カラン、カラン。
乾いた音が、廃墟の屋上に虚しく響いた。
この音を、僕は知っている。
何度も聞いた。何度も蹴り飛ばした。
まるで、時間が巻き戻るたびに、同じ空き缶が僕の前に転がってくるかのように。
蹴り飛ばしたのは、泥にまみれた空き缶だ。銘柄は判別できない。ただ、かつて微糖のコーヒーだった何かが、今は錆びた鉄の味しかしないことだけは知っている。
世界が終わる音にしては、あまりにも情けなくて、安っぽい音だった。
――いや、違う。
これは世界が終わる音じゃない。
これは、世界がまた始まる音なのだ。
「……兄さん」
背後で、弱々しい声がした。
振り返ると、コンクリートの壁に寄りかかるようにして、双子の弟――壱いつがうずくまっている。
その目は、いつものように堅く閉じられていた。瞼の裏に焼き付く「未来」という名の邪魔者を、少しでも遮断しようとするかのように。
「電気、消してよ……」
壱が掠れた声で呟く。
「眩しいんだ。明日が、すごく眩しい」
「ああ」
僕は短く答えた。
喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。胃液だ。ここ数日、まともな食事をしていない。コンビニの廃棄弁当に入っていた、油の浮いたパスタを流し込んだのが最後だったか。
僕は口元を手の甲で乱暴に拭い、空を見上げた。
かつて青かったその場所には、今は巨大なバーコードが浮かんでいる。
太陽の代わりに鎮座する、白と黒の縞模様。この街の「価値」は、もう査定し尽くされたらしい。雲の隙間から差し込むのは陽光ではなく、コンビニのバーコードスキャナーが走査するときの、あの神経を逆撫でする赤い光だけだ。肌がチリチリとする。まるで、僕たちの背中にも「処分品」の値札が焼き付けられているようだ。
視界の端には、地面に突き刺さった広告看板が明滅している。《未来は明るい》《あなたの価値を測定します》――文字化けしたキャッチコピーが、壊れた蛍光灯のように痙攣していた。
あれは、いつから浮かんでいたんだっけ。
壱が「未来」を観測し始めた日からか?
それとも、僕が最初の「因果」を壊した日からか?
(クソみたいな空だ)
僕はポケットから、愛用のナイフを取り出した。
かつては銀色に輝いていた刃も、今は赤黒く錆びついている。
手が震えているのが分かった。
みっともない。かっこよくなんてない。
僕はヒーローじゃない。ただの、選択を間違え続けた二十四歳の敗残者だ。
震えを止めるために、僕は無意識に親指の爪を噛んだ。ガリッ、という音が頭蓋骨に響く。爪の先はもうボロボロで、血が滲んでいた。
「……ねえ、兄さん」
壱が、閉じた目のまま、虚空に手を伸ばした。
何かを探すように泳ぐその細い指先を、僕は掴む。
壱の指が、僕の着古したパーカーの袖を、すがるように強く握りしめた。指の関節が白くなるほどの強さで。
「怖いの?」
「まさか」
僕は嘘をついた。嘘をつくと、かつての親友なら激痛に顔を歪めたろうが、僕にはただ胸の痛みだけが残る。
「逆だよ、壱。……これでやっと、静かになる」
僕は壱の前に膝をついた。
壱は抵抗しない。僕が何をするつもりか、彼にはとっくに見えているのだ。「確定未来」という名の呪いによって。
彼は知っている。僕がこれから、この錆びたナイフを彼の心臓に突き立てることを。
それでも、壱は微かに笑ったように見えた。
それは諦めか、それとも信頼か。
「そっか……。じゃあ、痛くないようにしてね」
「善処するよ」
僕は壱の体を抱き寄せた。
汗と、埃と、雨の匂いがした。
生温かい、生きている人間の体温。
かつて馬鹿騒ぎをした部屋の匂いを、一瞬だけ思い出した気がした。
それらすべてを、僕は置き去りにしてきた。
吐き気が限界だったけれど、手だけは動いた。
「……おやすみ、壱」
