ショートショート

 『緊急速報です。遂に明日、大規模な天体が地球に衝突し、全世界に壊滅的な被害が発生する見込みです。政府は市民に、後悔のないように最後の時間を過ごすよう呼びかけています』

 どこか機械的なアナウンサーの声を聞き流しながら、伊織はパチンとテレビを切った。さっきまで画面に映っていた言葉を、脳内で反芻する。
 最後の日まで仕事をするだなんて偉いなぁと、どこまでも他人事な感想を零しながら湯を沸かす。とりあえずなにか飲みたい。湯が沸くまでスマホで適当にニュースやらなんやらを流し見するが、どこもかしこも地球滅亡の話で持ち切りだった。
 特に面白くもないから、適当な音楽を流しながら、ぼんやりと火にかけた白いポットを見つめた。

 世界が終わります、なんて馬鹿な話が現実になったのが半年前。初めは誰も信じなかったそれが真実味を増し、一ヶ月前にもなると認めざるを得なくなった。悲しいかな、まだ人類は宇宙へ住処を変えるだけの技術も資源もなかった。
 仕事を辞める大人、現実を受け入れられない学生、子供を想って泣く母親に、家族と最後まで共にしようとする父親。人それぞれ、様々な生き方を選んでいた。

 かく言う自分はというと、いつもと変わらない日々を過ごしていた。仕事に行き、家に帰ってささやかな食事を作って、食べて、ゲームしたり好きな映画を観たりして、寝て、また起きて。そんな当たり前も、一ヶ月前には出来なくなった。
 退職金を貰ったおかげで生きるのに困ることはない。今までの貯蓄もある。旅行に行こうか悩んだが、現地の様子を調べて断念することにした。少しずつ閉まっていく店に、あの店のパン美味しかったのになぁとか、あそこの珈琲また飲みたいなぁとか、ぼんやり考えながら散歩して、帰宅するのが日課となった。
 家の中もすっかり片付いてしまって、清潔感が溢れている。石鹸の優しい匂いと、スーパーの売り尽くしセールで破格の安さになっていた、普段なら手を出さない少しお高い珈琲豆や茶葉の優しい匂いが混ざった部屋の住み心地はなかなかのものだった。チョコも美味しかったし、終末世界を満喫したと言えるだろう。

 そういえば、昔ネット掲示板などで明日地球滅亡したらどうする?なんてタラレバが話題になったのをふと思い出した。美味しいものを食べる!だの、好きな子に告白する!妻と最期まで一緒に過ごす、なんて微笑ましいものの中に、やれコンビニ商品全部盗むだの、やれ女湯に忍び込むだのなんて場違いのものもあった。馬鹿馬鹿しくも微笑ましい、なんて事ない思い出の一コマだ。

 そして今日。明日地球は滅亡するらしい

 あの結果がどうなったのかと言うと、想像とは裏腹に今までで一番平和な時間が流れていた。戦争をしていた地域は一斉に撤退し、犯罪はガクンと減った。悲しいこと全て無くなったわけではないらしいが。
 物思いにふけながら、お湯を注いで出来たお茶を飲みながら、ぼんやりと外を眺める。こんな日でも、どうやら空の色は変わらないらしい。

 飲み終わったマグカップを洗っていると、インターホンの音が部屋の中で小さく響き渡った。誰だろうと画面を覗き込むと、随分と見なれた顔がそこにはあった。

「あれ、先輩?」
『おっす。入っていい?』
「いいですよ〜。今開けますね」

 真っ黒コーデに身を包んだ先輩を招き入れながら、なにかあったのかと尋ねようか悩んでいると、盛大に空腹を訴える音が聞こえてきて、思わず吹き出した。どうやら家に食べるものもなく、世界最後の日に餓死すると思っていたら、連絡欄の一番上に自分の名前があったのを見つけて藁にもすがる思いで来てくれたらしい。

「いつ来てもいいって言ってたから」
「んふふ、なるほどなるほど」

 連絡を入れ忘れていたことを謝罪されたが、気にしなくていいと微笑み返す。とりあえず残っていたアーモンドのクッキーと再度湯を沸かして珈琲を入れ、ちまちまと二人でつまむ。

