橘先生の過保護な再履修


「おい、橘。ちょっと来いよ」

向かい側の席から、三年の先輩の声が飛んだ。

「ん?」

律くんは一瞬だけこっちを見てから、
立ち上がる。

「ちょっと行ってくるね」

そう言って、三年生の集団の方へ歩いていった。
その背中を見送った瞬間。

(……なんでだろ)

胸の奥が、ほんの少しだけほっとした。
理由はわからない。
ただ、さっきまで張りつめていた空気が、すっと緩んだ気がした。
そのタイミングで。

「失礼しまーす」

店員さんが両手いっぱいにジョッキを抱えてやってきた。

「カシスオレンジです。
生ビール。
オレンジジュース。
こちらレモンサワーで……」

次々に置かれていくグラス。
説明が早くて、正直、ついていけない。

「えっと……これ、誰の?」

聞こえた分だけを頼りに、周りに声をかけながらグラスを手渡していく。

「それ、俺です」
「ビールこっち」
「レモンサワー俺」

ぱたぱたと手が伸びて、
テーブルの上は少しずつ片付いていった。

最後に、俺の前に残ったのはオレンジ色の飲み物だった。

(……これだよな)

俺は、マンゴージュースを頼んだはずだ。
色もそれっぽいし、疑う理由もなくグラスを手に取ってそのまま口をつけた。
ごくり。
――次の瞬間。

「あ」

喉の奥に、想像と違う感触が広がった。

(……甘い?けど苦い?)

すこしの違和感を感じながらも、
こんなもんだよなと思い、そのグラスを飲み続けた。
なんかぽかぽかするなと思いつつも、
晴人と山田先輩の教育学科ネタをきいていたら
律くんが戻ってきた。

「おかえり~」

「……え……」

戻ってきた律くんは、
テーブルに置かれた空のグラスと、
俺を交互に見て何かを悟ったようにため息をついた。

「……飲んじゃったんだ」

低く、短い声。
次の瞬間には、いつもの優しい先輩の顔に戻っている。

「大丈夫?」

そう言いながら、俺の背中に手を伸ばす。

「なにが~?」

ゆっくり、なだめるみたいに律くんが俺の背中をさする。

「なにがって、天音お酒飲んだでしょ?
気づいてないの?」

「これ、マンゴージュースだよ?」

律くんは俺のグラスをとり、匂いを嗅いだ。

「違う。これ、カシオレ。体ぽかぽかしてない?
気持ち悪くないの?」

「体はぽかぽかしてきた気がするけど、
店の空気が暑いだけだよ?
絶対マンゴーだよ~。
でね、律くん。山田先輩の話、聞いてたんだ。
いっぱいためになること教えてくれて~、
困ったら助けてくれるって!」

「…………」

律くんは、なぜか山田先輩を睨みつけていた。
光を失った氷のような視線に、
山田先輩は「俺じゃないって!俺も知らなかった」と、
頬を引きつらせながら必死に弁明する。
その間で、晴人は居心地悪そうに視線を泳がせていた。

「はぁ……俺が目ぇ離した隙に……クソッ。
ちゃんと管理しとけよバカ部長!」

「えぇ~、悪かった。悪かったけど、不可抗力じゃない?」

「黙れ、ホワイトサークル名乗ってんならちゃんとしろよ、
このクソ眼鏡!」