月雫は目を覚ました。
むっとした暑さがわだかまった剥き出しのアスファルトの上に転がされていた。
意識が朦朧としながらも、月雫はここが新宿のタワーマンションではないことをすぐに悟った。
夏の日暮れで周囲は薄暗い。
両手は後ろ手に拘束されていた。
イモムシのようにもそもそと身体を動かして起き上がると、自分がいるのが打ち捨てられた廃墟のような場所だとわかった。
工場の跡地だろうか、面積は広大で、朽ちた機械のようなものも見え、出入り口は破壊されて誰でも侵入することができる荒れ果てた、人殺しをするのにもってこいな立地であった。
「いって……」
勇斗の声にはっと隣を見ると、同じように拘束された勇斗が上半身を起こして呻いているところだった。
「勇斗!
大丈夫?」
月雫が這うように勇斗のもとへ寄っていくと、顔面をしたたかに殴られたあとが、早くも青痣に変色している。
「月雫……」
唇の端が切れて血が滲んでいた。
「勇斗!勇斗!」
月雫が泣き叫んでいると、「やっと起きたか」とよく知る声が降ってきた。
見上げると、勇斗とまったく同じ顔をした男──高級ブランドのスーツに身を包んだ徳山遥斗が自分を見下ろしていた。
「……遥斗さん……」
遥斗の隣には、倫子が立っている。
「……倫子、さん?」
倫子は血が通っていないロボットのような無慈悲さで告げる。
「誰も助けにきませんよ。
どれだけ騒いでも無駄です。
想さんは新宿に向かったでしょうから」
「倫子さん……あなた、遥斗さんの……?」
「ええ、私は遥斗さん側の人間です」
「……は、え……?」
混乱のあまり言葉を見失う月雫に、勇斗が吐き捨てた。
「無駄だ、月雫。
竜野倫子は遥斗の仲間だ」
月雫は零れそうなほど限界まで目を見開く。
「仲間……?
倫子さんが、遥斗さんの?」
「『聖なる鉄槌』の情報が遥斗側に漏れていただろう。
おかしいと思っていたんだ」
「……え?
だって、遥斗さんと繋がってたのは、乾さんじゃ……?」
月雫が働かない頭を必死で回転させていると、勝ち誇った顔で冷笑しながら倫子が小首を傾げる。
「あら、察しがいいんですね。
いつから私を怪しいと思っていたのですか?」
「……久保に会いに行った日、アイスコーヒーを俺たちに渡しただろう。
味がおかしかった。
あれを飲んですぐに、まなさんも含めて、俺たちは熟睡してしまった。
そのあと、久保から引き出したデータが消えていた。
おおかた、あんたが俺のスマホからデータを消したかウイルスに感染させたんだろう」
倫子が哄笑した。
今までに見せたことのない、邪気をはらんだ作り笑顔だった。
「ご名答。
さすが、遥斗さんの弟ですね」
「……倫子さん、本当に……」
涙ながらに見上げてくる月雫にも、倫子は嫌らしい笑みを引っ込めない。
「信じて……いたのに」
冷たいのに、妙に面倒見がいい倫子。
無愛想なのに優しさが隠せなかった倫子。
ちょっとだけ、笑ってくれた倫子。
「なんで……なんでなの……」
「しつこいですね、簡単な話じゃないですか。
私が弱いからこんなことになったのです。
だから、私は強くなる。
支配される側じゃなくて、支配する側になる。
搾取される側からする側になる。
いじめられる側からいじめる側になるのです」
「だからって、遥斗さんの仲間になるなんて!
遥斗さんは倫子さんのご両親を殺した犯人なんですよ?
どうして、そんな人と手を組めるんですか!」
「言ったはずです、強くなると。
どんなに恨んでも親は帰ってきません。
これからの人生を生きるためには私は自力で強くなるしかありません。
ならば、絶大な権力の持ち主である遥斗さんの仲間になることは、ごく自然なことでは?」
「そんなの間違ってます!
