「じゃあ、用意してきますね」
彼はスッと立ち上がり、自分の部屋へ戻っていった。
彼の姿が見えなくなると伊織は「ふぅ」と深呼吸をついた。
なんとか理性を保つように、と何度も自分に言い聞かせながら、彼が戻ってくるのを待った。
「お待たせしました」
戻ってきた彼の手には先ほど購入していた下着しかない。それを見て、寝巻きを買うのを忘れていたことを思い出す。
「すみません、さっきのお店で寝巻きも一緒に買えばよかったですね。気づかずにすみません。私の服を寝巻きがわりにお貸ししましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。露天風呂には寝巻きがわりの浴衣が用意してあるので、私はそちらをお借りしますから」
そうか、浴衣があったか。普通ならそれにすぐに気づきそうなものだが、それすらも気づかなくなっている自分に少し恥ずかしさを覚えた。
「行きましょう」
彼は伊織の腕をとって温泉へ向かう。しかし自ら扉を開けることなく部屋の前で立ち止まった。
一応伊織の部屋になっているから気を遣ってくれたようだ。だが、彼に見られて困るようなものは何も持っていない。
「どうぞ」と中に招き入れ、先に脱衣所に行かせた。
「私は支度をしていきますので先に入っていてください」
声をかけると、「はーい」と少し陽気な声が聞こえた。
もしかしたら彼は少し酔っているのかもしれない。あまり長湯はさせないようにしよう。
あまり一人にしておくのも心配で、急いで着替えと寝巻きを持って脱衣所に向かった。
中に入ると、ちょうど彼が下着を脱いでいるところにかち合ってしまい後悔した。だが今更出るわけにもいかない。
伊織はできるだけ彼を視界に入れないように脱衣所の隅に荷物を置いた。
「安慶名さん、先に入っていますね」
声をかけられ、つい振り向いてしまった私の目に、温泉へ向かう彼の、桃のように綺麗なお尻が見えた。
「くっ――!」
それだけで昂ってしまいそうになる。それを必死に抑えながら、服を脱ぎタオルを手に持った。
彼が腰にタオルを巻いていないというのに、伊織が巻いて入ればどう思うだろう?
だが巻かずに入るリスクは大きい。とりあえずタオルを持った手でさりげなく隠した。
中に入ると、温泉の蒸気がうっすらと伊織の視界を遮る。これならなんとか理性を保てるかもしれない。
それにしても思っていた以上に広い温泉と洗い場に驚く。さっと身体を流して温泉に足を向けた。
彼はもうすでに温泉に浸かっていたが、立ち昇る蒸気とほんのり色のついた湯でそこまではっきりと身体は見えなかった。
「失礼します」
声をかけ、湯に足を入れると心地よい温度に「気持ちいいな」と無意識に声が出る。
「そうでしょう。ここのお湯は最高なんですよ」
「本当に、ここに入らずにいたら勿体無いところでしたね」
そういえば、温泉に入ったのはいつぶりだろう? 大学時代に宗一郎さんと皐月さんに連れられて北陸の温泉地に行ったことがあったが、あの時以来か。貸切の家族風呂に一緒に入ろうと誘われたが、宗一郎さんはともかく皐月さんと一緒に入るのがなんとなく躊躇われて後で一人で入った。それも懐かしい思い出だ。
そもそもゲイだと自認してからはなるべく温泉や銭湯には行かないようにしていた。だからこうやって誰かと風呂に入ること自体、ほとんど初めてだ。
彼は伊織をノーマルだと思っているだろうから、何も気にすることもなく一緒に入ろうなどと誘ってきたのだろうが、湯の中にあの綺麗な身体が隠れているのかと思うと本当に目のやり場に困る。
「安慶名さん……」
視点を定められずキョロキョロと辺りを見回していると、砂川さんから声をかけられドキッとした。
「ど、どうしました?」
「あの、今日はありがとうございました。この部屋に泊まることをお許しいただいたことも、それから彼女のことも……」
申し訳なさそうに言ってくるが、今回のことはどちらも彼には何の落ち度もない。
「砂川さんが気になさることではないですよ」
素直な気持ちを告げたのだが、彼は小さく首を横に振った。
「実はさっき、倉橋から言われたんです。私が石垣で何か問題を抱えてることは知っていた、と」
「そうだったんですか?」
やはりとしか言いようがないが、それなら倉橋さんはなぜもっと早く対処をしなかったのだろう。彼ならそれくらいのことはさっと済ませてしまいそうなのに……
