それからどのくらい時間が経っただろう。
いつしか月雫たちはシートに身体を預けて眠り込んでいた。
「……月雫さん、勇斗さん、まなさん」
そんな呼びかけを、何回か聞いた気がする。
月雫が目を開くと、いつかと同じように、想の顔が目の前にあった。
ひゃっと声を出すと、座っていた椅子からずり落ちそうになった。
辺りを見回すと、そこは『聖なる鉄槌』のアジトだった。
あの巨大な円卓がある部屋だ。
「……あの、わたし……?」
すると、隣と真正面に座って眠っていた勇斗とまなも目をこすりながら目覚めたようだった。
「倫子とふたりでみなさんを運びました。
車で熟睡していましたよ」
勇斗がはっとしたように叫ぶ。
「証拠、証拠は!?
俺たち、遥斗の尻尾を掴んだんです!」
「ええ、今度こそ強力な証拠のようですね。
早速ですが、動画を見せていただけますか?」
硬い椅子の上で不自然な体勢で寝ていたせいか身体のあちこちが軋み、月雫とまなは立ち上がってストレッチをしている。
「……あれ?」
勢い込んで動画を再生しようとしていた勇斗が間抜けな声を発する。
「どうしたの?」
月雫が勇斗の手元を覗き込んで不思議そうに問いかける。
「スマホが、動かない……」
「えっ?」
言われて画面を見ると、スマホの画面は真っ暗なまま沈黙している。
「どうして……壊れたのか?」
「貸してください、乾に復元させます」
勇斗のスマホを持ってディスプレイに囲まれた乾のもとへと想が歩いていく。
「……無理だな。
スマホがウイルスに感染してる」
「復元できませんか?」
「時間がかかる」
月雫と勇斗は祈るような、悲痛な眼差しで乾と想のやりとりを見つめるしかない。
「待ちましょう」
想に言われ、スマホの復元を乾に託した月雫と勇斗はマンションへひとまず帰ることになった。
〈明日?
いや、明日の予定はまだ聞いてねえな。
久保を潰したから、行き詰まって泣いちゃうんじゃないか〉
くつくつと、くぐもった忍び笑いを落とし、乾が心底呆れたように続けた。
〈しかし遥斗さんよ、今回のは失敗だったな。
あれだけ人数使ってけしかけたのに返り討ちに遭ってさ。
……俺?
いいや、今回は俺は手を加えてない。
あんたの人選と作戦ミスだな。
ま、そう気を落とすなよ。
わざわざ俺を使って弟と嫁さんを泳がせて、じわじわ追い詰めて愉しむなんて、あんたも悪趣味だよな〉
近未来的な照明が落とされ、光源はディスプレイの放つ青白いブルーライトのみのアジト。
そこには、スマホの復元を徹夜で片付ける乾しかいない──はずだった。
《なにをしているんです?》
無人だと思っていたアジトで背後から声をかけられ、はっと乾は振り返った。
想が闇に溶け込むように黒ずくめの格好で立っていた。
《……盗み聞きとは趣味が悪いな》
乾はデスクに置いてスピーカーホンにして通話していたスマホの電源を落とす。
《今、話していたのは徳山遥斗ですね。
ぼくたちの情報を漏洩させていたのは乾、あなたですね》
想と乾のやりとりを、イヤホン越しに月雫と勇斗、そして月雫たちの部屋にきていた倫子はともに息を殺して聞いていた。
《だったらなんだ?》
開き直った乾の乾いた声がする。
《あなたのことを詳しく調べました。
ぼくの身体検査が甘かったと言わざるを得ません。
あなたは元々遥斗の仲間だった。
ぼくたちが遥斗を追っていると知って、遥斗がスパイとしてあなたを送り込んだんですね》
《……裏切り者だとか、騒ぐつもりか?
悪いが、俺は誰のものでもない。
特定の誰かの味方でもないし、敵でもない。
馴れ合いは俺にはいらない》
《それでは、あなたは遥斗に心酔しているわけではない、と。
条件次第では、遥斗を裏切ってこちら側に寝返ることもある、そういうことですか》
《まあ、そうだな》
《条件はなんです?