犯罪者が強いわけないじゃないですか!
ただ暴力を振りかざして弱い人を支配する人を『強い』だなんて、わたしは認めません!」
「あなたに認められる必要はありません」
そう突き放すと倫子はもう月雫の方を見ようとはしなかった。
「さて、そろそろ頃合いだ。
勇斗、お前は反社の抗争に巻き込まれて死ぬ、そういうことになる」
遥斗が余裕しゃくしゃくに勇斗を睥睨する。
月雫たちを取り囲むように、10数人のいかつい男たちが思い思いの武器を手ににやにやと薄汚い笑みを貼り付けてこちらを見ていた。
月雫の背筋に怖気が駆け抜ける。
──本気だ。
「お前には感謝してるよ、勇斗。
俺の代わりに罪を被ってくれてさ。
お前は俺の自慢の弟だよ。
でも、もういらない」
「口封じってか?」
「その通り」
勇斗そのものの顔で嗤われるたびに月雫は寒気を覚えた。
「倫子さん……目を覚ましてください。
遥斗さんに騙されないで!」
「少し黙っててくれないか」
遥斗が懐からサバイバルナイフを取り出して、勇斗の顎に突きつける。
「やめて、やめてください、遥斗さん!
倫子さん、止めてください!」
必死の訴えも届かず、倫子は遥斗が弟を傷つけるのを眺めるだけだった。
「倫子は優秀な部下だからね、俺の命令は絶対なんだ。
あの渋沢とかいうガキが俺のこと嗅ぎ回っていると言うから、情報収集のために倫子を潜入させた。
正解だったよ、あいつらは、俺の正体に近づきつつあった。
だが、俺の方が一枚上手だったな。
倫子が裏切り者だなんて、思いもしなかっただろう?」
勇斗の首すじに当てられたナイフの切っ先が肌に赤い線を刻んでいく。
つ、と血が一筋流れる。
「月雫、お前は俺とこい」
「……え?」
思いも寄らない遥斗の言葉に月雫が呆気にとられる。
「わたしも、殺すんじゃ……?」
「いいや、お前はこんなカスと一緒にいるべき女ではない。
俺の妻になれば一生遊んで暮らせる生活が送れる。
俺の将来は約束されているんだ、お前はただ、俺のために綺麗に化粧して、好きなだけ着飾っていればいい。
どうだ、夢のような人生だろう」
うっとりと夢を語る遥斗に、勇斗が吠えた。
「俺をカスにしたのはお前だろうが!」
遥斗が温度のこもらない視線で勇斗を見下ろす。
「お前、俺に逆らうのか?」
「ああ、逆らう。
もう俺は、お前が知っている俺じゃないんだ。
お前に好き勝手にされる道具じゃない」
反抗的な勇斗の睨みが気に障ったのか、遥斗が勇斗の顎を蹴り上げる。
勇斗が声にならない呻きを漏らす。
「お前……」
それでも勇斗は遥斗を睨むのをやめない。
「月雫を手に入れるのが目的だったのか……。
それで、邪魔な俺と悟を始末するつもりで……」
遥斗は顎に手を当て、冷笑しながら言った。
「それもあるが、たまった鬱憤を晴らすのにちょうどよかったよ。
ちょっと殴ったくらいで子どもってあんな簡単に死ぬんだな」
「お前……!」
拘束されたままの姿勢で、首を伸ばして勇斗が遥斗に迫る。
「もういいだろ、話すのも面倒になってきた。
どうせお前はすぐに死ぬんだ、こんな話を続けても建設的じゃない。
お前が死ねば月雫は俺のものになる」
勇斗が血にまみれた唇の端を上げてみせる。
「……月雫はお前になんかやらねえよ」
遥斗が呆れたように苦笑いした。
「月雫は、すぐに俺を選んでよかったと思うようになる」
「なりません!」
月雫の悲痛な叫びを無視し、遥斗が一歩下がり、控えていた男たちに合図を送る。
万事休す。
月雫が絶望と諦念に瞳を閉じたそのとき、「もういいでしょう」と廃墟に声が轟いた。
その場にいた全員が、背後を振り向いた。
半分ほど降りたシャッターから漏れる外の明かりを背に、暗がりに立っていたのは想だった。
「渋沢想……新宿に行ったんじゃなかったのか」
呻くような低い声で遥斗が苦々しげに想を睨めつける。
「はったりですよ。
あなた側がぼくたちの会話を日常的に盗聴していたのは知っていましたから、乾とちょっと演技をした、それだけです。
ぼくは最初から、倫子のスマホのGPSを頼りにあなたたちの行動を把握していました」
「……はあ?
