うなされた翌朝の目覚めは最悪で、しかも起きたのが七時過ぎ。母さんが起こしてくれた記憶はなくはないんだけれど、二度寝したらしい。七時半までには支度も家事も終えてなきゃいけないのに……これはもう大遅刻確定だ。
とは言え、陽詩まで巻き込むわけにはいかないので、僕は朝食を我慢し、家事に全振りをする。
それでも陽詩の髪はいつもよりぐちゃぐちゃだったし、洗濯も半分しかできなかった
「あれぇ? 委員長いま来たの? 遅くね?」
小学校から猛ダッシュで高校に向かい、なんとか予鈴までには学年玄関に滑り込めた。が、そこにいたのはあいつ……川端で、寝坊して朝食も抜いてイライラしているのにさらにイライラさせられるものに出くわしてしまった。
神経に障る言葉ににらみ返すことで返事をすると、川端が驚いたように目を丸くする。
「うるさいな、放っといてく……」
「つーか、髪寝ぐせすげぇね」
「は? ちょ、何して……」
「こことか、跳ねてて超かわいい」
そう言いながら川端はぐっと顔を寄せつつ僕の髪に触れてくる。確かに今日はバタバタしていて髪の寝ぐせもそのままだったみたいだけど、だからって触られていいわけじゃない。身をよじって避けようにも、またしても靴箱との間に挟まれるようになって身動きが取れない。
「さ、触るなってば! てか、かわいいって言うなって言っ……」
靴を履き替える僕に、いつものように傍に寄ってきてウザ絡みをしてくる川端をにらみ付ける。髪に触れていた川端の手を振り払おうとしたその時、「ぐぅぅ」と、お腹が鳴ってしまった。音としては大したことないけれど、こんな間近にいる川端には聞こえてしまっているだろう。
よりにもよってこんなやつの前でこんなことに……! 恥ずかしさで顔が火を噴きそうだ。
「委員長……めっちゃすげー音したんだけど?」
改めて問われるという恥ずかしさで顔も挙げられないでいると、「ほいっ」と、何かが差し出される。それはカロリーメイトの箱だった。
嘲笑ではない、思いがけないものを差し出され、僕はきょとんと瞬く。
「え、なにこれ」
「委員長、朝メシ食ってないんじゃない? だからあげるよ」
「いや、べつに……」
いらない、と言いかけたところでもう一度お腹が大きな音を立て、まるで「そのとおりです」と言わんばかりだ。思わずお腹を冴えたけれど、体と意思が連動していないことだけはよくわかった。
おまけにもうひと鳴きしたお腹を冴えてうずくまりかけていると、川端は苦笑してずいっと箱を押し付けてくる。その笑みに、胸がお腹以上に大きな音を立てる。
「これ俺の非常食だから気にしないで」
じゃあね、とそのまま川端は先に行ってしまい、僕だけがカロリーメイトの箱を手にしたまま立ち尽くしていた。手の中にある小さな箱が、心なしかしっとりと重たい気がする。
「非常食って……お前はどうするんだよ、非常時に」
何とも情けない言葉しか出てこなかったけれど、押し付けられたお菓子に嫌悪感がないのが不思議だった。ただ単に空腹が紛れそうだから、というだけではなく……なにかこう、小さな喜びを感じていたのだ。
「……美味しい」
教室でさっそく一つかじったカロリーメイトは、空腹の体にじんわりと沁みていく。こんなにこれ、美味しかったっけ?
