人は逃げる生き物だから


 その男の子の左目は、宝石のような澄んだ青色だった。

 子どものころ、彼の片目だけ瞳の色が違うことが、不思議で仕方なかった。

『オッドアイ』というのだと、しばらくしてからやっと知った。

 その男の子の名前は徳山勇斗(とくやまはやと)という。

 無口で感情を表に出さない、どこか同い年の子どもに比べると大人っぽくて陰のある男の子だった。

 西洋の面影が差すくっきりとして整った美しい顔立ち。
 
 色素の薄い茶色のさらさらの髪。

 初めて彼と出会ったのは小学一年生のとき、入学式後の教室でだった。

 幼稚園を卒園して、新しい生活に希望を抱いてお気に入りのピンクのランドセルを揺らして登校したあの日、彼を一目見て、好きになってしまったのだと思う。

 けれど、彼を遠くからそっと眺めるばかりで、あまり友達も作らず大人しい彼と、なかなか話す機会に恵まれず、8回目の誕生日を迎えてしまった。

 クラス替えを経ても、同じクラスになったことで、赤い糸で結ばれているなんて一方的に運命を感じたりもしていた。

 恋に恋する年ごろだった。

 今日は、徳山くんの誕生日だな、なんて空を眺めながら考えていたとき、スカートの裾を引っ張られたので思考を中断して目線を下げると、虎太郎(こたろう)が無垢な瞳で見上げていた。

「なあに?
 虎太郎、どうしたの?」

 虎太郎はむぐむぐと口を尖らせながらたどたどしく説明した。

「つきねえ、おそらにとんでいっちゃいそうだったから、とめたの」

 つきねえ──笹垣月雫(ささがきつきな)は、苦笑するとしゃがみ込んで、4歳の虎太郎のつやつやの黒髪の頭をわしゃわしゃと撫でてやった。

「ありがと。
 でも、わたしは飛んで行かないよ」

「ほんと?
 とりさんみたいにとんでいっちゃったりしない?」

 虎太郎の不安そうな顔に、月雫は優しく笑いかけてやる。

「行かないよ。
 わたしは鳥じゃないから、飛べないの」

「そっか、そうなんだ。
 よかった、つきねえ、いなくなっちゃったらさびしいから」

 虎太郎が、ようやく安心した顔つきになったので月雫は幼子がぬいぐるみにそうするように、一切の遠慮なく虎太郎を抱きしめる。

「苦しいよ、つきねえ」

 月雫の腕の中で、虎太郎が小さな身体をよじらせて逃れようとする。

 すると。

「あー、虎太郎いいなあ、あたしも月姉(つきねえ)にハグされたい!」

「ぼくもぼくも、虎太郎ばっかずるいよ!」

 月雫のもとに虎太郎と同じ年ごろの子どもが次々と集まってくる。

「じゃあ、みんな、まとめてぎゅーってしてあげる」

 月雫がそう言うと、子どもたちが無邪気な歓声を上げた。

「ほら、ぎゅー」

 円陣を組むように、月雫は両手を広げて小さな子どもたちをまとめて包み込む。

 きゃっきゃっと、嬉しそうな声を上げて子どもたちが月雫に抱きつく。

 子どもたちの笑顔を見ながら、月雫は自分が『ひまわり』の中でも年長の方になったのだと思い知らされた。

 本音を言えば、月雫は、まだまだ大人に甘えてハグをせがむ側でいたかった。

 だが、8歳の月雫は、年下の子どもたちから慕われるたびに、「自分がしっかりしなくては」と責任を感じるようになった。

「お前ら、月雫にばっかり甘えんなよ」

 そのとき、詰め襟姿の男の子が声をかけてきた。

伸治(しんじ)兄ちゃんだ!
 お帰り、一緒に遊ぼうよお!」

「駄目、おれ勉強あるから」

 寄ってくる子どもたちを素気なくいなしながら伸治が『ひまわり』の玄関に向かう。

「待ってよ、伸治兄ちゃん!」

 どたどたとやかましく自分を追いかけてくる子どもたちに、振り向いた伸治が一喝する。

「うるさい、おれは勉強するの。
 お前らも宿題あるだろ、早くやれよ」

「ええー、じゃあ、伸治兄ちゃんが勉強教えてよ。
 成績いいんでしょ?」

「お前たちの相手してる暇なんかないんだよ」

「伸治兄ちゃんのガリ勉!」

「……ガリ勉……。
 どこで覚えてきたんだ、そんな言葉。
 とにかく、おれは忙しいの」

 しっしっと、伸治が子どもたちをまとわりつく羽虫にするかのように追い払う。

 前髪をかきあげるのは、伸治がいらいらしているときの癖だ。

「なんでそんなに勉強するの?」

 バスケットボールを手にした年少のあゆみの素朴な質問に、伸治がぴたりと動きをとめる。

 その沈黙の意味を理解している月雫は、はらはらと子どもたちと伸治とのやり取りを見守っていた。

「お前たちも、今から勉強しとけよ。
 おれたちは、他のやつらみたいに学習塾へ行けない。
 自力で勉強して高校に入らなきゃならないし、大学に行くんだったらなおさら勉強して奨学金をもらわないといけない。
 働き口も確保しないと奨学金も返せない。
 俺たちは、マイナスからのスタートなんだ。
 知識で武装して社会で生きていくしかないんだよ。
 頼れる親は、いないんだから」