倫子のスマホ?」
遥斗が無表情に佇む倫子へと視線を送る。
すると、倫子がブラウスの第2ボタンを指さす。
「カメラを仕込んであります。
あなたがここに到着してからの映像はすべて撮ってありますよ。
今日はどうしたんです、油断したのですか。
右目が青いですよ」
倫子に指摘され、遥斗がはっと片手で右目を覆う。
「もう、遅いですけどね、撮っちゃいましたから」
「倫子、お前……!
裏切ったのか!」
「裏切ってなど……。
私は最初からあなたに復讐するために近づいた。
あなたの居場所を把握しつつ、とり逃さないために協力するふりをしていた、それだけのことです」
「それを裏切りだというんだ!
日本語もわからないのか、お前は、クズだな!」
遥斗がはじめて冷静さを失い、苛立ったように髪をかきむしる。
「どういうことだ……いつから……」
想がゆっくりと遥斗に近づいてきて、スマホの画面をかざしてみせた。
そこから、久保に送らせた盗撮動画の映像と音声が流れる。
「それ……消去したはずじゃ……」
「田辺佐知子さんには倫子が極秘で接触しスマホを貸していただき、あなたたちが乗っ取って消去したデータを取り出しました。
久保達夫さんから送っていただいた証拠データは、乾が復元してぼくの手元にあります。
乾の腕のほうがあなたが雇ったハッカーより優秀だった、ということのようです。
よい人材を送り込んでくださった遥斗さんには感謝しますよ。
倫子が撮影したあなたのこれまでの凶行を合わせれば、立派な犯罪の証拠になるでしょう」
遥斗がサバイバルナイフを想へと向ける。
想は意に介さず平然と話を続けた。
「これらの証拠映像は、警察ではなくテレビ、ラジオ、SNSなどのメディアに流します」
想の脅しに、遥斗が壊れたように高笑いして血走った目で想を捉える。
「ここにいる全員を殺せばすむ話だ!
お前ら、殺せ、殺せ!」
一斉に武器を構える男たちに対して、想は怯むでもなく、柔らかに微笑むと、手元に目を落とし、おどけたように笑ってみせた。
「あ、すみません、手が滑ってうっかりデータを送信してしまいました。
今頃メディアにあなたの犯罪の証拠が渡ったころでしょうか」
「てめえ!」
遥斗は完全に我をなくしていた。
「ふざけやがって、お前ら全員道連れだ!
