人は逃げる生き物だから


 太陽が頭上高くに昇るころ、昼食時に倫子の運転する車がとある定食屋の駐車場に停まった。

 サラリーマンや建築現場などで働く男性に混じって、お目当ての人物──田辺佐知子がひとりで昼食を摂っていた。

「田辺佐知子さん、ですよね?」

 月雫(つきな)がそう声をかけると、薄いレンズのふちなし眼鏡をかけた無表情の女性──田辺佐知子が顔を上げた。

 勇斗とともに佐知子の対面に座る。

 佐知子は焦る様子もなく静かにふたりを見据えていた。

「腹減ったし、俺たちもなんか食うか」

「そうだね」

 周囲は食事に集中していたりお喋りに花を咲かせている人ばかりで喧騒に満ち、月雫たちに注意を払う人間はおらず会話を聞かれる心配もなさそうだった。

 注文を済ませ、月雫が改めて頭を下げる。

「突然呼び出してしまってすみません。
 わざわざお仕事中にお越しくださり、ありがとうございます」

「……いえ」

 佐知子は言葉少なな性格のようだ。

「秋島絵里香さんの関係者の方、ですか?」

 佐知子はそう言うと箸をテーブルにそっと置いた。

 佐知子の素性を調べた想が、秋島絵里香の名前を出して佐知子に連絡を入れ、アポイントを取ったのだった。

「あ……、関係者、かどうかはわかりませんが……。
 秋島絵里香さんに田辺さんを紹介していただきました」

「……ということは、秋島さんは逮捕されたのでしょうか」

「自首すると言っていました。
 今頃はもう……」

 佐知子が思慮深そうな一重の瞳を伏せる。

「こんな日が、いつかくることは、わかっていました」

 世をはかなむ憂いを帯びた静かな声音で佐知子は溜め息をそっとつく。

「……どういうことですか?
 あなたと秋島さんは、どんな関係なんです?」

 佐知子は一瞬天井を見上げると、観念したように口を開く。

「とある駅で、ホームから男性を突き落とそうとしている女性を見かけました。
 私は彼女の腕をとっさに掴み、彼女が人殺しになるのを防ぎました。
 なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわかりません。
 ただ、そのときはそんなに簡単に殺させたくない、そう思っていたのは確かです」

「……秋島さんが突き落とそうとしたのは、徳山遥斗という男ですよね?
 田辺さんは徳山遥斗とどんな関係なんですか?」

「徳山遥斗?
 いえ、名前は勇斗だったかと記憶していますが……。
 張本人が目の前にいるのだから、彼に聞かれては?」

「……あ」

 そこで月雫は、秋島絵里香が勇斗に対して見せた反応を思い出す。

 佐知子も、勇斗が自分を陥れた『徳山勇斗』だと思っている。

 面倒を感じつつ、月雫は絵里香のときと同じように、勇斗と遥斗は別人であると滔々と辛抱強く説明した。

 真実を知った佐知子は、目を見開き、さすがに驚きをあらわにした。

「本当に、よく似たご兄弟なんですね」

 佐知子の誤解を解き終えると、早速話の核心に迫る。

「秋島絵里香さんと、なにがあったんですか?」

「秋島さんに犯行を思いとどまらせたあと、駅のホームで話をしました。
 そこで、秋島さんが私と同じように徳山勇斗──失礼、遥斗を恨んでいることを知りました。
 同じ徳山遥斗の被害者として、私たちは意気投合して連絡先を交換しました」

 佐知子が鼻を鳴らして吐き捨てる。

「私たちは徳山の被害者……。
 そういって盛り上がりました。
 『被害者』……。
 便利な言葉だと思いませんか? 
 私は徳山の被害者、あの男に逆らえなかった、そう自分の犯した罪を棚上げにして逃げるための理由を作れますから。
 でも、逃げ切れるわけがない。
 だって、私は、私の意志で罪を犯したのだから……」

 頭痛をこらえるように佐知子が頬杖をついて頭を支え表情をゆがめる。

「わたしたちは、徳山遥斗の悪事の証拠を探しています。
 ささいなことでもいいのです、遥斗さんの犯罪を暴く手がかりを、なにかお持ちではありませんか?」

 佐知子はコップの水を飲んだり箸をもてあそんだりして、なかなか話し出そうとしなかった。

 だが、やがて決意を固めたように鋭い双眸を月雫たちに向けて重い口を開いた。

「それを話すには、私が犯した罪を話さなければなりません。
 私ひとりでどうにかできる事態ではないので、お話しすることでなにが起きるかわかりません。
 私やあなたたちが消される可能性だってあります」

