BANSHEEが振り返る。ビートボクサー的無表情で群衆から僕たちを見つけ出し、感情の無い一瞥をこちらへ向けた。二階のバーへと去っていく背中を見送る。
4年間追いかけて、何千回と動画を見た。本物を前にしてできたのは、ただ彼を見ることと呼吸だけ。
「声が出なかった」
「BANSHEEがお前見てた。目が合っただろ?」
ピリリと零児は再びやって見せた。このふざけた電子音のおかげで新学期早々スマホを没収され、ビートボックス漬けの一週間が始まった。
「うん、BANSHEEと目が合った。零児のおかげ」まるで夢の中にいるように現実味が無く、頭がぼんやりとする。
「これでスマホ没収で迷惑かけた分はナシだな。あー、10時を過ぎてる。帰らなきゃ」
人の波の中を歩くため、一歩を踏み出す。まるで地面に穴でも開いているかのように足が沈み、気がつくと地面に横向きになって倒れていた。アスファルトがすぐ目の前にあり、口の中にかすかに鉄の味がする。
「響!」仰向けにされる。
耳はよく聞こえなかった。心臓の鼓動を感じようと思うが、よくわからない。苦しくはなく、動悸もせず、ただ体に力が入らなかった。
「大丈夫」自分の声も遠くから聞こえるようだ。
「響、救急車を呼んでもらった。すぐに来るから」
「零児、帰って。遅くなるとお父さんが怒る」零児の家では厄介事は禁止だった。警察沙汰など以ての外だ。
顔にぽたりと水滴が落ちる。零児の涙だった。
「泣かないで零児」
5月6日。
午前中にかかりつけの総合病院の診察を受け、大丈夫と太鼓判を押してもらい午後から登校した。
なんのことはない、緊張して朝からまともに食べないでいたせいで、めまいを起こしたのだ。倒れたはずみでスマホの画面が縁石にもろにぶつかってバキバキに割れ、再起不能だ。
零児に謝らなければならない。救急車が来る頃には意識ははっきりしていたが、零児は一緒に救急車に乗って病院まで来た。母の話では警察が来て零児と母に事情を聞き、事件性が無いと納得してもらった。零児は親に連絡がつかず、美濃先生が病院まで来て、先生と警察官に連れられて、いつの間にかいなくなっていたと聞いた。
教室に入り、机のフックにスクールバッグをかける。4時間目が体育だったせいでまだ教室にはだれもいない。
早く零児と話したかった。
母と美濃先生が電話で話し、大学見学の帰りに繁華街で倒れた事は特に問題にはならない、とのことだった。
「上戸!来たんだ。よかった。無事だったんだな」辻村が教室に入ってきた。
「なんだよ。零児から俺の話きいた?」
「上戸しらねえの?一昨日、坂本んちのとこの市営住宅に救急車とパトカーが何台も来て、坂本は今日は休み。お前ら仲いいし、土曜から全然上戸がライン返さないから、一緒にいて何か事件にあったんじゃないかって思って……」
「土曜日は体調悪くて倒れて、検査入院して家にいなかったんだ。スマホは倒れた時に割れた。零児に何があったか知ってる人は?辻村は誰から零児の家にパトカーと救急車が来てた話聞いた?」
「親。すごい騒ぎで叫んでる人もいて、救急車で誰かが運ばれてたらしい。今日ふたりともいねーし、心配で美濃先生に廊下で聞いたら怖い顔で、坂本と上戸の話はできない。誰にも言うなって言われて……。お前ほんとに坂本のこと何も知らないの?」
他のクラスメイトも教室に戻ってきて、会話は中断した。
零児とはそれっきり会えなかった。
金曜日に美濃先生が「坂本くんは家庭の事情で転校した」とそっけなく言い、どこに転校したのか触れられる雰囲気では無く、次の月にはクラスに空いた穴を埋めるように帰国子女の女の子が転入してきて、みんな零児の事は忘れた。
たった一ヶ月だった、と思う。
あのピリリという音をきっかけに、二人でビートボックスに熱中し、少しだけ広い世界にでた。
動画を見る。
EchoとRAGE。顔は映さず、暗い公園で、時折電車の走る音が混じり、拙いビートボックスを世界に向けて発信した。
零児が好きだった歌は、もう一人では歌いたくなかった。
僕の足は放課後の音楽室へ向いた。
合唱部の歌をドアの外から聞く。とても美しい。合唱は好きではないが、それでも美しかった。
「上戸じゃないか!」
廊下の向こうからありえない大声が聞こえた。合唱部顧問の積木先生だ。洒落た口ひげに、微妙な色のメガネ。音楽の教師というのは、どうしてこうも個性的なんだろう。
「ついに見学にきたね。何事も遅すぎることはない。さあ入りなさい。みんな、三年一組の上戸響が見学に来た。テノール!上戸が今日から仲間だ!」