一応遅刻は免れたし、川端がくれたというか、押し付けてきたカロリーメイトのお陰で一応空腹が治まりはした。そのせいなのかなんなのか、食べた後なんだかやたらお腹の辺りがホカホカしている気がしたけれど、なんでなんだろう? たかがカロリーメイトで? そっとお腹の辺りに触れてみる。
お陰で空腹も、陽詩の彼氏騒動に関してのモヤモヤも紛れたんだけれど、今度は川端の言動が気になり始める。べつに、あいつはただウザ絡みしてくるだけのやつのはずなのに。心なしか、触られた髪の先が熱を持ったようになっている気がする。ただの髪の先っぽのはずなのに。
「おーい、そっちボール行ったぞー!」
「……え? あ、ああ」
どれだけぼーっとしてたんだろう。いつの間にか授業は体育になっていた。誰かが打ったボールが高く弧を描いている。
授業はソフトボールで、僕は外野を守っていた。カキーンと金属音が聞こえ、白球が飛んでくる。弧を描いて僕の方に近づいてくるそれに構えては見るものの、すでに距離が近すぎた。
「わ、あ、ああ……」
どうにか捕ろうとして右往左往していたけれど、足許が覚束なくて派手に転んでしまった。しかも膝をすりむいたのか、ジンジンと痛む。
でも大したことないだろう……と思っていたら、なぜか川端がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「委員長、だいじょうぶ? さっきこけただろ?」
「べつに大したことない」
「でも血が出てんじゃん」
そう指摘されるまで、どうしてジンジンと痛むのかがわからなかった。ジャージの短パンをはいているせいで膝がむき出しで、擦りむいてしまったらしい。
とは言え、それで大騒ぎするほど子どもでもないので、「べつに」とは言ったのに、川端は突然僕を抱え上げて歩き出した。
「な、なにしんだよ!? 下ろせよ!!」
「ケガしてるんだから黙って抱っこされてなよ」
「下ろせ! 恥ずかしい!!」
「先生! 委員長ケガしたんで保健室行きます!」
そんな大げさな、と思って身をよじって断ろうとしたのに、見上げた横顔がすごく真剣で何も言えなかった。いつもの間延びした声とは全く違って何故かドキリとしてしまった。こんな顔するんだ、という意外性が妙に琴線に触れたのかもしれない。でも、その理由がわからない。だから仕方なく、大人しく抱きあげられたままでいるしかない。無意識に川端に身を寄せ、鼓動する胸元に耳が当たってしまう。
(なんだこの状況? でも、なんでこんなにホッとしているんだろう……)
川端が僕を抱え上げたのに驚いたのは先生もみんなも同じだったのか、ポカンとしたまま誰も止めもしない。誰も止めることもなく、僕らは校舎に向かっていく。そうこうしている内に僕は川端にお姫様抱っこされたまま保健室に連れていかれていた。
「先生! 委員長が膝ケガして……あ、いないや」
連れてこられはしたものの、養護の先生はいまちょっと留守らしい。
とりあえずこの状態を見られなくてよかったと安堵していると、川端はそっと、すごく丁寧に優しく僕を長椅子の上に下ろす。
「あ、ありがと……」
とりあえずのお礼を言ってはみたものの、抱えられていた恥ずかしさで顔も見られない。思わず目を逸らしうつむくと真っ赤になっている膝が見える。
待っていれば先生は帰ってくるだろうか……と思いながら何となく辺りを見渡していると、「委員長、待ってて」と川端が勝手知ったる様子で保健室を漁り始める。しかも川端は勝手に救急箱を開けたりし始めていて、救急道具を取り出したりしている。
「なにしてんだよ、川端」
「なにって、手当てしてあげるよ」
「いいよべつに、痛くなんかないから」
「でも結構血ぃ出てるし。ばい菌入ったらヤベーから、ね?」
川端はそう言うなり、慣れた手つきで絆創膏だとか消毒薬だとか、テキパキと取り出し、ササッと貼ったりなんだりして手当てしてしまったのだ。しかも、消毒が全く沁みないというスゴ技付き。こいつにこんな特技があったなんて。人は、見た目に寄らないんだなと実感してしまう。
感心して見惚れている僕に、川端は得意げに笑う。
「すごい、全然痛くない」
「へへへ。俺、保健委員だからね」
