部屋のチャイムが鳴らされ、月雫と勇斗は、はっと目を覚ました。
疲れが出たのか、ふたりは並んでベッドに横になり寝入っていた。
一瞬自分たちがどこにいるのかわからず、がばっと身体を起こしたあと、見知らぬ部屋で息を殺してドアのほうをうかがう。
「警察、じゃないよね……?」
月雫がこわごわ勇斗の肩に手を置くと、その手に勇斗が自分の手を重ねる。
「そういえば想さんのマンションにいるんだっけ……。
想さん、聞こえますか?」
勇斗が耳元に手を当てて、呼びかけると、じじっとノイズ混じりの想の声が応えた。
《おはようございます。
チャイムを鳴らしているのは倫子です》
はきはきとした想の声に疲れや眠さはまるで感じられない。
スマホを見ると、時刻は朝の7時だった。
勇斗がベッドから降り、チェーンロックを外すとドアを開ける。
眩しい日差しを背に立っているのはパンツスーツ姿の倫子だった。
相変わらずノーメイクで髪は乱雑にひとつに束ねられただけだが、昨日とは印象が打って変わって『いかにも仕事ができそうな女性』になっていた。
「おはようございます。
お迎えにあがりました」
「あ、ああ、おはようございます」
勇斗が面食らったように挨拶を返す。
「朝食は摂られましたか?
まだであれば、なにか作りましょうか」
「そこまでしていただくのは、ちょっと……」
勇斗の後ろから顔を出した月雫が遠慮がちに言うと、にこりともせずに倫子が言う。
「私はおふたりの世話係の役目を与えられています。
食事の用意くらい、仕事のうちにも入りませんよ。
お邪魔します」
パンプスを脱いだ倫子が部屋に上がってきて、真っ直ぐキッチンに向かい冷蔵庫を開ける。
中から卵ふたつを取り出し、備え付けの棚からフライパンと油を探し出してコンロの火を点ける。
「卵焼きとパックのご飯、お味噌汁くらいしか用意できませんが、よろしいでしょうか?」
「え、はい、ありがとうございます」
そういえば丸一日以上なにも食べていないことに思い至り、若いふたりの腹の虫が、現金にもぐぅと鳴いた。
てきぱきと朝食作りをこなす倫子を見て、祖父のために尽くしていたという倫子の過去を垣間見た気がして月雫の胸中はなんとなく落ち着かない。
簡単な朝食を済ませ、クローゼットにかけられていたノースリーブのワンピースに着替えると、倫子に促され部屋を出る。
駐車場には、昨日月雫たちを拉致したときに使われた漆黒のワゴン車が停まっており、ふたりは後部座席に乗り込んだ。
エンジンをかけるなり無感情に倫子が訊いてきた。
「美味しかったですか?」
「えっ……」
突然のことに訳がわからず言葉に詰まったが、朝食のことだと理解して、月雫は頬を綻ばせる。
「はい、美味しかったです。
倫子さん、料理上手なんですね」
「あんなもの、料理のうちに入りませんよ」
「でも、わたしたちが出かける準備をしているあいだに、お皿まで片づけてくれて……。
頭が下がります」
素直に礼を述べる月雫に、ミラー越しの倫子の瞳が嬉しそうに一瞬だけ細められた。
──良い人だな。
月雫は初対面で倫子に苦手意識を抱いた自分を恥じた。
「どこへ行くんですか?」
勇斗の疑問に返答したのはイヤホン越しの想の声だった。
《新宿です。
昨日お話しした、秋島絵里香を訪ねてもらいます。
秋島絵里香は住む家がなく、ビジネスホテルかネットカフェを転々としています》
「その、秋島絵里香さんは、どうして遥斗さんを恨んでいるんですか?」
《勇斗さんにも、関係がある女性です。
秋島絵里香は、徳山遥斗によってクスリの売人、売春をさせられていました。
勇斗さんが遥斗から罪を被らされた事件の被害者です》
ごくり、と勇斗が喉を鳴らし、月雫が不安そうに彼を見た。
《今日は勤めていたキャバクラの近くのネットカフェにいるようです。
そこに向かってください》
「わかりました」
倫子が返事をし、車が進みはじめる。
早くも今日も暑くなりそうだと照りつける太陽がそんな予感をさせる。
──こんな探偵みたいなことをして、本当に遥斗さんの悪事を暴くことができるの?
