「……ただいま」
「おかえり、理久」
その日、朝帰りした理久が玄関の扉を開けると同時に、俺は満面の笑みを浮かべて出迎える。理久は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつも通りの柔らかな笑顔を見せてくれた。
「玲央。帰ってたんだ」
「ああ、理久は昨日も氷室くんの家に泊まったのか? 本当は彼女と会っているんじゃないのか?」
「前にも言ったけど、俺に『彼女』はいないってば。ちょっと部屋に荷物置いてくるよ」
俺の意地悪な質問を軽やかに躱すと、理久は少し困ったように笑いながら、俺の横を通り過ぎようとする。
その瞬間、理久の髪からシャンプーの香りがふわりと漂った。
嗅ぎ慣れない匂いだ。実家に置いていない、他人の家特有の匂いを理久はまとっていた。その首筋が妙に艶めかしく見えて、俺は思わず理久の腕を掴んでしまった。
「玲央?」
不思議そうに見つめてくる理久の首筋に吸い寄せられるようにそっと手を伸ばす。何の抵抗もなく受け入れてくれるのを良いことに、そのまま襟元の布をめくり上げるように指を這わせる。
「っ、れ、玲央?」
理久が焦ったように声を上げたところで、俺は我に返った。そして、己の行動に内心戦慄する。……無意識とは言え、俺は一体何をしようとしていたんだ。
「……ごめん。何か首筋に虫刺されみたいな痕があって、気になった」
咄嗟に出た俺の苦し紛れの嘘に、何故か理久は激しく動揺しているようだった。
瞬時に耳まで赤くさせ、「き、ききき気のせいだって!」と噛み噛みで否定してくる。
理久は首元を抑えるように手で覆い隠すと、俺から顔を背けてその場から立ち去ろうとした。しかし、慌てていて足がもつれたのか、ものすごい音とともに派手にコケた。
その衝撃で腰をぶつけたようで、涙目になっている。可哀想なのだが、ちょっと可愛い。
「大丈夫か? 理久」
「だ、大丈夫だから……っ」
震える声で答える理久に駆け寄り、その腰を擦ってやると、ビクッと大袈裟なくらい身体が跳ね上がった。理久は大きな瞳に涙を溜めて、真っ赤な顔でこちらを見上げてくる。可愛すぎて萌え死にしてしまいそうだ。
しかもその表情はどこか扇情的で、俺の我慢は限界突破しそうになった。なんとか耐えると、理久をそのまま抱え上げた。抵抗しようとする理久を「これ以上転ばれたら大変だから」という建前のもと、理久の部屋まで運ぶ。
「自分で歩けるよ」
「いいから大人しくしていろ。落ちないよう俺につかまってるんだぞ」
「うぅ……」
無理矢理理久を納得させると、密着した理久の感触を楽しみながら、部屋まで連行した。ゆっくりとベッドの上に理久を降ろして、覆いかぶさってギュウギュウに抱き締めたいのを我慢しながら、毛布をかけてやる。
「顔も赤いし、熱があるんじゃないか? 病院行くか?」
「い、いや、大丈夫だから。ちょっと腰が痛いだけ……」
「……本当に?」
「ほ、本当だって!」
怪訝そうにしている俺に、理久は泣きそうな顔で訴えてくる。まあ、本人がそう言うなら信じるしかない。
理久の頭を優しく撫でてやると、理久は漸く落ち着いたのか、ほんの少しだけ目を細め、表情を緩ませた。こういうところは昔から変わらない。
「……ごめん、玲央にい。ありがと」
少しだけ甘えた口調で、昔の呼び名で囁かれて、俺の心臓は理久に撃ち抜かれた。破壊力が半端ない。
今すぐ理久を抱き締めて窒息するまでキスしたい衝動に駆られる。だが、俺は必死に自制心を働かせる。危ない危ない。
「何か困ったことや悩みがあれば、遠慮なく言ってくれ。理久のためなら、何でもしてあげるから」
「……うん」
理久は困ったように笑いながら、小さく返事をした。
理久に変なムシがつかないように、しっかり俺の手で守らなければならない。俺は密かにそう決意を固めた。
その時の俺は、まだ知らなかったのだ。
俺が理久の『恋人』を知るのは、もう少し時間が経ってからのこととなる。
【終】