「うますぎ。あんがと伊織。命の恩人。大好きマジで。一生忠誠誓うわ」
「大袈裟過ぎません?」

 ケラケラと笑いながら、ポイッとクッキーを一つ口に入れる。ザクザクとした食べ応えのあるアーモンドクッキーは確かに美味しい。バターの風味とアーモンドの香ばしさがクセになる。
 馬鹿みたいなくだらない話をして、気がついたらもう夕方だった。空が赤やオレンジが混ざった綺麗な色を両手いっぱいに拡げて、朝よりも静かになりつつある外を眺めながら、テレビを観ている先輩の隣に座る。相変わらず、流れているのは明日のこと。唯一やっているバラエティー番組は今までの振り返りで、それが本当に終わってしまうんだなと思わせてくる。
 じっと画面を黙って見つめる先輩に、伊織はなにも言わずにぼんやりと同じようにテレビへ視線を向けた。特に面白くはない。楽しくはない。でもなんでか、観るのをやめようとも思えなかった。

「なぁ、伊織」
「ん?」
「本当に、地球滅亡すんのかな」

 画面から目を離さずにそう尋ねる先輩は、なにを考えているかさっぱりで、伊織は小さく首を傾げてしまう。

「ん〜……どうなんですかね?でもこんなに大騒ぎになってるんだから本当に終わっちゃうのかも知れませんよ」
「そっか」
「どうかしました?」
「いや、別に」

 それだけ言って動かなくなった先輩に、伊織はすっかり困ってしまったが、言葉が見つからずに結局黙り込んでしまった。そんなに見てたら目が悪くなりますよとか、なにか飲みませんかとか、そんな言葉をかけるべきではない気がして、先輩からなにか話しかけられるまで待った方がいい気がして、同じように興味もない画面を見つめる。
 しばらくしたら画面を見るのにも飽きてきて、スマホで料理のレシピが投稿される某アプリを開く。今家にあるものでなにか出来ないかと探していると、ちょうど美味しそうなのが目に留まる。今から作りにキッチンへ行こうか、それとも先輩を風呂に入れるのが先かを考え、ソファから立ち上がる。

「先輩今日泊まってきますよね?お風呂沸かしてくる」



 さすがに家主より先に風呂に入るのは申し訳ないからと、先を譲られたのが三十分前。部屋に響くシャワーの音をBGMに、テキパキと食材を切っていく。作るのはなんて事ないただのポトフ。なんだか妙に美味しそうに見えたそれを、特にレシピも見ずに作っていく。
 ウインナーを先にオリーブオイルで炒めておく。そしてその間に鍋を温める。
 温まったら玉ねぎ、人参、じゃがいも、キャベツにおまけの白菜に南瓜に蓮根に至るまで、全部程よい大きさに切って、コンソメ一欠片と水を入れて蒸す。野菜が柔らかくなってきたらウインナーと追加の水を入れる。野菜が隠れるくらいが目安、らしい。
 ブイヨンと追加のコンソメ、アゴ出汁を少し入れて弱火でぐつぐつすれば完成。お手軽簡単なポトフも、少し手間を加えてやれば美味しくなるんだとかなんとか。
 昔母が言っていた。どんな簡単な料理でも、ひと手間だけでも意外と変わるものだって。それが、実は嬉しかったりするんだって。人間関係もそんなもの、と繋がったのは今でもよく分からない。なんでそこで人間関係出てくるんだ。
 なんて懐かしいことを思い出しながら、スープを皿に盛り付けていると、不意に風呂場へ通じるドアが少し勢いよく開かれた。

「うわぁ!?びっくりしたぁ……」
「え、もしかして晩御飯?」
「そうですけど……」
「えー!嬉しい!凄いじゃん!」

 大袈裟では?と思うほどにキラキラと目を輝かせているようにも見えるくらい喜ぶ先輩に、そういえばこの人今日クッキーと珈琲しか食べてないのかと思い出す。
 いそいそとテーブルの用意を手伝う先輩になんとも言えない気持ちになりながらも、スープを運ぶ。最後の晩餐はポトフだけ。でもなにもないよりはきっといい。温かいし、美味しいから、なんでもいいや。なんて、自画自賛。伊織は天才です。なんてったって美味しいポトフが作れちゃうんです。フフン。

