言の葉の夜

2026-02-03
『揺蕩う海と気持ち』

私はね、君と愛し合いたいの。
他の誰かではなく、君とだけ。

そんな甘い言葉の書かれた
手紙が僕の元に一通届いた。

知らない香水の匂いを纏ったそれは
どこか懐かしささえ感じられてきて。

ふと、或ることを思い出した。
初めて会った、あの夜のこと。

珈琲を片手に持ち、浜辺を散歩して
行き着いた先で運命みたく出会った。

今、持っている手紙に書かれた
甘い言葉を選ぶことのない女性。

「こんな夜にここで、何をされてるのですか」

その頃はまだ、怖いもの知らずで
誰彼構わずに話しかけていたから
そのときも躊躇わずに話しかけた。

後ろを向いて座っているその人は
僕の掛け声に気付いて振り返って
「ん、あなたこそ何を?」とだけ
質問を質問で返してくる人だから。

「眠れなくて散歩をしてました」
「ここ、星が綺麗に見えるので」

そう言いながら、僕は空を見て
欠けている月にも視線を移した。

「そうなの、星を見るために散歩だなんて」
「あなた、もしかしてロマンチストなのね」

茶化された気がして
不貞腐れた顔をする。

「ごめんなさい、凄く素敵ですよ」
「私は眠れなくて海を見てました」

欠けた月の発する光に照らされた海は
その人がしている結婚指輪より眩しく。

「あなたこそ、ロマンチストじゃないですか」
「夜、女性が1人だなんて危ないと思います」
「もし、僕が凶悪犯だったら襲っちゃうかも」

冗談をも含んだ僕の言葉に
クスッと微笑んだその人は
僕と目を合わせて一言だけ。

「でも、あなたは襲わなかった」
「それだけで好きになれちゃう」

はぁ、と溜息が漏れてしまいそうで
僕は胸いっぱいに海の匂いを吸った。

「ここ、座りなよ。あなたなら良しとしてあげるわ」
そう言いながら、隣をポンポンと手で合図してくる。

「そうですか、なら座ろうかな」
僕は初めて会った人の隣に座り。

ザーザーと音を鳴らすそれを眺めながら
たまに隣にいるその人のことも見つめて
結婚指輪が視界に入ると僕は胸が痛んだ。

僕の知らない香水の匂いだった。

訊こうにも訊ける雰囲気ではなくて
ただ揺蕩うそれを一緒に眺めていた。

目が覚めると、僕は寝室で涙を流していた。
どんな夢だったかが薄れていきそうで僕は
すぐにスマホのメモ帳であったことを残し。

昨夜、女性と出会った浜辺のことを調べると
数十年前、そこで女性が入水した記事があり
果たして現実で会えたのかがあやふやになる。

その記事にはこんなことが書かれていた。

―夫婦間のトラブルがあったとみられ――――――
―女性は長期間、精神的に不安定な状態にあった―

「でも、あなたは襲わなかった」
あのときの言葉が少し分かった。

記憶では香水の匂いが残っていて
会えたんだと思うことしかできず。

それから月日が経ち、つい先日、手紙が届いた。
僕は編集者から「読者さんから」と聞いていた。

けれど、この手紙に纏わりつく匂いは
あのとき嗅いだ香水の匂いでしかなく。

思い出した、あの夜のことを。

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