朝のフロアは、いつも同じ音で満ちている。
キーボードを叩く音、コピー機の低い駆動音、そこかしこで短い雑談が聞こえる。
もう10年勤めている職場のいつもの朝。
「おはようございます。」
通りがかりに声をかけると、何人かが顔を上げて返事をしてくれる。
「おはようございます。」
軽く笑って頷く。それ以上は自分から会話は広げない。
立ち止まらず、そのまま自分の席へ向かう。
――これでいい。
挨拶や返事はきちんとする。
感じは悪くしない。
でも、深入りはしない。
そうやって振る舞ってきたおかげで、社内では「愛想がいい」「仕事が丁寧」という評価に落ち着いている。
誰かと衝突することもなく、かといって浮いてもいない。
席に着き、パソコンを立ち上げる。
メールを確認しながら、耳だけは自然と周囲に向いていたし、隣や前の人に話しかけられる。
「今日だよね、本社から来る人。」
「海外事業部だって!英語とかペラペラなのかな?」
「多言語大丈夫だから抜擢されたっぽいですよ〜。」
やはり、その話題になる。
分かっていたから、心の準備はしていたつもりだった。
無難に返しつつ、頭の中で考える。
――人が増える。
人が増えるということは、
距離の測り方を考える相手が増えるということだ。
どこまで踏み込むか。
どこで線を引くか。
それを、また一から決めないと、、、。
「佐藤さん、朝から申し訳ないんですが、メールでデータ送ったので、早めにドラフト確認してもらってもいいですか?」
不意に声をかけられ、すぐに顔を上げる。
営業部の後輩だ。
「えーっとメール、、、うん、午前中に確認でき次第、連絡するから。」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」
――元気だなあ〜
返事は自然に出て、相手によっては距離感が空きすぎないように注意。
実はタメ語は苦手だけど、後輩には少し気安い感じに思われるように。
声の調子も、表情も、意識しなくても整えられる。
――こういうところだけ見たら、
コミュ力高いって思われるんだろうな。
実際、言われたことはある。
「初対面でも平気そう」「誰とでもうまくやれるよね」と。
でもそれは、慣れているからじゃない。
失敗しない形を、身体が覚えているだけだ。
雑談もほどほどにいろんなジャンルを。
天気の話も、週末の話も、仕事の愚痴も、ひと通り対応できる。
より関わりのある人なら、好き嫌いも話題になると思って覚えていたりもする。
ただ、それは全部経験からの“対応”であって、
自分ベースのものではない。
10年分の経験則からくる条件反射ってすごい。
時計を見ると、もうすぐ10時になる。
もうそろそろ本社からの噂の出向者が来る時間だ。
フロアの空気が、わずかにそわつき始める。
誰かが立ち上がり、入り口の方を見る。
自分は入り口からも遠いので席は立たない。
モニターに視線を落としたまま、タイピングを続ける。
――歓迎は、得意な人に任せればいい。
いつもそうやって、一歩引いた場所にいる。
それが、自分にとっていちばん安全な位置だった。
エレベーターの到着を知らせる音がして、
フロアの会話が一瞬、途切れた。
ただ、すぐには紹介にはならず、支店長あたりと挨拶しているので、またざわざわとした会話が戻る。目線は興味津々みたいだけど。
少し経って、支店内に総務部の人事担当の声が響く。
「今日からこちらでお世話になる田中さんです。本社の海外事業部から1年だけ支店の営業部へ出向という形で在籍なります。」
拍手が起こる。
顔を上げると、背の高い男が軽く頭を下げていた。
整えられた髪、清潔感のあるスーツ。
姿勢がよく、立ち姿に無駄がない。
「海外事業部から来ました。田中理仁と申します。1年という短い間ではございますが、精一杯貢献できるよう尽力いたしますので、よろしくお願いします」
声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
視線を向けると、ちょうど目が合った。
一瞬だけ。
それだけなのに、不思議と印象に残る。
