ショートショート

どこまで行っても、波の音しか聞こえない。柔らかい海の音が心地がいい砂浜を、ひとりであてもなくふらふらと歩いていた。
 ゆっくり伸びをして、透き通った海に足をつける。ゆるりと体温が溶けていく感覚を楽しんでいると、ふと波の隙間に人影を見つけた。黒い人影は、綺麗な、とても綺麗な男性だった。どこか儚げで、寂しそうで、空っぽな人。
 人魚姫______そう、その人の姿は人魚姫みたいだ。
 命の恩人で結婚したいとまで思ったくせに相手の顔も覚えていない挙句、結婚相手の滑り止め扱いされ本命だと勘違いした相手が現れた途端、王子に慈悲もなく捨てられた人魚姫そのものだと思った。



「あ、友哉くんだ」

 名前を呼ばれて振り返ると、そこにはすっかりと見慣れた青年(まだ少年にも見える)が立っていた。白金に脱色された髪に不健康な程に青白い肌、オフホワイトの厚手のパーカーを羽織った姿は、どこか青みがかった世界とよく馴染む。
 堤防の上に座っていた俺の隣に座ると、どこから出したのか、コンビニコーヒーを手渡してくる。鼻先を柔らかい匂いが通り過ぎていった。

 どこかもわからない海辺で目を覚まして、当たり前のようにやってきた青年と話すという夢を見始めてそろそろ数ヶ月が経つ。嫌にリアルなこの夢は、覚めたあとも鮮明に記憶に残っている。
 穏やかな時間が流れる中、とつとつと他愛もない話を垂れ流しながら、喉に飲み物を流し込む。夢なのに味も熱も妙にはっきりしている。

「覚えてないとか言い出したの?意味わからないね」
「……そこまで印象に残ってなかったんだろ」
「薄情だ」

 すんっとどこか拗ねたように、青年は鼻を鳴らす。時々幼い子供のような仕草をするそいつに、軽く腕を持ち上げて髪を梳く。サラサラと指の隙間から溢れ落ちる髪は、どことなく水のようだとも思う。
 男から髪を触られるなんて気持ち悪いだろうに、青年は嫌がるどころか心地よさそうに頭を擦り寄せる。大型犬のような仕草に少し眉が下がった。

「甲斐性なし。友哉くん寂しくない?」
「さーな」
「じゃあ、しんどい?」

 混ざりのない真っ黒の目が、真っ直ぐに見つめてくる。夢の中の人間だからか、自分が望むような反応ばかり帰ってくる。

「……少しな」

 小さく白状すると、青年はキュッと形のいい眉を寄せる。苦笑いをしながら指で眉間をぐりぐりと解す。眉間に皺が寄るのは勿体ない気がした。

「なのにまだ大事なの?」
「大事だな」
「馬鹿だね」
「言ってろ」

 軽く頭を叩くと、青年は困ったようにはにかんだ。小さな波の音に重なるように、囁かな声が鼓膜を揺らした。

「友哉くん」
「うん?」
「______だよ」

 目の前が霞んでいく。波の音も、手の中にあった温度も遠くなっていく。パッと目の前が暗くなった瞬間、こぽりと水の底に沈む音がした。


 目を開けると、そこは見慣れた自分の家のベッドの中だった。カーテンの向こうの光はまだ弱い。寝返りを打って布団に顔を埋める。瞼の奥にあの青年の姿を探したが、どこにも見当たらない。
 話をしたことも、コーヒーの味も、温度も覚えているのに、名前だけが思い出せない。人の良さそうな柔らかい姿だけが、くっきりと残っていた。
 どのくらいぼんやりと微睡んでいただろう。セットしていたアラームの音で強引に頭が覚醒させられる。数秒唸ってから体を起こしてアラームを止める。通知センターには『おはよう。五時に駅前だよ。忘れないでね』とメッセージが入っていた。



 人でごった返す駅前で、予定よりも少し早めに来ていたであろう人影が、姿を見つけた途端に手を振ってくる。ミディアムボブの髪にダッフルコートを羽織った姿は、記憶の中の姿より幾分か大人びていた。

「よっ、早いね」
「人のこと言えるか?」
「いやぁ、少し早めに終わってさ」

 へにゃっと笑う姉の姿に、はぁ、と小さくため息をついた。ならそうと連絡してくれればよかったのに。
 寒くなった街を歩きながら、互いの近況を話す。姉はどうやら近々また海外へ行くビザを取るために奔走しているらしい。遂に永住するのかと聞けば、ケラケラと楽しそうに笑う。どうやら予想は当たったらしい。

