◇
春先の空気の中にいた。
時期は四月に移っている。そんな中で冬は暦上だけでも過ぎ去ろうとしているのに、それでも身を凍えさせるような強風が時折吹いては荒れている。ただ、春らしさを感じるような湿気を含んだ風も吹きはしてくれるものの、やはりどうしてもその中に孕んでいる冷たさには寒さを感じて仕方がなかった。
「別れよっか」
喫茶店の外、テラス席。湯気を立てている珈琲を口に運びながら、彼女は淡々と呟いていた。
大学の最寄り駅に位置しているこの喫茶店では、ついこの間に入学したらしい新入生のそれぞれが、もしくは講義で見たことのある顔の一部、更には社会人らしきサラリーマンの姿が見受けられる。ただ、普段のこの喫茶店の雰囲気を思えば、その人の数は過剰に思えて仕方がない。こうして店内で座れず、テラス席という場所で会話をしている現状には、俺は息を吐くことしかできなかった。
そんな場所と空気感、喫茶店から香ってくる苦味、それでいて菓子類の香り付けに使われているのだろう、甘ったるい香りが苦味に混ざり合って鼻腔をくすぐる。どこか対極に感じるそれらの匂いが混ざり合っても、特に不快感を覚えることはなくて、それらの要素が喫茶店の暖かさをこちらに伝播させているような錯覚があった。
俺は彼女の言葉に頭が白くなるような感覚がしながら、俺は恋人である彼女を、……恋人をやめようとしている彼女、花村 里美を見つめていた。
里美の亜麻色の髪が風に靡いている。その風を気にしているのだろう、止んだ後にはその形を取り戻すように手櫛で髪を撫ぜていく。別に形なんて一つも崩れていないのに、それでもその動作こそが自然だと、こちらに誇張するように。
里美はどこまでも淡々としている様子で、その言葉には感情が混じっていないように感じた。なんならひとつの作業をやり終えた、というような吐息をひとつ吐き出しては、湯気が立っている珈琲を口に含んで嗜んでいるようだった。
「理由を聞いても?」
動揺はしていなかった。なんとなくそんなときが来ることを俺は感じ取っていた。それは別に彼女との関係に不和があったわけでもなく、停滞があったわけでもない。同じことの繰り返しのような日常を送っていたが、それでも飽くこともなく心が満たされる日々を送っていたような気がする。
ただ、それでもそんなときが来ることを俺は感じ取ってしまっていた。彼女の振舞いに違和感を覚えていたわけでも、おかしな部分があったわけでもない。ただ、もうそろそろで彼女がそう告げるのだろう、俺たちの関係に終わりが来るのだろうな、という実感があった。
それでも、無条件にその言葉を受け入れることはしたくなかった。特に彼女の言葉に動揺をしていない時点で、きっと俺もそれを受け入れる準備なり覚悟なりは整っていたはずではあるが、それでも容易く呑み込める人間に育ってきたつもりはない。
彼女と付き合っていたこの数年間が俺の中にはある。そして彼女の中にだって俺との時間が数年ほど蓄積されている。だからこそ、その時間を思えば彼女の言葉を容易く肯定する、という真似はしたくなかった。何も感じていないように振舞うことは癪だった。だから俺は彼女に聞いていた。
それに里美は首を傾げる。んー、と間延びした声をあげながら、その理由を探すように。
「……なんとなく?」
ただ、それでもそれらしい理由は思いつかなかったらしい。そうだろうな、と俺は思った。俺だってそれらしい原因には思い当たらなかったし、これからも里美と一緒に日常を過ごすことができるような気がしていた。だからこそ、きっと彼女は本当になんとなくで別れようとしている、ということを理解してしまう。
ああ、本当になんとなくというやつなんだろう。きっとそうなんだろうな、と俺は思った。
彼女から別れの言葉は告げているものの、それでも里美自身に別れたい、という気持ちはないと思う。それは別にそうあってほしい、という俺の願望からではなく、数年間という時間の単位で一緒に関わってきた俺だからこそわかる彼女の特性のようなものだ。