――あ、コミュ力高い人だ。
無理をしてる様子がない。
場の空気に自然に馴染むタイプ。
拍手が終わり、紹介もひと段落すると、
皆それぞれの仕事に戻っていった。
自分も視線をモニターに戻す。
それなのに、なぜか意識が引っかかる。
――関わることは、そんなにない。
そう思っていた。
昼前、給湯室でマグカップにお湯を注いでいると、背後から声をかけられた。
「お疲れさまです。」
振り返ると、さっき自己紹介していた田中さんが立っていた。
「あ、お疲れ様です。」
少し笑顔で、自然に返す。
こういう場面には慣れている。
「ここ、初めてで。コーヒーどれ使えばいいか分からなくて、、、。」
「ああ、コーヒーなら、その棚の上段で、砂糖とミルクは隣にあります。紅茶とか緑茶も。」
「ありがとうございます。」
笑顔が自然だった。
距離の取り方がうまい。
――これは、モテる。
そう思った。
「えっと、業務管理部の、、、」
よくその部署にいたことを覚えているな、、、目立たなくしてたつもりだったので、内心少しだけ驚く。
さっきのちらっと各部署毎に挨拶しているうちに覚えたらしい。
「はい、契約管理グループの佐藤と言います。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、営業の田中です。よろしくお願いします。」
差し出された手に、一瞬迷ってから応じる。
握手は短く、あっさり。
それが、なぜかありがたかった。
親しくない人に触れるのはいつまで経っても慣れない。
昼休みが近づくと、田中さんが配属された部門の席が少し騒がしくなり、営業職の人達が歓迎ランチに行こうと話している声が聞こえてきた。
自分はスタッフ部門なのでそういうノリもなく、静かなものだ。
12時になったので、自分の弁当を持って席を立ち、いつもの休憩スペースへ向かう。
昼休憩は11時から14時までの間に1時間取得すれば良く、フロアにはまだちらほら人が残っている。
会社がオフィス街にあるので、12時だと飲食店やコンビニが混むから嫌だという人が多いらしい。
そのおかげか、まだ人があまり来ていないし、会話も控えめ。
ここは、沈黙が許される。
空いているカウンターに座り、弁当を広げる。
遠くで、営業部の笑い声が聞こえた。
――別の世界だな。
そう思うと同時に、少し安心する。
誰とも無理に話さなくていい。
沈黙を埋める必要もない。
箸を進めながら、午前中のことを思い返す。
給湯室で会った、本社から来た男。
自然に距離を取れる、あの感じ。
営業部の輪の中心にいる姿が、なんとなく想像できた。
――あの人は、あっち側だ。
そう線を引いたはずなのに、
なぜか、その境界線が少しだけ気になった。
午後は、契約処理関係の引き継ぎのために出向者の彼が担当する案件について、支店の担当営業の広瀬さんを交えて話すことになった。
広瀬さんに急ぎの接客が入り、途中から30分ほど2人になったので、自分が把握している現在の進捗状況や事務処理対応に関するあれこれを伝える。
話せば話すほど、仕事の理解が早い。
質問も的確で、余計なことを言わない。
「助かります。」
そう言われて、反射的に笑う。
「いえ、こちらこそ。後は、広瀬さんが戻ってきたら詳細を確認してください。」
その後は広瀬さんが戻るまで、少しだけ雑談。なんとなく、会話が途切れても気まずくならない。
沈黙を、無理に埋めなくていい感じというか、、、。
――珍しい。
そう思ったのは、たぶん初めてだった。
定時が近づき、すれ違い様に、向こうが軽く声をかけてくる。
「今日はありがとうございました。」
「いえ、また何かあれば聞いてください。お疲れさまでした。」
それだけのやり取り。
なのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
帰りのエレベーターの中で、ふと思う。
――線を引くつもりだったのに。
境界線のこちら側には、いらないつもりだったのに。
今日一日で、それがほんの少し揺らいだような気がする。