 吐き捨てるように言うと、伸治は『ひまわり』の玄関を開け、振り向きもせずに靴を脱いでスリッパに足を通した。

「月雫、お前最近成績落ちてるらしいな。
 子どもたちの相手をし過ぎだ。
 勉強は一度ついていけなくなると取り返しがつかなくなるぞ」

 冷淡に告げると、すたすたと廊下を歩き出した伸治の背中が階段を上り消えていく。

「なーんだ、冷たいの、兄ちゃん」

 伸治の台詞が理解できない子どもたちは不貞腐れて頬を膨らませている。

 伸治は中学に入ってからというもの、帰ってから寝るまでずっと勉強漬けだ。
 
 少し気難しくなった気がする。

 月雫はその理由がわかる年齢になった。

 伸治の言う通り、この『ひまわり』にいる子どもたちは、『マイナスからのスタート』だ。
 
 スタートラインからすでに違っている。

 恵まれない境遇といっていい。

『普通』の子どもと肩を並べるためには、人一倍努力しなければ追いつけないし、それを嘆いたところで、誰も助けてくれないのだ。

 『ひまわり』では、早く大人になることを求められる。

 18歳になったら、自立して自分だけの力で社会で生きていかねばならない。
 
 月雫は、それが薄々わかる歳であったし、伸治が焦る気持ちもよくわかる。
 
 伸治に振られた子どもたちは、彼のことなど瞬時に忘れてしまったように早々に機嫌を直して庭へ戻って遊びを再開した。

 遊びに加わる気になれず、月雫はぼうっと子どもたちが楽しそうにはしゃぐ様子を眺めていた。



 笹垣月雫は、生まれてまもなく児童養護施設『ひまわりの(その)』に預けられた。

 両親の顔も名前も知らない。

『月雫』という名前をつけたのは両親であったと『ひまわり』の職員に教えられたが、名前の由来も顔も知らない両親のことも知りたいとも思わなかった。 

 しかし、思春期を迎えた施設で暮らす子どもたちがそうであるように、月雫は自分が親に捨てられたという現実を理解しつつあった。

──わたしは、いらない子なのかな。
 
 そんな考えがぐるぐると頭の中で渦巻き、鍋にへばりついた焦げあとのように払拭することができない。

 気がつけば周りに年上も年下の子もいる環境だった。

 年下の子どもはまだ赤ちゃんも同然で、歳を重ねるにつれ、『お姉さん』の役割りを求められることが増えた。 

 幼い子どもたちは月雫に懐いてくれたし、施設の中はいつも賑やかだったが、月雫の孤独と寂しさは日増しに募っていった。

──どうして、わたしたちは捨てられたんだろうね。

 施設内を走りまわる子どもの足音を聞きながら、やるせない気持ちになる。

──わたしたち、なにか悪いことでもしたのかな。

 両親を持つ子どもが『普通』なら、なぜ自分たちにはその『普通』が与えられなかったのだろう。

 どうして、なぜ、と疑問ばかりが思考のほとんどを占める。

 神様に、いじわるされているのかな。

──ここにいる子どもは、みんな良い子ばかりなのに、神様ってひどいよね。

「月ねえ、大丈夫?」

 5歳の由香(ゆか)の大きな瞳に顔を覗き込まれて、月雫ははっと現実に帰った。

 最近、こんなふうに考えごとにふける時間が多くなったな、と自分でも自覚する。

「大丈夫だよ、ほら、ご飯食べよう」

 月雫が微笑むと、由香はツインテールの髪を揺らして嬉しそうに「うん!」と笑った。

 食事の席は、いつも騒がしい。

 男の子は食事そっちのけで遊びはじめるし、それを注意する職員の怒号が飛び交い、それを聞いて泣き出す女の子もいる。

 小学校高学年にもなると、大人しく食事をすませるのだが、15人いる子どものうち、半数は幼稚園から小学校低学年なので、食事ひとつとっても手がかかる。

 月雫は年下の子どもの食事のサポートをしつつ、自分は施設の職員に迷惑をかけないようにしっかりしないといけないと、決意を新たにした。



 その日、月雫は日直だったため、普段より早めに『ひまわり』を出た。

 夏のはじまりのじめじめとした湿気がまとわりつくすっきりしない朝だった。

 まだ人がまばらな通学路を辿っていると、突然上空に暗い雲が湧きはじめて、太陽を隠し頭上から影を落とした。

 空を見上げると、今にも雨が降り出しそうだった。

 遠くから雷鳴が聞こえる。

 天気予報では雨の予報はなかったので、傘は持っていない。

 月雫は走り出した。

 学校までは徒歩10分ほど。

 学校に到着するのが先か、雨が降り出すのが先か、ぎりぎりの攻防だ。

 通学路を半分過ぎたころ、風が強くなりはじめ、大粒の雨が降り出した。

 ランドセルの中で教科書が、がたごととリズミカルに音を立てる。

 灰色の雲から容赦なく激しい雨が地面に叩きつけ、暗い空に稲光が走る。

「嘘でしょ、濡れちゃう!」

 ランドセルを傘代わりにしたが、雷鳴と雨に追いかけられ、ものの数分で月雫はびしょ濡れになった。

 呼吸を弾ませながら小学校に到着すると、髪からぽたぽたと水滴が昇降口の床に落ちる。

 水を吸った洋服が身体にぴたりと貼り付いてひどく不快だ。

 上履きに履き替えながら、ハンドタオルを取り出して肩ほどの長さの髪を拭う。

 誰の姿もない廊下を歩いて、3年生の教室へと向かった。

 窓の外を見ると、雨脚はさらに強まっていた。

 土砂降りだ。

 3年2組の教室について、後方のドアを開ける。

 誰もいないと思っていた月雫は、室内に人影を認めて飛び上がらんばかりに驚いた。

 そして、そこにいた人影の姿にも驚いてしまった。

「と……徳山くん……」

 思わず漏れた月雫の呟きに振り向いた徳山勇斗は、上半身裸だった。

 乱入者の月雫を目にして、彼もびっくりしている。

 しかし、月雫が驚いたのは、そこにいたのが徳山勇斗だったからでも、彼が裸だったことでもなかった。

 勇斗の身体のそこかしこに点在する痣や火傷のあと。

 それがただの怪我でないことは、一見して月雫にもわかった。

 月雫の視線に気づいた勇斗は、素早く体操服を頭から被った。

 勇斗の髪も濡れている。