月雫には相手から話を引き出す能力などもちろんない。
『ひまわり』ではしっかりしたお姉さんだったけれど、初対面の人間と馴れ馴れしく話を弾ませる話術など持っていないのだ。
彼女──秋島絵里香から遥斗が犯罪に関わっていた証拠を探り出す。
果たして遥斗は自分の犯罪が暴かれる芽を残しているだろうか。
舗装された都心の道路をひた走る車から外を眺め、月雫は緊張を感じざるを得なかった。
駐車場で停まった車から降り、店の看板がごみごみと乱立する裏通りを歩くと、犯罪者が身を隠すのにちょうどいい立地にネットカフェはあった。
月雫と勇斗が自動ドアを潜ろうとした直前にドアが開き、店内から女性が出てきた。
ふたりは、はっと息を呑む。
店から出てきたのは、まさしく探している秋島絵里香だった。
秋島絵里香はドアの前に立ち尽くす月雫たちを迷惑そうに睨むと、すれ違って店から離れようとする。
「あ、ま、待って!
待ってください、秋島さん!」
思わず月雫が叫んで絵里香の足を止めると、思いっ切り怪訝な顔で振り向いた絵里香が、勇斗の顔を見るなり血相を変えて近づいてきて、勇斗の胸ぐらを掴んだ。
「……えっ?」
Tシャツの胸元を掴まれ、その勢いで首を絞められた勇斗は間抜けな声を出してしまう。
「『え?』じゃないわよ!
あんた、どういうつもりであたしの前に顔出したのよ!
あんたのせいで、あたしの人生はめちゃくちゃよ、殺してやる!」
絵里香がさらに強く勇斗の首を絞め上げる。
とっさのことに勇斗は怯んでしまって抵抗すらできない。
「や、やめて、やめてください!」
慌てて月雫が絵里香を引き剥がそうとするが、目を血走らせた絵里香の馬鹿力に敵わない。
「あんたのせいで、あんたのせいで……!」
絵里香はなおも呪詛を勇斗に投げ続ける。
《遥斗は秋島絵里香さんに勇斗さんの名を名乗っていたのかもしれません》
冷静沈着な想の声が聞こえて、月雫は合点がいったようにうなずくと、絵里香を勇斗から引き離しながら叫んだ。
「秋島さん、あなたを騙したのは彼ではありません!
彼の兄の、遥斗さんなんです!」
「はあ!?
なに言ってんの、あんた?
あたしが勤めてたキャバクラに客としてきたのは、この男よ、この顔、覚えてる、間違いないわ!」
「ですから、別人なんです!
徳山遥斗には、そっくりな弟がいたんです!」
絵里香が勇斗を絞め上げる力をわずかに緩め、しかし決して手を離すことはなく、傍らの月雫を見下ろす。
「そっくりな弟……?
どう見たって、こいつ、徳山勇斗でしょ?
双子かなにか?」
絵里香の戸惑い顔に勝機を見いだした月雫はなるべく落ち着いた冷静な声音で説得にかかる。
「秋島さんに接触をはかってきたのは彼の兄の遥斗さんで間違いありません。
どうか、お話しを聞いてくれませんか?