それを認めるのが、少しだけ怖かった。
キーボードを叩く音、コピー機の低い駆動音、そこかしこで短い雑談が聞こえる。
もう10年勤めている職場のいつもの朝。
「おはようございます。」
通りがかりに声をかけると、何人かが顔を上げて返事をしてくれる。
「おはようございます。」
軽く笑って頷く。それ以上は自分から会話は広げない。
立ち止まらず、そのまま自分の席へ向かう。
――これでいい。
挨拶や返事はきちんとする。
感じは悪くしない。
でも、深入りはしない。
そうやって振る舞ってきたおかげで、社内では「愛想がいい」「仕事が丁寧」という評価に落ち着いている。
誰かと衝突することもなく、かといって浮いてもいない。
席に着き、パソコンを立ち上げる。
メールを確認しながら、耳だけは自然と周囲に向いていたし、隣や前の人に話しかけられる。
「今日だよね、本社から来る人。」
「海外事業部だって!英語とかペラペラなのかな?」
「多言語大丈夫だから抜擢されたっぽいですよ〜。」
やはり、その話題になる。
分かっていたから、心の準備はしていたつもりだった。
無難に返しつつ、頭の中で考える。
――人が増える。
人が増えるということは、
距離の測り方を考える相手が増えるということだ。
どこまで踏み込むか。
どこで線を引くか。
それを、また一から決めないと、、、。
「佐藤さん、朝から申し訳ないんですが、メールでデータ送ったので、早めにドラフト確認してもらってもいいですか?」
不意に声をかけられ、すぐに顔を上げる。
営業部の後輩だ。
「えーっとメール、、、うん、午前中に確認でき次第、連絡するから。」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」
――元気だなあ〜
返事は自然に出て、相手によっては距離感が空きすぎないように注意。
実はタメ語は苦手だけど、後輩には少し気安い感じに思われるように。
声の調子も、表情も、意識しなくても整えられる。
――こういうところだけ見たら、
コミュ力高いって思われるんだろうな。
実際、言われたことはある。
「初対面でも平気そう」「誰とでもうまくやれるよね」と。
でもそれは、慣れているからじゃない。
失敗しない形を、身体が覚えているだけだ。
雑談もほどほどにいろんなジャンルを。
天気の話も、週末の話も、仕事の愚痴も、ひと通り対応できる。
より関わりのある人なら、好き嫌いも話題になると思って覚えていたりもする。
ただ、それは全部経験からの“対応”であって、
自分ベースのものではない。
10年分の経験則からくる条件反射ってすごい。
時計を見ると、もうすぐ10時になる。
もうそろそろ本社からの噂の出向者が来る時間だ。
フロアの空気が、わずかにそわつき始める。
誰かが立ち上がり、入り口の方を見る。
自分は入り口からも遠いので席は立たない。
モニターに視線を落としたまま、タイピングを続ける。
――歓迎は、得意な人に任せればいい。
いつもそうやって、一歩引いた場所にいる。
それが、自分にとっていちばん安全な位置だった。
エレベーターの到着を知らせる音がして、
フロアの会話が一瞬、途切れた。
ただ、すぐには紹介にはならず、支店長あたりと挨拶しているので、またざわざわとした会話が戻る。目線は興味津々みたいだけど。
少し経って、支店内に総務部の人事担当の声が響く。
「今日からこちらでお世話になる田中さんです。本社の海外事業部から1年だけ支店の営業部へ出向という形で在籍なります。」
拍手が起こる。
顔を上げると、背の高い男が軽く頭を下げていた。
整えられた髪、清潔感のあるスーツ。
姿勢がよく、立ち姿に無駄がない。
「海外事業部から来ました。田中理仁と申します。1年という短い間ではございますが、精一杯貢献できるよう尽力いたしますので、よろしくお願いします」
声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
視線を向けると、ちょうど目が合った。
一瞬だけ。
それだけなのに、不思議と印象に残る。