「イギリスの片田舎なんだけどね、不動産の友達がいい物件見つけてくれたんだぁ。築500年の古い家」
「広すぎるから一戸建てはごめんなんじゃなかったのか?」
「一人で住むにはそりゃ広すぎるよ。でもさ、二人だとそうでもないの」
「……結婚しないってほざいてた癖に」
「ねー、私もびっくりよ」
 
 あ、ここだここだ、と道を曲がった先にあったイタリアンの店を指さす。一度来た場所は必ず辿り着ける記憶力と土地勘は流石だ。
 昔からある日本家屋を改造して造られたであろう店内はほんのりと暖かく、畳の席とソファ席、テーブル席の五組でいっぱいになっている程度の広さしかない。それぞれの席にはひざ掛けが置かれていて、その内の一つには『予約』と書かれた木札が置かれていた。

「スープパスタとね、コーヒーが美味しいんだ、ここ」

 注文を取りに来た店員に、いくつかの品を頼んで姉はまた向き直る。

「で?最近どう?忙しい?」
「バイトは特になにもない。学校は、テストが近い」
「そーじゃなくて」
「……古い映画館には行った」
「へー、なに観たの?ホラー?」
「海外のマイナーな映画だ」

 聞いたこともない海外の監督が作った映画は、ハッキリ言うと抽象的で、何人かの寝息が聞こえてきたようなものだった。来世はクラゲになりたいという主人公の男と、それを複雑そうな顔で聞く女の話。

「……すっごいB級映画」
「名前も忘れた」
「でも最後まで観たと。まじめー」
「映像とポスターは綺麗だった。あとサントラがあったら買う」
「え、ちょっと気になる」

 パスタをつつく手を止め、姉はスマホで検索を始める。これ?と見せてきた画面には、淡い水色が印象的な映画ポスターが表示されている。
 黙って頷くとスマホは仕舞われ、またくるくるとパスタをつつき始めた。

「昔から好きだよね、そーゆー雰囲気のもの」
「姉さんとは逆だからな」
「そーね、私はもっとこう、わかりやすいのが好きだから」

 ヘラっと笑って、皿の端へトマトを避ける。それを回収して口に押し込むと、姉は少し眉を下げた。

「……まだ、引きづってる?」
「……何ヶ月前の話だ。引きづってない」
「絶対ウソ」

 空になった皿を脇に寄せて、少し目を伏せた。

「嘘ついてどうする」
「だってまだ付けてるじゃん、それ」

 指し示す先は、色がついた自分の爪先。思わず指の腹で軽く摩る。

「本当はショックなんでしょ?」
「……あいつから貰ったやつじゃない」
「でも新しく買って塗ってる」
「習慣化したから落ち着かないだけだ」
「言い訳してる時点でもう駄目だよ」

 苦笑いを浮かべながら、パクパクとタルトを食べる姿に、つられるようにパンナコッタを口に入れた。リンゴの甘さが丁度いい。

「人をキープ扱いするような人間なんてこっちから願い下げ。人間的に終わってる者同士お似合いなんだよばーか。……くらい思っても罰当たんないよ?」

 そんなことを思えていたら苦労しない。口から出そうになった言葉を、黒い液体と共に胃へと流し込む。
 大学生ならば稀によくある痴情のもつれにもならないそれは、意外にも自分にはそれなりに堪えたらしい。入れ込んでいるつもりなんてなく、姉や友人からも「淡白」だの「冷静」だの「理性的」だのと散々言われていたが、蓋を開ければご覧の有様だ。女々しいことこの上ない。
 どうやら前から好きだった相手がいたが、手が届かないと諦めていたらしい。妥協点として白羽の矢が刺さったのがたまたま自分だった。そこそこの時間を友人の一人として関わっていたことと、特に断る理由がなかったことで了承した。……今思うと自分も人の事が言えないのかもしれない。
 誤算だったのは恋人として過ごす時間が想像より心地よかったことだ。実際、あいつの家は居心地よかった。甘やかされるのも悪くはなかったし、甘やかすのも特に苦ではなかった。