 どうやら、月雫と同じように、登校中に雨に降られたらしい。

 月雫も、持っていた体操服に着替えようとしていたので、きっと勇斗も同じことを思いついたのだろう。

「あ……あの、おはよう」

 混乱した月雫は、しどろもどろになりながら、なんとも間抜けな声音で挨拶をした。

 勇斗は、声を絞り出して頬を引きつらせながら不器用に笑いかけた月雫を(かたき)のように睨んだまま返事をしない。

 今日の日直は、月雫と勇斗だった。

 はじめてふたりきりで話せるチャンスだと密かに期待していた月雫は、眼光鋭い勇斗の表情に(ひる)んでしまった。

「あ、す、すごい雨だね。
 わたしも濡れちゃって……」

 苦笑いしながら、自分の席にランドセルを置くと、体操服を引っ張り出し、逃げるように女子トイレへと向かう。

 教室を出る際、勇斗の鋭い視線が突き刺さるような気がした。

 強まるばかりの豪雨の音を聞きつつ廊下を歩きながらも、勇斗の身体にあった痣や火傷のあとのことが頭から離れない。

 そういえば、と思い出す。

 1年生のころから、勇斗は決してプールに入らなかった。

 みんなが楽しくプールで遊んでいても、水着になることは一度もなかった。

 月雫は、はっとした。

──もしかして、あの傷あとを誰にも見られたくなかった?

 隠しておきたかった?
 
──虐待、なのかな。

 『ひまわりの園』でも、親からの暴力に傷つけられ、実の両親から引き離された子どもが暮らしている。

 そういう子が発する自分を過小評価するオーラが、確かに徳山勇斗からは感じられる、そんな気がした。

 ただ、月雫はまだ子どもだ。

 普通の家庭に暮らす子どもより、そういったデリケートなことに少しだけ敏感ではあるものの、ただの憶測や思い込みなどの可能性だってある。

 決めつけることも訳知り顔もできない。

 でも、もし勇斗が苦しんでいるとしたら……?

 気づけたのが、自分だけだったとしたら?

 救えるのが、自分だけだったとしたら?

 そんなふうに考えるのは傲慢だろうか。

──助けてあげたい。

 彼の苦しみから目を背けることは、月雫にはできそうになかった。

 体操服を胸元で握りしめ、月雫はきつく目を閉じた。


 結局、日直として過ごした一日のなかで、月雫と勇斗が話をする機会はなかった。

 勇斗は与えられた仕事を黙々とこなし、黒板を消すのも日誌を書くのも担任の先生に提出するのも、すべてひとりでこなしてしまい、月雫が出る幕はなかった。

──避けられている。

 やはり、朝の出来事が尾を引いているのだろうか。

 知ってはいけないこと、知られたくないことだったのかもしれない。

 ただ、そうすると、勇斗があの怪我のことを隠そうとすればするほど、疑いは深くなる。

──どうすればいいのかなあ。

 すっかり晴れた空を見上げながら、帰り道の地面に溜め息を落とした。



 それから数日後のことだった。

 月雫は放課後、年下の子どもたちを連れて、近所の公園にきていた。

 夕飯までの間、子どもたちの遊び相手になるのはほとんど月雫の役目のようになっていた。

 陽が傾きはじめ、空が紫に染まり出した時刻になって、そろそろ帰ろうと声をかけようとしたとき、公園の隅のベンチに座っている人物に目が留まった。

「月ねえ〜?
 帰ろうよ〜」

 公園の入り口に立った由香が月雫を呼んだ。

「うん、わかった、行こう」

 子どもたちに駆け寄ると、公園と目と鼻の距離にある『ひまわり』へと向かった。


「徳山くん」

 子どもたちを送り届け、その足で公園へとんぼ返りした月雫は、暗がりのベンチに座る少年にそう声をかけた。

 わずかに残った太陽の残滓が徳山勇斗の顔を照らし出した。  

「どうしたの、もう遅いよ、帰らないの?」

 月雫は、なけなしの勇気を振り絞って話しかけた。

 しかし、勇斗はうつむいたまま答えようとしない。

 普段なら、勇斗から醸し出される近づくなオーラに二の足を踏んで会話を諦めるのだが、この日の月雫は、覚悟が違った。

 たとえ深入りされたくない領域に踏み込んで拒否されたとしてもいい。

 勇斗がつらい思いをしているのなら、力になりたい。

 それが憶測や思い込みだったら、そちらのほうがよほどいい。

 だから、体当たりするつもりでぶつかってみよう。

 月雫の正義感が、そんな行動を取らせた。

 月雫は勇斗の隣に腰かけた。

 勇斗は相変わらず無言で、遠く沈みゆく太陽を眺めている。

 なんの反応もないまま立ち去られるほど拒絶されることはなく、密かに安心したものの、距離感を埋める糸口を月雫は見つけられないでいた。

──嫌われてるな、わたし。

 沈黙のなか、月雫が自嘲の笑みをそっと浮かべた、そのときだった。

「うちに帰りたくないんだ」

 と、ぽつりと勇斗が言葉を落とした。

 勇斗からリアクションがあったことに驚きつつ、月雫はこわごわと、しかし、できるだけなんでもないことのように、探り探り()いた。

「それって、もしかして、身体の火傷と痣に関係ある?」

 勇斗が息を呑む気配がする。

 月雫も身体を強張らせた。

 返事はないだろうと、月雫はそう思っていたが、隣から諦念(ていねん)の溜め息がしたかと思うと、勇斗が小さくうなずいた。

「家族の、誰かに……?」

 その問いかけに勇斗はなにも言わなかった。

 月雫も、それ以上尋ねることをやめた。

「じゃあ、うちにきなよ」

 自然に、本当に自分でもびっくりするくらいするりと、そんな言葉が口をついて出た。

「え?」

 勇斗が目を丸くし、月雫を凝視した。

 初めて真正面から浴びる勇斗の視線にかすかに動揺しながら、でも月雫は笑みを浮かべて一息に言った。

「あ、うちっていっても、普通のうちじゃなくて、養護施設、なんだけど。
 わたし、赤ちゃんのときからそこで育ってね。
 ……あ、そんなこと徳山くんにはどうでもいいか、あはは。
 で、ね、他の子がうるさいのさえ我慢してくれれば、夕ごはんくらい作ってくれると思うよ」