いつだって彼女には彼女の意思というものを感じることができないでいて、それでいて世界の流れというものに従い続けている。どこか心の中に神様なる存在を飼っていて、その神様に導かれるように振舞いを続ける。そこには本当に花村 里美という人間が存在しないように、彼女はすべてに俯瞰であり続けていた。
俺は彼女がそういう人間であったことを知っている。どこまでも、いつまでも彼女がそういう人間であり続けていることをよく知っている。すべてを知っているわけではないけれど、それでもこの別れを告げるという行為でさえも、きっと彼女の感情が絡みついているということはないのだ。
「わかりきっている、って顔だね?」
「……理解はできているけれど、納得しがたい部分はあるよ。……でも、俺が引き留めたところで──」
「──そう、意味はないからね」
俺の言葉に被るように、恋人であろうとしている俺の言葉のすべてを理解できているように、彼女はそう呟いていく。
俺がここで引き留めるような言葉を紡いだとして、何かしら彼女を引き留めるような取引材料を持っていたとして、それで彼女の態度や振舞い、そして並べた言葉が変わることはない。
「別に翔也くんのことが好きじゃなくなった、とかそういうのではないんだよ? 本当に私は──」
「──うん、知ってる」
──彼女が俺のことを好きとも嫌いとも思っていないことは、よく知っている。
『──付き合っちゃう? 私たち』
最初こそは彼女の浪漫の欠片もないような、そんな言葉から関係は始まった。そして俺は彼女の言葉に従うように、ただ組み敷かれていた道程を歩くことにした。
その過程で、そうして時間を過ごしていく中で、俺は彼女のことが本当に好きになった。最初こそは不道徳な感情もあったかもしれない、好きでもないのに、それでも恋人という関係性を続けることには後ろめたさがあった。だからこそ、俺は彼女のことを好きになろうとした。
そうして共に彼女と長い時間を過ごしていくことで、本当に俺は彼女のことが好きになった。ガワだけしかなかった付き合いに、空っぽでしかなかった彼女への気持ちは、確かに恋心で満たされていった。
だが、恋心で満たされていくうちに、彼女への理解も深まっていく。好きになればなるほどに知りたい気持ちで満たされていくその過程で、俺は彼女の感情についても理解をしようとした。それ故に理解をしてしまった。
それは俺の勝手な解釈でしかないのだろうが、それでも俺と彼女との振舞いの中に感じた温度差がある。それは俺が持つ恋心の熱と、いつまでも彼女の中に生まれない恋心の虚無からによる冷えた感覚。
どこまでも、いつまでも俯瞰的に振舞う里美は、きっと俺のことが好きじゃない。嫌いでもない。ただただ、いつか彼女自身が並べた言葉に従うだけで、それ以上のことはない。彼女の景色の中に俺が存在していたとしても、そこにいる俺のことなど何一つとして見ていない。
きっと、それだけのことでしかなかった。好きとも嫌いとも感情は置かれず、ただ恋人として義務的な関心を抱いて付き合うのみで、そこには温度差しか生まれない。
本当にそれだけのことでしかなかったのだ。
「じゃあ、その。……別れるか、俺たち」
白くなっていく頭の中、そうして吐くべき言葉も見失って、結局彼女の言葉を肯定するように声を並べた。引き留めるような言葉を並べて、それで恋人という関係性を継続することができたとしても、結局一瞬だけでそれは終わる。彼女を好きである気持ちに素直になって、そうしてどれだけの寂しさがあるかを語ったところで、彼女はきっと、そうなんだ、と一言で終わらせる。花村 里美はそういう人間だ。だから、これ以上に言葉は選べない。
彼女はにこやかな笑顔を浮かべた後、うん、と頷いた。
「翔也くんならそう言ってくれると思ってた」なんて、俺を理解したような言葉が彼女の口から運ばれる。知っていた、と言わんばかりか、もしくは俺の振舞いに期待などしていなかったように。
