浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク

 久美子と最初に会ったのは、俺が潜伏していた時だった。あの頃の俺は、大学の構内に紛れ込んでいた。学生でも職員でもない。誰に見られても、研究室の助手か、業者の一人にしか見えない位置を選んで歩いていた。姿を消すより、いないように見えるほうが性に合っている。久美子は、その大学で開かれていた学会に、自分の勉強のために来ていた。堅い資料を抱え、時間ぴったりに席に着く。隣同士になったのが、知り合ったきっかけだった。最初に交わした言葉は、どうでもいい世間話だったと思う。だが、妙に馬が合った。気づけば互いに余計なことを話すようになり、いつの間にか、親友と呼べる距離にいた。
「もしもし、久美子です」
「お疲れ。どうした」
「マイクさん、都内に来ることって、あります?」
「用はないけど、出るか」
「わざわざ来ていただくのは、申し訳ないので」
「いいよ。迎えに行く」
仕事終わりの久美子を拾って、恵比寿で飯を食うことになった。探偵という仕事に興味津々らしく、話せる範囲だけ、いつ会ってもあれこれ聞かれた。その流れで、内々の話だが、久美子が珍しく仕事の愚痴をこぼした。政策が数字で並ぶ表を前に、トップが指で一本の線をなぞる。
「ここまでにしてちょうだい」
それで終わりだ。そこまで効果が出たことにしろ、という暗黙の命令。久美子は、それを汲み取り、形にして提出する。そんな役回りだった。上級職の試験を通り、周囲からはエリートと呼ばれていたらしい。だが彼女は言った。改ざんされた数字ばかりでは、成功に見える政策も、現場では何も変わらない。その違和感が、日に日に積もっていったのだ。

 久美子は、ある日あっさりと仕事を辞めた。もちろん、秘密保持の念書は書かされた。辞めただけなら、まだよかった。優秀すぎるがゆえ、機密を漏らすんじゃないか。やっかんだ上司から、そんな疑いをかけられ、監視がついた。出張で泊まったビジネスホテルに、掃除屋が来た。手際のいい連中だった。事故に見せる段取りも、ほぼ整っていた。久美子が生きているのは、俺が空気の異変に勘づいたからだ。俺は電話をかけた。
「久美子!廊下であった誰でもいいから女性に頼み込んで部屋にいれてもらえ。すぐに迎えに行くから」
俺は迎えに行き変装をさせ外に出した。助けてくれた女性には少しの金を渡し、元カレがしつこいからかくまってくれてありがとう、と礼を言った。助けたあと、久美子は妙に落ち着いていた。泣きもしなければ、訴える素振りも見せなかった。逃げている間にあれこれかんがえていたんだろう。遊んでいるだけの振りをして、何もしない。そのほうが生き残る確率が高いと、考え、ひとつの賭けに出た。久美子いわく、アホアホ作戦という暴走プランだ。歌舞く温泉旅行三昧。しかも俺は探偵業をしている。プロも、下手には手を出せない。失敗すれば、いろいろと表に出てしまうからだ。

 それから半月、山形の旅館を転々とした。昼は温泉、夜は地酒。歌舞く旅行と言えば聞こえはいいが、要は逃げ回っていただけだ。久美子は、よく食べ、よく寝た。湯に浸かり、何も考えない時間を、体が思い出していくのが分かった。
「マイクさん、私、小説家になろうかな」
「やめとけ。頭が堅すぎるから小説もカッチカチだよ」
「温泉につかりながら執筆活動。いいと思いますが。じゃあ、明日、お釜を見に行きません?」
「ああ、いいよ。蔵王だな」
酒田では、海を眺めながら花火をした。久美子は、失った何かを、静かに充電しているように見えた。追手は、次第に薄れていった。来られなかったのか、来る価値がなくなったのか。その違いは、俺にとってはどうでもよかった。
「マイクさん、本当に、ありがとうございました」
「なんだよ、急に」
「帰りましょう」
「もう、いいのか」
「はい」
さくらんぼを山ほど買って埼玉に戻った頃には、久美子の表情は、少し柔らいでいた。

 行き場がないなら、うちに来ればいい。俺がそう言った。久美子は事務所のドアを開け、何も言わずに掃除を始めた。こうして、月曜から金曜まで, 定時四時間。俺の事務所に、パート事務探偵が誕生した。
「時給1000円でどうですか?」
「俺がどっかでバイトしなきゃいけねぇじゃん」
「本業で稼いでください」
「内職の広告捨てなきゃ良かった」
本人は事務員のつもりだろう。だが町は、案外そういう人間に助けられて回っていく。俺は煙草に火をつけた。世の中は、波乱万丈だ。少なくとも、久美子は生きている。