「構いません。
 なにか知っていることがあったら、教えてください。
 わたしたちが警察に通報したりすることはありませんから」

 佐知子が薄い唇を、かすかに持ち上げる。

「いいえ、あなたたちが私に辿り着いた時点で、きっと私の人生は終わりなのでしょう。
 私はずっと、贖罪の機会を欲していたのかもしれません」

「贖罪……」

 真っ直ぐ顔を上げ、声に少しだけ張りを載せて佐知子は語りはじめた。

「私は、許されない行為をしました。
 殺人です」

 その告白を月雫と勇斗が息を殺して聞き入る。  

「ことのはじまりは、私が同じ銀行に勤める上司と不倫したことでした。
 上司──彼は家庭がありましたが、すでに破綻しており、私を含め何人か愛人がいるようでした。
 彼はギャンブル狂いで多額の借金もしていて、私は銀行のカネを横領して彼に貢いでいました。
 でも、そんな綱渡りな生活に疲れてしまったとき、彼が『闇バイト』に参加しないかと言い出したのです。
 私は、彼のためになるならと、了承しました。
 なんだかんだ言って、私は彼のことが好きでしたから。
 私に与えられた仕事は、銀行の窓口から特殊詐欺の被害に遭っている人がカネを振り込むのを監視する役目でした」

 でも、と佐知子が陰鬱に続ける。

「一度甘い汁を吸うことを覚えた彼は、実入りのいい『闇バイト』にどんどんのめり込んでいきました。
 その指示役が、徳山勇斗を名乗る男でした。
 そして、ついに強盗に手を染めることになります。
 私も実行役として彼とともに参加し、回を重ねるうちに上司は強盗のリーダー格になっていきました。
 徳山遥斗は異常な人間でした。
 普通、指示役は姿を見せず命令をくだすだけだと思うのですが、徳山は違いました。
 自分も実行役として強盗に参加してきたのです。
 徳山は犯罪そのものを一種のエンタメとして捉えているようでした。
 まるで子どもが遊びに加わるみたいに強盗をはたらいて愉しんでいるみたいでした」

「遥斗さんが、強盗まで……」

 思った以上に徳山遥斗という人間の業や闇は深いようだ。

「強盗に入ったその日、家主のお年寄りに抵抗され、徳山と上司に命令されるがまま、私はお年寄りに暴行を加えました。
 尻込みしていた上司の代わりに、私が手を汚すことにしたのです。
 すべては上司のため、そう思っていました。
 ……あれくらいで、死ぬとは思わなかったんです……。
 でも、死んでしまった。
 徳山は私が平気で人を殺せる人間だと考えたのか、私を誘ってその他に何件か強盗に入りました。
 そして、そのカネを上司に貢いだ……。
 徳山が捕まったと知り、いつ捜査の手が私に及ぶか、戦々恐々として過ごしていましたが、どうやらそれも終わりのようです。
 私には、もう上司への愛情はありませんから、道連れにして警察に捕まりたいと思います」

 淡々と話し続ける佐知子からは、静かな狂気が感じられた。

──この人は殺人犯なんだ、やっぱりわたしたちの感覚では理解できない。

 佐知子に対して嫌悪感を抱いた月雫はそっと目を逸らす。

 そんな月雫の代わりに勇斗が訊いた。

「闇バイトの指示を受けた際、遥斗と電話したり、メッセージのやりとりをしたりしていませんでしたか?」

「しました。
 徳山とは何度も会っていますし、指示を電話でされたこともありますから、もし自分が捕まったとき、徳山の犯罪の証拠になるように通話を録音してあります」 

 月雫と勇斗が顔を見合わせて佐知子のほうへ身を乗り出した。

「聴かせてもらえますか?」

 佐知子はうなずいて傍らの椅子に置いてあるバッグからスマホを取り出した。

 少しだけ操作したあと、スマホから音声が流れはじめる。

[つぎの案件だが、俺も参加する。
 お前もこい。
 殺しはお前に任せるから、絶対にこいよ。
 俺から逃げられると思うな。
 お前はもう、こっち側の人間なんだからな]

[徳山さん、私、そろそろ強盗なんて辞めたいと思っているのですが……]

[何度言わせる、お前は人殺しだぞ、もう戻れないんだよ、俺の言う通りにすればカネには困らない。
 久保支店長にも貢ぎたい放題だ]

[でも、警察に捕まったらなにもかも終わりです。
 徳山さんは、怖くないんですか?]

[馬鹿か、俺がそんな失敗するわけないだろ。
 とにかく、あとで集合場所を送るから、絶対にこい]

