伊藤さんの代打でバイトに出た土曜日、運の悪いことにえみ羽もシフトインしていた。
最近は大学でも見てなかったのに。同じ空間にいるだけで憂鬱だった。
ランチ時のピークが終わり、午後のティータイムになると、見知った顔が来店した。
忘れるはずがない、高校三年の時の担任だった武藤先生──
俺にはまだ気づいていないようだったので、注文のアイスカフェオレを作って席まで運んだ。
「先生、久しぶりです。川嶋です」
お待たせしましたと、言葉を添えてグラスをテーブルに置くと、先生は驚きを表情に浮かべて見上げた。
「川嶋緑か。驚いたな」
「はは、何でフルネーム」
「職業病だな、卒業生はフルネームで覚えておかないと忘れてしまうからな」
「流石に俺の事は忘れないんじゃないですか?」
少しだけほくそ笑んで、テーブルを後にする。
先生は相変わらず、重めの前髪をもっさりとさせ、度のきつい眼鏡をかけてた。
田崎とはどうなったんだろう。
──まだ続いてるよな?
大学を卒業したら結婚するって田崎は言っていたけど。
あの動画以降、田崎とは連絡を取ってないんで、二人がどうなったのかは知らない。
なんとはなしに先生を見ていると、ふと顔を上げ、カウンター内にいる俺に合図を送ってきた。
追加の注文かなと思いメニュー表を持っていった。
「バイト上がるの何時だ?」
メニュー表を見せるとプリンを指差しながら先生は訊いた。
「六時ですけど」
「その後予定は?」
「ないです」
「そう。じゃあ駅ビルのA.Gバーガーで待ってるよ。俺一人だから安心して」
意味深なのは決して田崎とは一緒ではないという事だ。
「積もる話なんてないですけど。プリン追加でいいですか?」
「ああ、宜しく」
ホールにいたえみ羽がこっちを見ていたので、目を合わさず八番テーブルプリン追加と伝える。
えみ羽は小さく「ハイ」と応えると、探るような目で俺と先生を交互に見ていた。
バイトを上がるとそのまま真っすぐ駅ビルに向かった。
アメリカンダイナーの店内に入ると、音楽が大きな音で流れ、随分と賑やかだった。
「元気そうだな」
「まだ卒業して五ヶ月ですよ、そうそう変わらないって」
「そうだな──まだ五ヶ月か」
どこか噛み締めるような言い方をしていた。
先生とは卒業式以来だ。
秘密を共有したあの理科準備室から、二人でこうやって面と向かったことはなかったから。
「田崎とはまだ?」
「もちろん、つき合ってるよ。ただ幸が二十歳になる迄は、交際は自粛の約束なんでね」
先生は頼んでいたコロナビールが届くと、ライムを搾って瓶の中へ落とした。
適当に頼めと言わんばかりにメニューを渡され、ジンジャーエールとフードを二つ注文した。
「よかった、卒業してあっさり別れてたら蹴り入れる所だったわ」
「別れるわけないだろ」
迷いのない言い。
担任として教壇に立っていた頃とは違う。
酒を飲み、砕けた口調で話す彼は、ただの一人の男に見えた。
この店にいる誰もが、彼が教職者で生徒だった子とつき合ってるなんて知らないんだ。
「ちゃんと守ってるんですね。もう先生と生徒じゃないんだし、そこまで頑なに守らなくてもいいんじゃないですか?」
「幸に傷を付けたくないんだ。二十歳を超えるまで、それが俺たちのルールなんだ。将来、この出会いは笑い話になって、みんなに大手を振って祝福される幸にしてやりたいから」
「俺惚気られてるみたいじゃん」
「はは、そう捉えられたなら悪いな。別に会わなくても、ビデオ通話は毎日してる。川嶋に蹴りを入れられる心配はないさ」
「ラブラブかよ、聞きたくねー」
ガラガラとグラスに入った氷をストローでかき回す。
注文していたシカゴ風ピザと皮付きのポテトがテーブルに置かれ、食べろと先生が皿を渡してくれた。
「ゴチです」
ピザを一切れ皿に乗せると、ポケットに入れていた携帯が振動した。見ると耀司からだった。
『バイト終わった?』
通知だけ見て開かずにいると『暇して駅前』『合流しよ』と続いた。