殺してやる、殺してやる!」
しかし、遥斗が激昂すればするほど、周囲にいた仲間のはずの男たちの腰が引けていく気配がする。
「お前ら、やれ!」
遥斗が命令すると、男たちが一目散に駆け出し、廃墟から逃走した。
「おい、お前ら、どういうつもりだ、待て!」
「あんたと心中するつもりはねえよ!」
去り際、シャッターを潜りながら男が声を投げ捨てていく。
男たちの足音が消え、廃墟に妙な静寂が訪れたあと、想は静かに言った。
「もう終わりです、徳山遥斗。
罪を償いなさい」
がくりと遥斗が膝を落とす。
観念したように見えた、そのとき、逆上してやぶれかぶれになった遥斗が勇斗に向かってサバイバルナイフを振り上げた。
「死ねええええ!」
暴行を受け、さらには拘束された状態で攻撃をかわすことも叶わなかった勇斗は、呆然と自分に振りかざされる凶器の軌跡を眺めることしかできなかった。
「勇斗!」
直後、勇斗は強い力で吹き飛ばされ、後ろにごろごろと転がった。
はっと顔をあげると、遥斗が呆然自失のていで埃っぽい床に倒れている月雫を見下ろしていた。
「月雫……?」
「月雫さん!」
なにが起きたのかわからずにいる勇斗と、慌てて月雫に駆け寄る想と倫子の叫び声が交錯する。
「まなさん、遥斗を拘束してください!」
「はいよ!」
すると、どこに隠れていたのかまなが飛び出してきて、魂が抜けたように脱力する遥斗を制圧する。
遥斗の手には鮮血がこびりついていた。
「月雫?
おい、月雫?」
勇斗が這いながら月雫に近づくと、「痛い……」と月雫のか細い呻きが聞こえてきた。
倒れた月雫の脇腹にサバイバルナイフが突き刺ささっているのが確認できて、勇斗は目を見開き貧血を起こしたようにぐらりと身体を揺らした。
「つ……月雫、月雫!」
それ以外言葉にならない。
「倫子、救急車を、早く!」
倫子がうなずいてスマホを取り出して月雫から少し距離を取ると、助けを求める要請をした。
月雫は苦痛に表情を歪めている。
脇腹からはどくどくと生温かい血が一筋伝っていく。
「なんでだ、なんでそんなカスをかばえる……。
死ぬかも、しれないんだぞ、そんな価値が、命をかける価値が、勇斗にあるのか?」
まなに抑えつけられた遥斗がうわ言のように言葉を零す。
それに答えたのは、息も絶え絶えの月雫の細い声だった。
「遥斗さん、あなたになくて勇斗にあるもの……。
それは真の愛情です。
自分の命を賭して守りたいと思える存在……。
それが夫婦です。
それが、わたしと勇斗です。
あなたが壊せないほど強く、わたしたちは魂で結ばれている……。
絆がある……。
あなたには、一生かかってもわからないでしょうね。
愛を知らないなんて、不幸なひと」
月雫は口の端を持ち上げてみせた。
月雫からの思いもよらぬ反撃に、遥斗は打ちひしがれて抵抗する気も失せたのかうなだれた。
「月雫、もういい、もう喋らなくていいから、頼むよ」
勇斗が月雫に額を擦り寄せ懇願する。
「勇斗……」
月雫は強がるように、勇斗を安心させるように、荒い呼吸の隙間に微笑んでみせる。
遠くからサイレンの音が聞こえはじめたとき、月雫は意識を手放した。
☆
「すみませんでした」
強い日差しが白い壁に乱反射する病室で、パイプ椅子に腰かけた想が頭を下げた。
上半身を起こしベッドに身を預けた月雫は、微笑みながら首を振った。
「これは、わたしが自分の意志でやったことですから。
気づいたら身体が勝手に動いていた、それだけなんです」
月雫は、手術によって傷口が閉じられた脇腹を撫でながら穏やかに答えた。
「倫子が裏切り者ではないことは、はじめからお伝えするべきでした。
遥斗に怪しまれないため、月雫さんと勇斗さんにも黙っていたわけですが……」
「確かに、はじめから倫子さんが味方だと知っていたらわたしたちだと不自然な態度を取ってしまったかもしれません。
