河川敷は、走る人間の呼吸がよく聞こえる場所だ。
川の流れより、肺の音のほうが先に耳に入る。
川口と初めて言葉を交わしたのは、そんな夕方だった。
何度か顔は見ていた。向こうも、俺を見ていたはずだ。
互いに声をかけないまま、距離だけが縮んでいく種類の知り合いだった。
川口は、走っていた。
一定の速度で、同じ靴で、同じフォームで。
数字に置き換えられる努力を、きちんと続けている身体だった。
俺はベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。
走る足音が近づき、遠ざかり、また戻ってくる。
「こんばんは」
彼女が足を止めて言った。
「……こんばんは」
それだけで十分だった。
理由はいらない。
河川敷では、説明が多いほど邪魔になる。
それから川口は、時々、俺の横に座るようになった。
走り終え、息が落ち着くまでの数分。
記録の話はしない。距離も、順位も出てこない。
ただ、黙って水を飲む。
沈黙が苦にならない人間は、
たいてい、問いを抱えている。
「信じたいんです」
ある日、川口が言った。
「でも、怖いんです」
言葉は短かったが、逃げてはいなかった。
俺は頷いた。それ以上、促さない。
彼女の話は、断片的だった。
恋人がいること。
優しいこと。
応援してくれること。
ただし、並んでは走らないこと。
レースの日にはいつも不在で、終わったあとも、いないこと。
彼の理由は、いつもきちんとしている。
「仕事」「用事」「仕方ない」。
どれも嘘ではない。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。川口といいます」
「俺は探偵をしている萬屋だ。よろしく」
探偵という響きに慣れていないらしく、少し驚いた顔をした。
「萬屋さん。あまりものですが、おにぎり食べません?」
「いや、嬉しいね。もらってもいいか」
「もちろん」
食べ物の話から、スマイルさんとホテルに行くとき、弁当を作っていっても、褒めてもらったことがない、という話になった。
「妹みたいだって、言われます」
川口は、苦笑した。
「安心するんだそうです。私が走っていると」
俺は川を見た。
水面は、何も答えない。
そうした時間が、何度も重なっていった。
俺の横に座る時間が増えるにつれ、スマイルさんの名前も、特別なものではなく、会話の中に混じるようになっていった。
そうして迎えた、何度目かの夕方、川口は言った。
「私、考えすぎなんでしょうか」
「考えている人間は、大体そう言われる」
慰めじゃない。
ただの経験則だ。
「自分で考えなくて済む場所に身を置くと、人は楽になる。
正しいかどうかじゃない。
考えなくていい、というのが、いちばん強い」
川口の指が、膝の上で止まった。
要求にだけ応えていれば、スマイルさんは機嫌がいい、と彼女は言った。
「シスコンだけにとどまっているなら、まだいいが……違うんだろう」
俺は続けた。
「問いってのはな、
すぐ答えを出すためにあるもんじゃない。
自分が、その先を引き受けられるかどうか、
そこを確かめるために、残るもんだ」
風が吹いた。
汗の冷えた背中に、川の匂いが触れる。
「ただ、走るのは、悪くない」
俺は言った。
「でもな、
そろそろ、伴走しないやつを、
そのままパートナーって呼び続けるかどうか、
一度、立ち止まって考える頃合いなのかもな」
少し間を置いて、川口のほうを見た。
「優しいな。
お前は、胸の奥で、相手のことばかり考えている。
でも、これから先、成り立たない関係ってのは、
最初から、並んでいない。
相手を守るために、
自分の考えを止めなきゃいけないなら,
それはもう、優しさとは、少し違う。
……手入れしているつもりで、
自分だけ、削っていないか」
川口は、しばらく、うつむいていた。
泣かなかった。
声も震えなかった。
ただ、呼吸だけが、少し乱れた。
「私……
問い続けているつもりでした。
何もいらない、そのほうがいいって」
「大抵のやつは、そう言う」
「でも……萬屋さんの話を聞いて、
わかりました。
考えないように、考えないようにと、
してきたのは、私だったのかもしれません」
川口は、顔を上げた。
「信じ続けようって、自分に言い聞かせながら、
一番、聞いちゃいけないことだけ、
避ける癖が、ついていた気がします」
俺は、何も言わなかった。
それ以上は、毒になる。
日が落ちるころ、川口は立ち上がった。
「また、走ってきます」
「いってこい」
走る背中は、相変わらず一人だった。
だが、さっきまでとは違う。
問いを持ったまま走る人間の背中は、
少しだけ重く、
少しだけ自由だ。
河川敷には、エネルギーがある。
川口はもう、黙って走るだけの人間じゃなかった。
それで十分だ。
選ぶか、立ち去るかは。
「ひとつ、前に歩き出せたか……」
俺は煙草を揉み消し、携帯灰皿に押し込んだ。