「川嶋はどうだ?」
先生に問われてハッと顔を上げる。
「なにも……」
反射的に、携帯を隠すようにポケットへ戻した。
先生はフードに手を付けるでもなく、テーブルに手を置き俺を見ていた。
節ばった腕に大きな手のひら。
普段、同級生としかつるむ機会がないんで、担任を外れたプライベートな先生は、友達でも先輩でもない不思議な存在に感じた。
秘密を共有する関係──報われない恋をしているのだと、先生に話したことがある。
俺と先生は他のクラスメイトと比べて、少しだけ近い関係なのかもしれない。
「冬休みに入る前、俺と話したことを覚えてるか?」
「──はい」
全力で大学合格を勝ち取れと。
そうして勝ち取ってから自分と向き合ってみろと。
達成の後に人生観が変わると先生は言ってくれた。
「合格の連絡を受けた時、おまえの気持ちは本物なんだって感動したよ。D判定ひっくり返したんだからな」
「先生には本当に感謝してます。あの時の頑張りがあったから、奇跡的に合格できたんだと思います」
冬休み以降は携帯の電源は切り、連絡や娯楽の全てを絶った。
予備校の自習室に朝から夜十時まで籠り、ひたすら勉強と向き合った。
第一志望のM大三教科に絞り、十年分の過去問を徹底的にやり込み、苦手を潰した。
家に帰れば最低限の事だけやって、また部屋に籠り、暗記した部分の抜け落ちがないかチェックしてから寝る。
なりふり構わずというのはああいうことを言うんだと、振り返ると思う。
夏以降、偏差値が伸び悩んだのは、自分の中に必死さがなかったせいだ。どこかで、予備校に通い講義を受けていれば、自然と成績は上がるだろうという甘い考えがあったせいだ。
「山吹と同じ大学だろう? よかったじゃないか」
「──なんで」
思わぬ名前が出て、フォークに刺していたポテトがコロリと落ちた。
何を言わんとしているのか、目の前の先生を探るように見た。
「実は幸に聞いて知ってるんだ。川嶋の好きな相手」
「ひでえ、俺の話なんかしないでよ……」
「ははは、でも川嶋は俺と幸の関係を知ってるのに、俺は川嶋の秘密を知らないのはフェアじゃないだろ? だからさ、幸の口を割らせたのは俺。悪いね」
悪いとは微塵も思っていない口調で、先生はビールを飲んだ。
「先生って学校じゃあクソ真面目で陰キャなのに、本当は結構ズルい教師だね」
「ズルいじゃなくて、悪い、だな。生徒に手を出す悪い教師だ」
ニッコリと笑みを浮かべた。
一年間担任だったけれど、先生のこんなコミカルな顔は知らない。
神経質で反応の薄い先生なんだと、田崎とのことを知るまではずっと思っていた。
先生と生徒──境界線を引いた俺達は先生にとって未来永劫生徒であって、関係は変わらない。
それを越えているのは田崎だけで、俺はそれを知る共犯者。
生徒の枠から少しだけはみ出した関係なだけ。
「こっわ……」
皿に落としたポテトをグサリと刺して口へ運んだ。何だか分が悪くて二つ三つと続けて食べた。
「山吹に彼女は?」
「いない」
「いたことも?」
「ない」
「即答だなあ、言わせんなよって独占欲すら感じるね」
揶揄ってるでもなく、先生は感心するように頷いていた。
「そんなつもりないっスよ」
耀司の事は何でも知っている。わからないのは耀司の心の中だけ。
「川嶋は、D判定をひっくり返してМ大に合格したワケだが、どうだ? 自分の中で成長はあったか?」
「学びはありました。頑張ることの姿勢を知ったかな。努力は報われるってのを体感したんで」
「川嶋がどれだけ努力したかわかるさ。倍率も隔年現象で高かったからな。それを掴み取った世界はどうだった?」
合格で一番に思い浮かぶのは、耀司の笑顔。
滅多にはしゃがず、羽目を外すことのない耀司が、我を忘れて喜んでいる。
嬉しさが全部あふれて、俺の名前を呼ぶ声まで弾んでいて。
そんな耀司に、俺は、胸が痛くて切なくなって──心の深い所にしまい込んでしまったんだ。
──一生。
あの笑顔を失くしたくないんだと。