――あ、コミュ力高い人だ。
無理をしてる様子がない。
場の空気に自然に馴染むタイプ。
拍手が終わり、紹介もひと段落すると、
皆それぞれの仕事に戻っていった。
自分も視線をモニターに戻す。
それなのに、なぜか意識が引っかかる。
――関わることは、そんなにない。
そう思っていた。
昼前、給湯室でマグカップにお湯を注いでいると、背後から声をかけられた。
「お疲れさまです。」
振り返ると、さっき自己紹介していた田中さんが立っていた。
「あ、お疲れ様です。」
少し笑顔で、自然に返す。
こういう場面には慣れている。
「ここ、初めてで。コーヒーどれ使えばいいか分からなくて、、、。」
「ああ、コーヒーなら、その棚の上段で、砂糖とミルクは隣にあります。紅茶とか緑茶も。」
「ありがとうございます。」
笑顔が自然だった。
距離の取り方がうまい。
――これは、モテる。
そう思った。
「えっと、業務管理部の、、、」
よくその部署にいたことを覚えているな、、、目立たなくしてたつもりだったので、内心少しだけ驚く。
さっきのちらっと各部署毎に挨拶しているうちに覚えたらしい。
「はい、契約管理グループの佐藤と言います。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、営業の田中です。よろしくお願いします。」
差し出された手に、一瞬迷ってから応じる。
握手は短く、あっさり。
それが、なぜかありがたかった。
親しくない人に触れるのはいつまで経っても慣れない。
昼休みが近づくと、田中さんが配属された部門の席が少し騒がしくなり、営業職の人達が歓迎ランチに行こうと話している声が聞こえてきた。
自分はスタッフ部門なのでそういうノリもなく、静かなものだ。
12時になったので、自分の弁当を持って席を立ち、いつもの休憩スペースへ向かう。
昼休憩は11時から14時までの間に1時間取得すれば良く、フロアにはまだちらほら人が残っている。
会社がオフィス街にあるので、12時だと飲食店やコンビニが混むから嫌だという人が多いらしい。
そのおかげか、まだ人があまり来ていないし、会話も控えめ。
ここは、沈黙が許される。
空いているカウンターに座り、弁当を広げる。
遠くで、営業部の笑い声が聞こえた。
――別の世界だな。
そう思うと同時に、少し安心する。
誰とも無理に話さなくていい。
沈黙を埋める必要もない。
箸を進めながら、午前中のことを思い返す。
給湯室で会った、本社から来た男。
自然に距離を取れる、あの感じ。
営業部の輪の中心にいる姿が、なんとなく想像できた。
――あの人は、あっち側だ。
そう線を引いたはずなのに、
なぜか、その境界線が少しだけ気になった。
午後は、契約処理関係の引き継ぎのために出向者の彼が担当する案件について、支店の担当営業の広瀬さんを交えて話すことになった。
広瀬さんに急ぎの接客が入り、途中から30分ほど2人になったので、自分が把握している現在の進捗状況や事務処理対応に関するあれこれを伝える。
話せば話すほど、仕事の理解が早い。
質問も的確で、余計なことを言わない。
「助かります。」
そう言われて、反射的に笑う。
「いえ、こちらこそ。後は、広瀬さんが戻ってきたら詳細を確認してください。」
その後は広瀬さんが戻るまで、少しだけ雑談。なんとなく、会話が途切れても気まずくならない。
沈黙を、無理に埋めなくていい感じというか、、、。
――珍しい。
そう思ったのは、たぶん初めてだった。
定時が近づき、すれ違い様に、向こうが軽く声をかけてくる。
「今日はありがとうございました。」
「いえ、また何かあれば聞いてください。お疲れさまでした。」
それだけのやり取り。
なのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
帰りのエレベーターの中で、ふと思う。
――線を引くつもりだったのに。
境界線のこちら側には、いらないつもりだったのに。
今日一日で、それがほんの少し揺らいだような気がする。
それを認めるのが、少しだけ怖かった。
