フィーネの旋律

 放課後の音楽室はいつだってメロディであふれかえっている。

 トランペットの音は賑やかなオレンジで、チューバは優しいグラスグリーン、そしてサクソフォンの響きは鮮やかなトパーズ色。

 音符たちは音楽室の中をところせましと飛び回る。アンサンブル部に所属する24名の部員たちは皆、個性的で色彩豊かな音符を生みだしていた。

 ある音符は綿毛のように舞い、ある音符は清流の水のように流れ、そしてある音符は散りばめた星のように頭上で瞬いている。

 わたしは膝の上にフルートを置いたまま、次から次へと生まれる音符を眺め続けていた。

 ふと、新緑の音符が目の前にこぼれ落ちてきた。そっと右手の人差し指を立てて音符に手を伸ばす。それがいけないことだとはわかっていても、つい好奇心が先立ってしまう。指先が軽やかに音符を捉えた。

 チリン――。

 グラスグリーンの光の粒が目の前で弾ける。音符に込められた心の声を聴き、つい口元が緩んでしまう。

 ――緑川先輩、なにかいいことあったのかな? メロディが小躍りしている。

 オレンジとトパーズの音符たちも、立て続けに視界に流れ込んできた。指先を掲げそっと触れる。

 シャリン――。

 ――赤城先輩はなんだか元気なさそう。最近はずっと気持ちが沈んでいるみたい。どうしたんだろう。

 パリン――。

 ――あはっ、菜摘はいつにもまして、高円寺先輩に首ったけみたい。恋する乙女のオーラが全開ね。

 世界を取り巻くカラフルな音色たち。音符は皆、わたしが物心ついた時からの、秘密の友達だ。

わたしはその中に閉じ込められた想いを掴まえることができた。だから音楽室という音色にあふれた空間は、好奇心を満たす格好の舞台だった。恋や憧れ、それに嫉妬心までもが舞っていた。

 そして、音色の中でも一際眩しい輝きを放つのは、部長である高円寺涼太先輩の奏でるフルート。

 教室の対側で練習に打ち込む高円寺先輩に目を向けると、燃えるような紅の音符が目の前に流れてきた。高円寺先輩の放つ音符だ。思わず人差し指でその音符を捉える。

 パァン――。

 音符はぽっと火花を散らし、燃えるように消えた。

 とたん。

『愛しています――』

 その音符の放つ想いに胸が高鳴り、顔が火照る。わたしだけが知る、恋人に対して情熱の炎を吹きつけるような音色。

 三年生は受験勉強に本腰を入れる時期のはずなのに、いまだにアンサンブル部を続け、秋のコンクールで全国大会を目指している。その理由は、想いを寄せる『誰か』のためじゃないかと、わたしは察していた。

 そして、その『誰か』はこのアンサンブル部員ではない。燃えるような情熱を舞い上がらせながらも、音符は向かうあてもなく宙を彷徨っているのだから。

 切れ長の目にシャープな顎のラインが凛々しい。リズムに合わせて揺れる、栗色のくせっ毛。成績は学年トップクラス、それでいて清閑で礼節のある、エリートを絵に描いたような上級生。

 その高円寺先輩が想う人って、どんな人なんだろう。

 演奏に見とれるわたしに、唐突に声がかかる。

「こらっ、花宮はるか、練習さぼるな!」
「あひゃあっ!」

 後ろめたさが驚きを倍増させ、思わず飛び上がる。わたしのツインテールがぴょこんと跳ねた。

「すっ、すみませんっ!」
「なーんてね。あたしだってば」

 振り向くと、声の主はクラスメートでサクソフォン奏者の山村菜摘だった。

「なんだ、菜摘かぁ。脅かさないでよぉ」
「練習しないで百面相って、またなにか妄想していたんでしょ」
「もっ、妄想じゃないってば」
「じゃあ思い出し笑いかなー?」
「うっ……まぁ、そんなとこ」

 心の声を聴いていたなんて、打ち明けられるはずがない。しどろもどろな返事をすると、菜摘は真顔になった。

「そんな調子で今日の『選考会』、大丈夫なの?」
「あー、うん。大丈夫じゃ……ない」

 わたしは自分の実力ではコンクール出場奏者の選考など、およびでないとわかっている。けれど抱える問題は、それ以上に大きい。

 檀上で演奏する自分の姿を想像しただけで心臓がぎゅっと縮みあがり、息が苦しくなるのだ。

「誰だって最初は緊張するってば。でも自信がつくと、逆に聴いてほしいって思えるようになるのよね。だから一緒に頑張ろうよ」
「う、うん……」

 菜摘は中学時代からの同級生。ふたりともこの城西高等学校に入学し、幸運にも同じクラスとなった。菜摘は幼少の頃からバイオリンやサクソフォン、それにピアノなどさまざまな楽器をたしなんでおり、音楽での活躍はわたしもよく知っていた。

 わたしは音楽関係の部活に入りたいと思っていたけれど、どうしてもそれができない理由があった。けれど同級生の菜摘が誘ってくれたことで大義名分ができたし、そろそろ時効(・・)だと思ったので、高校入学を機に入部を決意した。

 楽器について相談したところ、菜摘はこんな返事をくれた。

「管楽器が覚えやすいんじゃないかな。だからフルートにすれば?」

 艶のある銀白色のベーム式フルート。ひんやりとした金属独特の感触で、手に取ると胸が熱くなったのを憶えている。

 上手くなれるかな? 皆を幸せにできる音楽が奏でられるかな?

 わたしはフルートを構え、澄んだ音色を空に放つ自分の姿を想像した。けれど、とある事情で音楽を遠ざけていた4年間は、わたしの音に対する感覚をすっかり鈍らせていた。そのせいで、上達の速さは亀の歩みのようにのんびりペースだった。

 突然、パンパンと拍手の音が響き渡る。それから続く、明瞭な高音の声。

「皆さん、よろしいでしょうか」

 その声には雑然とした音楽室の空気を一掃してしまう迫力があった。壁に掛けられた音楽の女神、ミューズの絵すら緊張を浮かべたように見えてしまう。

 清井麗先輩。こっわ。

 几帳面にウェーブがかけられた長い髪と透き通るような白い肌。すっとした鼻筋に整ったフランス人形のような輪郭。まるで『ベルサイユのばら』の登場人物のような、日本人離れした美貌と輝きがある。

 そして兼ね備えた美と共存するのは、見事なまでの隙のなさ。良くも悪くも、皆の前で感情を表に出すことがない。わたしは麗先輩の笑顔を一度たりとも見たことがなかった。『氷の女王』って皆がいうのも納得だ。

 ふたたび麗先輩の声が響く。

「これから選考会を始めます。席を移動してください」

 すると部員たちは無言で椅子を移動させ、きっちりと三列に整列させた。