いまだ母胎のなか



 翌朝、リビングに降りると、お母さんがタロット占いをしていた。

 母が使っていたのは、わたしが昨日リサイクルショップで買ってきたタロットカードだった。お母さんはわたしの足音を聞いて「おはよう」と言ったけど、わたしの顔を見ることもなく、またタロットカードを買ってきたことへのお礼も言って来なかった。タロットカードを買ったのがわたしだということに、お母さんは気付いているのだろうか。


「ヒナちゃん、そこ、座って頂戴」


 お母さんはタロットカードをシャッフルしながら、目の前を指差した。お父さんはすでに出勤していて家にはいないし、昼夜逆転ぎみのお兄ちゃんはさっき寝たばかりだろう。占う相手はわたししかいないらしい。

 どうせいつもみたいに、素直に付き合ってやればすぐに終わるだろうと高を括りながら、お母さんの対面に座る。お母さんは新しく手に入れたタロットカードを早く使いたくて仕方ないといった様子だった。

 お母さんの指示通りに、左手でカードをめくっていく。タロットカードは利き手とは反対側の手でめくるのが基本らしい。何度も言われたから、覚えてしまった。何枚も何枚もめくる。左手がつりそうになる。それでも我慢して、とにかく早く終わるように、てきぱきとカードを表に返していく。

 机の上に並べたカードを見ながら、お母さんが眉間にしわをよせた。


「ヒナちゃん、今日、やばいわよ」

「やばいって何が」

「今日は学校に行かない方が良いかもしれない」


 お母さんはカードに書かれてある絵柄の意味を説明し始める。だが正直、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。とにかく母が言いたいのは、今日のわたしの運勢が最悪だということらしい。

 それでも今日は、放課後に楓くんとプラスチックを食べる会を予定しているのだ。学校に行けなかったら、彼との約束を破ってしまうことになる。


「でも、学校は行かないと」

「だめよ。事故に遭うかもしれない」

「だけど今日、友達と一緒に自習する予定があって」

「じゃあ、そのお友達のお誕生日わかる?」


 わたしは制服のポケットからスマホを取り出した。ラインを開いて、連絡先一覧から、友だち登録をしたばかりの楓くんの名前をタップした。ホーム画面を開くと、名前の下に10/26と表示されていた。その日付をそのままお母さんに伝える。

 お母さんはメモ帳を取り出して、ボールペンで20021026という8桁を書き起こす。数字の並びのうち、隣り合う数どうしを足し引きして、その結果をピラミッドみたいに書き連ねていく。計算が一通り済んでから、今度はわたしの生年月日を使って同じことをした。小学生の時に流行った相性占いみたいなことを、この人は四十代になっても本気で信じている。


「相性、最悪よ。やっぱり今日は学校に行っちゃだめ」

「たとえばさあ。その相性占い、相手が男の子だったらどうなる?」

「生年月日で占ってるんだから、性別は関係ないわよ。学校には電話しておくから、今日は休みなさい」


 お母さんはノートを閉じる。テーブルの上に散らかしていたタロットカードを集めて束にした。こうなったお母さんは絶対に譲らない。ここで反撃したら、また昨晩みたいな大騒動が起こることになるだろう。わたしは女だから、お父さんみたいに力任せにお母さんを組み伏せることができない。

 お母さんはスマホを耳に押し付けていた。欠席連絡をしているようだった。だけどお母さんの放つ言葉が頭の中に入ってこない。一つ一つの単語は理解できるのに、文章になると脳みそが理解を拒んでしまう。右から左へと言葉がすり抜ける。頭の中がまっしろになった。


〈今日の放課後、行けなくなった〉


 昨日お兄ちゃんから借りた二千円は、タロットカードを買うのに使ってしまった。


〈タロットカードの結果が悪かったから学校を休まないといけない〉


 気まぐれな同情心でお母さんにタロットカードを買ってあげたのも、それでお兄ちゃんから借りたお金を無駄に使ってしまったのも、わたしが小学五年生のときにクラスで浮いてしまったのも、未だに集団にうまく馴染めないことも、全部わたしのせいだけど、わたしは全部お母さんのせいにしてる。だってお母さんが悪いから。変な健康志向にハマるお母さんが悪い。水素水生成器なんかに五十万円も使うお母さんが悪い。タロット占いで全部決めたがるのが悪い。不味いパンをこねて、昼に腐るお弁当を作る母が、全部悪いのだ。

 楓くんからの返信は、昼休みが始まるくらいの時間に来た。


〈俺も放課後墓参り行かなきゃいけなくなったからいいよー〉


 この家は箱舟みたいだ。十分な広さがあって、外側の洪水や嵐にも十分耐えうるくらいの強度をもっている。その中にいるわたしたちは、見かけでは家族としての体をなしている。お母さんは、ここに乗船した家族だけが救われるように、正しく生きることを心掛けている。悪いことは全部、自分以外の何かのせいにして、自分たちの清廉潔白を必死に守ろうとしている。お母さんだけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、そしてわたしも同じ。外界は嵐だ。もう船を降りられない。

 お母さんはその日の午後、わたしの機嫌をとるかのようにクッキーを作った。もちろん無添加で、糖質オフの、味のしないクッキーだ。わたしはそれを、腐る前に口にした。

 限りなく無害なクッキーが、口の中の水分を奪っていく。