土曜日、午後からのバイトに向かう途中、何度も足が止まりかけた。
それでも、駅へ向かう流れに逆らえず、俺はそのまま歩き続けた。
嘘を解く。
逃げずに、全部話す。
そう決めたはずなのに、足はまだ震えている。
謝って、謝って、たくさん謝って。
そこからの判断は耀司に任せればいいんだ。
緊張のまま、お疲れ様ですと店内に入ると耀司はまだいなかった。
スタッフルームで今日のシフト表を確認すると──耀司の出勤は消されていた。
代わりに入っていたのは──
「お疲れさまで~す」
今日はシフトに入っていなかったはずのえみ羽が入ってきて、は? と声を出しそうになった。
バイト用のグループメッセには、そんな連絡は流れていなかった。
なんで、いつの間に耀司からえみ羽に変更になったのか、訳が分からなかった。
ロッカールームで着替えを済ませ、事務所兼スタッフルームに行くと、えみ羽が鏡の前で髪をまとめていた。
「もしかして耀司とシフト交換した?」
後姿に訊く。
「そ、好きぴに頼まれたら断れないし。代わりにコレもらっちゃったし」
えみ羽はご機嫌だった。
得意気な顔をして、見せびらかすように黒いカーディガンを羽織る。
好きぴって何それ、彼氏かよ。
喉まで出かかった声を呑み込んだ。
えみ羽は羽織ったカーディガンを、まるで彼女の特権のようにギュッと首元を掴んだ。
あげたんだ、それ。
クッソ暑い七月に、長袖だぞ、それ。
見せびらかすためだけに持ち歩いてんのかよ。
耀司は今まで一度も女子にプレゼントや物をあげたことなんてなかったのに、そんなに俺と顔を合わせたくなかった?
えみ羽と交代までして、徹底的に避けるなんて。
頭の中が真っ白になって、時間だけが過ぎていった。
無理して笑顔を作って、なんとか仕事をこなした。
バイトが終わっても家に帰る気になれず、駅からの道をそのまま歩き続けた。
目的なんてなくて、ただあてどもなく、足が勝手に進む方へ向かう。
ふと、引っ越してきた頃に、よく耀司と遊びに来ていた公園が目に入った。
ここは、小さかったノエルを散歩させていた時に見つけた場所だ。
──この公園、こんなに狭かったっけ。
懐かしさが胸に広がり、気がつけば公園に足が向いていた。
園内のベンチにそっと腰を下ろす。
ブランコと滑り台と砂場しかない、小さな児童公園だった。
けれど子供の頃はもうちょっと広く感じていた気がする。
大勢で遊ぶのが苦手で、すぐ黙り込んでしまう俺にとって、大きな公園は居心地の悪い場所でしかなかった。
けれどここには、小さな子が砂場で遊び、老人がひと休みしているだけで、騒がしさがない。
耀司と二人で過ごしたこの公園は、不思議なくらい心が落ち着いたのを思い出す。
あの頃はまだノエルも耀司んちに迎えられたばかりで、俺にも懐いてたから、一緒に散歩してくれたのになぁ。
段々と習い事を始め、公園に行くこともなくなり、中学に上がるとめちゃくちゃ吠えられるようになった。
ノエルは、わかってたんだろうな。
耀司の背がぐんぐん伸びて、俺がどきどきし始めたこと。
俺はノエルの敵認定だ。
耀司を好きな女子達が、俺に向けるものと同じもの。
携帯を見ると先生からメッセージが来ていた。
無事昨日退院したこと、田崎は今日大阪に戻ったことが長文で書かれていた。
「相変わらず長いよなぁ」
ぽつりと声に出た。
そして最後には、『いつでも養子に来い』という文字にハハッと、乾いた笑いをした。
全部筒抜けじゃん。
まるで裏メッセージみたいだ。
──友達を終わらせて来いって、ことだよな。
わかってるんだ、先生。俺が覚悟を決めたこと。
あの時に言われた言葉が、先生の声で頭の中で何度もリピートする。