「あの彼女からの付き纏いが始まったのは三ヶ月ほど前からでした。私は月に二度ほどしか石垣に行くことはないので会う機会もほとんどないですし、大したこともされてませんでしたから我慢してたんです。ですから、そのことは倉橋にも何も話してはなかったんですが、安慶名さんもご存知の通り交友関係の広い方ですからどこからか聞いて知っていたようです。彼女の行為が少しずつエスカレートしていたのも危惧していたようで……私から車の故障の話を聞いて危ないと思ったみたいでそれで安慶名さんを頼った、と……」
なるほど。倉橋さんなりに砂川さんを見守っていたようだ。
今日沖縄に向かうことは倉橋さんに伝えていたし、故障の件がなくとも砂川さんを守らせるためにこの部屋に相部屋にさせようと思っていたのだろう。そう考えれば納得がいく。
「それなら、あなたをお守りできてよかったです。倉橋さんもご心配でしょうし、これからは何かお困りのことがあれば我慢などされずにすぐに報告されたほうがよろしいですよ」
「ですが……女性に付き纏われて困ってるだなんて、男として恥ずかしいことではないですか?」
ストーカーは男性から女性へのものだと思われがちで、実際に被害者の九十パーセント近くは女性だという統計もあるが、男性は訴えずに砂川さんのように我慢してしまうケースが多いというのが実情だ。実際に被害に遭っている数を調べればその統計は大きく変わるだろう。
「そんなことありませんよ。私は弁護士として、女性にそういった行為を繰り返されて困っていらっしゃる男性の依頼を何人も引き受けたことがあります。今は男性だからとか女性だからとか関係なく被害に遭う時代なのですから。特に砂川さんのような美しい方なら、男女問わず付き纏い行為があってもおかしくなりませんよ」
これからもないとは言い切れない。心配な気持ちが溢れてつい自分の気持ちを口にしてしまった。
「美しいだなんて……そんな。安慶名さんがそんなご冗談をおっしゃるなんて……」
恥ずかしそうに目を逸らす砂川さんの色白の肌が、湯の熱さでピンクに染まっていて思わずゴクリと喉が鳴ってしまった。
これ以上自分の気持ちを出してはいけないと思っているのに、温泉の熱でやられてしまっているようだ。
「私は冗談なんて言える器用な人間ではありませんよ。あなたのような美しい方に私は初めて出会いました」
こんなことを言われても彼は困るだけだろう。だが彼への想いを止めることなどできなかった。
「安慶名さん……?」
伊織の雰囲気が変わったことに砂川さんも気づいたようだ。でもここで言わなければ、この後の時間を平然と過ごせそうにない。
「今日、しかもたった数時間前にあなたに出会ったばかりだと言うのに、こんなことを言うなんて信じてもらえないかも知れませんが……私はあなたが好きなんです」
「えっ……?」
「あなたを誰にも渡したくないほどあなたのことが好きで好きでたまらない。だから……あなたに一緒に温泉にと誘われて即答できなかった。あなたの裸を間近で見るなんて我慢できそうになくて……今だって必死に我慢してるんです。これ以上、一緒にいたら私はあなたに何をしてしまうかもわからない。自分で自分が抑えられないんです。こんなこと初めてでどうしたらいいのか……」
驚いたまま砂川さんは何も言葉も出せず、伊織を見つめている。その視線に伊織はハッと我に返った。
「すみません、驚かせてしまって……お先に失礼します。砂川さんはどうぞごゆっくり」
そう断って、急いで温泉から出ようとした伊織の背後で「バシャンッ!」と大きな水音が聞こえた。
「ちょっと待ってください!」
突然彼が伊織の背中に抱きついてきた。彼の身体が伊織の背中にピッタリと重なっているのが感覚としてはっきりわかる。
「あの、砂川さん……」
彼の突然の行動にどうしていいのかわからず声をかけたけれど、彼は無言のままくっついたままだ。
もう一度名前を呼ぼうとした時、砂川さんのくぐもった声が聞こえた。
「私、こうやって誰かにくっついたの……初めてなんです。今まで誰にも触れたいだなんて思わなかった。でも……安慶名さんだけは初めて会った時から紳士的ですごく優しくて穏やかで、こんなに一緒にいてホッとできる人、初めてなんです」
初めてだという彼の言葉が何度も耳に入ってくる。だが、自分の願望が見せているだけじゃないか?