たとえば、カネとか?》
《それもある。
ただ、俺は警察やらの権力者を欺いて情報を改ざんして手玉に取るのがなによりも快感なんだ。
ハッカーとして腕を振るえるなら、誰が雇い主でも構わない。
遥斗だろうが、お前たちだろうが別にどっちでもいいんだ》
《ではぼくたちの側についてください。
遥斗にはこれまで通り仲間として接触して、遥斗の情報をぼくたちに提供する。
二重スパイとしてぼくたちの仲間になってください》
《二重スパイ、ね。
面白そうだ、いいだろう、構わない》
《交渉成立ですね。
引き続き、月雫さんたちの逃亡を手助けしてください。
もちろん、遥斗に気づかれないように》
《……別に遥斗はそこまで俺を信用しているわけではない。
俺ひとりが裏切ったくらいで大騒ぎするとも思えないがな》
《では、これからは遥斗を追い詰めるぼくたちに協力してください》
《はいはい、わかったから、もう、帰れよ。
俺は忙しいんだ》
《では、頼みますね、乾》
想の足音が床を叩き、自動ドアがスライドして開く音がする。
それきり、通信は途絶えた。
息を止めるほどやりとりに聞き入っていた月雫たちは、ほうっと一気に呼吸をはじめる。
「これで、一件落着でしょうか」
月雫が問うと、倫子が曖昧に首を振って首肯する。
「おそらく……。
遥斗側に私たちの情報が漏れることはないのではないのでしょう」
「警察から、追いかけられない?」
「ええ、断言はできませんけど。
乾のことを信じすぎるのも危険だとは思いますが……」
ひとまず今日は休みましょう、と倫子がソファから立ち上がり、月雫たちの部屋をあとにする。
月雫と勇斗はその夜、久々に安眠できた。
《青山寿子という女性を訪ねてください》
翌日、目覚めたばかりの月雫と勇斗は、想からそう伝えられた。
月雫のスマホに80代ほどの年配の女性の顔写真が送られてくる。
《乾が久保のスマホをハッキングして、気になる名前を見つけました。
青山寿子、振り込め詐欺の被害者です。
ですが、久保とのやりとりを見る限り、どうやら青山寿子も特殊詐欺の加害者である可能性が出てきました。
背後に遥斗がいるとみて間違いないでしょう》
スマホに青山寿子の個人情報が追加で送られてくる。
身支度を大急ぎで済ませると、部屋を出て駐車場へと向かう。
「行きます」
月雫と勇斗をワゴン車に乗せ、倫子はアクセルを踏み込んだ。
想に指示され辿り着いたのは、都心に建つ二階建ての豪邸だった。
時刻は朝の9時。
ヨーロッパ風の白亜の邸宅のチャイムを押す。
しばらくのちに、インターホン越しに「どちら様?」としわがれた声が言った。
「初めまして、徳山月雫といいます。
寿子さんはご在宅でしょうか」
「……寿子は、わたくしですが……」
「徳山勇斗について、少しお話を聞きたいのですが」
「……」
沈黙に、月雫は勇斗の名前を迂闊に出すべきではなかったかと判断ミスを悔いたが、解錠の音がして、重々しい玄関扉が開いたのでほっと一息ついた。
現れたのは、年相応のしわを顔に刻んだ老齢の上品な婦人だった。
服装もメイクも装飾品の類も隙がなく、これからすぐに銀座の目抜き通りを闊歩すると言われても違和感のない着飾った姿であった。
「ここではなんですから、中へどうぞ」
寿子は消え入りそうな声で月雫と勇斗を迎え入れた。
「お邪魔します」
玄関ポーチを抜け、建物内に入ると、お香の匂いがした。
天井は吹き抜けで、外装と同じ病院を思わせる白一色に統一された壁と調度品が夏の日差しに眩しく照らされ輝いている。
寿子は人が3人はゆうにすれ違えるカーペット敷きの廊下を歩き、月雫たちは客間に通される。
応接セットの革張りの重厚なソファにガラスのローテーブルを挟んで座る。
壁には絵画が飾られレースのカーテンからは光りが漏れている。
アンティークの家具も白で猫足の可愛らしいデザインのものもある。
一見して裕福であることがわかり、屋敷というよりお城を想起させる内装であった。
「今、なにか飲み物を……」
「お構いなく」
勇斗が型通りに遠慮すると、寿子は心ここにあらずといった放心状態ですとん、とふたりと対面のソファに腰を落とした。
