これは俺からのささやかな復讐



 一週間後に二学期の終業式を控えた十二月下旬、俺は先生から直接呼び出しを受けた。
 冬休みに入れば高三は受験突入で三学期の登校はなくなる。俺も本命の受験を控えている。
 だからこの呼び出しは、個人的なものだろうと直感的に思った。

 放課後、少しだけ緊張して、理科準備室のドアをノックした。

「本当に申し訳ない」

 先生は俺を見るなり腰を折った。担任ではなく一人の男として深く陳謝した。

 ワイシャツネクタイの上に白衣を纏った武藤先生は、ここに赴任して五年目の二十七歳。
 神経質そうな細面の顔に地味な黒縁眼鏡、厚めの前髪をもっさりとさせ、真面目でジョークも言わない男だが、生徒からはムトーちゃんと呼ばれている。

「軽率な行動を取った俺の責任だ。もう、卒業するまで会わないし、幸が二十歳になるまでつき合いもしない」
 先生はいつまでも深く頭を下げていた。
「それがいいと思います」
 先生と生徒、ここを卒業しても未成年の田崎と教育者である先生では、まだ世間の目は厳しい。

「川嶋には本当に申し訳ないと思ってる、幸とのことで巻き込んでしまって謝っても謝りきれない」
「ホントですよ、デートしたいのはわかるけど、あんなベタな場所だめでしょ」
「ああ、そうだな。俺も立場を忘れて浮かれてたのかもしれないな……」

 先生は眼鏡を取ると、目を押さえて項垂れた。

 震える指先、筋張った大きな手。

 いつもの神経質そうな双眸は消え、感情の伴った熱情を苦しいほどに感じる。

 先生も田崎に真剣なのだ。

 教壇に立つ、いつもの無機質な先生ではなくて──本当はこんなにも熱のこもった眼差を持つ人だったんだ。

 相手が生徒ではなく、成人した大人なら問題なかったのに。
 田崎も好きになったのが、クラスの男だったらこんなことにはならなかったのに。

 どうして人は選択を間違えてしまうんだろう。

 自分もずっと間違えたままだ。

「川嶋は幸とつき合ってる事になってしまった訳だが大丈夫なのか?」
「いいんです。俺は誰とも付き合えねーし、報われないんだから」

 急激にこみ上げるものがあって、じわりと視界が歪んだ。
 自分で言ってその虚しさにショックを受けているとか馬鹿みたいだ。

「報われない?」
「すいません、言葉間違えた、ああ馬鹿だな、俺……」
「俺たちは秘密を共有する共犯者だ、苦しければ吐き出すのも手だぞ」

 ボロリと涙が落ちる。
 優しい言葉は危険だ。気が一気に緩んでしまう。
 相手が先生だから? それとも大人だから? 喉元でつかえる感情が制御できなくて溢れ出てきた。
 共犯者ならば言ってもいいのかな。
 先生に言ったって、何も変わらないけれど、言えないこの弱気な感情を、さらけ出したら心は軽くなるのかな。
 それとももう田崎から訊いて知ってるのかもしれない。

 だったらいいのか──言っちゃっても。

「ぶっちゃけると、男を好きになっちゃったから……」

 震える声で告白すると、先生は驚きに息を詰め、そしてそれを取り繕うように一つ呼吸した。

「──そうか、それは友達か?」
「うん……だから告白する気もないし、いいんだ」

 俺達は幼馴染より前には進めない。
 いい友情をキープするのが俺達の進む道だ。

 先生は肯定も否定もしなかった。

 田崎からは何も訊いてなかったのが反応で分かる。

 ──あいつ俺のこと黙ってたんだ。おまえすげえいいやつじゃん。

 耀司に田崎とつき合っていると嘘をついたその日から、田崎とメッセージのやり取りはやめた。
 田崎の存在を匂わせないため、メッセージの履歴も全部消した。

 耀司のために。

「気持ちを抑えるのはしんどいよな。辛いならいつでも俺に吐き出せばいい」
「はい……」
 先生の表情には、拒絶だとか蔑みはなくてホッとした。
 少しの安心に、酸素が身体の中に入ったみたいに呼吸が楽になった。