だが、彼の言葉はさらに続いた。
「その、私は恋愛に関してはよくわからないですが、私にとって安慶名さんは特別で……一緒にお風呂だなんて自分から誘ったのも初めてですよ」
彼が私を特別だと思ってくれるなんて……こんな夢のようなことあるわけがない。
自分の置かれている状況が信じられず、伊織は必死に口を開いた。
「砂川さん……私、勘違いしてしまいますよ」
「勘違いじゃないです。それとも安慶名さん……私が誰にでも誘う人だとお思いですか?」
「いえ、そんな! それは絶対に違います!」
誤解させたくなくて慌てて彼に向き直る。背中にくっついていた彼が、今度は伊織の正面に抱きついてくる。
背中で感じていたよりもさらに近くに感じてドキドキが止まらない。
「安慶名さん……」
見上げてくる彼があまりにも可愛くて、とうとう我慢できずに唇を重ね合わせてしまった。
「んんっ……」
驚く彼の声が聞こえる。すぐに離さなければと思いながらも彼の唇があまりにも気持ちよくて離れ難い。
彼の甘い唇を堪能しながらそっと目を開ける。彼が目を閉じたままそっと伊織の胸に手を添えるのが見えた。
彼が伊織とのキスを嫌がっていない……
その事実が伊織を歓喜させた。
彼はスッと立ち上がり、自分の部屋へ戻っていった。
彼の姿が見えなくなると伊織は「ふぅ」と深呼吸をついた。
なんとか理性を保つように、と何度も自分に言い聞かせながら、彼が戻ってくるのを待った。
「お待たせしました」
戻ってきた彼の手には先ほど購入していた下着しかない。それを見て、寝巻きを買うのを忘れていたことを思い出す。
「すみません、さっきのお店で寝巻きも一緒に買えばよかったですね。気づかずにすみません。私の服を寝巻きがわりにお貸ししましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。露天風呂には寝巻きがわりの浴衣が用意してあるので、私はそちらをお借りしますから」
そうか、浴衣があったか。普通ならそれにすぐに気づきそうなものだが、それすらも気づかなくなっている自分に少し恥ずかしさを覚えた。
「行きましょう」
彼は伊織の腕をとって温泉へ向かう。しかし自ら扉を開けることなく部屋の前で立ち止まった。
一応伊織の部屋になっているから気を遣ってくれたようだ。だが、彼に見られて困るようなものは何も持っていない。
「どうぞ」と中に招き入れ、先に脱衣所に行かせた。
「私は支度をしていきますので先に入っていてください」
声をかけると、「はーい」と少し陽気な声が聞こえた。
もしかしたら彼は少し酔っているのかもしれない。あまり長湯はさせないようにしよう。
あまり一人にしておくのも心配で、急いで着替えと寝巻きを持って脱衣所に向かった。
中に入ると、ちょうど彼が下着を脱いでいるところにかち合ってしまい後悔した。だが今更出るわけにもいかない。
伊織はできるだけ彼を視界に入れないように脱衣所の隅に荷物を置いた。
「安慶名さん、先に入っていますね」
声をかけられ、つい振り向いてしまった私の目に、温泉へ向かう彼の、桃のように綺麗なお尻が見えた。
「くっ――!」
それだけで昂ってしまいそうになる。それを必死に抑えながら、服を脱ぎタオルを手に持った。
彼が腰にタオルを巻いていないというのに、伊織が巻いて入ればどう思うだろう?