 ぶつり、と通話が切れる。

「これを警察に提出すれば、声紋分析で徳山の声と判断されるかもしれません」

 月雫と勇斗は顔を見合わせ、手を握り合って、喝采を叫んだ。

 周囲の客が、さすがに月雫たちの方に視線を寄越すが、そんなことは気にならないほど月雫たちは興奮していた。

 もし電話の音声が遥斗だと認められたら、これ以上強固な証拠はない。

 これで、遥斗の悪事は暴かれる──。
 
 すなわち、勇斗が無罪であることの証明にもなるのだ。

「このデータを送ってくれますか?」

 勇斗がスマホを取り出したそのときだった。

「あ、あれ……?」

 佐知子が不思議そうな表情で何度もスマホの画面に指を滑らせてしきりに首を傾げている。

「どうかしましたか?」

「突然スマホが真っ暗になって……。
 あれ……動かない」

 佐知子の焦った顔に、月雫たちも不安が募る。

 数分間、粘り強く待っていると、「あ、動きました」とほっとしたように佐知子が言ったので、浮かしかけた腰を再び下ろす。

 しかしすぐに佐知子の顔が曇った。

「音声データが……消えました」

「えっ、どういうことですか?」

「わかりません、どうしてこんな……。
 今の今まで保存できていたのに……」

「少し借りてもいいですか?」

 勇斗が佐知子からスマホを受け取り、操作してみるが、先ほど聞いた音声のデータは発見できなかった。

「そんな……」

 月雫が消えかけそうな声を漏らしたそのときだった。

《月雫さん、勇斗さん、店の近くに警官が集まりはじめています!
 早く店を出てください!》

 イヤホンから絶叫にも似た切迫した想の声が耳に痛いほどの音量で響き、ふたりはとっさにイヤホンを外しかけてしまった。

「で、でも、想さん、まだデータが……」

《駄目です!
 時間がありません!
 田辺さんのことは諦めて、今すぐ店を出てください!
 まもなく警官が店にやってきます!
 捕まったら元も子もありません!
 データより逃げることを優先してください!》

 行こう、と勇斗が月雫の腕を取って立ち上がる。

「でも、データが……」

 月雫が口惜しそうに戸惑っている佐知子を見下ろしてすがるように勇斗を見上げる。

「駄目だ、捕まったら俺は殺される。
 月雫だって、どんな目に遭うか……。
 田辺さん、すいません、ありがとうございました」

「え、あの……」 

 スマホを返され困惑している佐知子に頭を下げると、またしても勇斗がレジに5000円札を放り投げて店の外へと飛び出す。

 見覚えのあるワゴン車が、滑るようにふたりの前に停車した。

「早く乗って!」

 倫子が叫び、月雫と勇斗は後部座席に飛び込む。

 シートベルトも締めないうちに車は急発進する。

 タイヤがアスファルトを擦り、甲高い悲鳴を上げる。

 前方から数人の警官が走ってくるのが見えた。

 遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。

 月雫は、ばくばくとうるさい心臓を深呼吸で抑えつける。

 勇斗も動揺が抑えられないのか荒い呼吸を繰り返している。

「……証拠が……。
 遥斗さんの犯罪の、証拠が……。
 やっと、手に入ると思ったのに……」

 勇斗の隣で月雫が放心状態でうわ言を呟いている。

「仕方がありません。
 想くんの言う通り、今捕まったら元も子もありませんから。
 これが、賢明な判断です」

「でも、どうしてわたしたちの居場所が、こんなに早く警察に漏れるんでしょう?」

《ええ、明らかにおかしいです》

 月雫の疑問に答えたのはイヤホン越しの想の声だった。

《まるでぼくたちの行動が筒抜け状態です、おかしいことこの上ありません。
 月雫さんたちが移動している間に映ってしまった防犯カメラの映像は乾がすべて消しているはずなんですが》

 想も想定外の事態なのか、戸惑いを隠せないでいた。

「こちらの情報が、漏れている……。
 私たちの中に、裏切り者がいるということでしょうか」

 倫子が、一番考えたくない可能性をずばりと指摘する。

《可能性としては考えられることです。
 信じたくないことでもありますが》

 車内に沈黙が降りる。

 まだどこかで鳴っているサイレンの音が、嵐の日の海のように荒れ狂いはじめた月雫の心臓を波立たせた。


 マンションの部屋に帰りつくころには日が傾いていた。

 夕食を冷凍食品で済ませ、シャワーを浴びて寝室で一息つくまで、月雫と勇斗は言葉を交わすことなく、沈鬱な時間を過ごしていた。

 掴みかけた証拠は、するりと抜け落ちてブラックホールに吸い込まれてしまった。

 遥斗の悪事を暴くなんて、到底不可能だったのではないか。

 もう手がかりも残されていない。

 いつまで逃げ続ければいいのだろう。

 月雫が溜め息を零したときだった。

《明日は田辺佐知子の上司、久保(くぼ)のところへ向かってください》

 イヤホンから想の声が届いた。

「久保……?」

 月雫がオウム返しする。

《田辺佐知子と会話したとき、遥斗はご丁寧に『久保支店長に貢げる』と言っていました。
 なんだかわざわざヒントを出されたようで気に入りませんが。
 久保は田辺佐知子の上司で、銀行の支店長でした。
 久保のことを調べてみたところ、興味深いことがわかりました。
 どうやら、隠し玉を使うときがきたようです》