「一緒にいて苦じゃない誰かと居心地いい時間過ごせるのって貴重だからね。喪失感は大きいよ」

 空になったはずのコーヒーカップを揺らしながら、姉は困ったように眉を下げた。自分で想像したらそれなりに寂しかったらしい。
 手に持ったカップには、まだ自分の顔が反射している。指先がじりじりと冷えていく。

「……そのうち思い出くらいにはなる」
「まーね」
「それに」

 もう顔も見てない。と零すと、ふはっと小さな笑い声がした。呆れているのか困っているのか、不思議な顔で姉はため息をつく。

「わかったわかった。もう大丈夫なんだ」
「何回も言ってる」
「はいはい」

 お手上げだと言わんばかりに頬杖をつく。残った液体を強引に喉に流し込む。ヒリヒリとした苦味が喉に張り付いて気持ちが悪い。

「時間まだある?ちょっとフラフラして帰ろ」

 時計を見るとまだ七時半を少し過ぎたところだ。時間はまだある。小さく頷くと、んじゃ行くか、と姉は財布を持って立ち上がる。有難く会計を任せておく。

 向かった先は小さな個人経営の店やよく見るチェーン店が混合する、商店街をそのまま改装したような場所。個性的な店から無難なもの、飲食店もそれなりの数が店を構えていた。人の数も相応に多い。
 適当な店に入っては、特に何かを買うわけでもなく、目的もなく文字通りふらふらと歩き回った。

「なーんか久しぶりに目的もなく買い物した」
「先月もしたろ」

 なんだかんだ言いつつ毎月会っては同じようなことをしている気がする。

「そりゃあ、可愛い弟が心配ですから」
「……もう成人だ」
「成人したら大人になる訳じゃないでしょ」
「一応、一人暮らしだってしてる」
「それが心配なの、このお馬鹿」

 呆れた顔の姉が、不意に夢の中の青年の顔と重なった。なんとなく気まずくて目を逸らす。

「高校卒業してすぐ家出ちゃうしさ、悪い人に引っかかるしさ、それ聞いて母さんが大騒ぎするしさ」
「まさかまだ騒いでるのか?」
「うん、もう心配で心配で目が回りそうなんだって」

 母の度を越した心配性と干渉は今に始まった事ではない。ことある事に心配しては勝手に胃を痛めている。離婚してから女手一つで育てていた事もあるが、理由がもうひとつ。
 俺が幼少期に海で迷子になったことが、母にとっては大きなトラウマとなっているらしかった。数秒、違う所へ目を向けただけだった。が、視線を戻した時には俺はいなくなっていたらしい。丸々1日見つからず、翌日に海辺で寝ているのを発見された。

「母さんからの電話とかは大丈夫?」
「……一応毎日ラインしろとは言われてる」
「母さん………」

 呆れたような顔でため息を着く姉に、俺も同じように息を吐いた。これでも一時期に比べたらマシにはなっている。
 
「マシになったと思ったけど……はぁ……だめか」
「……さては結婚することも海外に行くことも」
「……言ってない」
「まあ言えるわけないか」
「無理。絶対無理。あの人に顔真っ赤にして怒鳴り散らすとこ想像出来るもん」