「マジで美味しかった。ごちそうさま」
「はーい。それ水につけといてくださいね」
「え、いいよ。洗うのはやるって、流石に」
「そうですか?じゃあお願いします」

 とか言いながら隣でお湯を沸かす伊織に、楽しそうに笑う姿を横目で眺める。テキパキと洗い物をこなしていく音と、それに合わせるようなかすれた鼻歌が心地いい。なんだか雨の日のジグみたいだ。ジグよく知らないけど。
 マグカップに注いだお茶をリビングに運び、つけっぱなしだったテレビを消す。洗い物が終わった先輩からベランダを借りていいか聞かれ、構わないと頷いた。部屋の中に置いてあった観葉植物達に水を上げてまわる。ここ1ヶ月で随分と増えたものだ。
 最後にベランダの花達にも水をやる。満開の紫陽花の隙間を、ぬるい風が通り過ぎて行った。

「こんなに植物あったっけ」
「なんとなく買ったんです。売れ残ってて、可哀想だったから」

 暇でしたしね、と空になったジョウロを片付ける。甘い香りが煙と共に漂っていて、それがなんだか様になる。

「ちょっと甘い匂いするんですね」
「甘いか?」
「んーなんとなく?」

 てか美味しいんですかそれ、と聞くと吸ってみる?と言いながらまた煙を吐き出す。興味本位で一口貰い、小さくゆっくり吸ってみる。が、上手く肺に入らない。

「ん?ん〜……?」
「ははっ、へったくそ」

 首を傾げる伊織に、カラカラと楽しそうに笑う。先輩は噎せると思っていたらしく、少し残念そうだった。腹が立ったから関節キスですねーなんて言えば、照れ隠しなのか頭をはたかれる。地味に痛い。
 ぼんやりと煙を燻らせている月夜に照らされた横顔に、思わず少し見とれてしまう。本当に顔はいいんだよなぁこの人。なんて、口に出せば間違いなく鉄拳が飛んできそうなことが頭をよぎった。リビングからマグカップを持ってきて手渡せば、あとは心地のいい静寂だけが落ちた。
 昼とは違って、もう人っ子一人居ない道は、いつも通りの静けさがあった。
 次の瞬間、パチンっと明かりが消える。等々最後の電力も尽きたらしい。途端に広がった星空に、思わずわぁ、と声が出る。キラキラと光る星の集まりに、言葉なんて出てこなかった。
 あの綺麗な光が、これから地球を壊そうとしているのに、皮肉にもそれがどうしようもなく綺麗に見えて仕方がない。
 最後にお湯を沸かしておいて良かったと、まだほんのりと熱を持っているマグカップを手で包み込む。

「綺麗ですね」
「だな」

 ポツリと返ってきた返事に顔を向ければ、苦しそうな笑みが星と月に照らされていて、少し目を見開く。さっきまで吸っていたそれをポケットに入れて、優しく頬を撫でてくれた。

「……先輩ってそんな顔するんですね」
「……どんな、顔?」
「すごーく寂しーって顔」

 頬を撫でる冷たい手に、自分の手を重ねる。伊織の手の方がずっと暖かいのは、さっきまでマグカップを持っていたからなのか。

「あ、今日家に来たこと、少し後悔してたり」
「どうだろうな」


 
 軽々と抱えられた体は、腕から離れてぽすんっとシーツへ投げられる。反射的に体を起こそうとしたが、次の瞬間には先輩が抱きついてきて、その勢いのまま後ろに倒れ込む。
 ふわりと受け止めてくれたベッドからは、優しい柔軟剤の匂いがした。寝室にまで置かれていた植物のさっぱりとした匂いと煙の匂いが混ざっているのが、なんだかアンバランスだった。

「せん、んむっ………」

 少し首が締まっていると言いたかったのに、口を塞がれて叶わなかった。仕方がないから、腕を緩めるように軽く叩く。
 
 繰り返されるキスは、思考をふわふわと溶かすには十分過ぎるものだった。
 唇に当てるだけの行為は物足りなくて、今だ首に抱きついている腕を避けて背中に手を回す。唇が口から耳、耳から目元、と顔中に移動する。
 一つ一つの存在を確認するように辿っていく。力が込められた腕に、また少しだけ息が詰まる。