「隠し玉?」

久保達夫(くぼたつお)、帝国信用金庫新宿支店長です。
 今から顔写真を送ります。
 明日はこちらの人員を送りますので、銀行に向かってください》

──まだ手がかりは途絶えていない、まだ復讐を諦めるのは早い。

 月雫と勇斗は目配せすると、「はい」と想の声に返事した。



「おはよー、いやー、今日も暑くなりそうだねえ、もう溶けちゃうよ」

 倫子が運転するワゴン車に乗り込むと、助手席には先客がいた。

「……まな、さん?」

 月雫が目を丸くして呟くと、「そう」とどこか得意げにまながにっと笑ってみせる。

 ノースリーブのブラウスにリボンタイ、チェックのミニスカートをはいて、ツインテールに結った髪は太陽の光りを受けて天使の輪を作っていた。

 メイクもナチュラルでアイドル色はやや薄まっているが、内面からきらきらと輝くような眩しさは変わらない、何度見ても絶世の美少女だ。

「どうして、まなさんが?」

《久保はまなさん推しなんです》

 シートベルトを締めていると、想から説明が入った。

「推し?」

 勇斗が怪訝な顔をする。

「ファンってこと」

 月雫が補足すると、まながくすっと笑った。

「世間知らずだねえ、勇斗くんは」

 勇斗がむっとした表情になるが、特に抗議するわけでもなく、座席に収まった。

《隠し玉とは、まなさんのことなんです。
 久保は愛人を囲むばかりでなく地下アイドルにも──今の推しのまなさんにもカネをつぎ込んでいるようです》

「そう、久保っちね。
 しょっちゅう握手会にきてくれていいお客さんだよー」

 脚をぶらぶらと揺すりながらまながまるで緊張感のない調子で楽しそうに月雫たちを振り向く。

愛人(まなと)さん、危ないのでシートベルトは締めてください」

「はいはーい、倫子っちは口うるさいなあ。
 お母さんみたい、あ、おばさんか?
 あははっ」

 まなが心底おかしそうにからかうが、倫子は相手にしない。

「……愛人、さん?」

 月雫が呟くと、まなが顔だけで振り向いてにやっと笑う。

「あれ、言ってなかったっけ?
 わたしの本名は清水愛人(しみずまなと)、正真正銘のオトコのコ」

「……はあっ?」

 まなのドヤ顔に月雫と勇斗が目を剥く。

「あははっ、やっぱ女の子だと思ってた?
 まあ、その辺の女の子より可愛いんだもん、気づかなくて普通だよ」

 信じられないものを見る眼差しで、月雫と勇斗はまなを凝視する。

 まなからは『男』の面影は微塵も感じられなかった。

「胸、触ってみる?
 お金ないからタオルつめてるだけなの」

 信号で停まったタイミングで、月雫がまなの胸に手を触れる。

「……本当だ……」

 まなは華奢で小柄、身体の線は女性のように柔らかいが、強調されていた胸は不自然に感触が硬い。

「二の腕も触ってみてよ。
 鍛えてるんだ」

 月雫がまなの二の腕に触ると、たくましい力こぶが盛り上がっていた。

「可愛いだけじゃなくて、力仕事もいけるんだ、すごいでしょ」

 えへへ、と照れたようにまなが女の子そのものの可愛らしい顔と声で笑いかけてくる。

「なんでわたしが女の子の格好してるのか、知りたい?
 いいよ、話してあげる」

 誰もなにも言っていないのに、まなは一方的に話し出した。

「わたし母子家庭でね、母親はわたしが小さいころから男を取っ替え引っ替えして家に連れ込んでたの。
 その中には悪い大人もいて、わたしに暴力を振るうやつもいた。
 わたし、子どものころから女の子みたいねって言われて育って、それならか弱いふりをして、殴られないために男の機嫌を取ることを覚えたの。
 そのとき、コンプレックスだった、女顔が役に立ったわけ。
 でも、弊害もあった。
 母親が、わたしが男を誘惑してるって嫉妬してね、家を追い出されたの。
 わたしは母親の自分を睨む目から逃げた。
 逃げた挙げ句、路頭に迷ったわたしは、『女』を武器にして生きていこうと思った。
 そうして流れ着いたのが地下アイドルだったわけ。
 想っちには、男を誘惑する処世術と力仕事ができるところを買われたの」

