言の葉の夜

2026-02-01
『春』

春が「忘れた人」を連れ戻すため
僕に幾つもの仕掛けを施してくる。

桜、忘れたあの人と一緒に見たものを
春が満開に咲かせてしまいそうな勢い。

入学式、忘れたあの人との思い出全てを
春という名目で僕に突き付けてきている。

卒業、忘れたあの人との別れ方を
春のせいでまた、思い出して泣く。

別れと出会いの季節だと言われる春に
忘れ去った人のことを思い出されては
少し寂しくなってしまいそうでさ、僕。

高校生になったばかりの頃
一目惚れした女の子がいた。

黒い髪を綺麗に靡かせていて
僕の目の前を通ったその人は
良い匂いだけその場に残した。

出会いは呆気なかったというのに
図書委員ということで会う機会は
それなりに多くて僕の高校時代を
彩ってくれたのはその人しかない。

「高校時代に印象的な思い出は」
そんなことを訊かれるとすれば。

「同じ図書委員の子が好きだったことですね」
「図書室から見える桜に似合う女の子でした」

そう躊躇うことはなく答えられるほど
僕は真っ直ぐな愛を当時、向けていた。

付き合うことはなかったけれど
一緒にいるだけで幸せだったし
3年間という短し時間も過ぎて
僕らの間に愛も育まれたのだが。

或る日の放課後、「私、東京の大学に行くの」
夕陽が差し込む図書室でその人に告げられた。

僕は地元の大学に進むことが決まっていて
「東京って凄いな」としか言えそうになく。

続きの言葉が思いつかなくて
気まずい時間だけが流れる中。

チャイムが鳴った。

図書室の窓を2人で手分けして閉めて
パソコンの電源を切って図書室を出る。

玄関から正門まで3分ほどの距離があって
その間には幾つもの桜が僕らを包んでいた。

先に僕が正門を出て、振り返って
「またね」とその人のほうを見る。

その人がいて、その人を囲むように
淡紅色のそれが満開に咲き誇りつつ。

忘れたその人を今になり思い出した。
ただ何かを書きたかっただけなのに。

「春」というタイトルで書こうとした僕に
忘れていた人を書かせるだなんてずるいね。

どうか春よ、忘れた人のことは
そのまま放っておいてください。

まだ正式には春ではないから
きっと桜が満開に咲く頃僕は
またこの人のことを思い出す。

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