「青山さん、徳山勇斗、彼を知っていますか?」
月雫が隣の勇斗を指し示しながら寿子に訊いた。
「……はい。
今日は、どういったご用件でしょうか。
もう、渡せる名簿はありません」
寿子の声は張りがなく、よく耳を澄ませないと聞き取れないほど小さかった。
「青山さん、彼はあなたの知る徳山勇斗ではありません」
これまでの経験を踏まえて、月雫はまず勇斗と遥斗は別人である説明からはじめた。
寿子の反応はおおよそこれまで接触してきた人々と変わりないものだった。
「わたしたちは、徳山遥斗の悪事を暴くため、彼の犯罪の証拠を探しています。
青山さんは、遥斗さんとどんな関係だったんですか?」
「……どんな……。
勇斗さん、いえ、遥斗さんは、わたくしの生き甲斐でした」
予想もしなかった単語が飛び出して月雫たちは目を丸くする。
「それは、どういう……」
寿子はひとつ溜め息を落とすと、行儀よく揃えられた膝の上で両手を忙しなく組み替えながら話し出した。
「わたくしと遥斗さんは、振り込め詐欺の加害者と被害者として知り合いました。
遥斗さんが、わたくしを騙してお金を振り込ませようとしたのです」
「遥斗さん本人が直接電話をかけてきたんですか?」
「そうです。
わたくしは、すぐに詐欺だとわかりました。
遥斗さんは、わたくしの孫を名乗って電話してきたのですが、わたくしの孫はその半年ほど前に、バイクで事故を起こして亡くなっていたんです。
遥斗さんはそのことを知らないようでした。
わたくしは……相手が自分を騙すために電話をしているんだとわかりつつも、孫のふりをしている遥斗さんと会話することが楽しみになりました。
まるで亡き孫と話している気になったからです」
「それで……お金は振り込んだんですか?」
「最初のうちは、払いました。
でも、そのうち限界がきてしまって……。
そのことを話すと、遥斗さんは、特殊詐欺の出し子をやらないかと持ちかけてきたんです」
「その話、受けたんですか?」
月雫が信じられないとばかりに目を見開く。
「憐れな老いぼれだと思われるでしょう」
「いえ、そんな……」
「わかっています。
けれど、夫も亡くして社会との関わりが希薄になり、わたくしは人との繋がりを欲していました。
年金の支給日にお金を引き出しにきた老人を装って、指示された通りお金を引き出しました」
話しているうちに、寿子は涙声になっていき、何度も目元をハンカチでそっと拭った。
「……でも、それにも限界がきて……。
つぎに指示されたのは、知り合いの名簿を渡せ、というものでした」
「名簿……」
勇斗が呟く。
「そうです、名簿です。
わたくしの家は、比較的裕福な家庭だと言えます。
必然的に、知り合いもみなさん裕福なご家庭で、強盗が狙うかっこうのターゲットでした。
わたくしは、強盗に入りやすそうな知り合いの情報を細かくリストアップして遥斗さんに渡していたのです」
「青山さんが渡した名簿をもとに、遥斗たちは強盗に入る家を決めていた……?」
「はい……。
今考えれば、馬鹿なことをしたと思います。
でも、その当時は……。
遥斗さんに見捨てられないよう必死でした。
自分が犯罪を犯しているという自覚もないほどに……」
でも、と言ったきり、寿子は顔を覆って泣きはじめてしまった。
「遥斗さんが逮捕されて、わたくしは生きた心地がしませんでした。
遥斗さんがいつわたくしの名前を出すのかと考えると、とても怖くて……」
喉の奥から絞り出すように寿子が言葉を紡いでいく。
「最低です、わたくしはまだ、自己の保身しか考えていなかったのです。
でも、それよりなにより、わたくしの軽率な行動のせいで、命を落としてしまった方がいることに耐えられませんでした。
ミチコちゃんには本当に申し訳ないことをしたと思います」
「ミチコちゃん?」
ぐす、と洟をすすりながら寿子がうなずく。
「わたくしは近所に住む竜野さんという一家と仲良くさせていただいていました。
優しい方たちで、わたくしのことを気にかけてくれました。
竜野さんも裕福な家庭の方で、わたくしはご夫婦のひとり娘であるミチコちゃんを可愛がっていました。