 だから、どう?と月雫は勇斗の顔を覗き込む。

 困惑顔になった勇斗だったが、暗闇に支配されつつある夜のはじまりに心細さを感じた様子で迷いながらも月雫の誘いに応じた。

 うなずく勇斗の隣で、月雫は人知れず心の中でガッツポーズを決めた。

 意気揚々と勇斗を連れて『ひまわり』の玄関を入り、「ただいまー」と声をかける。

 靴を脱ぎ、勇斗の分のスリッパを用意していると、「お邪魔します……」と恐縮した様子の勇斗が玄関ドアをそっと閉めながらか細い声で言った。

 スリッパに足を通している勇斗を目ざとく見つけた子どもたちが、リビングからどやどやと押し寄せてくる。

「月ねえ、それ、誰ー?」

「新しくうちに住む人ー?」

 遠慮なく好奇の視線をぶつける年下の子どもに勇斗は目を白黒させている。

「こら、騒がないの。
 徳山くん、本当、うるさくてごめん」

 月雫が子どもたちを注意していると、騒ぎを聞きつけたのか、キッチンから中年女性が姿を現した。

「なに騒いでるの、もうすぐ夕ごはんが……あら?」

 エプロンをつけた中年女性──施設長の赤崎(あかさき)ハナが玄関に佇む月雫と、勇斗、そのふたりにわらわらと群がる子どもたちを見て驚いた顔を作ったあと、月雫を肘で小突いた。