それがどれだけ俺にとって世界の終わりと同じなのか、わかってんのかな。
先生は頑張った先に見えるものがあると教えてくれた。
受験を通して俺が掴もうとしたものは。
耀司との未来なんだ。
ぬるい夜風が頬を掠め、じわじわと汗がにじんだ。
湿気を含んだ空気が半袖の腕にまとわりついて、何だか重く感じた。
バイト先の事務室はいつも冷房が効きすぎていて、耀司はカーディガンをロッカーに入れていた。
せっかく俺に貸してくれたのに、えみ羽が着るなんてな。
あの時ちゃんと対応できていれば、えみ羽のものにはならなかったのかな。
……今更、だ。
明日のバイトはちゃんと耀司が入っているのを確認した。
明日こそ、自分の気持ちをちゃんと伝えよう。
「しっかりしろ、俺!」
パンっと両方の頬を叩いて、くよくよする気持ちを弾き飛ばす。
帰ろ──重い腰を上げた時だった。
背後の茂みがガサガサと音を立てて、俺は固まったまま凝視した。
「ええっ」
びっくりして声を上げると、ぼすっと顔を出したのは、見た事のある犬。
「ノエル?!」
名前を呼んだ瞬間からノエルは鼻にしわを寄せ、歯をむき出して唸り声をあげる。
「何でここに」
その呟きと同時にノエルはけたたましく吠え始めた。
茂みから顔を出したまま、俺に向かって容赦なく吠えまくった。
「ノエル! 止めろ!!」
駆けてきた耀司がリードを掴むと、ノエルを抱っこして落ち着けと揺する。
「っ──…耀司」
心の準備もなく耀司と対峙して──俺は動けなくなった。
まさか、こんな所で耀司と会うなんて──
それでもノエルは耀司に抱っこされたまま、俺に向かって吠え続けた。
耀司が、何か言っている。
でも俺の耳は、ノエルの声しか拾わなくて、耀司の顔は消音したテレビみたいに口が動いてるようにしか映らない。
大嫌いな俺に向かってノエルは吠える。
食いつかんばかりに身を乗り出して、唸っては吠え、唸っては吠えてを繰り返す。
耀司に嘘をついていたことを謝って、ちゃんと自分の気持ちを伝えないと。
「──耀司、」
けれど、俺の声はノエルの声にかき消されてしまって届かない。
ノエルは耀司の腕の中で必死に吠えた。
──ああ、駄目だ。
俺の声は耀司に届かない。
そうか、俺はノエルの大切な飼い主を傷つけた敵だ。
また傷つけられないよう、守ってあげてるんだ。
なんだか心がぐにゃぐにゃになってしまって、声が出ない。
大丈夫だよ、耀司はノエルのものなんだから。
取ったりしないよ。
傷つけちまってごめんな。
何だか悲壮感だけが増してしまって、気力だけが削がれていった。
「こらっ、いい加減にしろっ。なんでいつも緑にだけ吠えるんだよ!」
ようやく耀司の声が聞こえた。
だけどもう俺のヒットポイントはボロボロで。
立っているのが不思議なくらい、心の軸がポッキリと折れてしまっていた。
耀司は尚も唸り続けるノエルを「やめろ」と叱っている。
ノエルは悪くない、悪いのは俺だ。
だから叱らないであげて。
コントロールの効かない感情があふれ、涙が滲んでしまって、耀司に見られないよう急いで拭った。
──嫌われるってこんなにも辛い。
「ノエルごめんな、大嫌いな奴に会っちゃって。すぐ消えるから」
「緑!」
ノエルの吠える声と重なって耀司が呼んだ。
「ごめんな」
顔も見ずに背を向けてダッシュした。
この場所にいるのが辛くて辛くて、逃げることしかできない。
惨めだ。
こんな惨めな俺が、耀司の目に映っていることすら惨めだ。
もう耀司と幼馴染でもいられない。
もう元には戻れないんだ。
耀司の視界に入らないよう消えるために、近くにあった路地に入り、しゃがんで泣いた。
声をあげないように声を殺して、口すらも塞いで泣いた。