──それが俺の出した答えだった。
「幸せですよ。今でも一緒にいられるんで」
幼馴染の俺を優先してくれる。俺の行動を把握して動いてくれる。時間のほとんどを共有している。
でもこれはいつまで続くのか、不確かさな不安はある。
明日終わるって未来だってあるんだから。
明日耀司に彼女ができて、将来的にその子と結婚して、幸せな家庭を築くのかもしれない。
俺は耀司のそんなライフステージを、幼馴染として祝福して見届けるのか? 一番の親友として、ずっと。
チラッと時計を見る。通知が来てから三十分経っていた。
「気になる? 山吹からなら返信した方がいいんじゃないか?」
「──ハイ」
ポケットの中で携帯を握る手を、先生は気づいていた。
『悪い、買い物してるから遅くなる』
そう打って耀司に送った。
「川嶋が幸とニセの恋人になっていた間も、山吹は彼女を作らなかったんだろ? そして今も彼女はいない。幼馴染の居心地ってのはそんなにいいものなのか?」
「否定はしないです。確かに居心地いいですし」
「山吹は、川嶋と幸が恋人だった間どんな気持ちだったんだろうな」
「……内緒にされてたことを怒ってましたね」
「じゃあ山吹が大学の指定校推薦、М大取れるのにわざわざ一般で受けたの知ってるか?」
「え、──知らない」
無意識に声は低くなっていた。
「夏の三者面談で、母親は指定校推薦を希望してたし、俺も山吹の内申なら受かると勧めた。でも小論文と面接が苦手だからって理由をつけて、一般で受けるって蹴ってきた」
「うそ」
初めて知る話に、頭を打たれた衝撃だった。
だって、それってつまり耀司は、推薦なら必要のなかった予備校に通って、二月の一般入試まで俺と一緒にやりきったってことになる。
秋には終わっていたはずの受験を、わざわざ楽じゃない方を選んでまで。
それはなんのために?
「俺はてっきりМ大の上──W大を目指すかと思ってたが、確実にМ大を取りに行ったな」
耀司が合格した時に俺はケーキを買ってお祝いしたけれど、知ってたら、きっと俺は──あんなふうに笑えてなかったはずだ。
「感情ってのは、基本的に感じ合うものだ。気の合う相手とは自然に近づくし、合わない相手とは無意識に距離を取る。学生の世界なんて特に顕著だ」
「そうですね。俺は人見知りなんで、自分から近づくなんてことはないんですけど」
「川嶋と山吹は出会った時、磁石のようにピタッと気も波長も合ったんだろう。それが双方で心地いいと感じたんじゃないか? それは感情の種類は不透明でも、相手に対して好意を持ってるから──一緒にいたいんだと思うんだろう。自然な感情だ」
「はい」
「合わない相手とは離れるが、合いすぎる相手ほど、感情は乱れやすい」
意味深に先生は言葉を切ると、黙ったままの俺を伺い見た。
「だからこそ秘密を持たれると腹も立つ。お互いしか見えてない距離感が邪魔をするんだ。さっき知らなかった話を俺から聞いて川嶋はムッとしたが、今は山吹に内緒にされていたと知って心がざわついてるだろ」
頭を垂れて、テーブルの上に乗せた拳を強く握り込んだ。
先生の言っていることが、あんまりにも俺の心そのまんまだったからだ。
「あの動画が出回った後、二十歳を越えるまでつき合いを止めようと幸に言ったのは俺からだ。責任は全部俺、幸の高校時代に傷をつけずに解決するためだった。自己嫌悪に陥ったね……俺が教師なせいで幸の大切な残りの十代を一緒にいてあげられない、俺じゃなければ──もし二十歳までの間に心変わりがあって、そいつを選ぶのならそれでもいいと覚悟もしたな。でもな、俺だけじゃなかった。幸も腹の中にずっと抱えてた。生徒じゃなかったら、せめて卒業してから告白すればよかったなんて自分を責めてた」
「それはやっぱり先生たちも同じことを思ってたから?」
一呼吸付くと先生は眼鏡越しに真っすぐ見てきた。
「何が言いたいのかというと、自分だけが苦しんでいると思うのは、人が一番陥りやすい勘違いだな」