 結婚だけでなく海外に移住、それも永住だと知った時の母の反応は想像に容易い。確かに話すにはかなりの勇気がいる。

「というかこっそり白状しちゃうとね、もう言うつもりもない。勝手に行っちゃうことにしたんだ」

 どこか寂しそうな顔で、姉はそう零した。

「もうね、無理だなーって。付き合いきれないし、あーゆー人とは。その、可哀想だけどさ」

 姉は昔から、母のことを可哀想な人だと言い続けていた。半分は事実だったとしても、もう半分は自分に言い聞かせていたんだろう。
 
 「可哀想な人だから大目に見よう」
 「可哀想だから聞き流しておこう」
 「可哀想な人だから自分達が大人になろう」
 
 上から目線だが、そうでもしないと母の過干渉には耐えられなかった。特に、姉は誰かに依存されることも、依存することも、酷く嫌がる人だ。

「それにさ、海外だったら簡単には追いかけて来れないでしょ?」
「それもそうだな」
「うん、だからいつでもおいでよ」

 そう言いながら、優しく手を握られる。手の中に、小さなカードとガラス状のなにかが揺れている感触がある。

「母さんのことだけじゃなくてもいい。しんどいとか、もう嫌だって思ったら、いつでも逃げてきていい。姉さんは絶対に友哉を拒まないから」

 珍しく真剣な目をする姉に、今度は俺が苦笑いをする番だった。

「飛行機代どうするんだ」
「そんなの、どーとでもしてあげるよ」
「姉さんはいつも俺に甘すぎる」
「あんたが自分に無関心すぎるの」
 
 パッと手を離され、デコを弾かれる。自分の手の中には、小さなメッセージカードと水色のマニキュアが収まっていた。

「さっきの映画ポスターの色と似てるでしょ?それ」
「誕生日は終わった」
「ばーか。住所だよじゅーしょ」

 そう言われて確認すると、そこには確かに住所と郵便番号、そして電話番号が書かれてあった。

「携帯の番号も変えるのか」
「言ったでしょ?母さんにはもう付き合いきれないって」

 本格的に縁を切るつもりでいるらしい。思い切ったなとも思ったし、ずっと前からこうなることを予想していた気もした。

「あんたも、自分のことは自分で決めなよ。困ったら相談のるから」

 それじゃあね、と姉は手を振って駅の改札へと消えていった。小さく手を振り返してから家に向かって足を動かす。不意にスマホが震えて、ラインが届いたことを知らせる。

『多分来月にはもう向こうにいるから、いつでも来なよ。おすすめのお店もあるからさ』

 謎のクマのスタンプと共に送られてきたそれに、楽しみにしてると返して画面を切った。それが俺と姉の最後のやり取りだった。
 それから間もなく、姉は亡くなった。母に勝手に籍を入れたことや、海外に永住することがバレ、口論になった末に足を踏み外した母を庇って階段から落ちたらしい。葬式は簡素だったが、空気は地獄のように重たかった。


「友哉くん、顔色最悪だよ?大丈夫なの?」
 
 不安そうな青年に無言で首を振ると、困ったように苦笑いを浮かべた。
 姉が亡くなってから、俺は自分がどれだけあの人に守られていたかを痛感することになった。母からの連絡は並のメンヘラが裸足で逃げ出すほどで、ハッキリ言うとノイローゼになりそうだった。無視をすれば最悪家にまで押しかけられると悟り、下手に刺激しないように最低限の返事を返した。授業やバイトの間は返事が返せないから、最低でも三時間は待つようにと散々言い聞かせても、なんの嫌がらせか翌日になるとリセットさせる。

「お母さんってば強烈……お姉さんが亡くなったからかな」
「悪化した原因はそれだろうな」

 現実逃避なのか、夢を見る時間が心做しが長くなっていた。青年に案内されるまま、町をフラフラと歩いて回る。田舎だが不便を感じさせない場所で、少し出れば都市にも行けるらしい。電車もあるしバスもある。
 海のある、穏やかなな町だった。夜になると星も綺麗に見えるらしい。

「大変だね。今度父さんに診てもらう?」
「医者なのか?」
「正確には眼科だけど、他の所も診れるんだってさ」

 サーフィンが趣味で、サングラスがトレードマークの眼科の父親。情報過多で笑ってしまう。
 
……父がいたら、もう少しマシだっただろうか。
 
何度も考えたもしも。いつしか考えることすら自分に禁じていた、くだらないこと。
 
「どーだろ。そういうとこが嫌で離婚しちゃったのかもしれないし」

 人の心を勝手に読むな、読んでないよー、と軽口を叩きながら、石レンガで舗装された道を歩く。スニーカーの掠れた音が、優しく響いていた。
 繋がれた手を軽く握り返される。ゆらゆらと揺らされながら、少しずつ手の温度は下がって行った。
 目の前が霞んでいく。波の音も、手の中にあった温度も遠くなっていく。夢が終わる前の、いつもの感覚。

 「友哉くん」
「うん?」
「__が___だよ」

 ノイズがかったように、声が上手く聞こえない。一瞬、どこかで聞いたような音、鳴き声のようなものを聞いた。
 パッと目の前が暗くなった瞬間、こぽりと水の底に沈む音がした。


 耳元でスマホが鳴り響いている。強引に目を開けて手に取ると、どうやら相手は母らしい。まだ上手く動かない頭で電話に出ると、朝から聞くには酷く耳障りな声が聞こえてきた。