わたしたちも、徳山遥斗の被害者なんです。
それに、彼が本物の徳山遥斗なら、こんなに無防備にあなたに会いにきたりしないはずです」
「そ、そうよね……。
でも徳山は捕まったって聞いたけど……?」
「徳山遥斗は、弟の勇斗──つまり秋島さんが今、掴みかかっている彼──に自分が犯した罪をすべてなすりつけて彼を少年院送りにしました。
遥斗さんはわたしと彼、勇斗の子どもを殺した憎き相手です。
わたしたちは、遥斗さんに復讐するために、遥斗さんの犯罪の証拠を探しているんです。
どうか、お話しする機会をください」
必死の形相で訴えてくる月雫の剣幕に、「こ、殺した……?」と呟いて硬直し、絵里香は穴が空くほど勇斗を眺めた。
その瞳に若干の怯えが宿っている。
「人殺しまで、したの、あんた?」
「違います、彼ではなくて……。
殺したのは遥斗さんで、勇斗ではありません」
秋島絵里香は、力尽きたように勇斗から手を離すと、まじまじと勇斗の顔を観察する。
「どう見ても徳山勇斗だけど……。
本当に違うの?」
「信じていただけますか?」
「……信じることはできないけど……、そうね、あたしが会った徳山勇斗と、なんだか雰囲気が違う気がするわ」
《近くにカフェがあります、外でする話ではないので、そこに入ってください》
想の指示を受け、まだ半信半疑といった様子の絵里香を連れ、ブラウンの木目調の壁にコーヒーの香りが染み込んだカフェへと入っていく。
勇斗はすっかり生地が伸びてしまったTシャツをしきりに気にしていた。
店内はさほど広くなく、4人がけの仕切られたテーブルを3人で囲む。
絵里香は少し落ち着きを取り戻し、対面に座る月雫と勇斗を猫のような目で興味深げにじろじろと眺めている。
3人分のアイスコーヒーがテーブルに届いたのを見計らって、月雫がまず口を開いた。
「お話しにお付き合いくださり、ありがとうございます。
わたしは、徳山月雫といいます。
彼は徳山勇斗、わたしの旦那さんで、秋島さんの知っている『徳山勇斗』ではなく、本物の徳山勇斗です」
絵里香は頬杖をつき、傷んだ金髪を指でくるくるともてあそびながら怪訝そうに勇斗を睨んでいる。
「つまり、あたしを騙したのはあんたじゃない、そう言いたいのね?」
「そうです」
月雫がうなずくと、「証明するものは?」と絵里香が切り返してきた。
月雫が言葉に詰まる。
「ないんだ?
それじゃ、どうやって信じろっていうのよ」
「それは……」
すると、月雫の困り顔を絵里香が鼻で笑い飛ばした。
「ま、美人さんをいじめるのはこのくらいにするか。
こう見えて、あたし人を見る目あんのよ。
キャバ嬢やって長いし、色んな人間見てきたから、結構目が肥えてるわけ。
あんたが連れてきた彼と、あたしが知る徳山勇斗は、どうも醸し出すオーラっつうの?
そういうのが違う気がする。
で、わざわざ雲隠れしてたあたしを探し出して、なにを聞きたいのよ?」
アイスコーヒーのストローを真っ赤な口紅が彩る唇でくわえ、上目遣いに絵里香が訊いてくる。
アイラインで目を囲みマスカラがたっぷり載ったまつ毛を瞬かせながら退屈そうに小首を傾げてみせる。
絵里香からは大人の色気と余裕が感じられ、月雫はできるだけ失礼がないようにと丁重に言葉を選びながら質問をはじめた。
「さっきも言った通り、わたしたちは徳山遥斗の犯罪を暴こうとしています。
どんな些細な情報でも構いません、なにか徳山遥斗の悪事の証拠に心当たりはありませんか?」
ネイルが施された爪で絵里香が細い顎を思案するように撫でる。
「証拠、ねえ。
あいつがそんなもの残すわけないと思うけど」
「どうやって、遥斗さんと知り合ったんですか?」
「うーん、そこ訊く?
結構プライベートなことなんだけどな。
ま、素人相手に話すくらいならいいか。
まずはここから話すことになるかなあ」
一拍置いて、絵里香は饒舌に語りだした。
「あたしね、10代のときからホストにハマってね、お気に入りに貢いでたわけ。
でも、お金に余裕がなくなってきて、そのホストに勧められるままキャバクラで働きはじめたの。
今考えれば、あたしも馬鹿だったと思うけどさ。
ホストにとっては、あたしはただの金づるのひとりに過ぎなかったのにね。
んで、搾り取られるだけ搾り尽くされて、ついに生活に困ったあたしは、いわゆる闇金からお金を借りた。
でも、当然返せるあてもない。
そんなとき、キャバクラに客としてやってきたのが徳山勇斗を名乗る男だった。
羽振りがよくてね、あたしが借金してること知ると、じゃあ自分が肩代わりしてやるって闇金からの借金をチャラにしてくれた。
それだけじゃなくて、お金を借りられるあてがないなら自分が貸してやるって、その徳山勇斗が言うわけ。
そのときは、もう神様に見えたよね。
そう思うでしょ、こんなピンチを助けてくれる人が現れたら。
……でも、徳山勇斗は悪魔だった。
闇金なんて可愛いくらいの」
はあ、と溜め息をひとつついてストローをくわえると、ごくりと喉を鳴らしてアイスコーヒーを飲む。
「徳山勇斗の子分みたいな男が毎日取り立てにきてさ。
もうストーカー並みにしつこいの。
しかも闇金より利子が法外で、とても返せる金額じゃなかった。
で、店にきた徳山に泣きついたら、カネを返せないなら、売春しろって客を紹介されて……。
最初から、あいつはあたしが返せない金額だってわかってて、貸したんだと思う。
あたしに売春させて、金稼ぎの道具にするつもりだった。
キャバクラで働きながら売春もして、身体はもうぼろぼろで、これ以上は無理ってなったら、今度はあいつ、なんて言ってきたと思う?