「勘違い?」
「ああ、山吹も腹の中に抱えてるさ。川嶋は山吹を散々振り回してるんだろうな、同情するよ」
「俺が耀司を振り回すなんて……」
「なら俺たちのことを話せばいい。なぜ言わない? 山吹が言いふらす奴じゃないって川嶋が一番わかってるだろう?」
わかってる、もちろん耀司がそんな奴じゃないってことは、俺が一番わかってる。
騒がしい店内の音楽が耳につき、人の話し声が洪水のようにあふれてきた。
自分の気持ちを吐露したって、それは流されていくだけだ。
なにも変わらないんだから──
「駄目なんだ……田崎を好きだったって過去がなきゃ、耀司の傍にいれない」
女の子が苦手だ。
それは耀司だけじゃなく、ワタルたちも知っている。
でも、それを耀司のせいにされたくなかった。
俺が女の子を避けるようになった原因が、あいつにあるみたいに思われるのが嫌だった。
だから女の子を好きになった過去が欲しかった。
それが本当なら、幼馴染を好きになったこの気持ちは勘違いだと言えるから。
「頑なだな、いっそ清々しいくらい」
「先生の恋人なのにすみません……」
「別にいいさ。さっき言ったけど、自分の持ってる感情は少なからず相手も持ってる。その感情の種類までは言葉にしないとわからないけど、川嶋はもっと山吹の心に寄り添うべきだと思うよ。何も知らされずに幼馴染でいることを選ばされてる山吹の方が、苦しい立場かもしれないな」
「耀司が俺に持ってるのは男の友情だよ。わかり合えてるし居心地がいいんだ俺らは」
「自信があるようだけど、わかり合えてないじゃないか。一方的に思ってるのは自分だけ、でもわかり合えてるなんて矛盾だらけだろう」
「──」
「おまえの本音は隠して、山吹が望む言葉を言ってれば満足か?」
幼馴染というポジションにいつまでもしがみついて、変化を拒む。
自分を頑なに守っているのは俺だ。
「先生あんまエグんないでよ」
「ははっ、そんなつもりはないさ。デリケートな問題だしな、無責任なことも言えない。ただ幸が好きなんて設定とっとと取っ払って本当の自分を見せろ。それが川嶋の第一歩になるぞ」
教壇に立つ時とは違った顔をして砕けて笑った。
俺は笑えるような心境でもなくて、ただ瞬きを繰り返しているだけだった。
耀司が好きだ。
どうして俺たちは、昔のままじゃいられないんだろう。
誰も二人の間に入り込む余地なんてなかった子供の頃のほうが、ずっと幸せで、楽しかった。
感情は年を重ねるにつれて育ち、わからないことばかりが増えていく。
お互いをわかり合えていたなんて、きっと嘘だ。
耀司の気持ちなんて、俺は何一つわかっていない。
そろそろ出るか、という先生の声に、俺たちは腰を上げた。
時計を見ると、一時間ほどが過ぎていた。
店を出て、駅ビルのエレベーターを降り、直結する改札まで先生と並んで歩く。
「田崎は大阪の大学ですよね、心理学かなんかでしたっけ?」
「そう、課題や実習の多い学部だからすでにヒーヒーしてるよ。大学出たら結婚なんて言ってるけど、院まで行くだろうから六年だよ、気の長い話さ」
「その約束があるから頑張れるんでしょ」
そう呟くと先生は意外だったのか、目を見開いて頷いた。
「ああ、約束か。約束なのか」
「そうでしょ、結婚て人参ぶら下げてるから走れるんだし。みんな大学入ると彼氏彼女欲しい連呼して恋バナしかしねーし、マチアブばっかで恋愛に振り回されてんなって思うよ。それを楽しんでる奴らもいるけどさ。田崎は先生がいるし、そーゆうのに振り回されないで勉強に集中できるんじゃん?」
「そうか、俺がいるからか」
「さっきも田崎が心変わりしても仕方ないなんて言ってたけど、案外先生も自信ないんだな」
「ないよ、俺はおまえらの言ってた通りの陰キャな男だよ」
「あはは、自分で言うー?! もしかして根に持ってた?」
「持つか、子供相手に。じゃあな、時間取って悪かったな、山吹に連絡しろよ」
駅の出口が見え、先生は方向を変えた。