「先輩?」
「いおり、いおり……」

 首に回された腕が小さく震えていて、この人も泣くんだなぁ、なんて酷く他人事みたいに思った。いつも飄々としていて、素直じゃないこの人が、なんだか幼い子供のように思えて、震える背中に腕を回す。

「いお、り……いおりッ」
「なぁに?」
「どこにもいくな、置いていかないで」
「置いてかないよ。ここにいるよ」

 なんとなく窓を見上げると、そこには皮肉なほど綺麗な空が世界を見下ろしていた。世界が終わる前の、泣きたくなるほど綺麗な星空に、指先が小さく震え出したことには気が付かないフリをする。

「地球滅亡とか、よくわかんないけど、お前ともう会えないって思ったら、少し寂しいかも」

 いつもは絶対言わないであろう言葉が聞こえて、窓から先輩へ視線を戻す。ほわほわと心を満たすなにかの正体なんてわかるはずもなくて、ただ無性に泣きたくて仕方がなかった。
 でも泣きたくなんてなくて、無理やりにでも笑ってみせる。嘘をつくのは得意だ。

「伊織?」
「さっきのニュース、酷かったね」

 テレビで流れていたのは、それはそれは酷いものだった。
 
 戦争をしていた地域は一斉に撤退し、限りなくゼロに近い程までに犯罪はガクンと減った。その代わり、今までの不祥事が全て明るみになってしまった。
 賑やかな街の音は罵詈雑言で溢れた悲しいもので、この国を守りますだなんて言っていた人達は仕事を放棄して逃げ出して、家族と過ごしますだなんて言ってた男は別の家庭に帰ってしまって、取り残された女は泣いていた。
 売り尽くしセールで売れ残ったものは陳列されたまま惨めにも腐り果てて、振り返りバラエティーはとてもじゃないが子供が観れないような酷いものを流していた。

 地球の最後は、なんだか汚くて、たまらなく寂しく、悲しいものだった。だから、せめてこの部屋だけは優しいものにしておきたいと言う我儘が働いた。寂しくても、優しい場所にしておきたかった。

「伊織の部屋は暖かいな」
「先輩の部屋が寒いだけだよ」
「人類最後の日って、こんな酷いんだな」
「酷いけど、最悪じゃないよ、きっと」

 酷いものは目に見えやすいし、記憶に残りやすい。ただそれだけのこと。

「ポトフ、美味しかった」
「うん」
「クッキーも美味しかった」
「うん」
「先輩が来てくれて嬉しかった」
「……それは、よかった」

 ようやく腕から解放され、そのままコロンっと隣に寝っ転がる。隣で横になっている先輩に合わせて向き合えば、潤んだ黒色とパチリと目が合った。目の下が少し赤い、泣き腫らしたそれがなんだか似合っている気がして、くふくふと笑いが込み上げてきた。

「あはは、先輩目が真っ赤」
「うっさい」

 不貞腐れたように天井を向いた先輩の手を握って、伊織はゆっくりと目を閉じる。本当はもう少し話していたいけど、瞼が重たくて仕方がない。
 怖くて怖くて堪らなくて、なんとかいつも通りを取り繕っていたから疲れたのかもしれない。わんわん泣くのもいいけれど、そんな気にもならなかった。泣いたって仕方がない。怖いけど、仕方がない。

「おやすみ、先輩。明日起きたらさ、前に言ってたモーニング食べにいこ」
「それは、楽しみだな」
「うん、やくそくね」
「はいはい、寝坊すんなよ」

 さっきまでの震えた声はどこへやら、いつも通りの素っ気ない声に、小さく笑みを零す。とくとくと掌越しに聴こえる音に、耐えきれなかったものが溢れてくる。
 ふわふわと優しいまどろみに身を任せて、呼吸をゆっくりと沈めていく。頬を優しく撫でる手の感覚がして、怖いなんて思いもどこかに行ってしまった。
 この手の温度を忘れないでおこう。声も、煙の匂いも、かすれた鼻歌も。残り時間を考えたら、そんなに難しい事じゃないから。