「……母さん、いまは朝だ。もう少し声を小さくしてほしい」
『もうお昼よ?!学校は大丈夫なの?!』

 時計に目をやると、時刻は午前十時を少しすぎたところ。確かに昼に近いが、まだ朝だろう。
 今日は授業もない。バイトは午後からだが、あと二時間寝ていても問題は無い。

「……今日は休みだ」
『まだ水曜日なのに?学校に行きたく無くなったから、とかじゃない?酷いことしてくる人が』
「いない。それに大学なんてそんなもんだ」
『……そう、ならいいのだけど。貴方はいつも、いつもなにも言わないから……本当に大丈夫なの?やっぱり母さんがそっちに』
「来なくていい」
『……友哉、貴方本当に大丈夫なの?そんなに、まるでわざと突き放すような言い方……なにかあったの?』

 その原因は今自分と電話をしていると言いかけた言葉を必死に飲み込む。余計な刺激は逆効果だ。

「なにもない、寝起きなだけだ、から、心配しなくていい」
『本当ね?そうなのね?』
「嘘なんかつかない」

 堂々と言い切る。ハッキリそう言い切ってしまえば、比較的早く終わる。さっさと終われと念じながら、つらつらと続く心配事の確認を処理していく。
 十分経った時、ようやく母は納得したらしく、大人しく電話を切った。無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出す。ばたりと布団に顔を埋める。
 朝から疲れた……。休みの日に朝寝過ごすだけでこれなのか。

______友哉くん、大丈夫?

 不意にそんな声が聞こえた気がして、ガバッと顔を上げる。辺りを見渡すが、当然誰もいない。
 締め切ったカーテンも、棚の上の観葉植物も、ハンドタオルを折って作ったうさぎも、机の上に出しっぱなしのゲーム機もそのまま。いつもと変わらない、自分のアパートの部屋。
 無意識に布団を握りしめていた手を離して、もう一度ベッドに倒れ込む。幻聴が聞こえてくるほど疲弊している事実に、頭が痛い。
 目を閉じてあの町の風景を必死になぞる。瞼の裏にあの青年の姿を探したが、残念ながらその日はもう、どこにも、影も形も見当たらなかった。


「……友哉、お前顔やばいぞ」

 目の前で唐揚げを堪能しながら、友人は軽くドン引きながらそう指摘する。賑やかな大学の食堂の片隅で、購買で買ったパンを飲み込む。なんとなく、味がしなかった。

「……そんなにか?」
「うん、なんか、もはや死体」

 顔色が酷いことは自覚していたが、そこまでとは思っていなかった。街はクリスマスシーズンということもあって、どこもかしこも浮き足立っているが、残念ながら今の俺にはそんな心の余裕はない。
 母の"心配"は日に日に酷くなっている気がしている。気のせい、だと思っていたいが、多分もう気のせいなんかじゃないだろう。

「……疲れてる、のは自覚してる」
「あー……お前の家だいぶ複雑というかなんというか……」
「はやく就職したい」
「サッサと縁切る気だな」

 こくりと頷くと、友人もウンウンと頷いた。

「正直親には感謝してるよ、俺。たまーに鬱陶しいとか思うけどさ、まあ、なに?心配してくれてることも、その理由もわかる。それも含めてさ、ありがて〜って思ってる。んでもさ、それでもヤダって思うことは悪いことじゃねーと思うわけ」
「……なにがいいたい?」
「うるせぇーババア!くらい言えばいいのにってこと」

 お前優し過ぎるんよ、と友人は箸でつまんだ唐揚げをひとつ差し出してくる。躊躇いがちに口を開けると問答無用で押し込まれた。カリカリとした食感をしばらく堪能する。

「反抗って悪いことみたく思われるけどさ、相手を肯定するために否定するのってたまには必要だぜ?まあ、あれよ。親子喧嘩しろってこと」
「親子喧嘩」
「喧嘩って意見のぶつけ合いだからさ、たまにはそれがきっかけで腹割って話せるもんよ。ことわざにもあんじゃん。雨降って地固まるって」

 お前は人生何周目なんだと思ったが、直ぐに「今の俺いいこと言ったくね?アニメの受け売りだけどさ」と笑い出したので黙っておく。
 親子喧嘩なんてしたことがない。言い返せば面倒だと思って聞き流し続けてきたせいだ。

