人は、怪我をすると静かになる。
正確には、静かにならざるを得なくなる。
骨が折れるというのは、音のする出来事だ。
だが、そのあとの時間は妙に無音が続く。
身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。
考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入っていたのは、古いが掃除がいきとどいた総合病院だった。
廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。
怪我人と病人と、そのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。
俺は相談を受けた女をかばって、転んだだけさ。
よくある話だ。派手じゃない。
ただ、間に入った人間が、骨をやった。それだけだ。
松雪と出会ったのは、その病棟だった。
最初に気づいたのは、声だった。
よく通る声だが、張り上げる種類の声じゃない。
誰かに甘えるための声でもない。
要件を済ませるための、短くて迷いのない声だった。
看護師と必要な言葉だけを交わし、書類を受け取り、頷く。
動きに無駄がない。感情を挟まない手つきだ。
その隣に、年配の女性がいた。
松雪の母親だった。
同室だった。
共通点は、骨折しているという一点だけ。
理由も経緯も違う。
俺は、他人事に首を突っ込んだ結果。
母親は、自宅の階段。
だが、病室ではそういう違いは意味を持たない。
どちらも「回復する予定の人間」という括りで、同じようにベッドに並ぶ。
松雪は、毎日来ていた。
来て、やることをやり、帰る。
見舞いというより、業務に近い。
洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものをメモする。
感情を挟まない。
強い人間だと、誰もが思うだろう。
俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前で、偶然並んだ。
俺は缶コーヒーを選び、彼女は水のボタンを押した。
「毎日来てるな。大変だろ」
「ええ」
それだけだった。
余計な説明はなかった。
その翌日も、その次の日も、顔を合わせる。
挨拶が増え、言葉が一つ増え、二つ増える。
俺が先に退院した。
松雪の母親は、もう少しかかると言っていた。
骨折は治る。
時間をかければ、元に戻る。
誰もが、そう信じている。
退院してから、しばらくして、松雪が事務所に来た。
名刺を渡した覚えはない。
病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
彼女は、理由を多く語らなかった。
ただ、「話がしたい」と言った。
最初の相談は、曖昧だった。
恋人の話。優しい人だという。
感じがよく、嘘はつかない。怒鳴らない。
ただ、決まった話題になると、消える。
指輪の約束。親。将来。
「強いから、大丈夫だと思って」
彼は、そう言うらしい。
松雪は、その言葉を否定しなかった。
否定しない代わりに、受け取ってしまう。
それが、彼女の癖だった。
彼の名前が、頭に残った。
……スマイルさんな。
それから、松雪は何度も来た。
週に一度のときもあれば、三日続くこともあった。
話す内容は、彼の不在。我慢と沈黙。
「考えすぎ」と彼に言われたこと。
俺は、正解を言わない。
探偵は、答えを出す仕事じゃない。
見失わないようにする仕事だ。
ある日、松雪の母親が退院した。
それから、数か月後。
再入院。
今度は、骨じゃなかった。
進行は早かった。
説明は淡々としていて、選択肢は少なかった。
あっという間だった。
葬儀の日、彼は来なかった。
連絡もなかった。
その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考えにふけった。
間を置いて、言った。
「なあ。
身内の不幸に来られねぇやつってのは、
どうなんだ」
責める口調じゃない。確認しただけ。
松雪は、答えなかった。
ただ、視線を落とした。
四十九日まで、彼は現れなかった。
松雪は考えを整理するためか、事務所に来て、同じ話を何度も自分から問い直しをしているようだった。
俺は、同じところで頷いた。
ある日、こう言った。
「楽だったろ。
決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな」
俺は続けた。
「でもな。
誰かの都合で生きるってのは、
考えなくていい代わりに、
自分の人生を預けるってことだ」
沈黙が落ちた。
「それでもいいなら、続けりゃいい。
ただ、それはもう、
自分の人生じゃねぇ」
松雪は、泣かなかった。
強いからじゃない。
