【完結】僕の恋のスイッチを入れたのは、妹の彼氏の兄でした

「お兄ちゃん! 卵焦げてる!!」
「……へ? わ、わあ!」

 陽詩に指摘されるまで、かなりぼんやりしていたらしく、卵焼きはもう卵の色をしていなかった。流石にこれはどうにもならない……
 もう一つ新しく焼こうかとしていると、今度は洗濯機のブザーが鳴る。慌てて走って行くと洗濯槽から泡があふれていた。

「あー、あー、なんでまたこんな……陽詩、雑巾持ってきてー」

 どうやら洗剤の量を間違えたようで、泡があふれる大惨事となってしまった。昨日あんな夢を見てしまってから、なんだかちっとも調子が出ない。
 お陰で僕は今朝も朝食を焦げた卵しか食べられず、おまけに片付けやら何やらで家を出るのが遅刻ギリギリに。もちろん陽詩の髪をかわいく結ってあげることもほとんどできなかったので、それはもうすこぶる機嫌が悪い登校になった。
 いつもなら機嫌よくハイタッチしてくれるのに、それすらなかった。仏頂面の陽詩を送り届け、そのまま猛ダッシュで高校へ向かう。危うく予鈴が鳴る一分前に学年玄関に滑り込み、バタバタと慌ただしく教室に走る。

「ま、間に合った……」

 正直今日は本当にヤバいと思った。大学入試の受験料の節約も兼ねて、来年の受験は年内に推薦入試を受けて一発合格を! と、ひそかに思っている僕としては、遅刻は絶対に出来ない。何とか滑り込んだ教室の自分の席に座り、呼吸を整えていると、後ろから誰かが背中を突いてくる。
 振り返ると、クラスメイトから小さく折りたたまれたメモ紙を渡された。

「海翔から速達だよ」

 海翔というのが川端の名前だと思いだすのに数秒かかり、思い出すと同時にクラスメイトの背後から向けられている眼差しに気付く。じっと何か言いたげなそれに、僕は折角落ち着いた汗が再び吹き出しそうになった。昨夜の夢を思い出してしまったのと、それが原因で今日色々とやらかしてしまっていることも思い出してしまったからだ。
 僕の視線に気付くと、川端はふいっと視線を逸らしつつも、やはりこちらを窺うように見てくる。何なんだろうか。何か言いたいことでもあるんだろうか。
 川端から回ってきた小さな手紙をそっと開くと、あのチャラそうな見た目に反してきれいで繊細そうな字が並んでいた。

『来週の木曜、ウチに来るんだろ? 一緒に帰ろう』

 それが何を指しているのか、気付くのにまたしても数秒を要してしまったのは、やっぱり昨日からイレギュラーなことが続いているからだろう。川端の家に招かれたとか、ひなたにキスの話をされるとか、挙げ句デートの上にキスする夢だとか。僕の乏しい恋愛経験値や恋愛耐性では処理できないことなんだ。

(……待って。なんで川端の家に行くことが、恋愛経験値や恋愛耐性に関係あるなんて発想になってるんだ? 夢でキスしたから?)

 あまりに安直で単純な発想に我ながら呆れるけれど、それにしてはまた頬が熱い。朝起きた時よりもずっと熱くて火が出そうだ。
 夢に出てきた人を好きになる現象、というのをよく聞くけれど、ああいう類いだろうか? とも考えたけれど、その割にはどうして川端からの視線に熱さを感じてしまうんだろう。熱視線というほどのそれはは充分すぎるほど存在感がありすぎる。

「……何なんだよ、もう」

 歯がゆいような、くすぐったいような、視線から感じる微妙な感触を振り切る勇気もないままに、僕はそっと川端の方から視線を外し、背を向ける。相変わらず視線を感じはするものの、間に一人挟むせいか、さっきよりは気にならない。
 だから少しは気持ちが落ち着いてきたんだけれど……それでもまだ、鼓動がいつもより早い気がするのはどうしてなのか。

「何なんだよ、本当に……」

 もう一度呟いた時に始業のチャイムが鳴り、僕は慌ててリュックから教科書やノートを取り出す。川端からの手紙はそのままそっと制服のシャツに胸ポケットにしまったのだけれど、授業中もずっと、熱を持っているかのようにそこだけがほんのり温かく感じたほどだった。


 授業中は何とかいつも通りに過ごせ、特に目立った失敗をすることはなく過ごせたのは幸いだった。いつも通りに過ごせたことで気持ちも落ち着いてきて、休み時間、僕はもう一度胸ポケットの手紙を取り出す。

『来週の木曜、ウチに来るんだろ? 一緒に帰ろう』

(……ってことは、もう川端も僕らが家に行く話は知ってるし、イヤってわけじゃない……のかな?)

 陽詩は喜んでいるし、きっと蒼くんも喜んでいるだろうけれど、果たして川端もそうなんだろうか? というのは気になるところではある。何せ僕と川端は、陽詩と蒼くんが付き合っているとかそういうのを認めたいわけじゃないし、協定だって一応組んでいる。
 でも、この手紙から察するに……川端は僕らが来ることを拒んでなさそうだ。“来いよ”という言葉からも、招いているとも言える。

(じゃあ、川端は陽詩達のこと賛成になったってことなのかな?)

