない。
求人サイトを見てはいるものの、片道1時間の通学と
授業の予習復習、迫りくる教育実習のことを考えると
なかなか踏み出すことができない。

(行動力の違い、凹む……)

俺はため息をつきながら大会議室に向かった。





「おはよう。てん。レポート進んでる?」

「おはよう、晴人。まぁぼちぼち。
山田先輩の言うとおり、教育原理、ペース早いな」

「ほんとそれ。俺キャンパスライフ楽しめる余裕ねーよ」

「俺もだよ……必死についていってる。
まだバイトも探せてないし、
そもそもそんな余裕あるのかって感じだよ」

「あぁ……バイトね……」

その言葉を聞いた途端、晴人は口元が引きつった。

「え、どうしたの?」

「いやぁ……俺、今んとこバイト全落ちなんだよね……」

「えっ……?」

意外だった。
晴人は話すと明るいしハキハキ喋る。
そんな、第一印象で落とされるような、
仕事ができなさそうな感じでは全くない。
むしろ好印象を持たれそうな感じなのに……

「実習がさ、ネックなんだって。
俺ら、そこは避けて通れないじゃん……
その間シフト抜けられるのもね~って言われて、
ただいま三連敗……もう心折れそう」

「ま、まじか……」

「まじだよ。てんも覚悟しといた方がいいぜ」

「うぅ……」

ふたりの重苦しい空気を割くように、
「はい、おはよう!!」と、教授が入ってくる。

(この先生、めちゃくちゃ爽やかなのに授業進行は
鬼なんだよな……)

俺は教科書の新しいページを開き、ギュッと折り目を付ける。
マーカーと付箋を机に出し、大きく深呼吸した。