どうせなら、俺に何かを思ってほしかった。それだけ俺のことを、彼女のことを理解している俺のことを知ってくれているのであれば、何かしらの感情を、感情のブレを彼女に抱いてほしかった。
それは好意であってほしい。でも、嫌悪という形であってもいい。俺を好きであってくれるのであれば視線を合わそうとする意識が生まれてくれる。俺を嫌いになってくれるのであれば、意識を逸らそうとする視線が生まれる。
けれど、俺に対して無関心である彼女からは、何一つとしてそういった感情は生まれなかったのだろう。これまでも、そしてこの一瞬のやりとりの中でさえも。
どこまでも彼女の視線の中に俺は存在していなくて、俺は彼女に見られていなかった。俺だけが彼女を映していて、二人でいるのに孤独でしかなかった。
「じゃ、帰ろっか」
そういって、里美はテラス席から立ち上がる。既に彼女の手元にあった珈琲は飲み干されていて、空になったマグから少しの白む空気が見えたような気がした。
◇
大学から、そして喫茶店から帰る道程の中、近所で暮らしている俺と里美は、先ほど恋人という関係性を解消したにも関わらず、一緒の道を歩いていた。歩いてしまっていた。
きっと、別れというものには感情が発生してくれる、と俺はどこかで期待していたのかもしれない。喜び、怒り、悲しみ。嬉しさ、恋しさ、寂しさ。そういった感情が生まれてくれることを期待していた。
それは気まずさであってもよかった。彼女との空気の中でそういった気まずさが彼女の中にあってほしかった。呼吸をすることを躊躇ってほしかった。俺と一緒にいることに真空のような感覚を味わって、一刻も早くその場から立ち去るような、そんな振る舞いを期待していた──。
「──それでね、講義の時に先生が──」
──だが、そんな振る舞いは俺がそうあってほしかった幻想でしかない。
彼女はどこまでも俺に対して無関心なのだ。それ故に、恋人という関係性を解消したところで、これまでの空気感が異なることはないのだ。
本来、別れを遂げた恋人というものは、相応に気まずさを感じて然るべきだろう。そういった話を聞くこともあるし、それを想像することも難くはない。そこには恋人に対する寂しさであったり、鬱陶しさであったり。これから対面する機会があるのであれば、それに対する憂いであったり。
けれど、里美はそういった要素を感じさせない。俺たちは先ほど別れたばかりだというのに、今までと同様に、何も変わっていないというように彼女は当然のように雑談を目の前で広げていく。
それは、俺がどこまで怠慢であったかを示しているような気がした。
俺は彼女に対して行動をしてきたはずだ、けれども、その回数が少なかったのではないか、もっとやりようがあったのではないか、とそう思わせる要素がある。
別れを遂げた俺たちに、今後もこれまでも変わらない雰囲気があるとするのであれば、それは俺が彼女に何も為せなかったという証拠でしかない。そして、それをむざむざと彼女は俺に見せつけてくる。
「そう、なんだ」
乾いた返事を彼女にしながら、俺は視線を逸らした。俺だけが勝手に苦しくなっている空気、居心地が悪くてしょうがないのに、その場から逃げることを許されないような、そんな圧迫感を覚えて仕方がなかった。
きっと、俺は何かを間違えていたのだろうと思う。彼女との関わりの中で、俺は何も為すことができなかった。
「────」
下を向いて歩き続けながら、ただただ後悔を抱いては苦しくなる。
きっと、先ほどの場面で言葉を並べられなかったのが過ちだったのだろうか。みっともないとしても、彼女を引き留めるための言葉を並べるべきだったのではないだろうか。例えそれで彼女との別れが避けられなくとも、里美の中に何かしらの感情を植え付けることには成功できたのではないか。
だが、今となってはすべてが遅い。
もっと、もっとやりようがあったはずだと後悔しても、今の俺にはなす術がない。