保健委員だとしても、こんなにきれいに丁寧に出来るものなんだろうか。まるで手品でも見せられた気分で瞬きを繰り返していると、何を思ったか、川端は片目をつぶって微笑み、絆創膏を張った傷の上に投げキスのような事をした。思わずぎょっとして見つめ返すと、川端は肩をすくめて笑う。
「な、なにしてんだよ!?」
「ん? 早く治るようにおまじないだよ。うちではよくやるんだ」
「……へ、へぇ……でもなんで僕に?」
「委員長は特別だから」
「今朝のカロリーメイトも?」
「そういうこと。委員長はかわいいし」
「な……! また、そういうことを言うなってば!!」
「なんで? 委員長はずっとかわいいよ」
また不意にヘンなことを言われ、僕は何も言い返せなくなる。これって新手の黙らせる方法だったりするのか? しかもずっとってなんだよ……そんな僕をずっと前から知っているような言い草は。調子が狂うお陰で、にらみ返すこともできない。
恥ずかしくなるような、でも少しだけ嬉しいようなことを言われると、人は何も言えなくなってしまう。黙れと頭ごなしに言われるよりうんと効果的な気がする。そういう人の扱いのうまさが、川端にはある気がした。
(川端ってなんかこう憎めないというか、いつの間にか傍にいる子犬みたいな感じだな……)
子犬の割にはかさばる大きさだけれど、愛想がいいことは確かで、川端は結構女子に人気がある。チャラそうな感じで、良く言えばフレンドリーに見える。だからなのか友達も多いし、黙っていれば整った顔立ちとか笑った顔とか悪くは……いや、かなり良い方だと思う。
べつに僕は彼をやっかんでいるわけではなく、単純にタイプが違いすぎるのと、それなのにこうやって絡まれることが多いからだ。イラっとはするけれど。委員長~なんて甘えた声で呼びつつ、いつの間にか毎朝一緒に教室に走るようになっているなんて、呆れはするけど大嫌いにはなれない。
(こういうやつが彼氏だったりしたら、陽詩を任せてもいいかな……?)
なんとなくそんなことを考えてみたものの、それでも“最愛の妹に小一で彼氏ができた”という事実の衝撃は大きいことに変わりはない。思い出しただけで座っているイスごと地面にめり込みそうなほど落ち込んでしまう。
思わず大きなため息をついてしまうと、「委員長?」と、川端が心配そうに顔を覗き込んでくる。その時、すごい至近距離で目が合い、つい驚いて声を挙げてしまった。数センチの距離で、整った顔立ちを見てしまうと心臓が跳ねあがりそうになる。
「わぁ! な、なんだよ」
「いや、なんかへこんでるっぽいから、どうしたのかなーって思って」
十歳も歳が離れた妹に彼氏ができたかもしれなくて落ち込んでいる、なんてバカ正直に話したところで嗤われるか引かれるかするのは目に見えている。だから僕はふいっと顔を反らす。
「べつに、関係ないだろ」
「えー……冷たいなぁ、委員長。俺と委員長は特別な仲なのにさぁ」
どういう仲だよ。ただのクラスメイトだろ。
声はいつも通りだったけれど、視界の端っこで川端が心なしかしょんぼりしたような顔をしていたように見えたけれど、気付かないふりをした。さっきの特別発言といい、なんだか川端がやけに今日は近い気がする。べつに、友達でもないはずなのに。
そう顔を逸らしていたのに、ふと何かが頭を撫でる。それが川端の手だと気付いた途端、カッと体も頬も熱くなった。
「お悩み相談くらい俺でも請け負うんだけどなぁ」
そう言いながら、川端は僕の頭をぽんぽんと、それこそ小さな子にするように……いや、もっと優しく甘い感じに撫でてくる。腹が立つはずなのに、なんか、気持ちが落ち着いていく。だから何となく手を払いそびれて、そのまま撫でられるままになっていた。
「べ、べつにいいってば……」
「え~……つれないなぁ」
やたらしつこい上になんでそんなしょんぼりした顔なんかするんだよ、と思わず聞きそうになったその時、「海翔~、いる~?」と、誰かが保健室には行ってくる声がした。だから僕は慌てて立ち上がり、走って保健室を出て行く。背後からはもうさっきのしょんぼりさが窺えない明るい声が聞こえてくる。それにホッとしつつも、どこか寂しく思えてしまうのはどうしてなんだろうか。
(何だってあんなこと言ったり、あんな顔するんだ? そもそも特別な仲って、何?)