そうしたら、倫子さんが遥斗さんに疑われたかもしれない……。
倫子さんが疑われたら元も子もないですものね。
バレたら犯罪の証拠を消されたかもしれない。
倫子さんの命だって、ひょっとしたら……。
想さんの考えは間違っていません。
すっかり敵だと思ってひどいことを倫子さんに言ってしまったことは謝りたいですけど」
「それに関しては心配ありませんよ。
こういうのは変な言い方かもしれませんが、ぼくも倫子もある意味プロですから。
憎まれ役が必要ならその役割りを演じる……ただそれだけなんです。
月雫さんが気負う必要はありませんよ。
でも、もし心の整理がつかないのなら、ぼくから倫子に伝えておきます」
「……もう、倫子さんやみなさんには、お会いできない、ということでしょうか?」
想は静かに笑んでうなずく。
「徳山遥斗は逮捕されました。
現職の警察官の起こした前代未聞の犯罪としてメディアをにぎわせています。
ぼくたちの役目は終わりましたから。
あとは、月雫さんたち被害者が遥斗にどんな罰を下すのかを決めるんです。
ぼくたちはもう関係ありません」
「絵里香さんや、青山さんは……」
想はレースのカーテン越しに降り注ぐ夏の日差しを背中に受けながら、首を横に振った。
「田辺さんや久保さんも含めて、司法が刑罰を下します。
月雫さんと勇斗さんが、ご自身たちの手で復讐を遂げることを選びませんでしたからね」
月雫は複雑な胸の内が表情に現れるのを隠しもしない。
「そうですか……みなさん」
少しうつむいたあと、ぽつりと月雫が零した。
「あの、謝礼をしたいのですが」
想は驚いたように目を丸くした。
そんな日本語、生まれてはじめて聞いた、そんな月雫がたじろいでしまうような驚きようだった。
「ぼくたちの活動は営利目的ではありません。
依頼人たちの復讐を手伝う、そのためだけに存在します。
いわばボランティア、そんなふうに考えてください」
「無償で、ここまで……」
すると、ちら、と腕時計を確認した想が、聞いてくれますか、と前置きして話しはじめた。
「月雫さんは、ぼくの過去に興味がおありのようでしたので、そのお話しをさせていただければと思うのですが」
「あ、はい、そうでした」
想は変わらない穏やかな笑みをたたえたままの表情で自分を納得させるように小さくうなずいた。
それが作り物の仮面めいて見えて、月雫はその仮面の下に隠された想の本性を聞くことが少し怖くなった。
ゆっくりと想が口を開く。
「ぼくは幼いころから、実の両親に虐待されて育ちました。
身体的、心理的、どちらもです。
それでも、ぼくは自分の置かれた環境が異常だとは気づきませんでした。
両親を愛していたし、また愛されたいと思いました。
両親に愛されないのは、自分が悪い子だから、そう思い込んで、必死に両親の望む『良い子』になろうと努力しました。
愛されたかった、その一心でした。
しかし、成長し外の世界に触れたとき、はじめて知りました。
ぼくの家庭は普通ではないのだと」
そこで一旦言葉を区切り、想は深く息をついて続けた。
その様がなんだか痛々しくて月雫も息が苦しくなる。
「小学6年生のときです。
日常的な虐待で麻痺していたぼくは、虐待に気づいた当時の担任教師に両親と離れて暮らすべきだと言われました。
虐待に気づいてくれたはじめての大人でもありました。
そこで、ぼくはようやく目を覚ましたのです。
虐待されるのは、ぼくが悪いからではないのだと。
気づいてしまえばあとからあとから憎しみが生まれて、ぼくはその感情に溺れそうでした。
行政によって一時保護され、両親とは別々に暮らすようになりましたが、ぼくは両親を許せなかった……。
そして、14歳のとき、ぼくは両親の住む家に放火しました」
月雫が息を呑む。
それに気づきつつも、想は表情を変えることなく話を進めた。
「両親は死亡し、ぼくは復讐を果たしました。
