日の暮れた夜陰に俺たちの住むマンションが見えていた。五棟からなるマンモスマンションが、木々に囲まれている。
「そこ座れ」
そう言って耀司は、マンションの門をくぐった中にある、緑化された歩道のベンチを指した。
もう辺りは暗いので散歩するファミリーはおらず、帰宅する住人たちが速足で通り過ぎるだけだった。
座らずに立ち尽くしていると、耀司は自販機で水のペットボトルを二本買い、一本を差し出した。
「知らないことがあるのはイライラすんだよ。またあの時みてーに、俺の知らない所で緑の世界が広がってんのかと思うとさ」
差し出されたペットボトルを受け取る。
田崎のこと。
先生のこと。
どう話せばいいのか頭はまとまっていない。
けれど、ちゃんと耀司に話して向き合わなければ、また嘘を重ねていくことになる。
言わなきゃいけない順番がある。
でも、どれから話しても地雷だ。
「先生とは、田崎と繋がってた」
「は?」
途端に寄る眉間の皴。
田崎と言うワードに耀司はすぐに声音を強くした。
「違う、俺、高校の時、田崎と付き合ってたって事になってたけど」
「ああ」
「あれ、全部違くて」
不機嫌な顔。耀司は不穏な空気を纏わせたまま、両腕を胸で組んだ。
「……話が全然見えねーんだけど。ムトーちゃんと何の関係があるわけ?」
ここから先は、ずっと胸の奥にしまってきた話だ。
「本当は、田崎とはつき合ってなくて」
「は?」
「田崎は先生のことが好きだったんだ」
「ちょっと待て。じゃあなんであの時田崎とつき合ってるなんて嘘ついた?」
「それは……動画が、あきらかに田崎と先生だったから。バレたら大変な事になると思って咄嗟に嘘をついた」
「なんでそこまで緑がやんだよ」
「田崎も真剣だったし、放っておけなかったんだ」
一瞬にして耀司から感じる温度が下がった。
静かに広がる怒りが伝わってくる。
「てかさ、いつから田崎とそんな秘密を持つような関係になったわけ? 俺全然知らねーんだけど」
「それは偶然、先生と一緒にいるところを見て……」
「何でずっと俺に言わなかった? あの動画の時まで、田崎と知り合いなんて俺に一言も言わなかったよな」
「軽々しく人に言える事じゃないだろ」
数秒、耀司は何も言わなかった。
その沈黙の方が、声を荒げられるよりきつかった。
「──なにそれ」
冷静とは違う、静かだけどどこか皮肉のこもる声。
「必死かよ」
そう吐き捨てると、耀司は顔を背けた。目元を歪ませ無表情を繕う。
この顔を知ってる。
あの時にも見せた、影を覆う表情。
「田崎は本気なんだ。だから俺が黙ってることで協力できるなら、そうしたかっただけなんだ」
「わかったよ、緑の言いたいことはね。だけど──腹が立つ」
「え?」
耀司の視線が外れた。目を見ても合わない。
「俺は嘘で騙される方なんだろ」
「待って、耀司」
「優先されてたのは田崎か──俺を優先しろだなんて理不尽なルール押しつけた俺が馬鹿みてーじゃん」
「違う、俺の一番は耀司だ。ずっとそうしてる」
耀司からの条件を百パーセント守っていた。
なのになぜこんなにも伝わらないんだ。
不意にポケットの中でスマホが着信した。
沈黙の中、二人の間でその無機質な振動音は続いた。
俺達は目を合わせたまま、その音が切れるまで聴いていた。
「確認した方がいいんじゃねーの?」
口火を切ったのは耀司の方だった。
なのになぜか嫌な予感しかしなかった。
先生かもしれない。
それとも、先生から会ったことを聞いた田崎だったらどうする?