だが巻かずに入るリスクは大きい。とりあえずタオルを持った手でさりげなく隠した。
中に入ると、温泉の蒸気がうっすらと伊織の視界を遮る。これならなんとか理性を保てるかもしれない。
それにしても思っていた以上に広い温泉と洗い場に驚く。さっと身体を流して温泉に足を向けた。
彼はもうすでに温泉に浸かっていたが、立ち昇る蒸気とほんのり色のついた湯でそこまではっきりと身体は見えなかった。
「失礼します」
声をかけ、湯に足を入れると心地よい温度に「気持ちいいな」と無意識に声が出る。
「そうでしょう。ここのお湯は最高なんですよ」
「本当に、ここに入らずにいたら勿体無いところでしたね」
そういえば、温泉に入ったのはいつぶりだろう? 大学時代に宗一郎さんと皐月さんに連れられて北陸の温泉地に行ったことがあったが、あの時以来か。貸切の家族風呂に一緒に入ろうと誘われたが、宗一郎さんはともかく皐月さんと一緒に入るのがなんとなく躊躇われて後で一人で入った。それも懐かしい思い出だ。
そもそもゲイだと自認してからはなるべく温泉や銭湯には行かないようにしていた。だからこうやって誰かと風呂に入ること自体、ほとんど初めてだ。
彼は伊織をノーマルだと思っているだろうから、何も気にすることもなく一緒に入ろうなどと誘ってきたのだろうが、湯の中にあの綺麗な身体が隠れているのかと思うと本当に目のやり場に困る。
「安慶名さん……」
視点を定められずキョロキョロと辺りを見回していると、砂川さんから声をかけられドキッとした。
「ど、どうしました?」
「あの、今日はありがとうございました。この部屋に泊まることをお許しいただいたことも、それから彼女のことも……」
申し訳なさそうに言ってくるが、今回のことはどちらも彼には何の落ち度もない。
「砂川さんが気になさることではないですよ」
素直な気持ちを告げたのだが、彼は小さく首を横に振った。
「実はさっき、倉橋から言われたんです。私が石垣で何か問題を抱えてることは知っていた、と」
「そうだったんですか?」
やはりとしか言いようがないが、それなら倉橋さんはなぜもっと早く対処をしなかったのだろう。彼ならそれくらいのことはさっと済ませてしまいそうなのに……
「あの彼女からの付き纏いが始まったのは三ヶ月ほど前からでした。私は月に二度ほどしか石垣に行くことはないので会う機会もほとんどないですし、大したこともされてませんでしたから我慢してたんです。ですから、そのことは倉橋にも何も話してはなかったんですが、安慶名さんもご存知の通り交友関係の広い方ですからどこからか聞いて知っていたようです。彼女の行為が少しずつエスカレートしていたのも危惧していたようで……私から車の故障の話を聞いて危ないと思ったみたいでそれで安慶名さんを頼った、と……」
なるほど。倉橋さんなりに砂川さんを見守っていたようだ。
今日沖縄に向かうことは倉橋さんに伝えていたし、故障の件がなくとも砂川さんを守らせるためにこの部屋に相部屋にさせようと思っていたのだろう。そう考えれば納得がいく。
「それなら、あなたをお守りできてよかったです。倉橋さんもご心配でしょうし、これからは何かお困りのことがあれば我慢などされずにすぐに報告されたほうがよろしいですよ」
「ですが……女性に付き纏われて困ってるだなんて、男として恥ずかしいことではないですか?」
ストーカーは男性から女性へのものだと思われがちで、実際に被害者の九十パーセント近くは女性だという統計もあるが、男性は訴えずに砂川さんのように我慢してしまうケースが多いというのが実情だ。実際に被害に遭っている数を調べればその統計は大きく変わるだろう。
「そんなことありませんよ。私は弁護士として、女性にそういった行為を繰り返されて困っていらっしゃる男性の依頼を何人も引き受けたことがあります。今は男性だからとか女性だからとか関係なく被害に遭う時代なのですから。特に砂川さんのような美しい方なら、男女問わず付き纏い行為があってもおかしくなりませんよ」