「……まなさんも、逃げてきた?」

 月雫が訊くと、まなはからからと笑いながら「そうそう」と応じた。

「ま、そんなだからさ、今日はわたしに任せてよ。
 どーんと大船に乗った気持ちで、ね?」

「はい……。
 ちなみに想さんは、なにから逃げてきたか、ご存じありませんか?」

 月雫は少し前から気になっていたことをまなにも訊いてみた。

「うーん、よくわからない。
 ……けど、なんか虐待されてたっぽいよ。
 少年院にいたって話だから、親に復讐でもしたんじゃない?」

「そう、ですか……」

「着きました」

 倫子がスピードを緩め、ワゴン車は銀行の駐車場に停まった。

《まずは月雫さんと勇斗さんで話を訊いてみてください。
 まなは切り札なので、話が進まない場合に温存しておきます》

 想の指示に従って、月雫と勇斗は銀行の自動ドアを潜る。

 そして、窓口にいた女性行員に声をかけた。

「支店長の久保達夫さんにお会いしたいのですが」

 女性行員は訝しげに勇斗を見上げたあと、「アポイントは取られていますか?」と事務的に訊いてきた。

「いえ……取ってませんが、こうお伝えください。
『徳山勇斗が会いにきた』と」

 女性行員は渋々立ち上がり、「少々お待ちください」と奥へ消えていった。

 数分後、「お会いになるそうです、応接室にどうぞ」と月雫たちを受け入れた。

 応接室に入ると、黒革のソファから久保達夫が立ち上がった。

 どこにでもいる平均的な顔立ちの中年の男だった。

 一見すると埋没しそうな存在感のないこの男が、人殺しという一線を越える犯罪を犯したなんて想像もできなかった。

 ただ、上司の代わりに殺人に手を染めたという田辺佐知子の証言通り、目の前でしきりにハンカチで額の汗を拭う久保は、いかにも小心者のようだった。

「お座りください」

 久保に促され、ふたりは久保と対面のソファに腰かける。

「あの……。
 勇斗さん、どういうことです?
 職場までこられては困ります。
 私は、あなたの言うことに忠実に従ってきたつもりなのですが……」

 ああ、と月雫が天井を仰ぐ。

 また遥斗と勇斗は別人であるという説明からはじめなければいけないのか。

 腹をくくると、月雫はまず誤解を解きにかかった。

 一通りの説明を受けると、久保は絵里香や佐知子と変わらない驚きの表情を作った。

「なるほど、勇斗さんではない……」

 久保にぶしつけに観察されて、勇斗は迷惑そうだ。

 久保は、きっちり七三分けにした黒髪をしきりに撫でながらどこか怯えた眼差しで勇斗を見上げる。

「それで、本物の勇斗さんが一体なんのご用で?」

「わたしたちは、遥斗さんの犯罪を暴くために、何人かからお話しをうかがってきました」

「……私の名前を出したのは、田辺佐知子ですか?」

 そうです、と月雫が認めると、久保は「やはりか」と呻くように声を絞り出した。

「田辺佐知子は今日出勤していません。
 もしかしたら、もう警察に……?」

「それは……わたしたちは知りませんが……」

 すると久保は頭を両手で抱え、さらに唸った。

「彼女が逮捕されたとしたら、つぎは私が捕まるんでしょうか」

「なにか心当たりが?」

 勇斗の問いに、久保がはっと顔を上げる。

「いえ……、ありません。
 田辺佐知子がなにを言ったか知りませんが、私は関係ない、そう、関係ないんです」

「あなたは、冤罪であると?」

「そうです、その通りです」

「でも、あなた佐知子さんと一緒に強盗に入りましたよね?
 佐知子さんを誘ったのも、あなただとお聞きしましたが」

「ははっ、なに、彼女のでまかせですよ。
 少し前、私と彼女は別れました。
 その腹いせで私を陥れようとしているのでしょう」

「あなたには家庭がある。
 田辺佐知子さんと不倫関係にあったことは認めるんですね?」

 強い調子で勇斗が迫ると、引きつった笑いを無理やり作って脂汗を拭いながら、久保は何度もうなずいた。

「ええ、それは認めますよ。
 ですが、そんなことは罪のうちに入らないでしょう。
 大人同士の痴話喧嘩、その程度ですよ」

「あなたは闇バイトには参加していない?」

「ええ、そうですよ。
 私は関係ない、すべて田辺のでっち上げです」

 往生際が悪い久保が、口を割るのを待つのは得策ではない、そう判断した月雫は「お願いします」とイヤホンに手をやりながらささやいた。

 とたん、とんとんとドアをノックする軽やかな音が聞こえる。

「取り込み中だ、今は……」

 久保が苛立った口調でドアに声を投げつけるが、構わずドアが開き人影がさっと入ってくる。

「だから、今は取り込み中だと言って……」

 現れた人物の正体に、久保が驚愕の面持ちで腰を浮かせたまま動けずにいる。

「ま……まなちゃん!?」

 小さな瞳を瞬かせ、上ずった悲鳴に近い叫びをあげる。

「久保っち、久しぶりだねー。
 最近ライブきてくれないじゃん、冷たいなあ、もしかして、まな推しやめた?」

 堂々と応接室に入ってきたまなが勇斗の隣に座るので、ふたりがけのソファはぎゅうぎゅう詰めだ。

「そんな!
 ちょっと、忙しくて、行けないだけで、まなちゃん推しをやめてなんていないよ!」

 久保は恋人に浮気を疑われた高校生男子のように、わたわたとまなの機嫌を取ろうとする。

「ホント?
 よかったあ、ね、でも、まなのために使っているお金、本当はいけないことして稼いでるんだよね?」

 ぐっと久保が言葉に詰まり喉仏がごくりと上下する。

「ねえ、まなには本当のこと言って?
 まなのために久保っちが悪いことしてるなんて、耐えられないよ」

「うっ……ごめん」

「このふたりはね、まなの大切な友達なの。
 徳山遥斗に復讐したいんだって。
 手、貸してくれないかな?
 話してくれるよね、徳山遥斗のこと」

 まなが大きな瞳で久保を上目遣いに見上げる。

 数秒と保たず、久保は陥落した。

「……わかった、なにが聞きたい?」

 久保が月雫たちを視界に捉える。

 その表情は緩みきっていて、違法な薬物でも摂取しているのかと思うほど恍惚としていた。

 推しの力というものは本当に絶大のようだ。

「徳山遥斗の犯罪の証拠を探しています。
 遥斗さんの罪を立証できる証拠に心当たりはありませんか?」

 すると、拍子抜けするほど簡単に、「ある」と久保は答えた。

 スーツの懐からスマホを取り出す。

「あいつと強盗に入った際、尻尾切りをされないように徳山が犯行を指示するさまを盗撮してある。
 でも、これを見せたら俺まで逮捕されるんじゃないのか?
 なあ、頼むよ、俺が強盗に加担してたって、誰にも言わないでくれよ」

