いまだ母胎のなか




 家に帰ると母親は、熱心にタロットカードの本を読んでいた。リビングのダイニングテーブルの上には、ちょうどスマホくらいの大きさのカードが並んでいる。

 初めてタロットカードを見たとき、想像よりもデカくて笑ってしまった。トランプとか、UNOくらいの大きさを想像していたのに、タロットカードはその倍くらいの大きさがある。老眼になると細かい字や絵を読み取るのが大変になるから、ババアの占い師でも使えるように、タロットカードはデカくしないといけないのかもしれない。

 お母さんの使うタロットカードは、背面がエメラルドのような色をしていて、ゴールドとシルバーの装飾が施されている。キラキラしているカードを好む習性は、カードゲームのレアカードが大好きな小学生男児となんら変わりない。わたしはお母さんが使うタロットカードのエメラルドを見ると、いつも腐ったお弁当を思い出す。肉から湧き出たカビが、ちょうどそのエメラルド色と同じなのだ。

 この際だから白状するが、お母さんはスピっている。

 家にやってくる新興宗教の勧誘には嫌悪感を示すくせに、昔から根拠のない占いや風水が大好きで、口を開けば運命がどうだとか、自然のパワーが何だとか、そういった訳のわからないことばかりを口走っている。同じ言語を話しているはずなのに、わたしはたまに母の言葉が理解できなくなる。母が口にする単語の一つ一つは確実に理解できるのに、母の発言が文章というかたまりになった瞬間、論理が支離滅裂で何を言っているのかよくわからなくなる。一時期は自分の脳みそがおかしくなってしまったのかとも思ったが、学校の先生やクラスメイトの話ならふつうに理解できるので、悪いのは自分じゃなくてお母さんの方だと悟った。

 わたしだって、昔はお母さんに気に入られたくて、手相占いを覚えたり、パワーストーンの種類や効果について覚えたりしたこともあった。

 特に手相占いにはよく傾倒した。お母さん、お兄ちゃん、そしてわたしの三人は、左手の頭脳線と感情線の間に、神秘十字線というバッテン印がある。この手相がある人は、生まれついて運勢が強く、直観力やスピリチュアルな能力が高いらしい。今思い返すとスピリチュアルな能力という概念自体が意味不明だが、当時はその手相を持つ自分が特別な人間だと思って嬉しくなったものだ。お母さんは、わたしとお兄ちゃんに神秘十字線があるのは自分のおかげであると誇らしげだった。わたしもそれを信じていた。だから家族で唯一、神秘十字線を左手に持たないお父さんを、心の中でばかにしたこともあった。

 お母さんの趣味に違和感を持つようになったのは、忘れもしない、小学五年生のときに起きたある事件がきっかけだった。

 その頃からすでにお母さんは、食品に含まれている添加物を過剰に嫌っていた。とくに学校給食で使われている食材は海外産が多いから危ないと、よく聞かされていた。

 そんなとき、お母さんがわたしに渡してきたのは、ビーズみたいな小さい宝石パーツが一面に編み込まれた、六角形のマットだった。お母さんいわく、そのマットの上に食材を置くと、食べ物に含まれている添加物が除去されるらしい。セルフサービスのガソリンスタンドにある静電気除去パッドみたいな感じで、水晶マットの上に給食のパンを置けば、パンに含まれているグルテンが反応して、安全にパンが食べられるようになるとのことだった。

 給食の時間がやってくるたびに、わたしは給食のパンやおかずを水晶マットの上に置いた。お母さんに指示された通りに、毎日毎日、せっせとマットの上に給食をのせて、パンやおかずから危ない添加物を取り除いた。最初のうちは、机をくっつけて一緒に給食を食べる同じ班のクラスメイトが、興味深そうな目でわたしの添加物除去マットを見ていた。「それなにしてんの」「触らせて」と言う班員に、マットを誇らしげに貸してあげたりもした。わたしの持つ添加物除去マットがちょっとした流行りになると、クラスメイトがこぞってわたしのところにやってきて、水晶マットの上に給食のパンを置きに来るようにもなった。

 だが、担任の先生の鶴の一声で、すべてがひっくり返った。


「学校に関係ないものを持ってくるのはやめようね」


 わたしははじめ、先生の頭がおかしくなったのかと思った。当時のわたしは、給食に含まれている悪い物質をそのまま食べると頭が悪くなると母親から聞かされていたから、担任の先生が間違っているのだと思った。だからわたしは、マットを使わずに給食を食べている先生の方がおかしいと反論した。けれどそれをうまく伝えることができなかった。

 学校での一連をお母さんに相談したら、お母さんは学校に電話をかけた。かんかんに怒ったお母さんは手が付けられないほどに電話越しに怒鳴り散らかした。次の日から先生はちょっと困った顔をして、わたしにだけ添加物除去マットを使うことを許可した。きっと、わたしのお母さんを怒らせるのが面倒だったから、特別扱いをされたのだと思う。