まるで幼子を寝かしつけるような、優しい声が出た自分に驚く。
僕は、ナイフを握る手に力を込めた。
刃の先端が、壱のシャツに触れる。
布地が、ほんの少し凹む。
抵抗がある。柔らかいのに、硬い。
それは、生きている人間の体だ。
グジュ、という音がした。
刃が肋骨の隙間を滑り、心臓へと吸い込まれる。
温かい血が、僕の手を濡らす。
それは思ったよりも、ぬるくて、粘ついていた。洗い忘れた皿の上のソースのように、不快な温かさだった。
壱の体がビクリと跳ね、すぐに脱力する。
彼の口から、小さな呼気が漏れる。
「あ……」
それは言葉にならない、ただの息だった。
袖を掴んでいた指の力が、ゆっくりと解けていく。
一本ずつ。
人差し指。中指。薬指。小指。
最後に、親指。
すべてが離れたとき、壱の手は、力なく地面に落ちた。
「――ありがとう、兄さ……」
最期の言葉は、吐息となって霧散した。
壱の心臓が停止する。
世界の「核」が機能を失う。
その瞬間。
空のバーコードが、スキャンエラーを起こしたレジのようにピーッ、ピーッと悲鳴を上げ始めた。
景色が崩れる。色が剥落する。
黒い世界が白く漂白される。
世界そのものが返品されるみたいに。
僕の意識もまた、遠のいていく。
終わりだ。
いや、始まりだ。
僕たちはこれから、この泥濘ぬかるみのような時間を、逆さまに歩き出す。
(行こう、壱)
薄れゆく意識の中で、僕は祈るように呟いた。
正解なんてどこにもない。
だけど、僕たちが踏み潰してきた過去の中にだけ、確かな痛みがあるはずだ。
――カラン。
最後に聞こえたのは、あの空き缶が転がる音だった。
あるいはそれは、次の物語の始まりを告げる、運命の音だったのかもしれない。
乾いた音が、廃墟の屋上に虚しく響いた。
この音を、僕は知っている。
何度も聞いた。何度も蹴り飛ばした。
まるで、時間が巻き戻るたびに、同じ空き缶が僕の前に転がってくるかのように。
蹴り飛ばしたのは、泥にまみれた空き缶だ。銘柄は判別できない。ただ、かつて微糖のコーヒーだった何かが、今は錆びた鉄の味しかしないことだけは知っている。
世界が終わる音にしては、あまりにも情けなくて、安っぽい音だった。
――いや、違う。
これは世界が終わる音じゃない。
これは、世界がまた始まる音なのだ。
「……兄さん」
背後で、弱々しい声がした。
振り返ると、コンクリートの壁に寄りかかるようにして、双子の弟――壱いつがうずくまっている。
その目は、いつものように堅く閉じられていた。瞼の裏に焼き付く「未来」という名の邪魔者を、少しでも遮断しようとするかのように。
「電気、消してよ……」
壱が掠れた声で呟く。
「眩しいんだ。明日が、すごく眩しい」
「ああ」
僕は短く答えた。
喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。胃液だ。ここ数日、まともな食事をしていない。コンビニの廃棄弁当に入っていた、油の浮いたパスタを流し込んだのが最後だったか。
僕は口元を手の甲で乱暴に拭い、空を見上げた。
かつて青かったその場所には、今は巨大なバーコードが浮かんでいる。
太陽の代わりに鎮座する、白と黒の縞模様。この街の「価値」は、もう査定し尽くされたらしい。雲の隙間から差し込むのは陽光ではなく、コンビニのバーコードスキャナーが走査するときの、あの神経を逆撫でする赤い光だけだ。肌がチリチリとする。まるで、僕たちの背中にも「処分品」の値札が焼き付けられているようだ。
視界の端には、地面に突き刺さった広告看板が明滅している。《未来は明るい》《あなたの価値を測定します》――文字化けしたキャッチコピーが、壊れた蛍光灯のように痙攣していた。
あれは、いつから浮かんでいたんだっけ。
壱が「未来」を観測し始めた日からか?