もう、会話の内容も理解していない。適切な返事はできているのかもしれない。ああ、とか、うん、とか、そういった感情の介在しないだけの返事。
脊髄反射でだけで返す作業。
唯一、そこに感情を介させないように意識をしながら、淡々と、機械のように──。
「────翔也くんっ!」
「──え?」
確か、普通の会話の流れだったと思う。講義の中で教授が出席確認をしている中であったこととか、そこに里美の友人が遅れて入ってきたこととか、厳しい教授がそれで出席を取り消した、とか──。
そんな雑談を彼女はしていたはずなのに、唐突に切り替えたような声を里美はあげる。その尋常ではない切羽詰まったような声音に反応して、俺は顔を上げた。
隣に彼女はいない。彼女はいなくて、後ろから声が聞こえていた。
横断歩道、赤信号。明滅する光がやけに目の中に刻まれるような──。
──ああ、そうか。考え事に夢中になって、ろくに前を見ることも出来ていなかった。
──轟音。甲高い悲鳴とも聞き紛うような、そんな轟音──。
────そんな、喧しいよりも大きく表現したい轟音が耳に届いては、空間を切り裂くように────。
引き延ばされていく時間の感覚──里美が俺を見ている──あらゆるものがスローモーションに見えるような錯覚──彼女が俺を見ている──身体を動かすことにも何倍も力がいるように感じてしまって──確かに彼女が俺を見ている──動けなくて──そうして手が伸ばされていて──俺は立ち止まってその手を掴もうとして──。
──そして、つかめなかった。
「──────翔也ッ!」
そして、その最期と言える時間の中、張り詰めたような彼女の声が、初めて俺を見つめながら呼び捨てにする彼女の声が耳に届いたけれど。
俺はそれに、すべてを失うしかなくて。
ただ、彼女が俺のことをようやく見てくれた、という実感を覚えるだけに終わった。
本当にそれだけで、すべてが終わってしまったようだった。
春先の空気の中にいた。
時期は四月に移っている。そんな中で冬は暦上だけでも過ぎ去ろうとしているのに、それでも身を凍えさせるような強風が時折吹いては荒れている。ただ、春らしさを感じるような湿気を含んだ風も吹きはしてくれるものの、やはりどうしてもその中に孕んでいる冷たさには寒さを感じて仕方がなかった。
「別れよっか」
喫茶店の外、テラス席。湯気を立てている珈琲を口に運びながら、彼女は淡々と呟いていた。
大学の最寄り駅に位置しているこの喫茶店では、ついこの間に入学したらしい新入生のそれぞれが、もしくは講義で見たことのある顔の一部、更には社会人らしきサラリーマンの姿が見受けられる。ただ、普段のこの喫茶店の雰囲気を思えば、その人の数は過剰に思えて仕方がない。こうして店内で座れず、テラス席という場所で会話をしている現状には、俺は息を吐くことしかできなかった。
そんな場所と空気感、喫茶店から香ってくる苦味、それでいて菓子類の香り付けに使われているのだろう、甘ったるい香りが苦味に混ざり合って鼻腔をくすぐる。どこか対極に感じるそれらの匂いが混ざり合っても、特に不快感を覚えることはなくて、それらの要素が喫茶店の暖かさをこちらに伝播させているような錯覚があった。
俺は彼女の言葉に頭が白くなるような感覚がしながら、俺は恋人である彼女を、……恋人をやめようとしている彼女、花村 里美を見つめていた。
里美の亜麻色の髪が風に靡いている。その風を気にしているのだろう、止んだ後にはその形を取り戻すように手櫛で髪を撫ぜていく。別に形なんて一つも崩れていないのに、それでもその動作こそが自然だと、こちらに誇張するように。
里美はどこまでも淡々としている様子で、その言葉には感情が混じっていないように感じた。なんならひとつの作業をやり終えた、というような吐息をひとつ吐き出しては、湯気が立っている珈琲を口に含んで嗜んでいるようだった。
「理由を聞いても?」