友達でもないのに……でも、なんでこんなに心臓がうるさいんだろう。体操服の胸元を冴え、ぎゅっと握りしめる。
手当てしてもらった膝が妙に熱い気がする。朝もらったカロリーメイトを食べた時のように、じわじわと熱を持っている気がする。
「気のせい、だよな……」
声に出して言わなければならないほどの熱さを感じながらも、僕はそれでも何でもないふりをし続けた。そうでないと、陽詩の彼氏話を聞かされた時以上にふわふわと足元がおぼつかなくなりそうだったから。
僕はふるふると頭を振って考えを振り払うようにし、ただ黙々と教室へと向かった。
とは言え、陽詩まで巻き込むわけにはいかないので、僕は朝食を我慢し、家事に全振りをする。
それでも陽詩の髪はいつもよりぐちゃぐちゃだったし、洗濯も半分しかできなかった
「あれぇ? 委員長いま来たの? 遅くね?」
小学校から猛ダッシュで高校に向かい、なんとか予鈴までには学年玄関に滑り込めた。が、そこにいたのはあいつ……川端で、寝坊して朝食も抜いてイライラしているのにさらにイライラさせられるものに出くわしてしまった。
神経に障る言葉ににらみ返すことで返事をすると、川端が驚いたように目を丸くする。
「うるさいな、放っといてく……」
「つーか、髪寝ぐせすげぇね」
「は? ちょ、何して……」
「こことか、跳ねてて超かわいい」
そう言いながら川端はぐっと顔を寄せつつ僕の髪に触れてくる。確かに今日はバタバタしていて髪の寝ぐせもそのままだったみたいだけど、だからって触られていいわけじゃない。身をよじって避けようにも、またしても靴箱との間に挟まれるようになって身動きが取れない。
「さ、触るなってば! てか、かわいいって言うなって言っ……」
靴を履き替える僕に、いつものように傍に寄ってきてウザ絡みをしてくる川端をにらみ付ける。髪に触れていた川端の手を振り払おうとしたその時、「ぐぅぅ」と、お腹が鳴ってしまった。音としては大したことないけれど、こんな間近にいる川端には聞こえてしまっているだろう。
よりにもよってこんなやつの前でこんなことに……! 恥ずかしさで顔が火を噴きそうだ。
「委員長……めっちゃすげー音したんだけど?」
改めて問われるという恥ずかしさで顔も挙げられないでいると、「ほいっ」と、何かが差し出される。それはカロリーメイトの箱だった。
嘲笑ではない、思いがけないものを差し出され、僕はきょとんと瞬く。
「え、なにこれ」
「委員長、朝メシ食ってないんじゃない? だからあげるよ」
「いや、べつに……」
いらない、と言いかけたところでもう一度お腹が大きな音を立て、まるで「そのとおりです」と言わんばかりだ。思わずお腹を冴えたけれど、体と意思が連動していないことだけはよくわかった。
おまけにもうひと鳴きしたお腹を冴えてうずくまりかけていると、川端は苦笑してずいっと箱を押し付けてくる。その笑みに、胸がお腹以上に大きな音を立てる。
「これ俺の非常食だから気にしないで」
じゃあね、とそのまま川端は先に行ってしまい、僕だけがカロリーメイトの箱を手にしたまま立ち尽くしていた。手の中にある小さな箱が、心なしかしっとりと重たい気がする。
「非常食って……お前はどうするんだよ、非常時に」
何とも情けない言葉しか出てこなかったけれど、押し付けられたお菓子に嫌悪感がないのが不思議だった。ただ単に空腹が紛れそうだから、というだけではなく……なにかこう、小さな喜びを感じていたのだ。
「……美味しい」
教室でさっそく一つかじったカロリーメイトは、空腹の体にじんわりと沁みていく。こんなにこれ、美味しかったっけ?