ミチコちゃんもわたくしに懐いてくれて……」
そこで言葉を切り、寿子が必死に嗚咽をこらえる。
「……可愛らしいお嬢さんでした。
でも、わたくしはそんなミチコちゃんを裏切って、竜野さんの情報を遥斗さんに教えてしまった……。
ご夫婦は殺されて、生き残ったのはミチコちゃんとお祖父さんだけでした」
「竜野……ミチコちゃん……?」
勇斗が眉間にしわを刻みながら、虚空を見上げて思案顔になる。
月雫もなにかに気づいたようだった。
「その、ミチコさんとお祖父さんはどうしたのですか?」
「自宅を売って、引っ越していきました。
お祖父さんは認知症を患ってらして、ひとりで介護するつもりだと別れ際ミチコちゃんは言っていました。
わたくしは、最後まで、ミチコちゃんのご両親を奪ったのは自分だと、言い出せませんでした。
こんなことを言える立場ではありませんが、わたくしはミチコちゃんが心配でたまりませんでした。
杞憂は現実になりました。
ミチコちゃんは介護疲れから、お祖父さんを、その、殺してしまったのです」
寿子は非常に言いにくそうに言葉を区切りつつなんとか話を進めた。
「わたくしが、遥斗さんに名簿を渡したせいで、ミチコちゃんが殺人犯になってしまった……。
ミチコちゃんは可哀想な被害者でしかなかったのに、わたくしのせいで加害者になり、社会から非難され、きっと、想像を絶する苦しみを味わい傷ついたと思います。
わたくしは責められるべき人間です。
謝ろうとは思いません。
わたくしは許しを乞うべき人間ではありませんから。
最近ではよく思うのです、わたくしは、ミチコちゃんに殺されたい、復讐されたいのだと。
でも、それすらも自分に都合の良い考えです。
わたくしは死ねば苦しみから解放されますが、ミチコちゃんは一生傷つきながら生きていく……。
どちらが楽かは、考えなくてもわかりますよね」
述懐を終えて、寿子の目にはやや力が戻ってきていた。
ぎゅっとハンカチを握りしめ、唇を震わせた。
「……竜野、倫子……」
うわ言のように勇斗が呟く。
──青山寿子のせいで、竜野倫子は殺人犯になった。
つまり、倫子は遥斗によって両親を殺されていた。
このことを、倫子は知っているのだろうか?
月雫の脳裏に、甲斐甲斐しく自分たちの朝食を作ってくれる不器用な優しさを持つ倫子の顔が浮かぶ。
『聖なる鉄槌』は、復讐を手伝い私刑を下すために存在すると想は言っていた。
では、倫子は私刑を下したい側の人間ではないだろうか。
倫子も、遥斗を恨んでいる?
室内に寿子のかすかな嗚咽の響き以外なくなったあと、月雫がそっと切り出した。
「遥斗さん側に、お金を渡す際、会った人などはいますか?」
特殊詐欺ではよくある手段だ。
出し子はあくまで末端であり、指示役までに何人もの人間を介し、やっとカネが頂点まで辿り着く。
「……いいえ、直接指定された場所までわたくしが運びました。
こんな年寄りですから、詐欺に加担しているとは思われない、という考えのようです。
事実、わたくしが警察にマークされることはありませんでした」
「運んだ場所は?」
勇斗が勢い込んで寿子に、ずいと顔を近づける。
「新宿にあるタワーマンションの一室です」
「住所を教えてもらえませんか?」
「え……ええ、構いませんが」
寿子が住所を口にすると、《調べてみます》とイヤホンから想の声が聞こえた。
「もしも、そこが遥斗のアジトなら犯罪の証拠があるかもしれない」
勇斗の言葉に、月雫もうなずいた。
かつてないほど遥斗の最深部に手が届きつつある、月雫はそう感じた。
「青山さん」
はい、と顔を上げた寿子に月雫が微笑んだ。
「ミチコさんは、きっと大丈夫です」
寿子のしわに埋もれた小さな黒目がちの瞳が揺れる。
「つらいことをお話させてしまいすみませんでした」
月雫がそう言って、勇斗とともに立ち上がると揃って頭を下げた。
「……あの、わたくしは罪に問われるのでしょうか」
「……それは……」
ふたりが困ったように顔を見合わせる。
「あなたがたは、これから遥斗さんに会いにゆくのですか?