動揺はしていなかった。なんとなくそんなときが来ることを俺は感じ取っていた。それは別に彼女との関係に不和があったわけでもなく、停滞があったわけでもない。同じことの繰り返しのような日常を送っていたが、それでも飽くこともなく心が満たされる日々を送っていたような気がする。
ただ、それでもそんなときが来ることを俺は感じ取ってしまっていた。彼女の振舞いに違和感を覚えていたわけでも、おかしな部分があったわけでもない。ただ、もうそろそろで彼女がそう告げるのだろう、俺たちの関係に終わりが来るのだろうな、という実感があった。
それでも、無条件にその言葉を受け入れることはしたくなかった。特に彼女の言葉に動揺をしていない時点で、きっと俺もそれを受け入れる準備なり覚悟なりは整っていたはずではあるが、それでも容易く呑み込める人間に育ってきたつもりはない。
彼女と付き合っていたこの数年間が俺の中にはある。そして彼女の中にだって俺との時間が数年ほど蓄積されている。だからこそ、その時間を思えば彼女の言葉を容易く肯定する、という真似はしたくなかった。何も感じていないように振舞うことは癪だった。だから俺は彼女に聞いていた。
それに里美は首を傾げる。んー、と間延びした声をあげながら、その理由を探すように。
「……なんとなく?」
ただ、それでもそれらしい理由は思いつかなかったらしい。そうだろうな、と俺は思った。俺だってそれらしい原因には思い当たらなかったし、これからも里美と一緒に日常を過ごすことができるような気がしていた。だからこそ、きっと彼女は本当になんとなくで別れようとしている、ということを理解してしまう。
ああ、本当になんとなくというやつなんだろう。きっとそうなんだろうな、と俺は思った。
彼女から別れの言葉は告げているものの、それでも里美自身に別れたい、という気持ちはないと思う。それは別にそうあってほしい、という俺の願望からではなく、数年間という時間の単位で一緒に関わってきた俺だからこそわかる彼女の特性のようなものだ。
いつだって彼女には彼女の意思というものを感じることができないでいて、それでいて世界の流れというものに従い続けている。どこか心の中に神様なる存在を飼っていて、その神様に導かれるように振舞いを続ける。そこには本当に花村 里美という人間が存在しないように、彼女はすべてに俯瞰であり続けていた。
俺は彼女がそういう人間であったことを知っている。どこまでも、いつまでも彼女がそういう人間であり続けていることをよく知っている。すべてを知っているわけではないけれど、それでもこの別れを告げるという行為でさえも、きっと彼女の感情が絡みついているということはないのだ。
「わかりきっている、って顔だね?」
「……理解はできているけれど、納得しがたい部分はあるよ。……でも、俺が引き留めたところで──」
「──そう、意味はないからね」
俺の言葉に被るように、恋人であろうとしている俺の言葉のすべてを理解できているように、彼女はそう呟いていく。
俺がここで引き留めるような言葉を紡いだとして、何かしら彼女を引き留めるような取引材料を持っていたとして、それで彼女の態度や振舞い、そして並べた言葉が変わることはない。
「別に翔也くんのことが好きじゃなくなった、とかそういうのではないんだよ? 本当に私は──」
「──うん、知ってる」
──彼女が俺のことを好きとも嫌いとも思っていないことは、よく知っている。
『──付き合っちゃう? 私たち』
最初こそは彼女の浪漫の欠片もないような、そんな言葉から関係は始まった。そして俺は彼女の言葉に従うように、ただ組み敷かれていた道程を歩くことにした。
その過程で、そうして時間を過ごしていく中で、俺は彼女のことが本当に好きになった。最初こそは不道徳な感情もあったかもしれない、好きでもないのに、それでも恋人という関係性を続けることには後ろめたさがあった。だからこそ、俺は彼女のことを好きになろうとした。