 自分たちは共犯者、ままならない恋をした者同士。

 それでも先生と田崎が羨ましい。今は許されなくても、全ては時間が解決してくれる。

 俺の恋は──解決するものはなに一つない。

 考えれば考えるほど深く深く沈んでいく。
 耀司への想いを消すしかない。
 それが一番簡単で、一番残酷な答えだ。
 早く。
 ちゃんと。
 幼馴染に戻らないと。

「受験前に辛い告白をさせて悪かったな」
「いえ」

 掠れた自分の声に、緊張してたんだと気づいた。
 黙って俺を見ていた先生の声は柔らかかった。だから短く答えて、残っていた涙を拳で拭った。

「俺からの提案がある」

 答えず先生の目を見る。

「川嶋はМ大が第一志望だろう? 最後の模試の判定はDだったよな。まずはこの冬休み、なりふり構わず勉強だけやれ。そして全力で合格を取りに行け。一つの達成感はおまえを大きく成長させる。合格を掴んだ時、もう一度その気持ちと向き合ってみるといい」

「俺、成長できるかな」

 A判定の耀司とD判定の俺。
 正直、第一志望は諦めがあった。ずっと一緒の学校を進んだ耀司と、ここで道が別れるのかもしれないと。
 それはそれで諦めるきっかけだと大きく揺れている自分がいる。
 諦めたい、諦められない、どっちつかずでずっと平行線。

「おまえらの歳の成功体験は、人生に大きな影響を与えるもんだ。ドン底から這い上がってみろよ。合格して自信をつけてみろ」
「意外……先生がそんなド根性論言うなんて」
「担任として喝を入れてるだけだよ。俺は一人でも多くの生徒を第一志望に受からせる義務があるからな」
「そうですよね。受験生の担任なんだもんなあ。俺が先生の評価落としちゃう可能性あるのか」
「おまえ一人じゃ評価はかわらないさ。ただ、合格を勝ち取った先には違う世界が広がってるかもしれないだろ? 若い今のうちに死ぬ気の努力ってのをしてみるのもいい経験になるぞ?」
「うん……そうかな」

 俺にとってチャレンジ校のМ大に合格し、耀司とまた通えたら──少しは運命が変わるのだろうか。
 狭い世界から広い世界に出て、さまざまな人と出会い、新しい人間関係を構築する。
 友達も様変わりするかもしれない。
 そうしたら、この耀司だけだった感情も変わったりするのだろうか。

 恋愛相談なのか受験相談なのかわからないまま先生に喝を入れられ、理科準備室から速足で教室に向かった。
 耀司には、先に予備校に行って自習室の席を取っといてと頼んだのに、待つと言って聞いてくれなかったからだ。
 教室の戸を開くと「お願い」と女の子の甘えた声が飛び込んできた。

「いいじゃーん、山吹の貸してよぉ」
 窓に寄り掛かる耀司の服を掴んでいる手を見て、自分の顔が醜く歪んだのがわかった。

 こんなの幼馴染の顔じゃない。

「緑」

 つまんなそうにしていた耀司の顔が、俺を見て変わる。
 歪んだ俺の心に、優越感が滲んだ。

「あ、緑チンお疲れ。田崎、教室にいたよ」

「おい」

 さっきまでの甘え声から一変、真顔になって俺を追い払う女子を、耀司がすかさず咎めた。
 不満気に女子が唇を尖らす。じっとりとした視線が耀司を取らないでと言っている。

「遅くなって悪りい。まだ職員室行かねーとだから、やっぱ先予備校行ってて」

 咄嗟に嘘をついて、自分の机に置いていた荷物を取る。
 そして耀司の反応も見ずに背を向けた。

「緑!」

 速足で離れて行く俺を耀司が大声で呼ぶ。同時に手を掴まれ、足を止められた。

「職員室行くだけだろ、何でついてくるんだよ」
「目、赤くね? 何で? ムトーちゃんに怒られた?」
「違うって、受験の話だよ。D判定で厳しいの喝入れられただけ」
「見せて」

