4月2日。
桜の満開にはまだ遠いのに、街全体が先走ったみたいに浮ついていた。
俺、瀬戸 天音は、駅のトイレで鏡を見ながらネクタイを締め直す。
大学入学の際に買ってもらったスーツは、まだ体に馴染まない。
生地は硬く、肩も落ち着かず、袖はほんの少しだけ長い。
都心の巨大なコンベンションホールは、すでに熱気を帯び始めていた。
ガラス張りの壁面が朝の陽光を反射して眩しい。
地方の、だだっ広い空の下で育った俺にとって、
高層ビル群に囲まれたこの場所は、まるで異世界だ。
人々の足早な動き。
スーツの硬質な摩擦音。
どこか遠くで鳴る電子音。
どれもが、今まで暮らした町の音とは違う。
隣を歩く父さんと母さんの、いつになく誇らしげな横顔が視界の端に映った。
「すごい場所に来ちゃったな、俺」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、
ホールへと続く長いエスカレーターを上る無数の足音にかき消される。
手に握られたパンフレットには、
『S大学 入学式』と、格式高いフォントで記されていた。
その文字を見るたび、胸の奥で期待と不安が静かにせめぎ合う。
ふと、肩にかけたカバンの重みを確かめる。
中には、あのノートが入っている。
(……橘先生)
それだけで、少し背筋が伸びた。
※
厳かな式典の余韻を、地下鉄の冷たい風が吹き消していった。
改札を出てすぐ、俺は隣を歩く父さんと母さんに言った。
「ここで大丈夫。わざわざ半休とらなくてもよかったのに」
「なに言ってんの、天音。これが最初で最後なんだから。
いつも勤務校の入学式と被っちゃって、全然これなかったから……」
「そんなの仕方ないでしょ。小学校の入学式に
担任がいなくてどうすんの。父さんも今年から教頭なんでしょ?
年度初めに教頭がいなくて大丈夫なの?」
「いいんだよ。父さんも天音の晴れ舞台、見たかったしな」
「そっか。ありがと。じゃあ俺行くね」
「気を付けて。今日はお寿司にしよう」
振り返りながら手を振る二人の背中が、雑踏の中に小さくなっていく。
俺は、その姿を少しだけ見届けた。
――だが、その感傷は、
大学の正門をくぐった瞬間に粉々に砕け散った。
「新入生! 何学部!?」
「テニス興味ない? 合宿楽しいよ!」
「吹奏楽経験者募集してまーす!」
キャンパスを貫くメインストリートは、
さっきまでの静寂が嘘のようにサークルの勧誘で騒がしかった。
右からも左からも、色とりどりの派手なビラが突き出される。
断る間もなく、手の中には紙の束が積み上がっていく。
(やばい……人酔いしそう)
地方ののんびりした商店街しか知らない俺にとって、
この熱気はもはや暴力に近い。
「あ、いえ、結構です……」
蚊の鳴くような声で拒絶してみるが、
笑顔の先輩たちはそれを「照れ」としか受け取ってくれない。
一瞬、視界がじわりと揺れた。
人の声が重なって、輪郭を失っていく。
――やばいかも。
胸の奥がむっと熱くなって、
息が少しだけ浅くなる。
紙の束を抱えたまま立ち尽くしていると、
誰かの肩がぶつかり、また別の誰かの声が頭上を通り過ぎた。
「……すみません……」
自分の声が、ちゃんと出ているのかもわからない。
足元が、少し遠い。
そのときだった。
「天音?」
低くて、落ち着いた声。
雑踏の中なのに、不思議とまっすぐ耳に届いた。
「……橘、先生……?」