遥斗さんの犯罪を白日のもとにさらすために……。
ああ、きっとわたくしも犯した罪から逃げ続ける生活は終わりなのですね。
相応に罰されて、償って、それで愚かなわたくしの人生は終わりです。
きっと、よい死に方はできないでしょう。
でも、それでいい、それがいいのです」
寿子はひとりうなずき、口元に薄い笑みを浮かべた。
「どうかご無事で。
あなたがたとお会いして、決意ができました、本当に、ありがとう」
別れ際、玄関までふたりを送ってくれた寿子は、血管が浮かびささくれだった手で月雫の手を包みこんだ。
「いえ、こちらこそお話してくださって、助かりました」
寿子の手を握り返した月雫は、勇斗とともに深く頭を下げ青山邸を辞去した。
近くの駐車場で待っていたワゴン車に真っ直ぐに向かい、運転席の倫子の顔を見ると、月雫は身体から力が抜けていく感覚を味わった。
「今日は警察に追いかけられなかったね」
車に乗り込みつつそう勇斗に言うと、《乾がこちら側に寝返りましたからね》と苦笑混じりの想の声が割り込んできた。
《青山寿子が言った住所を特定しました。
部屋を借りているのは遥斗とは別人でした。
乾にマンションの防犯カメラを遡って調べさせたところ、銀行強盗に入った人間の顔を検知しました。
どうやら反社の人間が複数出入りしているようです。
おそらく、遥斗と反社組織の人間がアジトとして使っているのでしょう》
「早く行こう、倫子さん、車を出してください」
勇斗の声を想が鋭く遮った。
《単身で乗り込むのは危険です。
通報したほうが……》
「いいや、通報したらそれこそ遥斗の思う壺だ。
俺は遥斗の息がかかった警官に殺される。
自分で決着をつけるしかない」
想は頑なな勇斗の言葉に、諦めの溜め息を隠しもせずにひとつつくと、《わかりました》と渋々折れる格好となった。
《ですが、応援を向かわせるまで、少しの間待ってください》
「わかりました。
マンションの前で張り込みをしながら待機します」
《こちらも急ぎますので、どうか早まらないでくださいね》
「了解です」
そう答えた勇斗の隣で、月雫は思い詰めた表情になって運転席の倫子へと身を乗り出していた。
「あの……」
「なんでしょう」
月雫はどう切り出すべきか考えあぐね、勇斗と倫子の顔を交互に見やる。
「……倫子さんのご両親が亡くなるきっかけになったのって……」
倫子は耳元を指し示すと無表情で顎を引いた。
「ええ、聞いていました。
私の家が強盗に襲われたのは、寿子おばちゃんが徳山遥斗に情報を渡したことがきっかけだったのですね」
その声には温度がなく、感情もない。
それが余計に月雫の不安を煽る。
「……遥斗さんに、殺された……」
「ええ、殺されたも同然ですね」
「……知って、いたんですか?」
「いいえ、知りませんでした」
「恨んで、ますか、青山さんのこと」
「どうでしょう、わかりません」
「遥斗さんのことは……?」
「憎い、といえば憎いですね」
到底そうは思えない声のトーンで淡々と受け答えをする倫子の心理がわからず月雫と勇斗は戸惑った顔になる。
倫子からは心の中で静かに怒りをたぎらせている──という感じもしない。
なぜ、大事な人の命を奪った寿子や遥斗のことを語るときでもこんなに冷静になれるのか。
悟を奪った遥斗のことを語らせれば、月雫は取り乱す自信がある。
とてもではないが、理性で激情を抑えつけられる気がしなかった。
復讐してやりたい、と思う。
「倫子さんは、遥斗さんに復讐したいとは思わないのですか?」
「ええ、思いますよ、当然ではないですか」
そう言って振り返った倫子が、後部座席に座る月雫と勇斗の顔めがけてスプレーを噴射した。
「きゃあっ」
「……ぐっ……」
とっさに顔をかばったが、目の前が真っ暗になり、月雫と勇斗はすぐに意識を失った。
《月雫さん?勇斗さん?倫子?
どうしましたか?》
ふたりのただならぬ悲鳴を聞いた想がイヤホン越しにふたりに呼びかける。
倫子は、すっかり気を失い、シートにぐったりと身体を預けた月雫と勇斗、そして自分の耳からイヤホンを外す。
身を乗り出して月雫のスカートのポケットからスマホを抜き取り、窓から外へ放り捨てた。
「では、行きましょうか」
倫子は誰も聞いていない宣言をすると、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「くそっ」
到底想のものとは思えない低い声で罵りの言葉を叫ぶと、デスクを拳で叩いた。
「当たるならよそでやれ」
ディスプレイに向かっていた乾が、想に見向きもせずにくぐもった声でキーボードを叩き続ける。
「GPSの反応が消えた……。
乾、防犯カメラを辿って車を追えないか」
「やってる。
でも、遥斗は俺くらいの腕を持つハッカーを何人も抱えてる。
情報戦になるな」
「ぼくは新宿のマンションに向かう。
逐一報告をくれ」
部屋の自動ドアへと足早に向かっていく想に、「効率が悪いぞ」と乾が指摘するが、「わかってる!」と苛立ち紛れに声を叩きつけると想は部屋を出ていった。