「え、月雫、もう彼氏連れてきたの!?
 いつ彼氏なんか作ったのよ!」

「ち、違うよ、ハナちゃん!
 と、友達!」

 顔を真っ赤にしながら月雫が叫ぶと、勇斗が弾かれたように顔をあげた。

 その反応に、はっとなった月雫は慌てて勇斗に向き直る。

「ごめん、いきなり友達なんていって馴れ馴れしかったよね?」

 月雫が眉を下げながら、勇斗の顔をうかがうと、困惑顔の勇斗が、ぶんぶんと首を左右に振った。

「そんな……嬉しかったから、友達っていってもらえて」

「そ、そっか……。
 それなら、よかった」

 月雫も勇斗も、ともに安堵の表情を浮かべる。

 そんな初々しいふたりのやり取りを眺めていたハナは、丸い顔に満面の笑みを作って勇斗を手招きした。

「月雫が友達を連れてくるなんて初めてよ。
 よかった、ちゃんとお友達がいて。
 いらっしゃい、ええと、お名前は?」

「……あ……徳山、徳山勇斗です。
 はじめまして、よろしくお願いします」

「勇斗くんね、はい、はじめまして。
 しっかり挨拶できてえらいわねえ。
 さ、どうぞ、もうすぐ夕ごはんできるから、食べていってね」

「え……でも、急にきて迷惑なんじゃ……」

「子どもが気を使う必要ないの!
 それに、いまさらひとりやふたり増えるなんて問題ないわ!」

 すると、ハナの横から虎太郎が割り込んで嬉しそうに言った。

「経営が苦しい、だけどね!」

 虎太郎の台詞に、ハナがからからと明るい笑い声をあげる。

「そうそう、経営が苦しいのは変わらないってね!」

『経営が苦しい』はハナの口癖だ。

 溜め息をつきながら、子どもの前で、しょっちゅう平気で口にしている。

 ハナは養護施設の施設長として経営に頭を悩ませながら、自身も職員として調理や掃除、洗濯などの家事を担当して、子どもに愛情を持って接してくれる施設の『お母さん』だ。

 施設の子どもたちが過剰な劣等感を抱かずに、のびのび過ごせるのは、子どもたちをハナが太陽のように照らしてくれるおかげでもある。

 ふっくらとした体型に絶やさない優しげな笑顔、おおらかな性格のハナは何人もの『子ども』を育て送り出してきた。

「さあ、勇斗くんも食堂へどうぞ」

 食堂、とはいっても十二畳ほどの畳敷きの和室に長テーブルが置かれているだけの質素な部屋である。

 人数分の座布団が並び、あちらこちらにおもちゃや宿題のプリントなどが散乱している。

 ふすまで仕切られた隣はリビングで、同じく畳敷きの部屋にはテレビがあり、普段は子どもたちが思い思いに過ごしている憩いの場所だ。

「はい、座って。
 いただきますしましょう」

 伸治に勉強を見てもらったり勇斗に群がっていた子どもたちが、目を輝かせてそれぞれの座布団に座る。

「ハナちゃん、今日はなに?」

「カレーよ、たくさん作ってよかったわ。
 勇斗くん、遠慮せずたくさん食べてね」

 新しい座布団を与えられた勇斗は、「は、はい……」と緊張の面持ちで答えた。

「ハナちゃんのカレーとってもおいしいんだよ、はやとくんも食べたらほっぺがおちちゃうよ!」

 由香が勇斗の隣に陣取りながら、むに、と自分の頬をつまんでみせる。

 由香にどう接していいのかわからないらしく、勇斗は曖昧な表情を浮かべて口の端を不自然に持ち上げた。

 子どもには慣れていないようだ。


 ハナとそれを手伝う子どもによって手際よく皿が並べられ、全員で手を合わせて「いただきます」と言うと、食べ盛りの子どもたちが食事をはじめた。

「勇斗くん、足りなかったらおかわりしてね。
 男の子は食べるのが一番よ」

 ハナの言葉に再び勇斗が頭を下げる。

 そして、おもむろにスプーンでカレーをすくうと、口に運び咀嚼する。

「美味しい……」

 まだ、ほかほかと湯気が立つカレーを頬張ると、勇斗は消え入りそうな声で感想を漏らした。

「美味しい、です」

 ハナが福々しい顔をくしゃっとさせて笑う。

「本当?
 お口に合いましたら光栄ですわ、王子様」

 ハナの言葉に子どもたちが爆笑する。

「ハナちゃん、なにそれ!」

「あら、勇斗くん、まるで王子様みたいな綺麗な顔してるじゃない。
 うちの子にはいないタイプだわあ」

「ふーん、王子様かあ。
 確かに、はやとくん、すっごくイケメンだね」

 ハナと女の子たちにきらきらとした瞳で熱視線を突き刺された勇斗はたじろいで顔を引きつらせている。

「もう、ハナちゃんまで……。
 徳山くん、ごめんね、気にしないで」

 月雫が申し訳なさそうに謝るが、勇斗は思いの外迷惑そうではなかった。

「あ……平気、だよ。
 こういうの、知らない人とごはん食べる機会、ほとんどなかったから、どうしたらいいのかわからなくて……」

 だから戸惑っているだけだと、勇斗は早口で説明した。

 どうやら不快に感じているわけではないらしいとわかり、月雫は胸を撫でおろす。

 がやがやとやかましく話す声、食器を打つスプーンの音、男の子同士ではじまる小競り合い、注意する大人の真似事をする女の子、遊びだす幼児──。

 食事の時間は、いつも混沌としている。

 自分の食事そっちのけで子どもたちの面倒を見ていたハナが、思い出したように勇斗に尋ねた。

「そういえば、勇斗くん。
 おうちの人にここへくることは話してあるのかしら?」

 ハナの問いかけに、勇斗の顔がわかりやすく強張る。

「……うちの家族は……。
 ぼくが帰らなくても、気にしないから……」

 勇斗の受け答えにハナが眉を吊り上げる。

「あら、子どもを心配しない親なんていないわよ」

 勇斗が深く沈んだ顔色になっていく。

「うちは……そうなんです。
 親が大切なのは兄ちゃんだけで、ぼくのことなんて、どうでもよくて……」

 消え入りそうな勇斗の告白を聞いたハナが笑顔を消し、神妙な表情になる。

「……そう。
 勇斗くん」

 ハナが居住まいを正して言うので、勇斗も、はい、と背筋を伸ばす。

「もし、家にいるのがつらかったら、いつでもうちにきていいのよ。
 ごはんを食べさせてあげることくらいしかできないけど、ここにいれば他の子どももうるさいし、寂しくはないはずよ。
 帰りたくない日は、ここにおいでね」

 ハナの包み込むような優しい笑顔に、勇斗が緊張を解いて、しかしもう一度険しい顔になる。

「でも……。
 迷惑なんじゃ……」

「子どもが気を使わない!
 他の子を見なさい、わがままばかりで自分勝手で、やりたい放題でしょ?
 でもね、子どもはそれでいいの。
 わがままを言って許されるのは子どもの特権。
 みんな、わがままを言って大人になるの。
 そんなに早くから、大人の顔色ばかりうかがうことはないのよ。
 自分を抑えるのだけは、やめなさいね。
 いつか限界を迎えたとき、一番傷つくのは、勇斗くん、あなたなのよ。
 逃げたかったらいくらでも逃げていいの」

 ハナの珍しく真面目な説法に、勇斗だけではなく、他の子どもたちも静かに話を聞いている。

 優しいだけではない、ときには厳しいことも、わかりやすい言葉にして伝えてくれるのも、ハナの持つ一面だった。

 大人は自分のことをちゃんと考えてくれている、子どもは、そう実感することで、健やかに成長していける。 

「わかった?
 だから、これからも安心してここにきなさい。
 ここは、いつでもあなたを待っているし、逃げ場所になれるの。
 非行に走っておかしな大人に騙されるようになったら取り返しがつかないわ。
 それなら、うちに入り浸ってくれたほうがどれだけ安心か。
 わたしたちは、勇斗くんの居場所になれるのよ」