その後裁判を経て、少年院に送致されました。
虐待の被害者という事情も加味され、拘束期間は1年と、殺人罪にしては軽い刑罰でぼくは外の世界に戻ってきました。
そこで思い知らされたのは、ぼくは弱者だということでした。
弱いから搾取される側に分類されてしまった。
社会には、ぼくのように弱いという理由だけで支配される人間がいる……。
弱いがゆえに殺人まで犯してしまったぼくは、同じように苦しんでいる人を助けられるのではないか、助けることが、社会復帰したぼくの使命なのではないかと思いはじめたのです」
窓から差し込む日差しに月雫が目を細める。
「まず準備段階として、少年院で知り合った非行少年のつてで情報屋になり裏社会に人脈を作ることにしました。
そこには加害者も被害者もいて、救いのない世界でした。
殺人を犯した人間という過去を手土産にすると、ぼくはすんなりと受け入れられました。
弱い者を害して罰を受けない人間に強い恨みを持ち、そいつらに復讐を望む人の手助けをしよう、そう誓って『聖なる鉄槌』を立ち上げました。
ぼくのように、弱い人が虐げる側の人間に鉄槌をくだせるための場所を作りたかった……」
どこか迷子の子どものように途方に暮れた顔で想がうつむいた。
「メンバーは、ぼくが直接出向いて面談して手を貸してもらえないかと協力を頼みました。
ぼくと同じように虐げられた過去を持ち、人殺しまでもできる度胸があり、そしてときには冷酷になれる人をさがしました」
いつか倫子が語った自身の過去を思い出す。
「……逃げる、ための場所でもあったんですよね?」
想は少し目を見開くと、綺麗に唇を微笑みの形にした。
「ええ、『聖なる鉄槌』は、苦境にいたメンバーが身を寄せ合う場所でもありました。
これまでにも、数十人が『聖なる鉄槌』に属し弱者を救うために尽力しました。
彼らは償いの機会を欲し、誰かを救うことで罪悪感をひとつひとつ解消していき、自分が納得するまで活動したあと、『聖なる鉄槌』から去っていきました。
ぼくたちがしていることは、自己満足でもあるのです。
それでも、誰かの役に立てるなら、動機が不純でもいいのではないか、ぼくはそう思っています」
そうですね、と月雫が顎を引く。
「実際、わたしたちは想さんをはじめ、みなさんに助けられました。
遥斗さんに対する復讐も果たせた。
想さんたちの理念は、とても崇高だと思います」
そのとき、とんとんと、ドアをノックする音が響いた。
返事を待つでもなく、ドアがスライドして開けられる。
顔を出したのは、真っ白いガーゼを顔中に貼り付けた痛々しい出で立ちの勇斗だった。
すっと想が立ち上がる。
「ん、なんか大事な話の最中だったか?」
呑気な勇斗に対して、月雫が苦笑した。
「想さん、勇斗に怪我させたこと、まだ後悔してるみたいなの」
勇斗が怪訝そうに片眉を持ち上げてみせる。
「まだそんなこと気にしてるのか?」
「勇斗さんと月雫さんに怪我をさせてしまったことは、ぼくたちの落ち度です。
本当に、申し訳ありませんでした」
深く頭を垂れる想に、「もういいって言ってるのにね」と月雫が困ったように勇斗に笑いかける。
「では、ぼくはそろそろ帰ります」
「え、もう行っちゃうんですか?」
「ええ、お話ししたいことは伝えられましたから。
月雫さん、勇斗さん、どうかこれからは、ぼくたちと関わることのない人生を送ってください」
「もう会えないんですね、想さんたちと」
月雫の声には一抹の寂しさが滲んでいる。
「ぼくたちとはもう二度と、会わないほうがいい。
どうかお元気で」
再び頭を下げる。
そして、にっこりと笑った。
「ぼくたちは、弱いことを免罪符にして他人を害しました。
どれだけ弱くとも、被害者であろうとも、人を殺すほど傷つけることは、誰にも許されません。
そのことはぼくたちが一番よくわかっています。