クスリの売人をやれ、だってさ。
でも、身体はいくぶんか楽になった。
高校生とかそのくらいの、バカなガキ相手にクスリ売り渡してればいい仕事だったから」
月雫と勇斗は息を呑んで絵里香の語りに聞き入っていた。
遥斗が悪魔であることは重々承知していたけれど、こんなふうに他人の人生を軽々しく壊してしまえる遥斗の性格に改めて戦慄する。
同時に、なんという人間を相手にしてしまったのだろうとも思った。
果たして徳山遥斗は、自分たちが追い詰められるような、手に負える相手なのかと、不安にもなってきた。
「じゃあ、遥斗さんは違法な金貸しや売春の斡旋、クスリの売買の主犯格だった、そういうことですね?」
それらの罪は、すべて勇斗が遥斗に被らされたものと一致する。
「勇斗……いや、遥斗、ね、そうよ、悪いのは全部徳山遥斗」
「絵里香さんは、直接遥斗さんに会ったことがあるんですね?」
「そりゃあね、頻繁にってわけじゃないけど」
「遥斗さんが犯罪の元締めだったという証拠になるものは持っていませんか?」
うーん、と絵里香が難しい顔をして眉間にしわを寄せ、腕を組んで天井を見上げる。
「あ、客としてキャバクラにきたとき連絡先交換したっけ」
唯一の荷物であろう中身がぱんぱんに詰まったブランドもののバッグを引っ掻き回して、絵里香がスマホを取り出す。
月雫と勇斗は期待に身を乗り出した。
しばらくスマホを操作していたが、絵里香は落胆したように表情を曇らせた。
「繋がらないなあ……、駄目みたい、ごめんね」
絵里香は本当に申し訳なさそうに表情をゆがめて月雫たちに謝罪する。
あからさまに顔には出さないが、月雫も勇斗もせっかく掴みかけた遥斗への手がかりを逃したことに失望を隠せないでいた。
「……なにか、他に思い当たることは……?」
収穫はない問いだとは理解していたが、遥斗の尻尾を掴むために月雫もわらにもすがる思いで必死だった。
「他に、ね……」
「遥斗さんと勇斗は瓜二つですが、もちろん指紋もDNAも違います。
遥斗さんが触ったものとか、なにかありませんか?」
ドラマや映画で見た知識しか持ち合わせていないが、遥斗の犯行だと断じられる証拠となるものは、そのくらいしか思いつかない。
絵里香は、月雫たちのために頭をフル回転させて遥斗との記憶を掘り起こしている。
じりじりと月雫たちは絵里香からもたらされる福音を待つしかない。
「んー、ごめん、やっぱ、ないわ」
散々考え込んだあと、降参するように片手を挙げて絵里香が思考を止めた。
「そう、ですか」
月雫の声にも落胆が滲む。
「ごめんね、力になれなくて」
「いえ……」
アイスコーヒーをすっかり飲み干し、頃合いかと月雫が「あの、お時間をいただいてしまって……」と謝礼を述べようとすると、「あ!ちょっと待って!」と絵里香が月雫を制して声を上げた。
「待ってよ、待ってね、あの人なら……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、絵里香が光りの速さでスマホを忙しなく操作する。
腰をあげかけた月雫は再び席に座り直し絵里香の手元を凝視して待った。
「あった、これだ!」
絵里香がにっこりと笑いながら月雫たちにスマホの画面を自慢げに見せたそのときだった。
キーンと耳鳴りのようなノイズのあと、想の声が叩きつけるようにイヤホンから響いてきた。
《月雫さん、勇斗さん、店を離れてください!