耐えてきた自分との対話をし始めたからだ。
考えるというのは、苦しい。
だが、止まるよりはいい。
彼女は、まだ別れない。
別れる準備もしていない。それでいい。
もう我慢をするだけの自分には戻れない。
それだけで、十分だ。
俺はくわえていた煙草に火をつけた、窓を開けた。
外は静かだった。
正確には、静かにならざるを得なくなる。
骨が折れるというのは、音のする出来事だ。
だが、そのあとの時間は妙に無音が続く。
身体を動かすたびに、どこかで何かが引っかかる。
考える速度も、歩く速度も、いやおうなく落ちる。
俺が入っていたのは、古いが掃除がいきとどいた総合病院だった。
廊下は長く、昼でも夜でもどこか薄暗い。
怪我人と病人と、そのどちらでもない付き添いが、同じ速度で行き交う場所だ。
俺は相談を受けた女をかばって、転んだだけさ。
よくある話だ。派手じゃない。
ただ、間に入った人間が、骨をやった。それだけだ。
松雪と出会ったのは、その病棟だった。
最初に気づいたのは、声だった。
よく通る声だが、張り上げる種類の声じゃない。
誰かに甘えるための声でもない。
要件を済ませるための、短くて迷いのない声だった。
看護師と必要な言葉だけを交わし、書類を受け取り、頷く。
動きに無駄がない。感情を挟まない手つきだ。
その隣に、年配の女性がいた。
松雪の母親だった。
同室だった。
共通点は、骨折しているという一点だけ。
理由も経緯も違う。
俺は、他人事に首を突っ込んだ結果。
母親は、自宅の階段。
だが、病室ではそういう違いは意味を持たない。
どちらも「回復する予定の人間」という括りで、同じようにベッドに並ぶ。
松雪は、毎日来ていた。
来て、やることをやり、帰る。
見舞いというより、業務に近い。
洗濯物を回収し、医師の説明を聞き、必要なものをメモする。
感情を挟まない。
強い人間だと、誰もが思うだろう。
俺もそう思った。
話すようになったのは、廊下の自販機の前で、偶然並んだ。
俺は缶コーヒーを選び、彼女は水のボタンを押した。
「毎日来てるな。大変だろ」
「ええ」
それだけだった。
余計な説明はなかった。
その翌日も、その次の日も、顔を合わせる。
挨拶が増え、言葉が一つ増え、二つ増える。
俺が先に退院した。
松雪の母親は、もう少しかかると言っていた。
骨折は治る。
時間をかければ、元に戻る。
誰もが、そう信じている。
退院してから、しばらくして、松雪が事務所に来た。
名刺を渡した覚えはない。
病院のどこかで、俺が探偵だと知ったのだろう。
彼女は、理由を多く語らなかった。
ただ、「話がしたい」と言った。
最初の相談は、曖昧だった。
恋人の話。優しい人だという。
感じがよく、嘘はつかない。怒鳴らない。
ただ、決まった話題になると、消える。
指輪の約束。親。将来。
「強いから、大丈夫だと思って」
彼は、そう言うらしい。
松雪は、その言葉を否定しなかった。
否定しない代わりに、受け取ってしまう。
それが、彼女の癖だった。
彼の名前が、頭に残った。
……スマイルさんな。
それから、松雪は何度も来た。
週に一度のときもあれば、三日続くこともあった。
話す内容は、彼の不在。我慢と沈黙。
「考えすぎ」と彼に言われたこと。
俺は、正解を言わない。
探偵は、答えを出す仕事じゃない。
見失わないようにする仕事だ。
ある日、松雪の母親が退院した。
それから、数か月後。
再入院。
今度は、骨じゃなかった。
進行は早かった。
説明は淡々としていて、選択肢は少なかった。
あっという間だった。
葬儀の日、彼は来なかった。
連絡もなかった。
その話を聞いたとき、俺は煙草に火を点けずにくわえたまま考えにふけった。
間を置いて、言った。
「なあ。
身内の不幸に来られねぇやつってのは、
どうなんだ」
責める口調じゃない。確認しただけ。
松雪は、答えなかった。
ただ、視線を落とした。
四十九日まで、彼は現れなかった。
松雪は考えを整理するためか、事務所に来て、同じ話を何度も自分から問い直しをしているようだった。
俺は、同じところで頷いた。
ある日、こう言った。
「楽だったろ。
決めなくていい関係は」
彼女は、少しだけ笑った。
「……楽でした」
「だろうな」
俺は続けた。
「でもな。
誰かの都合で生きるってのは、
考えなくていい代わりに、
自分の人生を預けるってことだ」
沈黙が落ちた。
「それでもいいなら、続けりゃいい。
ただ、それはもう、
自分の人生じゃねぇ」
松雪は、泣かなかった。
強いからじゃない。
耐えてきた自分との対話をし始めたからだ。
考えるというのは、苦しい。
だが、止まるよりはいい。
彼女は、まだ別れない。
別れる準備もしていない。それでいい。
もう我慢をするだけの自分には戻れない。
それだけで、十分だ。
俺はくわえていた煙草に火をつけた、窓を開けた。
外は静かだった。