 先生をうまく丸め込むことはできたが、クラスメイトの反応は如実に変わった。あんなにわたしの添加物除去マットを使いたがっていた人たちも、いつしかわたしを奇妙な目で見るようになった。元々添加物除去マットの存在に懐疑的だった男子たちもその勢力に加わって、わたしはクラスでの居場所を失ってしまった。水晶マットの効果を信じているようなそぶりを見せていた同級生たちは、結局のところ目新しいものに興味があっただけだったらしい。わたしが添加物除去マットを使っている傍らで、クラスメイトは給食のパンをそのまま食べていた。「そのマットやらなくてもビョーキにならないじゃん」と誰かに言われるたび、わたしは反抗した。それを繰り返しているうちに、わたしはますます学校で浮くようになった。クラスで一人も友達がいなくなったあたりで、急に目が覚めた。本当は添加物なんて、危なくないんじゃないかって。だってみんな、添加物だらけのパンをそのまま食べているくせに、ちっとも病気になりやしない。

 わたしは小学五年生のときに起こったこの事件を思い出すだけで、あまりの羞恥心に叫びたくなる。どうしてあのとき、お母さんの言う添加物除去マットの存在を信じてしまったんだろう。どうしてあのとき、どう考えても怪しいあのマットを、我が物顔で使っていたんだろう。どうしてあのとき、あのマットを友達に貸すような真似をしてしまったんだろう。どうしてあのとき、先生に反論してしまったんだろう。思い出したくもない。あのときあの教室にいた人間が全員、わたしのことを忘れてしまえばいいのに。

 あのときから、わたしは人が大勢集まる場所がほんのすこしだけ苦手になってしまった。わたしが集団にうまく馴染めないのは、きっとわたし自身の性格によるところもあるのだろうけど、基本的にはお母さんのせいだ。間違いない。わたしがうまくいかないのは全部、スピってるお母さんのせい。食品添加物とか、タロットカードとか、よくわからないけど、わたしに迷惑をかけるのはやめてほしい。

 今日も相変わらず、お母さんはスピを深めている。わたしがどんなに、占いやタロットには信憑性がないと言って聞かせても、お母さんはそんなわたしを反抗期の一言で片付ける。もう、この人には何を言っても無駄なのだ。歳をとると、自分の考え方に疑いを持つための知的体力がなくなってしまうのかもしれない。

 お母さんは、ダイニングテーブルの上に並べられているエメラルド色のタロットカードと、手に持っている教本をじっくりと見比べながら、わたしに言った。


「ヒナちゃん、陽平を呼んできてえ」

「なんで?」

「前にも言ったでしょ? タロット士の資格を取るのに、レポートが必要なのよお。被験者が足りないから、陽平にもやってもらおうと思って」


 お母さんはしわの寄った左手でカードをめくる。お母さんの爪には赤いマニキュアが塗られていた。インスタグラムで流れてくるような小綺麗なネイルとは全く違う。お母さんが塗っている赤いマニキュアは、先の部分がすこし剥げていて、おまけに甘皮の部分が浮いていた。ハケを動かしたときの縦筋も、くっきりと残っている。お世辞にも綺麗とはいえない出来だった。母はその爪でお米を研ぐのだろうか、と一瞬考えて嫌な気分になったが、そういえばうちは玄米だから、お米を研ぐ必要はなかった。

 わたしは頷いて、二階へ続く階段を上った。

 階段を上りきってから右側に行くとわたしの部屋が、左側に行くと兄の部屋がある。冷たいフローリングを靴下越しに踏みしめながら、兄の部屋の扉を三回ノックした。ドアをノックしてから兄がこの扉を開けるまで、いつも三十秒ほど待たされる。これは兄が悪いわけでも、わたしが悪いわけでもない。お母さんはいつも、子どもの部屋の扉を五回ほど連続でノックすると、そのまま間を置かず、勝手に部屋に入ってくる。つまり、ノックの相手がお母さんだった場合、中に入っている側は、立ち上がって扉を開ける必要がないのだ。基本的に子ども部屋の扉をノックするのはお母さんだから、わたしも兄も、部屋のドアがノックされても、立ち上がらないことが多い。だから、ノックの相手がお母さん以外の家族だった場合、反応が遅れるというわけだ。

 辛抱強く待っていると、目の前の扉がうすく開いた。見上げると、ねずみ色のスウェットを着た兄が眠そうに立っていた。スウェットの首元はよれていて、よく見ると肩の部分に白い点々が落ちている。

 年齢で言えばわたしの二つ上で、今年は高校三年生のはずだけど、お兄ちゃんの風貌は三十代と言われても納得できるくらいに老けていた。髪の毛も髭も伸びっぱなしで、いつも同じスウェットを着ていて、そして心なしか小便のようなにおいがする。

 兄は落ち着かない様子で、腰のあたりをぼりぼりと搔いた。


「なに」

「お母さんがタロットの相手してって」

「雛子がやれば」

「わたしは昨日やったから」


 お兄ちゃんはため息をつく。兄はわたし以上に、お母さんの様子にうんざりしていた。

 わたしは、兄の左手に神秘十字線が刻まれていることを知っている。きっとそれについて言及したら、兄はわたしを殴るだろう。彼もそれなりに、お母さんのスピリチュアル傾向によって傷を負っている。


「父さんはまだいねえよな?」

「あと二時間は帰ってこないから、大丈夫」

「クソ。起きたばっかなのに」


 わたしの隣をすり抜けるようにお兄ちゃんが自室から出る。重い足取りで、階段を下りていった。お兄ちゃんが自分の部屋から出るのは、トイレに行くときと、お母さんのタロット占いに付き合わされるときだけだった。