これからもないとは言い切れない。心配な気持ちが溢れてつい自分の気持ちを口にしてしまった。
「美しいだなんて……そんな。安慶名さんがそんなご冗談をおっしゃるなんて……」
恥ずかしそうに目を逸らす砂川さんの色白の肌が、湯の熱さでピンクに染まっていて思わずゴクリと喉が鳴ってしまった。
これ以上自分の気持ちを出してはいけないと思っているのに、温泉の熱でやられてしまっているようだ。
「私は冗談なんて言える器用な人間ではありませんよ。あなたのような美しい方に私は初めて出会いました」
こんなことを言われても彼は困るだけだろう。だが彼への想いを止めることなどできなかった。
「安慶名さん……?」
伊織の雰囲気が変わったことに砂川さんも気づいたようだ。でもここで言わなければ、この後の時間を平然と過ごせそうにない。
「今日、しかもたった数時間前にあなたに出会ったばかりだと言うのに、こんなことを言うなんて信じてもらえないかも知れませんが……私はあなたが好きなんです」
「えっ……?」
「あなたを誰にも渡したくないほどあなたのことが好きで好きでたまらない。だから……あなたに一緒に温泉にと誘われて即答できなかった。あなたの裸を間近で見るなんて我慢できそうになくて……今だって必死に我慢してるんです。これ以上、一緒にいたら私はあなたに何をしてしまうかもわからない。自分で自分が抑えられないんです。こんなこと初めてでどうしたらいいのか……」
驚いたまま砂川さんは何も言葉も出せず、伊織を見つめている。その視線に伊織はハッと我に返った。
「すみません、驚かせてしまって……お先に失礼します。砂川さんはどうぞごゆっくり」
そう断って、急いで温泉から出ようとした伊織の背後で「バシャンッ!」と大きな水音が聞こえた。
「ちょっと待ってください!」
突然彼が伊織の背中に抱きついてきた。彼の身体が伊織の背中にピッタリと重なっているのが感覚としてはっきりわかる。
「あの、砂川さん……」
彼の突然の行動にどうしていいのかわからず声をかけたけれど、彼は無言のままくっついたままだ。
もう一度名前を呼ぼうとした時、砂川さんのくぐもった声が聞こえた。
「私、こうやって誰かにくっついたの……初めてなんです。今まで誰にも触れたいだなんて思わなかった。でも……安慶名さんだけは初めて会った時から紳士的ですごく優しくて穏やかで、こんなに一緒にいてホッとできる人、初めてなんです」
初めてだという彼の言葉が何度も耳に入ってくる。だが、自分の願望が見せているだけじゃないか?
だが、彼の言葉はさらに続いた。
「その、私は恋愛に関してはよくわからないですが、私にとって安慶名さんは特別で……一緒にお風呂だなんて自分から誘ったのも初めてですよ」
彼が私を特別だと思ってくれるなんて……こんな夢のようなことあるわけがない。
自分の置かれている状況が信じられず、伊織は必死に口を開いた。
「砂川さん……私、勘違いしてしまいますよ」
「勘違いじゃないです。それとも安慶名さん……私が誰にでも誘う人だとお思いですか?」
「いえ、そんな! それは絶対に違います!」
誤解させたくなくて慌てて彼に向き直る。背中にくっついていた彼が、今度は伊織の正面に抱きついてくる。
背中で感じていたよりもさらに近くに感じてドキドキが止まらない。
「安慶名さん……」
見上げてくる彼があまりにも可愛くて、とうとう我慢できずに唇を重ね合わせてしまった。
「んんっ……」
驚く彼の声が聞こえる。すぐに離さなければと思いながらも彼の唇があまりにも気持ちよくて離れ難い。
彼の甘い唇を堪能しながらそっと目を開ける。彼が目を閉じたままそっと伊織の胸に手を添えるのが見えた。
彼が伊織とのキスを嫌がっていない……
その事実が伊織を歓喜させた。