それとも、僕が最初の「因果」を壊した日からか?
(クソみたいな空だ)
僕はポケットから、愛用のナイフを取り出した。
かつては銀色に輝いていた刃も、今は赤黒く錆びついている。
手が震えているのが分かった。
みっともない。かっこよくなんてない。
僕はヒーローじゃない。ただの、選択を間違え続けた二十四歳の敗残者だ。
震えを止めるために、僕は無意識に親指の爪を噛んだ。ガリッ、という音が頭蓋骨に響く。爪の先はもうボロボロで、血が滲んでいた。
「……ねえ、兄さん」
壱が、閉じた目のまま、虚空に手を伸ばした。
何かを探すように泳ぐその細い指先を、僕は掴む。
壱の指が、僕の着古したパーカーの袖を、すがるように強く握りしめた。指の関節が白くなるほどの強さで。
「怖いの?」
「まさか」
僕は嘘をついた。嘘をつくと、かつての親友なら激痛に顔を歪めたろうが、僕にはただ胸の痛みだけが残る。
「逆だよ、壱。……これでやっと、静かになる」
僕は壱の前に膝をついた。
壱は抵抗しない。僕が何をするつもりか、彼にはとっくに見えているのだ。「確定未来」という名の呪いによって。
彼は知っている。僕がこれから、この錆びたナイフを彼の心臓に突き立てることを。
それでも、壱は微かに笑ったように見えた。
それは諦めか、それとも信頼か。
「そっか……。じゃあ、痛くないようにしてね」
「善処するよ」
僕は壱の体を抱き寄せた。
汗と、埃と、雨の匂いがした。
生温かい、生きている人間の体温。
かつて馬鹿騒ぎをした部屋の匂いを、一瞬だけ思い出した気がした。
それらすべてを、僕は置き去りにしてきた。
吐き気が限界だったけれど、手だけは動いた。
「……おやすみ、壱」
まるで幼子を寝かしつけるような、優しい声が出た自分に驚く。
僕は、ナイフを握る手に力を込めた。
刃の先端が、壱のシャツに触れる。
布地が、ほんの少し凹む。
抵抗がある。柔らかいのに、硬い。
それは、生きている人間の体だ。
グジュ、という音がした。
刃が肋骨の隙間を滑り、心臓へと吸い込まれる。
温かい血が、僕の手を濡らす。
それは思ったよりも、ぬるくて、粘ついていた。洗い忘れた皿の上のソースのように、不快な温かさだった。
壱の体がビクリと跳ね、すぐに脱力する。
彼の口から、小さな呼気が漏れる。
「あ……」
それは言葉にならない、ただの息だった。
袖を掴んでいた指の力が、ゆっくりと解けていく。
一本ずつ。
人差し指。中指。薬指。小指。
最後に、親指。
すべてが離れたとき、壱の手は、力なく地面に落ちた。
「――ありがとう、兄さ……」
最期の言葉は、吐息となって霧散した。
壱の心臓が停止する。
世界の「核」が機能を失う。
その瞬間。
空のバーコードが、スキャンエラーを起こしたレジのようにピーッ、ピーッと悲鳴を上げ始めた。
景色が崩れる。色が剥落する。
黒い世界が白く漂白される。
世界そのものが返品されるみたいに。
僕の意識もまた、遠のいていく。
終わりだ。
いや、始まりだ。
僕たちはこれから、この泥濘ぬかるみのような時間を、逆さまに歩き出す。
(行こう、壱)
薄れゆく意識の中で、僕は祈るように呟いた。
正解なんてどこにもない。
だけど、僕たちが踏み潰してきた過去の中にだけ、確かな痛みがあるはずだ。
――カラン。
最後に聞こえたのは、あの空き缶が転がる音だった。
あるいはそれは、次の物語の始まりを告げる、運命の音だったのかもしれない。