 柔らかく諭すハナの言葉に、きゅっと唇を引き結んで、勇斗がうなずく。

 その口元が、わずかに引きつっている。

 泣くのを我慢しているのだ、と月雫は気づいて、そっと顔を逸らした。

「あら、変な空気になっちゃったわね。
 誰のせい?」

 静まり返った食堂に、ハナのわざとらしい声が響いて、「ハナちゃんのせいでしょ!」とこの施設の最年長、高校1年生の綾子(あやこ)が苦笑いしながら突っ込みを入れる。

「あら、わたしそんなに変なこと言ったかしらねえ。
 カレーが冷めちゃうわ、早く食べましょう」

 ハナの一言をきっかけに、食事が再開された。

 それからは、いつもの団らんという名の喧騒が繰り広げられ、賑やかな夕食は終わりを告げた。



「ごちそうさまでした」

 玄関に立った勇斗が深々とハナに頭を下げた。

「お粗末さま。
 本当に、家まで送っていかなくて大丈夫?」

 ハナは施設の子どもへと向ける慈愛に満ちた眼差しを勇斗へも向けている。

 それを受けて、勇斗は初めて薄く笑った。

 年相応の、照れたような、はにかんだ微笑みだった。

 端正な勇斗の笑顔に、月雫の心臓が撃ち抜かれる。

──わたし、徳山くんが、本当に大好きだ。

 勇斗を見送るために玄関に立っていた月雫は、急に恥ずかしくなって赤面したままうつむいてしまう。

「じゃ、気をつけて帰ってね。
 また、いつでもくるのよ」

「はい、ありがとうございました」

 勇斗はもう一度頭を下げると、『ひまわり』を出ていった。



 それ以来、勇斗はたびたび『ひまわり』へやってきた。

 子どもたちと一緒になって遊んだり、積極的にハナの手伝いを申し出たりして、すっかり施設の一員となりつつあった。

 子どもたちも勇斗によく懐き、今では月雫よりも勇斗と遊びたがるほどだ。

「月ねえ、今日勇斗くんこないの?」

 と、帰宅すると子どもたちに聞かれるくらい、子どもたちは勇斗を気に入っているらしい。

 学校で勇斗と話す機会も圧倒的に増えた。

 話してみると、勇斗はごく普通の男の子で、どうやら月雫に心を許してくれたようで、ふたりの会話は弾んだ。

 勇斗の笑顔を見る回数も格段に増した。

 どんなささいなことでも、くだらないことでも、勇斗と話せるだけで月雫にとっては嬉しい進歩だった。

 月雫は、どんどん勇斗に惹かれていった。


「綺麗だね」

 縁側に座って、子どもたちが花火をしている様子を眺めながら月雫が言うと、隣に座る勇斗も、そうだねと同意した。

 夏休みの真っ只中の夕方、『ひまわりの園』では中庭で花火大会が催されていた。

 蒸し暑い熱帯夜の中、手持ち花火を子どもたちが歓声を上げながら楽しんでいる。

 花火を見ているうちに、月雫はむくむくと膨らんだ問いを、もう無視できなくなった。

 花火──火傷あと。

「あの、ね。
 勇斗くん」

 ぎこちなく切り出した月雫に、「ん?」と勇斗が聞き返す。

 すうっと息を吸って、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、月雫は訊いた。

「身体の痣と火傷のあと、見ちゃったでしょ、わたし。
 それで、避けられてるんじゃないかなって、思ってたの」

「……ああ」

 勇斗が気まずそうに漆黒の空を見上げる。

「……あれ、うちの人に、されたの?」

 中庭に響く歓声と花火に照らされた勇斗の横顔。

 目がチカチカするような、眩しい花火の光りにさらされた目に縁側に置かれた蚊取り線香の煙が染みる。

「……兄ちゃんが、殴るんだ」

 ぽつりと言葉を勇斗が落とした。

「痣も火傷も、全部?」

「そう。
 でも、父さんも母さんも知らない」

「どうして、言わないの?」

「言っても信じてくれない。
 それに、告げ口したってバレたら、もっとひどく兄ちゃんに殴られる。
 ……殺されるかもしれない」

 月雫が息を呑む。

「怖いの、お兄さん」

「怖いよ。
 世界で一番怖い。
 逆らうなんて、絶対できない。
 だから、月雫ちゃんも、誰にも言わないで。
 ハナちゃんにも」

「……わかった。
 ふたりだけの秘密ね」

 勇斗がうなずいたそのとき、「勇斗兄ちゃんも一緒に花火やろうよー」と子どもたちが勇斗の腕を掴んで中庭へと引っ張っていく。

 先程まで憂いが浮かんでいた勇斗の表情は、すっかり子どもたち同様楽しそうな笑顔に変わっていた。

「月ねえ、どうしたの、月ねえも一緒に花火やろ?」

「うん!」

 勢いをつけて立ち上がると、中庭に降りてしゃがみ込み子どもたちに交じって線香花火に火を点けた。

「線香花火、誰が最後まで落とさないか、対決しようよ!」

 誰かがそう提案し、月雫たちは花火遊びに興じた。   

 それは、『ひまわり』の子どもと勇斗にとって、暑くて長い夏の、忘れられない思い出を作った一夜となった。  




 それは、月雫が10歳になった秋のことだった。

 なんの前触れもなく突然、勇斗が学校にこなくなった。

 頻繁に顔を出していた『ひまわり』にも、ぱったりと姿を見せなくなった。

 勇斗のスマホに連絡しても、返事がくることはなく、その不気味な沈黙に、なんともいえない嫌な予感が膨らんでいく。

 月雫が内心で不安を募らせていたころ、クラスで真偽不明なある噂話が流れはじめた。

『徳山勇斗は飲酒と煙草で捕まった』

 まことしやかに流れる噂話に、月雫は目を見張った。

──嘘、勇斗がそんなことするはずがない。 

 しかし、勇斗が不自然に姿を消したのは事実だ。

 勇斗の身になんらかの異変が起きているのかも知れないと思うと、いてもたってもいられない。

 早く勇斗に会いたい、会って真相を確かめたい、ただそれだけを願って、じりじりした焦りと時間だけが浪費されていく。

 落ち着かない日々を過ごす月雫が勇斗と再会できたのは、噂話が流れはじめて2週間後のことだった。

 いつもの公園の隅のベンチに、いつかのように勇斗が座っていたのだ。

「勇斗!」

 思わず月雫が叫ぶと、うなだれていた勇斗が、ゆるゆると顔を上げる。

「……月雫」

 まだ夕方の五時だというのに、気が早い太陽はすでに姿を消しつつあり、辺りは薄暗かった。

 久しぶりに見る勇斗は、非常に疲れた様子だった。

 覇気がなく、長い髪もぼさぼさに乱れ、目も虚ろ、弱々しい街灯に照らされた目元にはクマがくっきりと濃く刻まれている。

「久しぶり。
 元気だった?」