 眉をハの字にしてなりふり構わず懇願する中年男性とは、痛々しく滑稽なものである。
 
「わかった、協力してくれるなら内緒にしてあげるよ」

 そうか、と心底ほっとしたように呟くと、懲りもせずに久保はまなに迫った。

「まなちゃん、あとで写真撮ってくれよ。
 それと、サインと握手も」

 でれでれと目尻を下げ、鼻の下を伸ばしながら下心丸出しでまなにすり寄っている。

「うーん、まずは盗撮動画を見せてくれる?」

 久保は言われるがまま、スマホを操作し、月雫にスマホを渡してくる。

 画面は真っ暗だった。

 揺れて不安定なのは、車に揺られているからだとわかった。

 カメラが助手席に座る男を後部座席から撮っている。

[今日は年寄りのひとり暮らしの家に入る。
 田辺はじいさんを取り押さえろ。
 生死は問わない]

 紛れもなく遥斗の声だった。

[徳山さん、それは殺しても構わないということでいいんですか?]

 久保の声が続く。

[抵抗されたら躊躇なく殺せ]

[この案件は、徳山さんが首謀者なんですか?]

[なにをいまさら訊く。
 当たり前だろ]

 そこで月雫は動画を停止させた。

 証拠としてじゅうぶんであると判断したからだ。

「この動画のデータをスマホに送ってもらっていいですか?」

 月雫が訊き、勇斗が自分のスマホを引っ張り出す。

 久保は無言で応じた。

 ついに遥斗の悪事を暴く証拠を手に入れた、そのときのことだ。

 応接室の外から、甲高い女性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。

「……なに?」

 腰を浮かせた月雫を片手で制して勇斗が応接室のドアを細く開けて顔を出す。

 じりりりり、と耳の痛くなるような警報音が銀行内に響き渡った。

 すると今度は、野太い男の叫び声が応接室にまで投げ込まれてきた。

「強盗だ、カネ出せや!」

 居合わせた客が逃げ惑っている、ばたばという足音と悲鳴が重なって応接室まで聞こえてくる。

「勇斗、危ないって!」

 月雫が止めるのも聞かず、勇斗は応接室を出て窓口のほうをうかがった。

 体格がよくて、見るからに柄の悪い男たちが複数人顔も隠さずに堂々と窓口前に陣取っているのが確認できる。

「強盗……こんなときに……」

 月雫が絶望の眼差しで勇斗の服をぎゅっと握る。

《落ち着いてください。
 乾に銀行の防犯カメラをハッキングさせました。
 銀行内は把握してますので、ぼくの指示に従って動いてください。
 それに……》

「それに?」

 月雫が聞き返すと、少しの間をあけて想が続けた。

《少しおかしいです。
 ただの銀行強盗ではないと思います》

 イヤホン越しに、乾がキーボードを叩いているかたかたという音がする。

《今は応接室から出ないでください。
 鍵があるならかけてください》

「でも、それだと逃げ場がありません」

 月雫が訴えると《大丈夫です、把握していますから》と想がなだめるように言い聞かせる。  

「ど、どうなってるんだ、強盗まで……」

 久保は頭を抱えてソファでうずくまっている。


「どこだー、どこにいる?」

 男たちの愉悦に浸る声と、金属質なもので床や壁、ドアを叩きつける硬い音が断続的に聞こえ、月雫は涙目になって勇斗の背中にすがりつく。

 勇斗が月雫の背中をさすっていると、状況を冷静に見ていたまなが、ぐるぐると準備運動するように腕を回しながらソファから立ち上がった。

「さて、わたしの出番かな」

 その声はどこか楽しそうに弾んでいる。

《勇斗さん、乾が強盗の素性を突き止めました。
 警察がマークしている反社組織の人間です。
 おそらく、遥斗の差し金かと。
 非常に危険ですので、すぐに逃げてください》

「……逃げるって……」

 勇斗が応接室を見回し困惑した表情になる。

「人が通れる窓なんてないぞ」

《仕方ありません、まな、お願いできますか》

「おっけー。
 わたしに任せてよ、うー、武者震いするなあ!」
 
 まながそう言った瞬間だった。

 金属を引きずる音が応接室の前でぴたりと止まる。

 すぐにドアが叩かれはじめた。

「ここにいるんだろ?
 徳山よー。
 お前を殺してもいいって遥斗さんに言われてきてんだよ。
 顔見せろや」

 男たちの哄笑(こうしょう)が応接室の外から流れ込んでくる。

「いい?
 敵はわたしが引きつける。
 月雫ちゃんたちは、その隙に逃げて。
 想っち、裏口は?」

《応接室を出て廊下を進み、左に曲がってください。
 職員用の出入り口があります。
 そこまで辿り着ければ……》

「わかった、よし、ドア開けるよ、月雫ちゃんたちは走る準備して」

 3、2、1と数えると、まなが勢いよくドアを開ける。

 ぐえ、と突然開いたドアに顔面を打ちつけた男の情けなく潰れた声がした。

「走って!
 すぐそこを左に曲がる!」

 月雫と勇斗は廊下を3メートルほど走ると、左へと曲がった。

「いたぞ、徳山だ!」

 男たちの声が追いかけてくる。

 振り返ると、まなが男から武器を奪い返り討ちにしているところだった。

 どうやらまなはかなりの武闘派らしい。

 しかし、それでも数でまさる男たち全員を食い止めることはできず、数人の男がまなの反撃を逃れ月雫たちを追いかけてきた。 

──追いつかれる!