一応遅刻は免れたし、川端がくれたというか、押し付けてきたカロリーメイトのお陰で一応空腹が治まりはした。そのせいなのかなんなのか、食べた後なんだかやたらお腹の辺りがホカホカしている気がしたけれど、なんでなんだろう? たかがカロリーメイトで? そっとお腹の辺りに触れてみる。
お陰で空腹も、陽詩の彼氏騒動に関してのモヤモヤも紛れたんだけれど、今度は川端の言動が気になり始める。べつに、あいつはただウザ絡みしてくるだけのやつのはずなのに。心なしか、触られた髪の先が熱を持ったようになっている気がする。ただの髪の先っぽのはずなのに。
「おーい、そっちボール行ったぞー!」
「……え? あ、ああ」
どれだけぼーっとしてたんだろう。いつの間にか授業は体育になっていた。誰かが打ったボールが高く弧を描いている。
授業はソフトボールで、僕は外野を守っていた。カキーンと金属音が聞こえ、白球が飛んでくる。弧を描いて僕の方に近づいてくるそれに構えては見るものの、すでに距離が近すぎた。
「わ、あ、ああ……」
どうにか捕ろうとして右往左往していたけれど、足許が覚束なくて派手に転んでしまった。しかも膝をすりむいたのか、ジンジンと痛む。
でも大したことないだろう……と思っていたら、なぜか川端がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「委員長、だいじょうぶ? さっきこけただろ?」
「べつに大したことない」
「でも血が出てんじゃん」
そう指摘されるまで、どうしてジンジンと痛むのかがわからなかった。ジャージの短パンをはいているせいで膝がむき出しで、擦りむいてしまったらしい。
とは言え、それで大騒ぎするほど子どもでもないので、「べつに」とは言ったのに、川端は突然僕を抱え上げて歩き出した。
「な、なにしんだよ!? 下ろせよ!!」
「ケガしてるんだから黙って抱っこされてなよ」
「下ろせ! 恥ずかしい!!」
「先生! 委員長ケガしたんで保健室行きます!」
そんな大げさな、と思って身をよじって断ろうとしたのに、見上げた横顔がすごく真剣で何も言えなかった。いつもの間延びした声とは全く違って何故かドキリとしてしまった。こんな顔するんだ、という意外性が妙に琴線に触れたのかもしれない。でも、その理由がわからない。だから仕方なく、大人しく抱きあげられたままでいるしかない。無意識に川端に身を寄せ、鼓動する胸元に耳が当たってしまう。
(なんだこの状況? でも、なんでこんなにホッとしているんだろう……)
川端が僕を抱え上げたのに驚いたのは先生もみんなも同じだったのか、ポカンとしたまま誰も止めもしない。誰も止めることもなく、僕らは校舎に向かっていく。そうこうしている内に僕は川端にお姫様抱っこされたまま保健室に連れていかれていた。
「先生! 委員長が膝ケガして……あ、いないや」
連れてこられはしたものの、養護の先生はいまちょっと留守らしい。
とりあえずこの状態を見られなくてよかったと安堵していると、川端はそっと、すごく丁寧に優しく僕を長椅子の上に下ろす。
「あ、ありがと……」
とりあえずのお礼を言ってはみたものの、抱えられていた恥ずかしさで顔も見られない。思わず目を逸らしうつむくと真っ赤になっている膝が見える。
待っていれば先生は帰ってくるだろうか……と思いながら何となく辺りを見渡していると、「委員長、待ってて」と川端が勝手知ったる様子で保健室を漁り始める。しかも川端は勝手に救急箱を開けたりし始めていて、救急道具を取り出したりしている。
「なにしてんだよ、川端」
「なにって、手当てしてあげるよ」
「いいよべつに、痛くなんかないから」
「でも結構血ぃ出てるし。ばい菌入ったらヤベーから、ね?」
川端はそう言うなり、慣れた手つきで絆創膏だとか消毒薬だとか、テキパキと取り出し、ササッと貼ったりなんだりして手当てしてしまったのだ。しかも、消毒が全く沁みないというスゴ技付き。こいつにこんな特技があったなんて。人は、見た目に寄らないんだなと実感してしまう。
感心して見惚れている僕に、川端は得意げに笑う。
「すごい、全然痛くない」
「へへへ。俺、保健委員だからね」
保健委員だとしても、こんなにきれいに丁寧に出来るものなんだろうか。まるで手品でも見せられた気分で瞬きを繰り返していると、何を思ったか、川端は片目をつぶって微笑み、絆創膏を張った傷の上に投げキスのような事をした。思わずぎょっとして見つめ返すと、川端は肩をすくめて笑う。
「な、なにしてんだよ!?」
「ん? 早く治るようにおまじないだよ。うちではよくやるんだ」
「……へ、へぇ……でもなんで僕に?」
「委員長は特別だから」
「今朝のカロリーメイトも?」
「そういうこと。委員長はかわいいし」
「な……! また、そういうことを言うなってば!!」
「なんで? 委員長はずっとかわいいよ」
また不意にヘンなことを言われ、僕は何も言い返せなくなる。これって新手の黙らせる方法だったりするのか? しかもずっとってなんだよ……そんな僕をずっと前から知っているような言い草は。調子が狂うお陰で、にらみ返すこともできない。
恥ずかしくなるような、でも少しだけ嬉しいようなことを言われると、人は何も言えなくなってしまう。黙れと頭ごなしに言われるよりうんと効果的な気がする。そういう人の扱いのうまさが、川端にはある気がした。
(川端ってなんかこう憎めないというか、いつの間にか傍にいる子犬みたいな感じだな……)
子犬の割にはかさばる大きさだけれど、愛想がいいことは確かで、川端は結構女子に人気がある。チャラそうな感じで、良く言えばフレンドリーに見える。だからなのか友達も多いし、黙っていれば整った顔立ちとか笑った顔とか悪くは……いや、かなり良い方だと思う。
べつに僕は彼をやっかんでいるわけではなく、単純にタイプが違いすぎるのと、それなのにこうやって絡まれることが多いからだ。イラっとはするけれど。委員長~なんて甘えた声で呼びつつ、いつの間にか毎朝一緒に教室に走るようになっているなんて、呆れはするけど大嫌いにはなれない。
(こういうやつが彼氏だったりしたら、陽詩を任せてもいいかな……?)