 
 世界の終わりは、どうしようもなく静かに、平等におとずれる。
 静かな、静かな、世界の終わりで、伊織は意識がなくなるその前に、小さくて優しい声を聞いた気がした。


――――――――――――――――


 ゆっくりと、目を開ける。
 ぽかぽかと暖かい体に、伊織は数秒ほど瞼を開けたり閉じたりを繰り返した。隣で眠っている先輩の寝顔を見つめながら無機質なアラームを鳴らしていたスマホを手繰り寄せて画面を見る。
 表示された日付は昨日の続きの、今日。時刻は午前9時を少しすぎた頃。
 思っていたより早く起きれてラッキーだと思いながら、ぐーっと伸びをする。なんだか長い夢を見ていたような気がする。幸せだったような、そうでも無いような、そんな夢。
 植物達が朝日に照らされてキラキラとしている。ニュースアプリを開くも、特にこれといった話題もない。ただ、どうやら今日は天気がいいらしい。絶好の散歩日和だ。
 さてそろそろ起きるかと体を起こして、ぎゅっと握られていた手に力が込められた。そういえば昨日は手を繋いで寝たんだっけ?相変わらず寝坊助だなぁなんて思いながら、顔を覗く。

 相変わらず顔はいいんだよなぁなんて思っていたが、なんだか様子がおかしい。嫌な夢でも見てるのか、苦しそうに眉を寄せてじんわりと汗も滲んでいる。顔色もどんどん曇っていって、慌てて手を強く握る。

「い……おり……」
「先輩、先輩起きて」

 どんどん不規則になっていく呼吸に、過呼吸になるのでは不安になって容赦なく叩き起す。痛くない程度に何度かぺちぺちと頬を叩いて、軽くつねる。
 激痛に耐えるように目を覚ました先輩に、なんでかズキリと心臓が軋む。なんだろう……なにかしたっけ……?
 なんて頭の隅で考えながら、皺の寄った眉間にそんなに寄せたら頭が痛くなるよ、と撫でてやる。しばらく撫でていると、フワッと眉間や肩から力が抜けた。

「大丈夫ですか?かなり魘されてましたけど」
「なんか、すごく嫌な夢を見た気がする……」

 今だどことなく顔色が悪いまま、こちらをゆるりと見上げる姿に、この人半分寝てるなともう一度頬を抓る。

「よかった……伊織、ちゃんといた……」
「何の話?ずっとここにいましたよ」
「なんでもない……大丈夫」

 胸を撫で下ろす先輩に、首を傾げながらベッドから起き上がる。

「なんでもいいですけど、早く準備して行きましょう」
「なに?どっか行くの?」
「え、モーニング食べに行こうって、昨日先輩が言ったのに」

 忘れてたなんて酷い、と零せば首が傾げられる。まだ寝ぼけているらしい顔をぶら下げた先輩の手を引っ張って、ベッドから脱出する。

「伊織が、言い出したんじゃねーの?」
「え、違いますよ」
「言ってた。約束って」

 洗面台へ連行されている間も、ふるふると首を振りながら否定される。今日は随分と頑固だ。どうしたんだろう。珍しい。

「えー……じゃあまあ、そういうことでいいですよ」
「なんだよそれ」
「なんだよって言われても……」

 並んで歯を磨きながら、言い合いは続く。サッサと服に袖を通しながら、ふと手を止める。視界に入った青色に首を傾げた。

 ――……紫陽花、いつ買ったっけ?

 満開のその花に妙な違和感が込み上げてくる。心なしか、観葉植物の数が多い気がする。

「伊織?置いてくぞ」
「あ、待ってくださいよ先輩」

 不意に生まれた違和感は、自分を呼ぶ声に掻き消されてしまう。まあいいや。別に紫陽花、嫌いじゃないし。
 しかしその後も妙な違和感は、定期的に伊織を襲った。

 並んで街を歩きながら、目に止まったパン屋に、子供のはしゃぐ声に、近所のスーパーに、辿り着いた目的地の店に、言語化出来ない違和感があった。
 
 おかしい、なにかがおかしい。でもその違和感がなんなのかがわからない。

 モヤモヤとした気持ちのまま、運ばれてきたモーニングに手が止まる。目の前にはさっくりと焼き上げられたパン、柔らかい色のカフェオレ――……

……――そして具だくさんのポトフが並んでいる。

 昨日ポトフ食べたなぁ、なんて頭の片隅で思ったことに気がついた途端、強烈な違和感が襲いかかってくる。
 いや、昨日はポトフは食べていない。だって、昨日は……思い出せない。なにを食べたか、なにをしていたかがぼやけている。