そうして共に彼女と長い時間を過ごしていくことで、本当に俺は彼女のことが好きになった。ガワだけしかなかった付き合いに、空っぽでしかなかった彼女への気持ちは、確かに恋心で満たされていった。
だが、恋心で満たされていくうちに、彼女への理解も深まっていく。好きになればなるほどに知りたい気持ちで満たされていくその過程で、俺は彼女の感情についても理解をしようとした。それ故に理解をしてしまった。
それは俺の勝手な解釈でしかないのだろうが、それでも俺と彼女との振舞いの中に感じた温度差がある。それは俺が持つ恋心の熱と、いつまでも彼女の中に生まれない恋心の虚無からによる冷えた感覚。
どこまでも、いつまでも俯瞰的に振舞う里美は、きっと俺のことが好きじゃない。嫌いでもない。ただただ、いつか彼女自身が並べた言葉に従うだけで、それ以上のことはない。彼女の景色の中に俺が存在していたとしても、そこにいる俺のことなど何一つとして見ていない。
きっと、それだけのことでしかなかった。好きとも嫌いとも感情は置かれず、ただ恋人として義務的な関心を抱いて付き合うのみで、そこには温度差しか生まれない。
本当にそれだけのことでしかなかったのだ。
「じゃあ、その。……別れるか、俺たち」
白くなっていく頭の中、そうして吐くべき言葉も見失って、結局彼女の言葉を肯定するように声を並べた。引き留めるような言葉を並べて、それで恋人という関係性を継続することができたとしても、結局一瞬だけでそれは終わる。彼女を好きである気持ちに素直になって、そうしてどれだけの寂しさがあるかを語ったところで、彼女はきっと、そうなんだ、と一言で終わらせる。花村 里美はそういう人間だ。だから、これ以上に言葉は選べない。
彼女はにこやかな笑顔を浮かべた後、うん、と頷いた。
「翔也くんならそう言ってくれると思ってた」なんて、俺を理解したような言葉が彼女の口から運ばれる。知っていた、と言わんばかりか、もしくは俺の振舞いに期待などしていなかったように。
どうせなら、俺に何かを思ってほしかった。それだけ俺のことを、彼女のことを理解している俺のことを知ってくれているのであれば、何かしらの感情を、感情のブレを彼女に抱いてほしかった。
それは好意であってほしい。でも、嫌悪という形であってもいい。俺を好きであってくれるのであれば視線を合わそうとする意識が生まれてくれる。俺を嫌いになってくれるのであれば、意識を逸らそうとする視線が生まれる。
けれど、俺に対して無関心である彼女からは、何一つとしてそういった感情は生まれなかったのだろう。これまでも、そしてこの一瞬のやりとりの中でさえも。
どこまでも彼女の視線の中に俺は存在していなくて、俺は彼女に見られていなかった。俺だけが彼女を映していて、二人でいるのに孤独でしかなかった。
「じゃ、帰ろっか」
そういって、里美はテラス席から立ち上がる。既に彼女の手元にあった珈琲は飲み干されていて、空になったマグから少しの白む空気が見えたような気がした。
◇
大学から、そして喫茶店から帰る道程の中、近所で暮らしている俺と里美は、先ほど恋人という関係性を解消したにも関わらず、一緒の道を歩いていた。歩いてしまっていた。
きっと、別れというものには感情が発生してくれる、と俺はどこかで期待していたのかもしれない。喜び、怒り、悲しみ。嬉しさ、恋しさ、寂しさ。そういった感情が生まれてくれることを期待していた。
それは気まずさであってもよかった。彼女との空気の中でそういった気まずさが彼女の中にあってほしかった。呼吸をすることを躊躇ってほしかった。俺と一緒にいることに真空のような感覚を味わって、一刻も早くその場から立ち去るような、そんな振る舞いを期待していた──。
「──それでね、講義の時に先生が──」
──だが、そんな振る舞いは俺がそうあってほしかった幻想でしかない。