なんとなくそんなことを考えてみたものの、それでも“最愛の妹に小一で彼氏ができた”という事実の衝撃は大きいことに変わりはない。思い出しただけで座っているイスごと地面にめり込みそうなほど落ち込んでしまう。
思わず大きなため息をついてしまうと、「委員長?」と、川端が心配そうに顔を覗き込んでくる。その時、すごい至近距離で目が合い、つい驚いて声を挙げてしまった。数センチの距離で、整った顔立ちを見てしまうと心臓が跳ねあがりそうになる。
「わぁ! な、なんだよ」
「いや、なんかへこんでるっぽいから、どうしたのかなーって思って」
十歳も歳が離れた妹に彼氏ができたかもしれなくて落ち込んでいる、なんてバカ正直に話したところで嗤われるか引かれるかするのは目に見えている。だから僕はふいっと顔を反らす。
「べつに、関係ないだろ」
「えー……冷たいなぁ、委員長。俺と委員長は特別な仲なのにさぁ」
どういう仲だよ。ただのクラスメイトだろ。
声はいつも通りだったけれど、視界の端っこで川端が心なしかしょんぼりしたような顔をしていたように見えたけれど、気付かないふりをした。さっきの特別発言といい、なんだか川端がやけに今日は近い気がする。べつに、友達でもないはずなのに。
そう顔を逸らしていたのに、ふと何かが頭を撫でる。それが川端の手だと気付いた途端、カッと体も頬も熱くなった。
「お悩み相談くらい俺でも請け負うんだけどなぁ」
そう言いながら、川端は僕の頭をぽんぽんと、それこそ小さな子にするように……いや、もっと優しく甘い感じに撫でてくる。腹が立つはずなのに、なんか、気持ちが落ち着いていく。だから何となく手を払いそびれて、そのまま撫でられるままになっていた。
「べ、べつにいいってば……」
「え~……つれないなぁ」
やたらしつこい上になんでそんなしょんぼりした顔なんかするんだよ、と思わず聞きそうになったその時、「海翔~、いる~?」と、誰かが保健室には行ってくる声がした。だから僕は慌てて立ち上がり、走って保健室を出て行く。背後からはもうさっきのしょんぼりさが窺えない明るい声が聞こえてくる。それにホッとしつつも、どこか寂しく思えてしまうのはどうしてなんだろうか。
(何だってあんなこと言ったり、あんな顔するんだ? そもそも特別な仲って、何?)
友達でもないのに……でも、なんでこんなに心臓がうるさいんだろう。体操服の胸元を冴え、ぎゅっと握りしめる。
手当てしてもらった膝が妙に熱い気がする。朝もらったカロリーメイトを食べた時のように、じわじわと熱を持っている気がする。
「気のせい、だよな……」
声に出して言わなければならないほどの熱さを感じながらも、僕はそれでも何でもないふりをし続けた。そうでないと、陽詩の彼氏話を聞かされた時以上にふわふわと足元がおぼつかなくなりそうだったから。
僕はふるふると頭を振って考えを振り払うようにし、ただ黙々と教室へと向かった。