なので過ちを清算するためにぼくたちはこれからも誰かを救い、誰かを罰します」
想の声音には覚悟と揺るぎない決意がこもっていた。
「ぼくたちのしていることは、間違っているとも、本当はわかっているんです。
ぼくたちには、誰をも罰する資格なんてない。
それでも、そうやって生きていくしか、ぼくたちが救われる道はありません」
月雫と勇斗の顔を交互に見比べると、想がひときわ力強い張りのある声で宣言した。
「でも、月雫さんと勇斗さんは、ぼくたちとは違います。
おふたりは強い。
決して弱者ではありません。
羨ましいくらいの強い絆で結ばれている。
ですから、今後、おふたりとぼくたちの人生が交わることはないでしょう。
それが一番いい、なによりいいはずです。
どうかお元気で、さようなら」
月雫と勇斗に目配せすると、最後に極上の笑顔をみせて、想は病室をあとにした。
無機質な白い部屋には、想のかすかな残り香が尾を引いた。
柑橘系の爽やかな香りだった。
「さようなら、ありがとうございます、想さん」
想のいなくなった部屋に、月雫の呟きがぽつりと漏れた。
抜けるような青空のもと、目を閉じて手を合わせていた月雫は、ようやく満足したのか、ゆっくりと瞳を開けて立ち上がった。
「ごめんね、悟。
寂しい思いさせちゃって」
『徳山家』と彫られた墓石に向かって月雫が申し訳なさそうに語りかける。
「知らない人ばかりで、悟も戸惑ってるだろうな」
勇斗も眉を曇らせて月雫の背後から墓石を見つめている。
悟の遺骨は、結局徳山家の墓に入れることになった。
勇斗の稼ぎでは墓を買うことなど到底できないので、悟を憐れみながらも仕方がないとした選択だった。
悟が寂しくないよう、頻繁に訪れよう、そう決めた。
枯れかけの花を回収して真新しい花々を供える。
夏の本格的な日差しが墓石に跳ね返り眩しいほどだ。
「そろそろ行こうか」
勇斗に促されて月雫が小さくうなずく。
遥斗が逮捕されたことにより、勇斗は両親と一定の和解を果たした。
しかし、幼いころから自分を雑に扱ってきた両親を、勇斗は心の底から許すことはできなかった。
急に孫を惜しみ出し、徳山家の墓に入れるよう父親の善治が提案してきたときには、勇斗はそれを一蹴した。
けれど、月雫に説得され、渋々それを受け入れたのだった。
絵里香をはじめ、遥斗に協力した者たちは、素直に罪を認めているが、遥斗だけは往生際が悪く未だ犯行を否定し続けている。
噂では、高額なカネを払って優秀な弁護士を雇ったと聞く。
どうやら善治がその金額の一部を負担しているらしいとも。
「とにかく、もう俺たちには関係ないことだ」
勇斗の一言に、月雫も納得してうなずいた。
そう、もう関係ない。
遥斗という悪魔の幻影に惑わされることはもうないのだ。
ようやく手に入れた安寧の暮らし。
悟が生きていたころのように、またふたりで『家族』になろう。
今度こそ、誰にも邪魔されない、幸せな家族になろう。
「あっちいな」
墓前を離れて歩き出すと、夏空を見上げて憎々しげに悪態をつく勇斗の手を、月雫が握った。
そして、ぴったりと身体を寄せる。
「暑くないか?」
「こうしていたいの」
まさに悪夢のような数日を乗り越えてきたのだ。
今は、隣にいてくれる勇斗のすべてが愛おしい。
この人でないと、自分はきっと駄目なのだ。
隣にいたのが勇斗でなかったら、きっと途中で心が折れていた。
だから、一緒にいられることを当たり前だと思わずに、一瞬一瞬を大切に噛みしめたい。
月雫の気持ちを汲んだのか、勇斗は手を離そうとはしなかった。
「しょうがねえなあ」
小突くように肩をぶつけて、空いたほうの手で月雫の頭をわしゃわしゃと撫でる。
ふふっと月雫が無邪気に笑い声をあげた。
蝉の大合唱を聞きながら、月雫と勇斗は歩幅を揃えて家路につく。
一抹の寂寥感と未来への希望を胸に抱きながら。