「あ、はい。ご馳走様でした。先生、店、また来てください」
小さくお辞儀をしてから駅の外に出る階段を昇って行く。
携帯を取り出し、耀司に連絡を入れようと耳に当てた時──
「緑っ!」
後ろから腕を掴まれて振り返った。
「耀司」
階段を駆け上がってきたのか、前髪が上がり額が全開になっている。
息を細かく刻んでいた。
「おい、なんでムトーちゃんといんだよ、メッセも未読のままだし」
「悪い、先生が偶然バ先に来て──」
少し遅れて後ろからひょっこりと女の子が顔を出し、咄嗟口を噤む。
今日バイトで一緒だったえみ羽だった。
しかも耀司のカーディガンを着ている。
もう夏なのに、長袖のカーディガンを、わざわざ。
──見せつけかよ。
その時がいつ来るかなんてわからない、それが今日かもしれないなんて。
俺の視線に気づいたえみ羽が、得意気に耀司にぴたりとくっついた。
耀司は無理に離すこともできず、腕をぐいと引いたがえみ羽は離さなかった。
こんなの恋人じゃん。
彼氏のダボダボのカーディガンを着た彼女にしか見えない。
高校の時も、女の子たちはこうやって、耀司のジャージを着たがってアピールしてた。
あの時は俺と交換しようなんて言ったけど、本当は違う。
俺は、耀司のジャージを女の子たちに渡したくなかっただけだ。
耀司の物まで自分が独占したかったんだ。
「山吹くん早くいこ、お店混んじゃうよ~」
「いや、もう、行かないから」
耀司に甘えた声を出すえみ羽とのやり取りを見ていられなかった。
「行って来いよ、俺はいいから。じゃな」
「待てよ、緑っ」
耀司の呼ぶ声を振り切って、残りの階段を昇り切る。
雑踏に紛れ込むと、ざわめく駅構内は容易に姿を消してくれた。
それでも足は止まらず、駅から駆け出す。
横断歩道を渡り、家までの道のりを全力で走った。
普段ならバスや自転車を使う距離だけれど、今はこの場所から一分一秒でも早く離れたかった。
走って、走って。
とにかく遠くへ──
駅前の繁華街を抜けて、飲食店の灯りもなくなったところで足が止まった。
ハァハァと口で呼吸し、膝に手をついて息を整える。
土曜の道路はまだ車も多く走行していた。
その流れを見ながら起き上がると、歩道をのろのろと歩く。
中高のマラソン大会でも、こんな全力疾走はしない。
加減も忘れて走るなんて、どんだけ必死なんだよ。
足はヘロヘロで肩で息をしてるのに、それでも前へ進む。
耀司に彼女が出来ても祝福しないと。
それが誰であろうと、自分の望んだ未来図なのだから。
後ろで足音がした。
風が前方から吹いて、流れる汗が冷たく皮膚を掠めて行く。
──ああ嫌だ、どんどん近づいてくる。
この足音が誰のなのか、俺は見なくてもわかってしまう。
スニーカーがコンクリートを蹴る音。
脚の長い一定のリズム。
もうすぐ名前を呼ばれる。
「緑っ」
脚は無意識にまた走り出していた。
ガクガクになった脚じゃあ速く走る事なんてできないのに、それでも動かずにいられなかった。
「何で……追いかけて、来るんだよっ」
すぐ背後にいるのがわかって、息の切れた声で搾りだす。
「緑が逃げるからだろ!」
肩を掴まれて観念した。
もう息も脚も限界だった。
歩道で二人、膝に手をついて、ハァハァと大きく息をする。
まるで走り切ったランナーのように、俺と耀司はいつまでも呼吸を整えていた。
耀司の手が俺の手を取った。
「離せよっ」
「離したらまた逃げるだろっ」
「だからって道端でやめろっ。誰が見てるかわかんねーだろ」
「いいだろ、誰が見てたって」
遠くからけたたましいサイレンを鳴らした救急車が通り過ぎて行く。
その音の余韻だけが辺りに響いていた。
耀司は俺の手を掴んだまま歩き始めた。引っ張られるまま歩き出す。
いつだったかも、女子と二人でいる耀司を見て駆け出したことがあった。
その時も同じように耀司は俺を追いかけてきた。
──クソっ。
こうやっていつも幼馴染を優先するから、俺は耀司しか選べないんだ。