「……親子喧嘩に失敗したら」
「そん時にまた考えたらいいよ」
「はぁ……」

 無責任な言い方に、でもどこか方の荷が降りた気がして、パンをちぎって皿の上に押し付けた。

「怒ったらいいよ。前も言ったけど、キープされて捨てられたら怒っていいし、過干渉で顔色死んでるなら怒鳴ればいい」

 俺結構お前のこと応援してんのよ?と言った友人に短く礼を告げると、ポカンっとしたあと照れくさそうに唐揚げを頬張っていた。

 
 バイトからの帰り道。スーパーの袋を下げながら、昼間のことを反芻する。

 怒っていいと言ってくれた友人。逃げていいと言ってくれた姉。いつ来てもいいと笑ったあの青年。

 恵まれている、と思いながら冷たい風に目を細める。
 姉が亡くなってからもうすぐ一ヶ月になる。そろそろ母ともしっかり話していい頃合いだろう。なるべく人のいる所がいい。人目があると理性的でいようとする心が働くはず。親戚の誰かを頼るのもいい。叔父なら助けてくれるかもしれない。警察官のあの人はきっと力になろうとしてくれる。
 バイトのシフトと学校の授業日程を思い出しながら、家のドアを開ける。何故か明かりの着いた短い廊下が出迎えていた。玄関には、女性ものの靴が一足。
 背筋が一瞬で凍りついた。

「あら、おかえり友哉。随分遅かったじゃない。今何時だと思ってるの?遊んでいていい時間じゃないでしょ?」

 我が物顔で椅子に座りながら、母は眉を寄せる。あまりの物言いに言葉が出てこなくなる。震える声でバイトの帰りにスーパーに寄っていたと話す。
 部屋が、異様に静まり返っている気がした。視線を動かして、思わず息が止まる。

 物がなくなっていた。

 観葉植物も、タオルアートのうさぎも、最初からなかったみたいに消え去っていた。

「……母さん、ここに、置いてあったものは?」

 必死に息を吐く。そうでもしないと吐きそうだった。頭が痛い。嫌な予感がする。当たらないでくれと必死に祈った。が、そんなものは母の「捨てたわよ」の一言であっさりと意味がなくなった。

「すて、た……?」
「友哉、あなたまだあの、元恋人のこと、引きずっていたのね……もう大丈夫だって、あの子がそう言っていたから信じたのに……!」

 なんの話かわからなくて、ハッ、と息を吐く。

「タオルで作ったうさぎなんて、あなたの趣味じゃないわ。観葉植物も、マグカップも、マニキュアも、全部よ!そんな物大事に持ってるから!」
「……は?」
「はぁ?じないわ!だから心配だったのよ!あの子が死んで、あなたはますます顔色が悪くなったわ……。まるで、あの日のあの子みたいに……あなたが、友哉があの子の後を追いかけてしまいそうで……!母さんは!」

 そこで、やっと理解した。母はずっと混乱していたんだ。この一ヶ月の間、ずっと。姉が死んだあの日から。自分が殺したようなものだから。
 そして、きっとずっと、怒っていた。あの日、涙ひとつ流せず、呆然と立ち尽くしていた俺のことを。母をなじることも、責めることもせず、ただ頭も心も追いつかずに、姉を見つめていた俺のことを。

「あなたまで失いたくないの!」

 バンッ!と机を叩いて、母はやっと静かになった。肩で息をしながら、涙を流しながら、俺を睨むように見つめていた。
 
『うるせーババア!くらい言えばいいのにってこと』
 
 そう笑った友人の顔が浮かぶ。応援してる、なんてよく言う。俺になんて興味もないのに。友人とすら、思っていないのに。SNSで呟く内容を、もう少し考えるべきだった。
 少し、勇気がいる。きっとまた叫ぶだろうから。息を吸い込み、ゆっくり吐いて、少し、手に力を込めた。爪の先はいつかの水色。
 
『姉さんは絶対に友哉を拒んだりしないから』

 真剣な姉の声が鼓膜を揺らす。本当は悲しかったし、怒ってもいた。なんで母さんなんか庇ったんだって思っていた。付き合いきれないと、言っていた癖に。自分から、捨てて行こうとしていた癖に。おすすめの店があると、そう言ったのに。
 まっすぐ、背の低い母を見下ろす。

『友哉くん』

 優しい波の音と共に、確かな体温が掌に広がる。夢の中でしか会えない、名前も分からない誰か。脱色した白金の髪に、青白肌。目だけが吸い込まれそうな程黒くて、まっすぐだった。
 その声を何度も手繰り寄せた。その姿を何度も探した。今この瞬間、隣にいてくれたら、どれだけ心強かったか。