 月雫は動揺を押し殺して、わざと無遠慮に、あえて空気を読まずに明るい笑顔を浮かべてベンチの隣に腰かける。

「寒くない?
 こんなところにいないで、『ひまわり』にくればいいのに」

 2年ほどをかけて、勇斗とは強固な信頼関係を築いてきたつもりだ。

 その信頼関係に賭けるように月雫は、あくまで『普通』に『当たり前』の口調を変えずに、でもできるだけ明るい声で話し続けた。

 少し、わざとらしいくらいに。

 うつむいたまま、勇斗は無言を貫き通す。

 両足をぶらぶらと揺らし、刻々と色彩を変える晩秋の空を見上げながら勇斗が言葉を発するのを辛抱強く待つ。

 やがて、根負けしたように勇斗がぽつりと(こぼ)した。

「ぼくの変な噂、流れてるんだろう?」

 月雫は一瞬顔を強張らせ、しかし意志の力ですぐに表情を取り繕う。

「……変な、ね。
 うん、噂は流れてる」

「どんな?」

「勇斗が、お酒、飲んだとか、煙草、吸って捕まったとか。
 だから、学校にこないんだって」

 勇斗が小さく笑った。

 疲れをにじませた、皮肉げな笑い方だった。

「14歳未満は逮捕されないんだよ。
 でももう、そこまで漏れてるのか。
 父さんが火消しに躍起になったわりには、情報が漏洩してる」

「ろうえい……?」

 頭の中で、勇斗の言葉を漢字に変換できず、月雫が首をかしげる。

「おおかた、お酒と煙草を買ったところを誰かに見られてたんだろうな」

 勇斗はどこか他人事のように独りごちると、達観したような目つきで遠くを見つめ唇の端をゆがめた。

「……でも、勇斗はやってないでしょ?」

 月雫が言うと、疲弊の色を隠せない勇斗が目を見開いて月雫の瞳を見つめた。

「……月雫は、信じてくれるの、ぼくのこと?」

 上目遣いに見上げてくる勇斗の大きな瞳は、不安をはらみ、うっすらと涙が膜を張っていた。

「信じるよ。
 勇斗は、やっちゃいけないことをするような子じゃない」

 月雫がそう断言すると、こらえきれなくなったのか、勇斗が顔を覆って泣きはじめた。

「……信じて、くれるのか、ぼくのことを……月雫は……」

 勇斗の泣き声が次第に大きくなる。

「父さんだって、母さんだって、ぼくの言うことを信じてくれなかったのに……」

 丸まって泣きじゃくる勇斗の背中を、月雫はそっと優しく撫でてやる。

 その先は、もう言葉にならなかった。

 勇斗は、言葉を知らず泣くことで自己主張する赤子のように絶望と諦めをない交ぜにした悲痛な声で人目も憚らず泣き続けた。

 やがて、涙が枯れるほど泣いて、落ち着いた勇斗は、なにがあったのか、ぽつりぽつりと話しはじめた。

 月雫は、たどたどしい勇斗の話を真剣に聞いた。



 勇斗の父親、善治(よしはる)は、都議会議員だ。

 他人に厳しい性格で、その厳しさは家族──息子の遥斗(はると)と勇斗にも向けられた。

 善治は、自分の地盤を継ぐ後継者として育てるべく勇斗より五歳上の兄、遥斗に幼いころから厳しく教育した。

 その結果、遥斗は成績優秀で運動神経も抜群、リーダーシップがあり、父親の期待通りの優等生に成長した。

 対する勇斗は、人と関わることが苦手で、成績も運動神経もそこそこ、特筆して秀でたところのない平凡な子どもだった。

 必然的に遥斗と比べられ、勇斗は家の中でも居場所がなく、虐げられて育ってきた。

 母親のありさは、実家が裕福で箱入り娘として育ち、働いた経験もなく、善治と結婚したあとは、専業主婦として夫を支え、善治の教育方針に一切口出しをしなかった。

 自分というものがなくて、善治に言われるがまま、流されるがままに従い、善治が遥斗を優遇するならそれに逆らわず、勇斗を毛嫌いするなら同調し、味方になってくれることはなかった。

 しかし、遥斗は善治の知らないうちに、父の望む通りの『良い子』で居続けることで、本来の自分というものを押し隠し、いつしか耐えきれなくなった遥斗の人格にはひびが入り、人知れず歪んでいった。

 勇斗が8歳になるころには、遥斗はその歪みを解消するために、自分より弱い存在の弟に暴力を働き、ストレスを発散していた。

 それが、あの雨の日に月雫が見た勇斗の身体に刻まれた痣の真相だった。

 どれだけ遥斗に殴られても、勇斗は親に告げ口することはなかった。

 善治に気に入られていない自分がなにを言っても信じてもらえないだろうと、幼いながらに親に求める期待のすべてを諦めていたからだ。

──兄ちゃんをかばうに決まっている。

 勇斗は親に愛されることを放棄した。

 愛されるための努力もやめた。

 そんなとき、決定的なことが起こった。

 善治の耳に、遥斗が酒と煙草を買っているところを見た、と報告する者がいたのだ。

 立場上、息子のスキャンダルは命取りになる。

 善治は、遥斗の部屋を徹底的に捜索した。

 その結果、遥斗の部屋から酒瓶と、煙草が見つかった。

 善治は激怒した。

 その場に居合わせた勇斗は、あまりの恐ろしさに身を縮めた。

 15歳になる遥斗は、泣きながら必死に許しを乞うた。

 そして、あろうことか、こんなことを言い出したのだ。

「ぼくが隠さなければ、勇斗が怒られると思ったから……」

 えっ、と勇斗は声をあげた。

 善治の表情が怪訝なものに変わる。

「お前が買ったんだろう?」

「はい……。
 勇斗に頼まれて、仕方なく……。
 ぼくは、止めたんだけど、勇斗がどうしてもお酒と煙草をやってみたいって言うから……。
 でも、やっぱり駄目だと思って、ぼくが預かって隠してました」

 しおらしい遥斗の告発を聞いた善治は、顎をさすりながら、威圧するように勇斗を()めつけた。

「勇斗、本当なのか」

 勇斗は、とっさに声を出せないでいたが、それでもなんとか喉から声を絞り出して言った。

「……ち、違う、違うんだ、ぼく……じゃない」

 勇斗は抵抗した。

 運命に抗うように。

 なぜだか、頭に浮かぶのは、月雫の優しい微笑みだった。

 大好きな、彼女の笑顔だった。

 勇斗は必死で訴えた。

 自分は無実なのだと。

 ところが、善治は勇斗を汚いものでも見るような目つきで睥睨(へいげい)し、一喝した。

「嘘をつくな!
 おかしいとは思ったんだ。
 遥斗が酒や煙草なんかに手を出すはずがないと。
 勇斗、お前は一体どれだけ私たちに迷惑をかければ気が済むんだ?
 まったく嘆かわしい。
 兄に罪を犯させるなど……言語道断だ」