「あの子いいのかよ」
何も言わずに歩く耀司の背中に呟いた。耀司はチラッとだけ振り向く。
「カーディガンの礼がしたいって、付いて来られただけ。てか、俺のことなんかいいだろ、なんでムトーちゃんといたんだよ」
「バ先に来たんだよ、マジで偶然」
「バイト上がったのは六時だろ? なんで俺のメッセ無視したわけ?」
「先生に飯誘われて……タイミング逃した」
「何それ。緑とムトーちゃんが飯って、そんな接点なかっただろ」
「耀司だって、沼端さんと一緒だったじゃんか」
「緑が連絡寄越さねーからまだバ先かと思って迎えに行ったんだよ。そしたら緑はいねーし、沼端にはつかまるし──」
耀司のカーディガンを着ていたえみ羽の姿が浮かんで、俺は耀司の声を遮った。
「あーそう言えばまた着てたよな、耀司のカーディガン。高校ン時はあんなに女子に貸すの嫌がってたクセして、あの子には貸すんだな」
「緑が俺のカーディガンを貸したからだろ?!」
まるで俺を責めるような声だった。
それで全部わかってしまった。
「ああ、やっぱり、そーなってたんだ」
思っていた通り過ぎる。俺が貸したからと、いいようにえみ羽は耀司に言ったんだ。
「今日だって寒いからってまた着られたんだからな」
「はっ、こんなクソ暑い日に寒いって馬鹿じゃね。俺はな、耀司の物を人に貸したりしねーよ!」
感情のまま声を荒げると、掴む手がビクリと振動した。
耀司はしばし沈黙してから口を開いた。
「沼端が勝手に着た?」
「そーだよ、それしかねーだろっ。俺が、なんで、耀司の物をあんな女にっ。クソっ」
悔しさとか腹立ちがない交ぜになって、感情のまま吐き出す。
同じ学部じゃない。
俺の知らないところで、耀司は誰かと何かを共有している。
それすら気に入らないのに、耀司に気がある女にやるわけないだろ。
耀司は、俺を見たまま、再度掴んだ手を強く引いた。自然足が歩みだす。
「わかった。じゃあ、俺の質問に答えろよ。偶然会ったムトーちゃんと場所変えてまで話す理由は?」
「それは……」
口を噤む。
耀司は辛抱強く待っていたが、諦めたのか一つ小さく吐息すると、少しだけ歩くスピードを上げた。
日の暮れた夜陰に俺たちの住むマンションが見えていた。五棟からなるマンモスマンションが、木々に囲まれている。
「そこ座れ」
そう言って耀司は、マンションの門をくぐった中にある、緑化された歩道のベンチを指した。
もう辺りは暗いので散歩するファミリーはおらず、帰宅する住人たちが速足で通り過ぎるだけだった。
座らずに立ち尽くしていると、耀司は自販機で水のペットボトルを二本買い、一本を差し出した。
「知らないことがあるのはイライラすんだよ。またあの時みてーに、俺の知らない所で緑の世界が広がってんのかと思うとさ」
差し出されたペットボトルを受け取る。
田崎のこと。
先生のこと。
どう話せばいいのか頭はまとまっていない。
けれど、ちゃんと耀司に話して向き合わなければ、また嘘を重ねていくことになる。
言わなきゃいけない順番がある。
でも、どれから話しても地雷だ。
「先生とは、田崎と繋がってて、」
「は?」
途端に寄る眉間の皴。
田崎と言うワードに耀司はすぐに声音を強くした。
「違う、俺、高校の時、田崎と付き合ってたって事になってたけど」
「ああ」
「あれ、全部違くて」
不機嫌な顔。耀司は不穏な空気を纏わせたまま、両腕を胸で組んだ。
「……話が全然見えねーんだけど。ムトーちゃんと何の関係があるわけ?」
ここから先は、ずっと胸の奥にしまってきた話だ。
「本当は、田崎とはつき合ってなくて」
「は?」
「田崎は先生のことが好きだったんだ」
「ちょっと待て。じゃあなんであの時田崎とつき合ってるなんて嘘ついた?」
「それは……動画が、あきらかに田崎と先生だったから。バレたら大変な事になると思って咄嗟に嘘をついた」
「なんでそこまで緑がやんだよ」
「田崎も真剣だったし、放っておけなかったんだ」