そんな焦燥が頭の中を駆け巡らせていて、手にすることができなかった。
「俺が見てやってもいいけど」
「──いい、」
いつもなら、耀司に見られても平気だったのに。
今は見られたくなかった。
のろのろとした動きでポケットに手を突っ込む。
その手を耀司に掴まれて引き出された。
「あ──」
手首を掴まれた俺の手のひらには、田崎と表示された画面が光っていて──
「田崎がまだ好き?」
耀司が唸るような声を上げて、俺の手首を離した。
どうして嫌な予感ほど当たるんだろう。
あの動画の事件から、一度も連絡なんかし合わなかったのに。
「好きじゃない──」
「田崎がムトーちゃんを好きでも──それでも緑はよかったんだろ」
「違う、そんなんじゃない」
「ああそうかもな。でも、おまえ、女が苦手じゃん。そんなおまえが関わろうとすんだから、それが答えだろ」
「ちょ、待て、マジで違う。そんな感情一つもないっ」
「知らねー、全然知らねーよ。全部内緒で俺は相談すらされなかった。知るわけねーよ」
手で両眼を覆い、耀司は俯く。
まるで届かない。
否定しても耀司に届かない。
心の中が閉ざされたように、俺の言葉はひしゃげて落ちていく。
田崎と恋人だった、その過去だけが欲しかった。
自分を守るためについた嘘が、こんなにも耀司を傷つけてしまうなんて。
また携帯が着信する。二人の間に振動音だけが響いた。
「はは、きちい、マジしんどい……吐きそう」
「耀司?」
「ヤメロっ」
その背に手を触れようとした瞬間払われた。
その反動で手にしていたペットボトルが落ち、キャップが飛んだ。
足元でばしゃりと音を立てて弾ける水の飛沫を、まるでスローモーションのように見ていた。
なす術もなく、足元でじわじわと零れた水が広がって行く。
ドクドクと頭の中に血流の音が鳴る。
一瞬見せた俺を見たその目が──完全に拒絶していた。
「どれが緑の本心で、どれが嘘なのかわかんねーわ」
濡れた足元を踏み鳴らして耀司は背を向けた。
追いかけろ、追いかけろよ。
今すぐ耀司が好きだと叫べ、出会った頃からずっと好きだったんだと、自分を曝け出せ。
自分を叱咤しても足は動かず、遠ざかる背中を見ているしかできなかった。
ボーッと取り残されたベンチに座っていた。
動くことができなくて、ただただ暗い夜空を眺めていた。
──俺はどうすればよかったんだろう。
幼馴染でいられなくなるのが怖かった。けれどいざ失われてしまうと思うと想像以上に怖い。
握っていたままだった携帯がメッセージを着信し、無意識に見ていた。
また田崎からだった。
怒りだとかそういう感情はもう湧く気もなくて、文面に目をやった。
事故という文字が目に飛び込み「──は?」と声を上げた。
瞬間頭の中で警告音が鳴る。
画面を食い入るように見ると、「先生」と「事故」という文字だけが大きく映って見えた。
俺は急いで折り返し電話をした。
「おい、事故ってどうゆう事だよ?! さっきまで駅にいたんだぞ」
『ごめん、何度も、ごめん。先生が、お願い、川嶋っ、お願いっ、先生がっ』
田崎は泣いていた。
混乱してるようで、言葉が出てこないようだった。
「先生がどうしたんだよ、ちゃんと説明しろっ」
『川嶋と会った後、駅を出てすぐ、私に電話してきて、話してる時に、車のぶつかる音がしたの、それで先生のうめく声がっ……っ』
「嘘だろ?!」
先生は駅で西口から出て行った。俺は北口から出て繁華街に向けて走って来た。
事故なんてそんなの──
そう言えば聞き覚えのある音を聴いた。
そうだ、走っていた時、サイレンだ。
耀司に手を掴まれて足を止めた時──救急車が通り過ぎて行ったじゃないか。
もしかして、あれに先生が?
『どうしよう、先生が、死んじゃったら、どうしよう。ねえ、川嶋、先生と一緒にいたんでしょ、先生、知らない? うっ……うぅっ……どうしたら、私……』
「馬鹿、落ち着け。まだ先生って決まったわけじゃねーだろっ」
『どうやって、こんな大阪からじゃ何もわからないよっ。そうだ、今から新幹線っ』
そう言って田崎からの通話が切れた。
まさかこれから東京まで来るつもりか?
今の時間は二十時を迎えるところだった。
新幹線はまだある。
SNSで検索をかけると、駅前であった交通事故の情報がたくさん上がっていた。
コントロールを失った車が歩行者道路に突っ込んだという目撃者の呟き。ぐしゃぐしゃになった車体の画像が何枚もある。
これだ。
先生と別れたのは一時間前──
耀司、先生、田崎。
一度のことが頭の中に混在してしまって整理がつかない。
俺は何をしたらいい?
──耀司。
スマホを握る。田崎からの電話の内容を知らせて誤解を解く?
それが今一番最善なことなのか?
俺はいつだって耀司を一番に優先して来た。
田崎を優先したことなんて一度もない。
なのに今は──どうしたらいいのかわからない。
あんなにも傷ついた顔をした耀司に、今更どんな態度で伝えるんだよ。