 頑張るから呼んで欲しい。夢の中の、自分が作った都合のいい誰かでもいい。『友哉くんだー』と笑って、またくだらない話の続きが聞きたい。

「母さん、俺は、俺と姉さんは、ずっとうんざりだった。心配してくれるのは有難い。心配してくれている理由も、気持ちも、わかってる。でも、でもそんなにしないといけないか?そんなに干渉しないといけない程か?そんなに信用できな」
 
 続きの言葉は声にならなかった。乾いた音と、母の怒鳴り声が鼓膜に届いた時には、もう手の付けようがないほど、母は泣き叫んでいた。真っ赤な顔で、身体を震わせながら、泣き叫んでいた。

 隣の部屋の住人から苦情がくるな、とどこか他人事のように思った。



「友哉くん」

 声が聞こえたから目を開けた。そこはいつしか見慣れた港の堤防の上。冷たいコンクリートに、俺は座っていた。
 目の前には見慣れた姿。まだ少年にも見える青年は、いつの間にかコートを着込んで白いマフラーを巻いていた。
 
「ねぇ、友哉くん」
「うん?」
「君が好きだよ」

 ハッキリそう聞こえた言葉は、妙にストンっと胸に落ちた。

「……知ってる」

 知っていた。ずっと前から。何度も聞いたような気さえする。いつも、波の音に掻き消されていた、ささやかな一言。いつも目が覚める前に、俺に向けて放っていたもの。

「待ってるね」

 それだけ言うと、また意識が遠くなっていく。
 嫌だ、目なんか覚めたくない。
 そう思うのに、現実は残酷で、強引に海に沈められたように辺りが暗くなる。ゴポゴポと深く深く沈む音。遠くの方で、鯨の声を聞いた気がした。

 
 目を覚ますと、床に横たわっていた。体のあちこちが痛い。酷く悪寒がする。はっ、と短く息を吐く。喉が酷く乾いていた。
 横を見ると、母も同じように、力尽きたように倒れていた。眠っているらしく、小さく寝息が聞こえてくる。力の入らない腕でどうにか母を抱き上げ、ベッドに押し込む。部屋は荒れていて、でも、空っぽだった。
 観葉植物はずっと昔からの憧れ。ただの趣味。タオルのうさぎは実習に行った先で幼い子供が遊んでくれたお礼にとくれた。マニキュアはあの日姉がメモと共に遺したもの。力なく座り込むと、指先に柔らかい何かが触れた。
 手繰り寄せると、それは白いマフラーだった。買った覚えのないそれは、ついさっき見たものと酷く似ていた。
 首に巻いて、カーテンを開ける。空はまだ暗い。時計は深夜を指している。しばらく考え込んでから、身支度を整え部屋の明かりを落とした。最後に部屋を振り返って、なにも言わずにドアを閉めた。

 
 電車は当然動いていない。適当にタクシーを捕まえて、目的地の近くまでと頼む。がらんどうの高速道路を進む。空はまだ真っ暗だ。

「遊んでたら電車逃したの?」

 不意に運転手に声をかけられる。小さく返事をすると、からからと気の良さそうに笑った。

「若いねぇ。いいね、楽しいこと、いっぱいね」
「そう、ですね……沢山ありました」
「そっかそっか。でも、危ないことはしないようにしなさいね。せっかくの未来を潰しちゃ勿体ないから」

 穏やかな運転手は、そう言って目に笑い皺を浮かべた。少し笑って返しておいた。
 目的の場所に着くと、代金を支払って外に出る。冷たい風が容赦なく肌を刺した。
 気をつけて帰ってね、と言いながら、運転手も帰っていった。誰もいない。完全にひとりだった。
 しばらく歩くと、海が見えた。いつか、迷子になった海。この辺りは潮の流れが速く、プロのダイバーでも危険だとされている。すごい速さで沖に流され、死体すら上がらない。タクシーに揺られながら軽く調べたサイトの文字を思い出しながら、静まり返った煉瓦で舗装された道を歩く。
 
 冷たい海に足をつけて、ゆっくりと歩く。それは衝撃と痛みだった。冷たいとかでは済まされない。でも、不思議と心は穏やかだった。こんなに痛くて、辛いのに。
 自分でも、なんでこの場所を選んで、こんなにも衝動で動いているのかはわからない。ただ、確信があった。ここに来れば、あの青年に会える、と。
 膝まで海に浸かった時、目の前が少しだけ明るくなる。空が白んで、世界が青く青く染まっていく。冬の時期の早朝。ほんの一瞬の、短い時間。