彼女はどこまでも俺に対して無関心なのだ。それ故に、恋人という関係性を解消したところで、これまでの空気感が異なることはないのだ。
本来、別れを遂げた恋人というものは、相応に気まずさを感じて然るべきだろう。そういった話を聞くこともあるし、それを想像することも難くはない。そこには恋人に対する寂しさであったり、鬱陶しさであったり。これから対面する機会があるのであれば、それに対する憂いであったり。
けれど、里美はそういった要素を感じさせない。俺たちは先ほど別れたばかりだというのに、今までと同様に、何も変わっていないというように彼女は当然のように雑談を目の前で広げていく。
それは、俺がどこまで怠慢であったかを示しているような気がした。
俺は彼女に対して行動をしてきたはずだ、けれども、その回数が少なかったのではないか、もっとやりようがあったのではないか、とそう思わせる要素がある。
別れを遂げた俺たちに、今後もこれまでも変わらない雰囲気があるとするのであれば、それは俺が彼女に何も為せなかったという証拠でしかない。そして、それをむざむざと彼女は俺に見せつけてくる。
「そう、なんだ」
乾いた返事を彼女にしながら、俺は視線を逸らした。俺だけが勝手に苦しくなっている空気、居心地が悪くてしょうがないのに、その場から逃げることを許されないような、そんな圧迫感を覚えて仕方がなかった。
きっと、俺は何かを間違えていたのだろうと思う。彼女との関わりの中で、俺は何も為すことができなかった。
「────」
下を向いて歩き続けながら、ただただ後悔を抱いては苦しくなる。
きっと、先ほどの場面で言葉を並べられなかったのが過ちだったのだろうか。みっともないとしても、彼女を引き留めるための言葉を並べるべきだったのではないだろうか。例えそれで彼女との別れが避けられなくとも、里美の中に何かしらの感情を植え付けることには成功できたのではないか。
だが、今となってはすべてが遅い。
もっと、もっとやりようがあったはずだと後悔しても、今の俺にはなす術がない。
もう、会話の内容も理解していない。適切な返事はできているのかもしれない。ああ、とか、うん、とか、そういった感情の介在しないだけの返事。
脊髄反射でだけで返す作業。
唯一、そこに感情を介させないように意識をしながら、淡々と、機械のように──。
「────翔也くんっ!」
「──え?」
確か、普通の会話の流れだったと思う。講義の中で教授が出席確認をしている中であったこととか、そこに里美の友人が遅れて入ってきたこととか、厳しい教授がそれで出席を取り消した、とか──。
そんな雑談を彼女はしていたはずなのに、唐突に切り替えたような声を里美はあげる。その尋常ではない切羽詰まったような声音に反応して、俺は顔を上げた。
隣に彼女はいない。彼女はいなくて、後ろから声が聞こえていた。
横断歩道、赤信号。明滅する光がやけに目の中に刻まれるような──。
──ああ、そうか。考え事に夢中になって、ろくに前を見ることも出来ていなかった。
──轟音。甲高い悲鳴とも聞き紛うような、そんな轟音──。
────そんな、喧しいよりも大きく表現したい轟音が耳に届いては、空間を切り裂くように────。
引き延ばされていく時間の感覚──里美が俺を見ている──あらゆるものがスローモーションに見えるような錯覚──彼女が俺を見ている──身体を動かすことにも何倍も力がいるように感じてしまって──確かに彼女が俺を見ている──動けなくて──そうして手が伸ばされていて──俺は立ち止まってその手を掴もうとして──。
──そして、つかめなかった。
「──────翔也ッ!」
そして、その最期と言える時間の中、張り詰めたような彼女の声が、初めて俺を見つめながら呼び捨てにする彼女の声が耳に届いたけれど。
俺はそれに、すべてを失うしかなくて。
ただ、彼女が俺のことをようやく見てくれた、という実感を覚えるだけに終わった。
本当にそれだけで、すべてが終わってしまったようだった。