 背後から迫る脅威に総毛立ち、身体の震えが止まらない。

 前を行く勇斗に手を引かれ、ようやく走れている状態だった。

 出入り口まで逃げ切れないと判断した勇斗が廊下に並ぶ適当なドアを開け、月雫を押し込むようにして中に飛び込み鍵をかける。

 長机がいくつか置かれ隅にパイプ椅子が乱雑に積まれた会議室のような部屋だった。

「とりあえず身を隠そう」

 呼吸を整えながら勇斗が机の下に潜り込みながら、月雫を抱きしめる。

「まなさん、大丈夫かな……。
 あんな大勢の男の人相手に、勝てるのかな?」

「それは、わからないけど……」

 勇斗の唇も青く、かすかに震えている。

「徳山ー!
 どこだあ!」

 男の声が近づいてくる。

 ふたりは息を殺して身じろぎせずに嵐が過ぎるのを祈るような心地でひたすら待った。

 ドアノブが外から回され、がちゃがちゃと音を立てる。

「ここかー、徳山。
 逃げられねえぞ」

 男が硬いものでドアを殴りはじめる。

「勇斗……」

 勇斗の手をぎゅっと握ると、勇斗も冷え切った手で月雫の手を握り返す。

「出てこいって言ってんだろうが!」

──もう駄目だ、殺される。

 さらに激しくドアが叩かれたそのとき、観念して瞳を閉じた月雫の耳に「おりゃあ!」と可憐な声に似つかわしくないかけ声が届いたかと思うと、「ぐえっ」というカエルが鳴いたような不快な声にもならない呻きが聞こえた。

