いまだ母胎のなか




 お母さんが言うには、海外産の小麦粉を食べるとガンになるらしい。

 お母さんはその真実に気付いてしまったとき、真っ先に行きつけのパン屋さんに電話をかけた。あなたたちが使っている小麦粉は海外産なの? とまくし立てた。そしてそのお店で使われているのが輸入小麦だと知ると、やはりお母さんは電話越しに怒鳴った。あなたたちのやっていることは人殺しだとヒステリックに叫び、これからも輸入小麦に頼るのならばもう二度と店には行かないと吐き捨てた。

 どうしようもないのは、お母さんの行動が全部、百パーセントの善意で成り立っていることだ。お母さんは家族の健康と幸せを何よりも祈っているから、危ない食べ物を子どもに食べさせないようにしている。だが、善意のベクトルが変な方向に向いてしまっているのが問題だ。とにかく、パン屋さんに怒鳴るのはやめてほしかった。そのパン屋さんはお兄ちゃんの同級生の親が経営しているお店で、わたしも小さい頃からよく通っていたのだ。

 それ以降パン屋に行くことが禁止されてしまったが、そんなわが家庭でも、パンを食べることはできる。お母さんの手作りパンなら、食べることが許可されているのだ。もちろん、添加物や保存料、糖質はできる限り抑えられている。材料はネット通販で仕入れているらしい。

 一つ問題があるとすれば、この手作りパンが、おそろしいほどに不味いということだ。ぼそぼそしていて、味もない。もちろん、パンにバターやマーガリン、ジャムなどで味付けをすることは許されない。そんなことをしたら、せっかくお母さんが特別な材料を使ってパンをこねた意味がなくなるのだ。だから、乾いたスポンジみたいな、味のしないパンを咀嚼するほかないのである。

 今日の昼食は、お弁当ではなくパンの日だった。

 お弁当よりもパンの方が幾分かマシだ。お弁当はすぐに傷んでしまうけど、パンであればある程度日持ちする。それでも、お母さんの作る食べ物はあんまり信用できない。だからわたしはいつも、ごみ捨て場のそばで昼食を食べる。変な味がしたら、このパンも捨てるつもりだ。

 市販のパンの味はもう、忘れてしまった。わたしにとってのパンは、お母さんが作ったスポンジパンだ。口の中の水分を全部吸われるせいで、いつも喉に詰まらせそうになる。たまにクラスメイトが食べているコンビニの焼きそばパンを羨ましく思うこともあるが、それはそれで、きっと味の濃さや脂っこさに耐えられないと思う。このパンの味にもすっかり慣れてしまった。


「今日は腐ってねえの?」


 どこからともなく現れた水泳部の楓くんは、今日は新聞紙ではなく、プリントの束を持っていた。ビニール紐で縛られたわら半紙は黄ばんでいて、さらに印刷も掠れている。彼は今日も担任の先生のパシリに使われているみたいだ。


「腐ってない」

「それ、何パン?」

「お母さんの手作りパン」

「雛子さんのお母さんってパン作れるん?」

「でも、不味いよ」


 よいしょ、とおじさんみたいな声を出しながら、楓くんは手に持ったプリントを古紙置き場に下ろした。彼は制服についた砂埃を叩くようにして払う。よく見ると、彼がかけている黒縁眼鏡のレンズは指紋で汚れていた。


「お母さんが作ってくれたんやろ。あんまり親の善意を無碍にしたらいかんで」

「じゃあ楓くんが食べれば」


 ラップに半分包まれた、食べかけのパンを差し出す。まだ二口しか食べていないが、もう要らない。いつもお昼ご飯を抜いているからか、今日も別にお腹は空いていなかった。



 だが楓くんはそれを受け取らない。


「俺、他人ん家のおにぎり食えんから」

「あんまり他人の善意を無碍にしたらいかんでしょ?」

「なんなん、お前」


 彼はすこし悩んでから、わたしの右手からパンを奪い取った。わたしがかじっていない辺から、一口くらいの大きさにパンをちぎり、それを口に放り込む。

 楓くんはそれを咀嚼して飲み込んだ瞬間に、あからさまにオエ、と言った。黒縁眼鏡の奥がしわくちゃになる。


「まっず! ありえん!」


 彼はわたしにパンを突き返してきた。それを受け取ると、剥きかけだったラップを元に戻して、パンをゴミ箱に投げ入れた。楓くんはパンを捨てるわたしに文句を言ってこなかった。この前わたしがお弁当の中身を捨てたときは、化け物を見るような視線を送ってきたくせに。


「そのパン、何が入ってるん」

「なんも入ってない」

「なんもって、どういうこと」

「添加物とか、糖質とか、危ない成分を全部除いて作ってるらしい」

「そんなん、べつに危なくないやろ」

「お母さん、スピってんのよ」


 やけくそでそんな言葉を放った瞬間、笑い声があがった。楓くんが肩を震わせて、腹を抱えてげらげらと笑っている。それを見て、つられて笑った。他人の母親がスピっていると聞いて、ここまで笑えるこの男は変だと思う。失礼が過ぎるじゃないか。だけどその不謹慎さがかえっておかしかった。


「う、うち、玄米なの! お母さんが、最近流通してる白米はプラスチックやからって!」

「プラスチック美味すぎるやろ!」

「マーガリンもホイップクリームもプラスチックなんだって!」

「それもプラスチックなん!?」

「小麦粉食べるとガンになるし、フッ素入ってる歯磨き粉使うと脳が縮むし、水道水はホンモノの水じゃないらしい!」

「ホンモノの水って何や!」


 楓くんはひいひい言いながら、近くにある柱にもたれかかる。落ち着いたかと思ったのに、「白米がプラスチックて」と口にしながら、思い出し笑いをした。

 わたしは顔があつくなった。恥ずかしさとはまたちょっと違う。わたしは興奮していた。楓くんが気持ちいいほどに笑ってくれるのが面白かったのかもしれない。

 やっと笑いの波が落ち着いてきた頃、楓くんは「じゃあさ」と切り出した。


「今度、プラスチックを食べる会しよ。雛子さんは、べつに信じてないんやろ?」


 信じてるか信じてないかで言ったら、全く信じていない。白米がプラスチックだなんて、本気で信じるほうがどうかしている。だからわたしは頷いた。自分がそんな陰謀論めいた健康志向にハマっていないことを、彼に証明しなければいけなかった。ほんとうはすこしだけ、白米を食べることがこわいのに。