警察がそちらに向かっています!》
「……えっ?」
突然のことに月雫が呆けた声を発したあと、硬直してしまう。
「行こう、月雫」
状況を察した勇斗が月雫の腕を取って立ち上がった。
「え、どうしたの?」
絵里香が目を丸くしてふたりを見上げる。
「警察が、くるらしい。
俺たち、行かないと……」
「待って待って、これ、役に立つはずだから、これだけでも……」
絵里香が焦りながらもスマホの画面を勇斗のほうに突き出すので、勇斗は支給されたスマホのカメラを起動し、絵里香のスマホの画面の写真を撮った。
電話番号とメールアドレス、氏名が表示されている。
「あたしね、少し前、徳山勇斗を駅のホームで見かけて、突き落として電車に轢かせて殺そうとしたことあるの。
それを止めてくれた女の人がいたんだけど。
これがその人の連絡先。
あのときあたしが見かけたのは、遥斗じゃなくてあんただったのね、きっと。
危うく無実の人間を殺すところだったわ」
「この人に連絡すれば……?」
「あたしよりは遥斗に繋がる証拠なりなんなり持ってると思う」
席を立った勇斗はスマホをしまいながら「ありがとうございました」と頭を下げる。
慌てて月雫もそれにならった。
いいって、と手を振りながら絵里香が朗らかな笑顔を作ってみせる。
「警察ならあたしが食い止めておくよ、安心して」
「え?」
すると絵里香は自嘲するような笑みに切り替え、どこか疲れを滲ませた溜め息をついてみせた。
「あたし、自首するよ。
もう逃げるのは疲れちゃったんだよね。
警察がくるならちょうどいい。
あたしが突然自首して、警察ちょっと混乱させておくから、その間に逃げて。
クスリの売買に売春、さすがに実刑くらっちゃうかなあ。
ま、自業自得か」
絵里香がからからと笑って、さっさと行けと手を振って促す。
もう一度頭を下げ、踵を返した月雫たちに背後から絵里香の声が投げかけられる。
「頑張りなよ、応援してる」
カフェのレジに勇斗が5000円札を放り出して、一目散に店をあとにする。
《急いでください、すぐそばまで追手が迫っています!》
想の声はこれまでの短い付き合いでも聞いたことのない緊迫したものだった。
月雫の心臓がきゅっと縮んで背中を氷が滑るような、ぞわぞわとした寒気が這い上がる。
震える脚がうまく動いてくれず、棒のように固まる月雫は勇斗の力強い手に引きずられるがまま脚を前に進める。
《確かに警察は月雫さんたちが高飛びしたと判断して捜査していたはずなのに……。
どうしてこんなに早く陽動作戦がバレたんだ?
乾、月雫さんたちが映った道路にある防犯カメラの映像はハッキングして加工してあるんだよな?》
想がいらいらと感情的に独りごち、「やってる」とイヤホン越しに乾の声が初めて聞こえた。
乾の声は、想像通りくぐもって湿ってもっさりしていた。
駐車場まで全速力で駆け抜けると、倫子がすでにエンジンをかけていたワゴン車に飛び乗る。
「掴まってください!」
シートベルトをしていなければ、浮き上がって天井に頭をぶつけかねないほどの勢いで車は急発進して駐車場を飛び出した。
狭い路地を走る車と、カフェになだれ込む警官たちがすれ違う。
月雫たちは頭を低くして顔を伏せて身を隠した。
しばらくそのままの姿勢で過ごしたあと、「もう大丈夫だと思います」と倫子に合図されて背を伸ばしてようやく一息つくことができた。
《勇斗さん、先ほど手に入れた情報を送っていただけますか》
こちらも落ち着きを取り戻した想に言われ、勇斗が絵里香のスマホを撮った写真を想宛てに送信する。
すぐ近くに乾がいるようで、かすかにかたかたとキーボードを叩く音が聞こえる。
《田辺佐知子、30歳、都内の銀行に勤めています。
犯罪歴はなし。
今から顔写真を送信します》
すぐさま勇斗と月雫のスマホに画像が送られてきて、ふたりはそれを確認した。
眼鏡をかけ、黒髪をひとつに束ねたいかにも真面目で神経質そうな女性だった。
犯罪歴がないのなら、なぜ絵里香は佐知子を紹介したのだろう。
《とりあえず、田辺佐知子の勤め先に行ってください》
「了解しました」
倫子がハンドル操りながらそう答えた。