 どんどんとドアが叩かれる。

「月雫ちゃん、勇斗くん、大丈夫?」

 警戒しながらドアを開けると、にっと無邪気に笑うまなの姿があった。

「まなさん、無事ですか?」

「うん?
 心配してくれてありがと。
 でも、これくらいなんてことないんだよね。
 このために毎日鍛錬してるようなものだし」

《駄目です、職員用出入り口の外にも数人待ち構えています》

「えっ、じゃあ、どうすれば……」

 月雫の表情が一瞬で曇る。

「カンタンなことじゃん、正面突破すればいいんだよ。
 そのためにわたしがいるの」

「え、でも」

「いいから、ほら、行くよ」

 まなに背中を押され、きた道を戻り、窓口とソファが並んだフロアに出る。

 廊下のあちらこちらに、気を失ったがたいのいい男たちが伸びている。

 これを全部まなひとりで片付けたというのだから驚きだ。

 フロアにはまだナイフなど武器を手にした男が数人たむろしている。

 銀行の出入り口まであとたった数メートル。

 しかし、立ちふさがるように武装した男が立っていることが確認できてしまう。

「さっきと同じ、わたしが引きつける。
 その間にふたりは自動ドアか逃げて」

 もうまなの心配をしている場合ではない。

 本人ができるというのだから、それを信じるしかなかった。

「お探しの徳山勇斗はここですよー」

 まるで緊張感のない弛緩したまなの声に、男たちが振り向く。

「徳山を捕まえろ!」

 リーダー格らしきひときわ背の高い男が命令をくだす。

 しかし、フロアに反撃できそうな男は3人しかいない。

 勇斗めがけて突進してくる男たちと勇斗の間に割り込んだまなが不敵な笑みを浮かべながら、一番手前の男を一本背負いして床に叩きつける。

 受け身もとれずに男が、ぶしゅ、と間抜けな声を上げて気を失った。

 それを見ていた男が「てめえ!」と気色ばむ。

「おい、その女に構うな、俺たちのターゲットはあくまで徳山……」

 リーダー格の男が制するも、頭に血がのぼった男はまなのほうへ走ってくる。

 男は無茶苦茶にナイフを振り回すが、まなにすべて避けられてしまい、さらに激昂して冷静さを失っていく。

 男が歯ぎしりをしてナイフを持ち替えた瞬間を狙って、まなが男のみぞおちに鋭いパンチを見舞った。

「うっ……」

 身体をふたつに折った男の手からナイフが転がり落ちる。

 まなが男の顎めがけて膝蹴りをすると、泡をふきながら白目を剥いた男はうつ伏せに倒れ、ぴくりとも動かなくなった。

「あーあ、これだからお馬鹿さんは、救いようがないよねえ」

 けらけらと笑いながら、男が取り落としたナイフを拾い、残るリーダー格の男にちらつかせる。

「君ひとりになっちゃったけど、まだやる?」

 ナイフの切っ先が太陽が差し込む明るいフロアで不気味なほどぎらぎらと光りを反射させている。

「当たり前だろ、俺たちの目的は、そこの徳山を殺すことなんだからな」

 リーダー格の男が自動ドアの前に立ち、退路を塞ぎながら金属バットを構えてみせる。

「裏に回った仲間たちもじきにやってくる」

「ふうん、賢明な判断とは言いがたいけどね」

 まながナイフを構えると、男がバットを振りかぶってきた。

 男の身長は180センチほど。

 対するまなは160センチほどと、体格でいえば不利なことは目に見えている。

 しかし、まなは心底楽しそうに男と対峙する。

 素早い身のこなしでバットを回避し続け、隙を見てはナイフを振るいじわじわと男のダメージを蓄積させていく。

 男がその場から動かないせいで、月雫たちは脱出することが叶わない。

 ひりひりとした緊迫した時間が緩慢に流れる。

 ふたりはただまなの闘いを見守ることしかできなかった。

「ほら、こっちだよ」

 切り傷だけを増やし、まなに攻撃のひとつも命中させられず苛立っていた男を、まなが翻弄するように引きつける。

 いよいよ冷静でいられなくなったのか、軽いステップで後退したまなの誘いに乗って、男が「おらあああ!」と叫びながらまなに突っ込んでいく。

「今だ、逃げろ!」

 交戦中のまなの声を合図に、硬直していたふたりは、武器をぶつけ合うまなと男の横をすり抜けて自動ドアまで走る。

 一か八か、賭けのように生まれた刹那の瞬間。

 月雫の身体中から冷や汗が噴き出し身体中の血液が凍えて寒気が押し寄せてくる。

 もはや身体の感覚はなかった。

 すべてがスローモーションのように見える。

 思うように動かない自分の身体も、前を行く勇斗も、自分のすぐ横で繰り広げられているまなと男の闘いも、すべてが。

「ちっ」

 だが、途中でまなの罠だと気づいた男が自動ドアの前でふたりに追いつき、月雫の服を引っ張った。

「きゃあ!」

 月雫の足がすくむ。

──逃げられない、殺される! 
   
 先に自動ドアをくぐった勇斗が月雫の手を引くが、男の力のほうが上手だった。

 月雫は手を離し、引きずられるまま倒れてしまう。

「月雫!」

 月雫に馬乗りになった男が金属バットを振りかぶる。

「あはは、これで終わりだ!」

 狂ったように男が嗤い月雫が両手で頭をかばったそのとき、鈍い音がして、男が覆い被さってきた。

「くっ……」

 だらりと力を失った男がのしかかり、あまりの重さに月雫が耐えきれず呻く。

「月雫!
 大丈夫か!」

 勇斗が男の身体をごろりと転がすと、下敷きになっていた月雫を救出する。

「う、ん……平気」

 やっとのことで起き上がった月雫が気絶している男を見下ろす。

「これって……」

 振り向くと、金属バットを手に苦笑いしているまなと目が合った。

「いやあ、ごめんごめん、月雫ちゃん、怖い思いさせちゃって。
 わたしもまだまだだなあ」

「あの……まなさんが助けてくれたんですよね……?」

「んー、まあね。
 出来は悪かったけど。
 血を見るのは嫌かなって思って、落ちてた金属バットを拾ったのが敗因だね。
 もっと残酷にならないといけないのかもね、この仕事を続けていくならば」

 まなに思い切り後頭部を殴られた男は情けない格好ですっかり伸びている。

「警察がきたらまずい、早く出よう」

 月雫を立ち上がらせながらまなが鋭く周囲をうかがう。

《銀行のカメラはこちらで加工しますから、大丈夫です。
 早くその場を去ってください》

 未だがくがくと震えている足を叱咤しながら、勇斗とまなに支えられつつ、月雫は銀行をあとにした。

「お疲れ様です」

 這々の体で銀行を出て入り口で待っていたワゴン車に乗り込むと、倫子が無感情にそれだけ告げて3人を出迎えた。

 シートにもたれると、ふたりとまなまで肺の底から深い深い溜め息を吐き出す。

 倫子がコーヒーショップのロゴが入った冷えたアイスコーヒーを3人に手渡した。

 ありがたく受け取り、苦味が勝つコーヒーを煽るように飲んだ。

「助かったんだよね、わたしたち」

「……みたいだな」

「なんで、遥斗さんはあんなことを……。
 生きた心地がしなかったよ」

「……俺を殺すつもりだと、あいつらは言ってたな。
 月雫まで殺そうとした。
 ……許せない」

「勇斗……」

 月雫が勇斗の両手を握ると、その手は怒りでかすかに振動していた。

「今日の出来は及第点には及ばない、か。
 もっと鍛錬しないとね」

 コーヒーを飲み干したまなが窓の外を眺めながら、いつもと変わらぬ口調で自己採点する。

 とても先ほどまで殺し合いを演じていたとは思えない切り替えの早さである。

 冷たいものを飲んだことで、次第に冷静さを取り戻した月雫は、ふと思い出したことを助手席のまなに身を乗り出して訊いた。

「まなさん、本当に久保の犯罪を通報しないんですか?」

 すると、まなは一転悪魔的な笑みを浮かべてみせた。

「そんなわけないじゃん。
 あいつはそのうち逮捕されるよ」 

「え、久保を騙したんですか?」

 騙すなんて、と鼻で笑いながら、「だってあいつは犯罪者だよ。そんなのわたしたちが見逃すはずないじゃん」とさばさばした口調で言ってのけた。

 佐知子のときとは違い冷静に頭を働かせていた勇斗は、命より大事なスマホを懐から取り出し、しげしげと眺めている。

 倫子がなるべく早く銀行から遠ざかるためにすぐさま車を発進させた。