 それはそれで協定が解消になってしまうのかな、とも考えられて、なんだか心許ない、萎れたような気分になってしまう。それがまた意味が解らず、僕は慌てて首を振る。なんだかまるで僕の方が川端と関われることを望んでいるみたいで、その機会が奪われる気が一瞬してしまったからだ。

「……いやべつに、あいつはただのクラスメイトなだけ、だし……」

 自分にだけ聞こえるように呟いてみても、それが薄っぺらな言葉なのはわかりきっている。でもだからと言って、僕は何を認めればいいのかもわからない。誰の何を、何のために?
 わからないなりに、わかっていることがないわけではない。僕が川端を仲間だと思っていることと、でもそれだけじゃない気持ちがあるらしいことだ。
 でもそれを何と言い表せばいいのかが、わからない。友達というだけではない、もっと近いような深いような距離感なんだ。そういうのを特別と言っていいのかはわからないけれど。

「なんなんだろうなぁ、こういうの……」
「なんだ伊勢、質問か?」
「え、あ、その……あ、この問二で使う公式は何なのかな、って思って……」

 心の声が声に、しかもかなりの大きさで漏れていたらしく、気が付けば授業中だった。数学の先生に声をかけられてしまったが、幸いにも咄嗟にした質問は的外れの内容ではなかったらしく、「ああ、この場合はな」と解説が始まった。
 なんとかごまかせてホッとするのもつかの間、やっぱり背後から視線を感じる。少し僕を案じるような、でも面白がっているようなものも感じる視線だ。
 背後をちらりと振り返ると、川端が片目をつぶって笑っている。まったく、何を考えているのやら、僕はつい笑いそうになり慌てて前を向く。本当に今日はイレギュラーな事ばかりだ。
 失敗はするし、遅刻しそうになるし、川端から手紙なんてもらうし、ウインクまでされた。何よりあの夢を見たこと自体が、そもそもの事の発端じゃないのか? 川端が、夢に出てきてあんなことしたからじゃないか?
 原因は夢に出てきた川端だ、そうに決まっている。そう結論付けはしたものの、スッキリしないのはどうしてなのか。肝心の疑問の根本は何一つ解決していない気分だ。
 ただのクラスメイトにこんなにも感情を振り回されているのは、ただ僕らが協定を――それもお互いの弟妹との交際を阻止するという――結んでいるからだろうか。とは言え、それ以上に僕と彼の間に共通することなんてないし、仲間意識以上に感じるものだってないはずなのに。
 そこまでわかっているのに、どうしてこうもスッキリしないのか。わからないままに授業は進んでいく。

「伊勢、また海翔から」
「え、ああ、ありがと……」

 また回ってきた速達には英数字が羅列されている。何の暗号だろう、数学の公式かな? と、首を傾げていると、川端がちらちらとスマホを見せてくる。
 それで手紙の内容がLIMEのアカウントだと気付いた途端、この前の女子とのやり取りを思い出す。

「そういうのは一番親密な人に教える主義なんだ、俺」

 一番親密な人……LIMEのアカウントのメモが渡されたってことは、僕が特別だっていうこと? 一気に湧いてくる疑問を今すぐにでも川端に問詰めたかったけれど、いまは授業中だ。僕はそっとメモをまたシャツの胸ポケットにしまい、授業に集中するふりをする。内心は、さっきの手紙の意味が気になって仕方なかったんだけれど。
 一番親密な人とじゃないと交換しないと言っていた気がするのに、川端はあっさりと僕とLIMEの連絡先を教えてくれた。それがすごく意外で内心驚いている。
 試しにポコンとゆるいパンダのキャラクターのスタンプを送ると、川端がすぐにハムスターのスタンプを返してくる。それがおかしてくうっかり笑いそうになる。そしてすぐにスマホをポケットにしまった。でも顔がにやけてしまうのはどうしてなんだろう。
 ただそれだけのやり取りだったのに、メッセージの到着を知らせる振動が、いつまでもじんわりと手の中に響いている感じがする。そっと胸元に手を宛がい、いつまでも味わっていたくなる。

(い、いや、たぶん今度家に行くから、連絡先知っておいた方が便利だとか、そういうことで交換したんだよな……一番親密な人とかそういう意味じゃない、はず……)

 だって僕らは、お互いの弟妹達の交際を、やんわりとだけど阻止するために協定を結んでいる仲というだけなんだから。そこに、深い意味とか他意とかあるわけがない……と、思う。
 心なしか、さっきのアカウントの手紙をもらってから、なんとなく温度が上がった視線を感じる気がする。ひとり間に挟んでいるはずなのに。

「……いや、まさかね」

 僕と川端はあくまで協定を結ぶだけの関係。それ以上でも以下でもないんだ。
 頭ではそうわかっているのに、いつまでも頬も耳も熱くて仕方ない。なんでこんなに鼓動が早いんだろう。まるで何かを期待しているみたいじゃないか。
 期待、という言葉にまた心臓がドキリと鳴り、思わずグッと胸元を抑える。なんで今日もこんなにイレギュラーな事ばかり続くんだろう。ここ最近ずっとだ。
 解決法もスッキリする方法もわからないまま、僕はただひたすらに数学の授業に耳を傾けているふりをする。
 でも心のどこかでは、川端の親密になれたかもしれないことに口の端が緩みそうになっていた。