 強引に顔を上向かせられて、耀司のドアップが迫る。
 目元を指で触れられて、顔を振った。

「ちょ、近けえって」
「泣いたじゃん、これ。そんな厳しく言われた?」
「冬休みは勉強だけしろって言われた。もーいいじゃん。あの子、用あったんじゃないの? いいのかよ置いてきて」

 耀司の胸を手で押して離すと、あーと面倒臭そうに俺の肩に腕を回す。

「俺のジャージ貸せってしつこいんだよ。緑が悪いんだぞ、俺を一人にするから」
「しょーがねーじゃん、呼び出し食らったんだし」

 女子が体育の度に行うマウント合戦。
 彼氏や目立つ男子から、ジャージを借りて着るのが女子のステータスに繋がっている。
 耀司から借りられたらそれこそクイーンだ。
 さっきはあんなに薄暗い気分だったのに、耀司が一人にするなと拗ねるのを見てそんな気も失せた。

「緑は誰にも貸すなよ」
「誰も俺のなんか借りにこねーよ」

 耀司のマジな目を見て違うと気づく。

 ──田崎に貸すなと。

 ああそうか。

 俺は田崎の彼氏だった。
 警戒して釘を刺してるんだ。

「じゃあ貸せないように俺のジャージ耀司が着なよ。俺は耀司のジャージ着るから」
「ウケる、それおもしれーかも」
 耀司は笑った。
「じゃあ、明日の体育な」
「緑が俺のジャージ着るの、彼女みてえ」
「そしたら耀司も俺の彼女じゃん」

 二人で笑う。笑い話にしかならない。

 やっぱりこの恋は不毛だ。

 肩に回ってる腕がさらにぎゅうっと力が込められて、ふと、廊下の壁に嵌め込まれている姿見を見た。
 鏡には耀司に抱き込まれているように映る俺。

 五センチの身長差。同じ制服。同じ性別。

 ジャージを取り替えたって俺達は幼馴染のままで、お遊びにしかならない。

 もうずっと耀司が好きだった。
 いつからと聞かれても答えられないくらい、気づいたら好きで好きで。
 幼馴染の特権を利用して隣にいたけれど、大学が違えばそれはもう終わりなんだ。
 隣にいるのは、違う誰かに変わってしまう。

 幼い頃から続く俺の感情は、まだ耀司といたいと諦めていなくて。

 続けたいのなら、死ぬ気でやるしかないんだ。

「そんなにМ大厳しい?」
 耀司が訊く。

「正直厳しいどころじゃねーし。先生に喝入れられたくらいよ」
「冬休み、予備校の自習室通い、俺も付き合うよ」
「いいって。俺年末年始返上で朝から夜まで自習室詰めるし。耀司は自分のペース守れよ」
「俺が緑を放っておけねーんだよ。朝起こしてやるから、一緒に頑張ろうぜ」

 そんな過保護なことを言って、肩に回した腕でグリグリ締められる。

「苦しいって。耀司巻き込みたくねーんだよ」
「俺がしたいんだよ、いい加減わかれ」

 友達に対して独占欲が強くて、面倒見がよくて。

「それで耀司まで志望校ポシャったら洒落んなんねーじゃん」
「いいね、責任感じんなら頑張れよ。俺はおまえがいないМ大に通う気はねーかんな」

 そんな殺し文句、なんで俺に言うんだよ。

 友達なのに、好きすぎるだろ。

 けれどそれがこんなにも辛いなんて思わなかった。

 М大に合格したら本当に自分に自信がつくのかな。
 それとも、諦める自信がつくのかな。

 それでも、一分一秒でも、長く耀司の特別でいたい。

 だったら──死ぬ気で頑張るしかないじゃんか。

 ──そして、時間は現在に戻る。

 大学に合格した今、見える景色はやっぱり耀司だけ。
 好きな気持ちはずっと続いてる。