橘先生の過保護な再履修



トイレに行こうとして立ち上がった瞬間、
世界が、ほんの少しだけ傾いた。

(あれ……)

さっきまで、
顔がぽっぽしてるな、くらいだったのに。
今度は、身体の芯がふわふわする。

「ん……トイレ……」

そう呟いて一歩踏み出したところで、ぐらっと視界が揺れた。

「天音、危ない!」

腕を取られる感触。
次の瞬間、体が前に倒れる代わりに誰かの胸に受け止められていた。

「もう……」

呆れたような声。
でも、俺を抱える腕は迷いなくてしっかりしている。

「ほら、掴まって」

律くんだった。
肩を支えられ、そのまま方向を変えられる。
俺は抵抗する余裕もなく、素直に体重を預けてしまった。

「トイレでしょ。連れてくから」

歩き出すたび、律くんの腕がきゅっと力を込めるのがわかる。

(……あ、だめだ)

頭がぼんやりして、距離感がうまく掴めない。
俺は、律くんの首元に顔を近づけた。

「ちょ、天音?」

鼻先に届いたのは、お酒の匂い。
でも、それだけじゃない。
少しだけ大人っぽい、あのウッディな香水の匂い。

「……いい匂い」

思ったことが、そのまま口から出た。

「律くんお酒の匂いするけど……
それより、こっちの匂い……いい匂い。
……これ好き」

一瞬、律くんの身体が固まったのが伝わった。

「……ほんとにもう」

なんか律くんがブツブツ言っていたけれど、
俺はなんて言ってるのかよく聞こえなかった。


※※※


用を足して、洗面台で手を洗う。
冷たい水に触れたおかげか、さっきまでのふわふわが少し引いていた。

(……頭、だいぶ冴えてきた)

鏡に映る自分の顔も、さっきより赤みが引いている気がする。
立ち上がってみても、もうふらつかない。

(大丈夫。ちゃんと歩ける)

そう思ってトイレの扉を出た瞬間。

「天音」

入口の横に、律くんが立っていた。

壁にもたれて腕を組み、
いつもより少しだけ眉間に皺が寄っている。
声も、どこか低い。

「もう、帰るよ。ほんっと無自覚」

「え? でも俺、もう大丈夫――」

言い終わる前に、
腰に回された手の感触で言葉が止まった。

「……え」

「いいから」

短く、それだけ。
怒ってるわけじゃない。
でも、なんか有無を言わせない強さがあった。

半ば抱えられるようにして、
そのまま個室の方へ連れていかれる。
扉が開いた瞬間、中の視線が一斉にこっちを向いた。

「ごめん。天音が間違えて酒飲んだみたいで。
危なっかしいし、俺が送って帰る」

「え、橘――」

「会計、置いてくから。多分これで足りる。
お釣りはいらない。
もし足りなかったらあとで教えて。じゃ、お疲れ」

淡々とした声。
でも、どこか急いていた。
俺は一言も口を挟めず、晴人に目でごめんと合図した。
晴人は片手をあげて、
大丈夫だから、みたいなニュアンスの顔で見送ってくれる。
その奥から、山田先輩が「過保護~~~」と言うのが聞こえた。

店を出た瞬間、夜の冷たい風が頬を打った。

「……律くん?」

俺の小さな問いに、律くんは答えず、
ただ抱き寄せる力を強めた。
その横顔は、街灯の光に透けて、
いつもの律くんよりもずっと恐ろしいほど綺麗だった。