「伊織?」
「あ、いや……ちょっと……」
「具合でも悪いのか?」

 食事を前に黙り込んだからか、心配そうな声がする。ハッと顔を上げて、力なく笑みを返す。
 なんとなく、言葉にしずらい。こんなこと聞かされたって、困るだけだ。
 
「……大丈夫です。本当に、大丈夫」

 いつも通りを装いながら、頭の中はぐるぐると忙しなく動き回っていた。

 朝、先輩の話と妙に食い違っていたのはこのせいなのか。紫陽花に感じた違和感も、これと関係しているのか。
 考えれば考えるほどわからなくなってくる。

 どうやって帰ったかは覚えていないが、気がつけば家の玄関に立ち尽くしていた。心配そうな先輩に顔を覗き込まれ、思わず息が詰まる。

「なぁ、ほんとにどうした?ずっとなんか考え込んでるし」
「……先輩、ちょっと、変な話してもいいですか?」

 怪訝そうな顔で首を傾げる先輩に、伊織はゆっくりと目を合わせる。少しでもなにか変化があれば、気が着けるように、慎重に。

「昨日の夜ご飯って、ポトフでした?」

 じわじわと見開かれていく目に、伊織は確信した。やっぱり違和感は正しかったし、それを少なからず先輩も感じていた。

「先輩、昨日なにかあった?なにも覚えてなくて、ただ、なんとなく……こう、違和感があって……」

 傍から聞けば訳の分からない会話だろう。それでも、先輩はなにも言わない。じっと黙って聞いてくれていた。

「……昨日、嫌な夢見た。世界が終わる夢」

 重苦しく開かれた口からは、なんの脈絡もなく昨晩の夢の話が始まる。首を傾げていると、真っ直ぐに黒目が見つめ返してきた。

「最後に伊織の家に来て、ポトフ、食べた。珈琲も、アーモンドクッキーも、お茶も……」
「結構食べてますね……」

 世界が終わるっていうのに、随分とまあ呑気だ。我ながらマイペースというか図太いというか……。
 そして、どうやら二人でポトフを食べていたらしい。世界の終わりに、冷蔵庫の残り全部を入れたスープ。なかなか乙なものだな、なんて思う。

「でも、ずっと、泣きそうな顔してたっていうか……辛そうっていうか……」
「誰が?」
「伊織が」

 そんな顔を見ていたら、怖くて堪らなくなったらしい。どこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうで、それが怖くて仕方がなかったらしい。

「だから、朝起きた時変だったんだ」
「変とか言うな。まぁ、その……心配は、してた」
「それは、ありがとうございます?」

 夢の中の出来事にお礼を言うのはなんだか変な感じだが、まあいいだろう。お礼なんて何回言ったって困るものじゃないし。
 それに、終わる世界でひとりにしないでいてくれたんだ。お礼だけじゃ足りない。言葉だけでは、物足りない。それなのに、今渡せるのは言葉だけで、なんとももどかしい。

「じゃあ、夢の中の伊織は寂しくなかったですね」

 きっと怖くもなかったんだろう。近くに先輩がいたんだから。

「だから、もうそんな顔しないでくださいよ」
「どんな、顔?」
「すごーく寂しーって顔」

 ははっ、と笑えば先輩も釣られたように口角を上げる。夢だったのか、そうじゃなかったのか、細かいことも詳しいこともなにもわからない。
 でも、きっとどこかの世界は終わりを迎えて、それが少しここに混じってしまっただけなのかもしれない。まあ、どうでもいいか。きっと、大したことでもないだろうから。
 

 
 今日が過ぎて、また明日が来る。日々は続いている。貴方との思い出が、積み重なっていく。
 
 
 どうやらこの世界は、まだ終わらないらしい。