一瞬にして耀司から感じる温度が下がった。
静かに広がる怒りが伝わってくる。
「てかさ、いつから田崎とそんな秘密を持つような関係になったわけ? 俺全然知らねーんだけど」
「それは偶然、先生と一緒にいるところを見て……」
「何でずっと俺に言わなかった? あの動画の時まで、田崎と知り合いなんて俺に一言も言わなかったよな」
「軽々しく人に言える事じゃないだろ」
数秒、耀司は何も言わなかった。
その沈黙の方が、声を荒げられるよりきつかった。
「──なにそれ」
冷静とは違う、静かだけどどこか皮肉のこもる声。
「必死かよ」
そう吐き捨てると、耀司は顔を背けた。目元を歪ませ無表情を繕う。
この顔を知ってる。
あの時にも見せた、影を覆う表情。
「田崎は本気なんだ。だから俺が黙ってることで協力できるならしたかっただけなんだ」
「わかったよ、緑の言いたいことはね。だけど──腹が立つ」
「え?」
耀司の視線が外れた。目を見ても合わない。
「俺は嘘で騙される方なんだろ」
「待って、耀司」
「優先されてたのは田崎か──俺を優先しろだなんて理不尽なルール押しつけた俺が馬鹿みてーじゃん」
「違う、俺の一番は耀司だ。ずっとそうしてる」
耀司からの条件を百パーセント守っていた。
なのになぜこんなにも伝わらないんだ。
不意にポケットの中でスマホが着信した。
沈黙の中、二人の間でその無機質な振動音は続いた。
俺達は目を合わせたまま、その音が切れるまで聴いていた。
「確認した方がいいんじゃねーの?」
口火を切ったのは耀司の方だった。
なのになぜか嫌な予感しかしなかった。
先生かもしれない。
それとも、先生から会ったことを聞いた田崎だったらどうする?
そんな焦燥が頭の中を駆け巡らせていて、手にすることができなかった。
「俺が見てやってもいいけど」
「──いい、」
いつもなら、耀司に見られても平気だったのに。
今は見られたくなかった。
のろのろとした動きでポケットに手を突っ込む。
その手を耀司に掴まれて引き出された。
「あ──」
手首を掴まれた俺の手のひらには、田崎と表示された画面が光っていて──
「田崎がまだ好き?」
耀司が唸るような声を上げて、俺の手首を離した。
どうして嫌な予感ほど当たるんだろう。
あの動画の事件から、一度も連絡なんかし合わなかったのに。
「好きじゃない──」
「田崎がムトーちゃんを好きでも──それでも緑はよかったんだろ」
「違う、そんなんじゃない」
「ああそうかもな。でも、おまえ、女が苦手じゃん。そんなおまえが関わろうとすんだから、それが答えだろ」
「ちょ、待て、マジで違う。そんな感情一つもないっ」
「知らねー、全然知らねーよ。全部内緒で俺は相談すらされなかった。知るわけねーよ」
手で両眼を覆い、耀司は俯く。
まるで届かない。
否定しても耀司に届かない。
心の中が閉ざされたように、俺の言葉はひしゃげて落ちていく。
田崎と恋人だった、その過去だけが欲しかった。
自分を守るためについた嘘が、こんなにも耀司を傷つけてしまうなんて。
また携帯が着信する。二人の間に振動音だけが響いた。
「はは、きちい、マジしんどい……吐きそう」
「耀司?」
「ヤメロっ」
その背に手を触れようとした瞬間払われた。
その反動で手にしていたペットボトルが落ち、キャップが飛んだ。
足元でばしゃりと音を立てて弾ける水の飛沫を、まるでスローモーションのように見ていた。
なす術もなく、足元でじわじわと零れた水が広がって行く。
ドクドクと頭の中に血流の音が鳴る。
一瞬見せた俺を見たその目が──完全に拒絶していた。
「どれが緑の本心で、どれが嘘なのかわかんねーわ」
濡れた足元を踏み鳴らして耀司は背を向けた。
追いかけろ、追いかけろよ。
今すぐ耀司が好きだと叫べ、出会った頃からずっと好きだったんだと、自分を曝け出せ。
自分を叱咤しても足は動かず、遠ざかる背中を見ているしかできなかった。
──耀司から友情の絆が切れた。