川の流れを見送りながら。
川の流れより、肺の音のほうが先に耳に入る。
川口と初めて言葉を交わしたのは、そんな夕方だった。
何度か顔は見ていた。向こうも、俺を見ていたはずだ。
互いに声をかけないまま、距離だけが縮んでいく種類の知り合いだった。
川口は、走っていた。
一定の速度で、同じ靴で、同じフォームで。
数字に置き換えられる努力を、きちんと続けている身体だった。
俺はベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。
走る足音が近づき、遠ざかり、また戻ってくる。
「こんばんは」
彼女が足を止めて言った。
「……こんばんは」
それだけで十分だった。
理由はいらない。
河川敷では、説明が多いほど邪魔になる。
それから川口は、時々、俺の横に座るようになった。
走り終え、息が落ち着くまでの数分。
記録の話はしない。距離も、順位も出てこない。
ただ、黙って水を飲む。
沈黙が苦にならない人間は、
たいてい、問いを抱えている。
「信じたいんです」
ある日、川口が言った。
「でも、怖いんです」
言葉は短かったが、逃げてはいなかった。
俺は頷いた。それ以上、促さない。
彼女の話は、断片的だった。
恋人がいること。
優しいこと。
応援してくれること。
ただし、並んでは走らないこと。
レースの日にはいつも不在で、終わったあとも、いないこと。
彼の理由は、いつもきちんとしている。
「仕事」「用事」「仕方ない」。
どれも嘘ではない。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。川口といいます」
「俺は探偵をしている萬屋だ。よろしく」
探偵という響きに慣れていないらしく、少し驚いた顔をした。
「萬屋さん。あまりものですが、おにぎり食べません?」
「いや、嬉しいね。もらってもいいか」
「もちろん」
食べ物の話から、スマイルさんとホテルに行くとき、弁当を作っていっても、褒めてもらったことがない、という話になった。
「妹みたいだって、言われます」
川口は、苦笑した。
「安心するんだそうです。私が走っていると」
俺は川を見た。
水面は、何も答えない。
そうした時間が、何度も重なっていった。
俺の横に座る時間が増えるにつれ、スマイルさんの名前も、特別なものではなく、会話の中に混じるようになっていった。
そうして迎えた、何度目かの夕方、川口は言った。
「私、考えすぎなんでしょうか」
「考えている人間は、大体そう言われる」
慰めじゃない。
ただの経験則だ。
「自分で考えなくて済む場所に身を置くと、人は楽になる。
正しいかどうかじゃない。
考えなくていい、というのが、いちばん強い」
川口の指が、膝の上で止まった。
要求にだけ応えていれば、スマイルさんは機嫌がいい、と彼女は言った。
「シスコンだけにとどまっているなら、まだいいが……違うんだろう」
俺は続けた。
「問いってのはな、
すぐ答えを出すためにあるもんじゃない。
自分が、その先を引き受けられるかどうか、
そこを確かめるために、残るもんだ」
風が吹いた。
汗の冷えた背中に、川の匂いが触れる。
「ただ、走るのは、悪くない」
俺は言った。
「でもな、
そろそろ、伴走しないやつを、
そのままパートナーって呼び続けるかどうか、
一度、立ち止まって考える頃合いなのかもな」
少し間を置いて、川口のほうを見た。
「優しいな。
お前は、胸の奥で、相手のことばかり考えている。
でも、これから先、成り立たない関係ってのは、
最初から、並んでいない。
相手を守るために、
自分の考えを止めなきゃいけないなら,
それはもう、優しさとは、少し違う。
……手入れしているつもりで、
自分だけ、削っていないか」
川口は、しばらく、うつむいていた。
泣かなかった。
声も震えなかった。
ただ、呼吸だけが、少し乱れた。
「私……
問い続けているつもりでした。
何もいらない、そのほうがいいって」
「大抵のやつは、そう言う」
「でも……萬屋さんの話を聞いて、
わかりました。
考えないように、考えないようにと、
してきたのは、私だったのかもしれません」
川口は、顔を上げた。
「信じ続けようって、自分に言い聞かせながら、
一番、聞いちゃいけないことだけ、
避ける癖が、ついていた気がします」
俺は、何も言わなかった。
それ以上は、毒になる。
日が落ちるころ、川口は立ち上がった。
「また、走ってきます」
「いってこい」
走る背中は、相変わらず一人だった。
だが、さっきまでとは違う。
問いを持ったまま走る人間の背中は、
少しだけ重く、
少しだけ自由だ。
河川敷には、エネルギーがある。
川口はもう、黙って走るだけの人間じゃなかった。
それで十分だ。
選ぶか、立ち去るかは。
「ひとつ、前に歩き出せたか……」
俺は煙草を揉み消し、携帯灰皿に押し込んだ。
川の流れを見送りながら。