「ち、違……」

 勇斗はすがりつくような目で反論しようとするが、轟く雷鳴のごとき迫力を持つ善治の低い声に震え上がり、恐怖のあまり語尾が濁って消えていってしまう。
 
 酒も煙草も遥斗が勝手に買ったものだ、ぼくは関係ない──。

 善治の自分を見る目つきを見て、勇斗はその言葉を飲み込んだ。

──ぼくの声なんか、父さんには届かない。

 そんなわかりきっていたことを、いまさらになって思い出す。

 なにをどうすれば、問題が平和的に解決するのか、勇斗はもうわかっている。

「……ごめんなさい」

──自分が、悪者になればいい。

 善治は、満足そうにふんと鼻を鳴らした。

 真実などどうでもいい、善治は、現実が自分の思い通りに運べばそれで構わないのだ。

「謝ればなんでも許されると思うな。
 充分反省させるために部屋から出ることを禁止する。
 ありさ、お前が見張っていろ」

「……はい」

 ありさは美しい顔に恐怖と緊張をにじませながらそうとだけ答えた。

 それから2週間、勇斗は部屋から出ることを許されず、学校に行くこともできなかった。

 遥斗は無罪放免で学校に通っていたため、酒と煙草を買ったのが、姿を見せない勇斗のほうだったのだと、噂話が伝わるうちに内容が変化していったのだった。

 
「……そんな、ひどい」

 話を聞き終えた月雫は絶句した。

「勇斗、ちゃんと本当のことを話そうよ。
 お酒のことも、痣のことも、全部正直に話すの。
 親なんだから、きちんと話せば聞いてくれる……」

「なにも知らないくせに!」

 突如勇斗が立ち上がり、激昂した。

 初めて聞く、荒々しい口調だった。

「なにも知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」

「……確かに、わたしはなにも知らないよ。
 勇斗の立場も、なにもわからない。
 でもね、わたしは勇斗の味方でいたいの。
 勇斗のことを一番に考えているから、勇斗が言われたくないことも言ってしまう……。
 勇斗を傷つけるつもりはなかったの、ごめんなさい」

 月雫が頭を下げるのを見て、我に返った勇斗は、はっと息を呑む。

「ごめん……本当にぼくは駄目だな。
 月雫を責めるなんて、お門違いもいいところだ……。
 言い過ぎた、ごめん」

「ううん、いいの……」

 月雫が泣いていることに気づいた勇斗は、激しい後悔に襲われ、寒いはずなのに妙に火照った手で、彼女の小さな両手をきつく握りしめた。

「ごめん、ごめんね、月雫」

 月雫の手は、冷たくなって震えていた。

「こんなぼくで本当にごめん。
 月雫を、泣かせなくないのに。
 月雫にだけは、笑っていてほしいのに……。
 ……月雫」

 ん?と月雫が涙に濡れた顔を上げて真っ直ぐな眼差しで勇斗を見上げる。

「好きだよ、月雫。
 ぼくには、月雫だけなんだ」

 月雫は大きく目を見開いて驚愕の表情になる。

 その反応で、勇斗は自分の想いが成就しないことを悟った。

「……いや、今のは……。
 ちょっとした勢いで……」

「本当?」

「……え?」

「わたしの、片想いじゃなかったってこと?」

「片想い?」

「だって、今、勇斗、わたしを好きって、言ったよね?」

「う、うん、言った、けど……」

「じゃあ、両想いだね、わたしたち!」

 月雫が極上の笑顔を勇斗に向ける。

 遅れて勇斗は自分と月雫が結ばれたことに気づき、濡れ衣を着せられた憂鬱すら一瞬で忘れ、これまで経験したことがないほど興奮した。

「月雫も、ぼくのこと好きでいてくれたの?」

「そうだよ!
 わたし、1年生のときから勇斗が大好きだったの。
 でも、勇斗はわたしと喋ろうとしてくれなかったから、ずっと片想いのままなんだろうなって、思ってたの」

「そうだったんだ……。
 気づかなかった……。
 ぼくが月雫を好きになったのは、初めてこの公園で声をかけてくれたときだったから……」

「なあんだ、じゃあ、わたしのほうが勇斗を好きな年数が長いんだね。
 わたしの勝ち!」

 勝ち誇ったような月雫の言葉に、勇斗は笑いながら眉尻を下げた。

「勝ちって、なんの勝負してるの、月雫。
 変なの、面白すぎるよ」

 月雫も勇斗も泣きながら、ふふふ、と笑いつづける。

 月雫は勇斗の手を握ったまま立ち上がると、ダンスでも踊るかのように華麗にターンしてみせた。

「『ひまわり』に帰ろう、勇斗。
 温かいごはん、ハナちゃんに作ってもらおう。
 もううちになんて帰らなくていいよ。
 ずっと『ひまわり』にいなよ」

「……そうしたいけど、父さんは許してくれないよ。
 セケンテイにうるさいから」

「じゃあ、怒られないぎりぎりまで、『ひまわり』にいたらいいよ。
 それなら大丈夫でしょ?」

「うん、邪魔じゃないなら、ぼくは『ひまわり』にいたい」

「ハナちゃんが邪魔なんて言うわけないよ、行こう」

 少しだけ勇斗が頼りなく寂しそうに()んだ。

「信頼してるんだね、ハナちゃんのこと。
 身近に信じられる大人がいるって、いいなあ」

 それは、自然と口をついて出た勇斗の、心からの憧憬と本音だった。

「ハナちゃんなら、勇斗のことも大切に思って、守ってくれるよ。
 子どもを育てるのが、ハナちゃんの生き甲斐なんだって。
 ……ハナちゃんにはね、1歳のときに死んじゃった子どもがいたんだって。
 自分の子どもは育てられなかったけど、わたしたちみたいな恵まれない子どもを育てることで、寂しさが埋まるって言ってた」

「じゃあ、ぼくが甘えても、受け入れてくれるかな?」

「当たり前じゃん!
 心配することないよ、行こ!」

 手を繋ぎ直すと、月雫と勇斗は走り出した。

 繋いだ手の温もりが、まだ幼いふたりに勇気を与え、その心強さに、勇斗はいつしか子どもらしい笑顔を浮かべていた。

 自分の手を引いて走る月雫の背中を、いつまでも見つめていたい、繋いだ手を絶対に離さない。

 夕闇の中、一条の希望のように光り輝く月雫の笑顔を守ろうと、勇斗は強く誓った。