______友哉くん

 声が聞こえて、涙が溢れた。
 思い出した。どうして今の今まで忘れていたんだろう。あの日、海で迷った日に会ったのに。また遊ぼうと約束したのに。

「……乃藍」

 やっと思い出した名前を呼んだ。何回も何回も。なぞるように、確かめるように。もう、忘れないように。

「待ってたよ、友哉くん」

 ハッキリと声がして、顔を上げる。青い世界の中で、乃藍が立っていた。自分と、同じよう、に、海、の中で。

______の、あ

 声にならなかった。海に沈んでしまったから。全身を刺す痛みと、肺が潰れるような苦しさの中で、友哉はやっと、安心したように笑って、目を閉じた。



 ゆっくりと目を開ける。ふわふわと浮上した意識に、数回瞬きをして、それから横を見る。そこには、小さく息をしている友哉くんが居た。
 ゆっくり手を上げて、頬に触れる。青ざめた色は消えて、微かに赤みがかっている。目の下の隈は消えていた。
 昨日、友哉くんはここにやってきた。自分の意思で。母を遺して、たった一人で。

「ふふっ」

 全部上手くいったと小さく笑みを零して、僕は布団から抜け出した。せっかくゆっくり眠れているんだから、友哉くんを起こさないように細心の注意を払った。疲れてるだろうし、もう少し寝かしておく。
 上着を羽織って、外に出る。誰もいない、静まり返った青い町。まだ皆眠っている。誰も起きていない。だってそうなるように設定しているから。
 この島は海の底にある。生きている人間には見つけられない、死んだ人達が集まる島。外に出られるのはそうであれと思ったからだ。優しく設定したからだ。だって外に出られなかったら、誰だって外に出たいと思うでしょう?なら最初から出られるように設定すればいい。本当に出られるかはさておき。

 人魚姫の話を聞いた時、心の底から意味がわからなかった。なんでわざわざ自ら外に出たんだろう。
 そんな事しなくても引きずり込めばいいのに。そうすればリスクはゼロだ。なんてったって向こうが勝手にやってくるんだから。
 気に入ったなら引きずり込む。それが僕らのやり方だ。人間の常識なんてどうでもいいし関係ない。
 
 友哉くんを初めて見たのは、彼が恋人に捨てられて、そんなに時間が経っていない頃。多分、気分転換かなにかの旅行中だったんだろう。海辺でなにかを飲んでいた彼を見つけた。ほとんど一目惚れ。ずーっと前から知ってた気もしたし、気のせいな気もした。まあ、どっちでもいい。さほど関係ないから。
 それから、彼の夢に何度も出ては、こっちに来るように誘導した。でも友哉くんは心が強くてなかなか思うようにいかない。
 でも待った。待ち続けた。人間、いや、感情を持ってるなら確実にどこかで弱くなる。そのタイミングをひたすら待ち続けた。
 結果、お姉さんが亡くなり、錯乱しているお母さんの善意と優しさによってじわじわ追い詰められていった。ただでさえ心が弱っているのに、体まで疲れてしまったのなら、もうあとは簡単だ。
 馬鹿な友哉くん。実体がある友達に助けを求めたら良かったのにね。不確かな夢に縋るなんて、馬鹿な人。ま、だから上手くいったんだけど。
 人に頼るのが下手な、不器用で可愛い人。僕より体も大きくて、なのにとっても脆い人。

 かわいそうな友哉くん
 かわいいかわいい誰かさん

_____私は目が欲しい!一緒に景色を見たいもの
 
______それじゃあ、僕は手が欲しい!
  たくさんたくさん撫でて欲しい!

______わたし、お腹がいいな。みんなで最初に還るの

______ボクは足を。走ってくれなきゃすすめない

 いろんな声が、あちこちから聞こえてくる。島全体から、僕を通して聞こえてきた。

______君は?乃藍。君はなにが欲しい?

 小さな問い掛けに、少し悩む。目も手もお腹も足も取られてしまった。
 海を見つめて、少し悩む。空が青く青く、高く高く染まっていく。海の底みたいに。

「……僕、心がいい。あの人の、友哉くんの心がいい」

 だって好きだもの。大好きだもの。

「えへへっ」

 僕達友哉くんとずっと一緒だよ。
 死んでも一緒。
 死んだ僕たちと
 生まれてこれなかった、僕たちと一緒______