南国特有のスコールが初恋を連れてきてくれました

まるで自宅に客人が来たような感情を抱きながら引き戸を開けた。
そこにはタオルで顔を押さえ、前髪からポタポタと雫を垂らしているびしょ濡れの美青年が立っていた。
一緒にいたこの宿の支配人が何やら私に説明をしようとしていたが、こんなに濡れたままの彼を放ったまま話を聞くわけにはいかない。
「君、話はゆっくり後で聞こう。風邪を引くといけないからとりあえずお風呂に入りなさい」
伊織の声かけに彼は一瞬戸惑った様子をしていたが、こんなに濡れていてはゆっくり話もできないと気づいたのだろう。
「申し訳ありません。お言葉に甘えてお風呂いただきます」
礼儀正しく頭を下げ、急いでバスルームへ駆けて行った。その様子を伊織は黙って見つめた。
「安慶名さま、お騒がせいたしまして申し訳ございません」
隣に立つ支配人が深々と頭を下げる。
「いいえ、倉橋さんからは先にご連絡いただきましたし、こちらも了承の上で彼にここに来ていただいたのです。支配人も彼も私に詫びる必要などありませんよ。こちらのことはお気になさらず。食事だけ二人分お願いします」
「畏まりました」
支配人はホッとした表情を見せ、頭を下げて出ていった。
玄関に一人残され、伊織はさてどうしようかと考えた。
そういえばさっきの倉橋さんの口ぶりでは彼は日帰り出張で石垣に来たようだった。とすると、風呂に入らせたはいいが着替えなどは持ってきてはいないだろう。
荷物の中にいくつか新品の下着を持ってきていたはずだ。華奢な彼に伊織のサイズの下着は大きいかもしれないが、ないよりはマシだ。着替えの服もやはり大きいだろうがそれもなんとかなるだろう。
そうこうしている間に彼が風呂から出てきてしまっては元も子もない。
服は後で貸すとして、とりあえず急いで自分の荷物から新品の下着を取り出し、部屋に置いてあったバスローブとともにバスルームに持っていった。
さっき入ったばかりだからまだ出てきていないだろうが、一応ノックをしてみる。中からまだ水音が聞こえる。
ホッと胸を撫で下ろしながら扉をカチャリと開けた。
持ってきた着替えをわかりやすい場所に置いていると、不意にガラガラと風呂場の扉が開いた。
驚いて振り返った伊織の目に飛び込んできたのは、風呂で温まり頬をほんのりと赤らめた裸の彼……
そのなんとも可愛らしい顔と血管が好き透るほど白い肌。胸を飾る可愛らしい赤い実。そしてほとんど意味をなさないほど薄い下生えから少しだけ見える可愛らしいモノ。それを一瞬で脳裏に焼き付けた。
「失礼した。着替えはここに置いていますので」
なんとか努めて冷静に話し、急いでバスルームを出た。
ソファに腰を下ろし、「ふぅ」と一息ついたものの、目を閉じれば脳裏に先ほどの可愛らしい顔と美しい肢体が甦ってくる。
伊織に身体を見られて彼は傷ついているかもしれない。
彼のためにもすぐにでも記憶から消し去ってあげたほうがいいだろうが、伊織の脳が忘れたくないと拒否している。
こんなこと初めてだ。
ついさっき出会ったばかりの彼がこんなにも伊織の心を掴んで離さないなんて……
これが一目惚れというものなのだろうか?

――私は皐月と出会った瞬間に、この人は絶対に手放してはいけない、一生のパートナーだと感じたんだ。今思えば、それは一目惚れだったのだろうな。私が皐月に一目惚れしたようにきっと伊織にもいつかそのような人が現れるはずだ。

あれはどういうきっかけだったか。
宗一郎さんがそんな話してくれたことがあったのを思い出した。
あの時は一目惚れの存在などあまりにも不確かで、まるで御伽噺のように聞いていたが宗一郎さんの言っていたことは本当だった。彼は伊織にとって絶対に手放してはいけない存在。あの一瞬でそう感じた。
だが、彼はゲイではない。初めての一目惚れはこのまま失恋となるのだろう。
宗一郎さんのように一目惚れの相手と一生を添い遂げられるなんて、奇跡以外の何ものでもない。
今更ながら、宗一郎さんと皐月さんが羨ましく思える。
「あ、あの……」
綺麗な声が聞こえてそちらを振り向く。そこには頬をほんのりと赤く染めた彼が、バスローブを着てこちらを向いて立っていた。
玄関で会った時も、風呂場で見た時も顎のラインまで伸びた髪が濡れて顔を隠していたが、今ははっきりと彼の顔が見える。
伊織がずっと成長を見届けてきた夢の中のあの子に似ている気がする。
「どうぞこちらにお座りください」
緊張しながら、彼にソファに座るように勧めた。
「すみません、失礼いたします」
彼はおずおずとこちらに近づいてきた。その歩き姿は凛として美しい。
近づくと余計に夢のあの子を思い出させる。
「先ほどは勝手に入ってしまい、失礼いたしました」
不可抗力だったとはいえ、まずは勝手に裸を見てしまった謝罪はすべきだろう。伊織は彼に頭を下げた。
「い、いいえ。私の方こそ突然お邪魔した上に、あんな姿をお見せしてしまって申し訳ありません」
顔を真っ赤にして謝罪の言葉を口にする彼を見て、おそらく他人に裸を見られたのは初めてなのだろうと思った。
それならこれ以上あのことに触れないほうがいいだろう。
「私のことは倉橋さんからお聞きになっていらっしゃいますか?」
「はい。倉橋が弊社の顧問弁護士に依頼したと聞いております。わざわざ東京からこんなに遠くまでお越しいただきありがとうございます」
「いいえ、御社への訪問は私のほうから倉橋さんにお願いしたのですよ。西表の素晴らしい自然の中にあるなんて素晴らしい会社じゃないですか。あなたも西表島の自然に惹かれているのでしょう?」
「ええ。それはもう。私は宮古島出身なのですが、西表島の美しさは別格ですよ」
先ほどまでの凛とした姿とはまた違う可愛らしい笑みを見せながら話してくれる。そんな彼を見て、本当に西表が、そして西表島での仕事が好きなのだとわかる。
「そうなんですね。私は西表島は初めてなので楽しみですよ。そういえば自己紹介もせず失礼いたしました。私、安慶名伊織と申します」
念のために、と内ポケットに入れていた名刺入れから一枚名刺を抜き取って彼に渡す。
「私もすっかり忘れておりまして申し訳ございません……わっ!」
彼も服から名刺を渡そうとして自分がバスローブ姿だったことを思い出したようだ。
「申し訳ありません。今、手持ちがなくて……名刺は後程でもよろしいでしょうか?」
「いいですよ、お気になさらず。お名前だけお伺いしてもよろしいですか?」
「はい。砂川悠真と申します。あの、安慶名さんは沖縄の方ですか?」
「やっぱりわかりますね。那覇出身です」
「私も宮古島では多い名前なのですぐに当てられるんですよ」
ふわっとした可愛らしい笑顔を見せる彼に伊織はどんどん惹かれていく。夢の中のあの子も沖縄の子だった。
そのことを思い出し緊張が増すけれどそれに気づかないふりをして質問を続けた。
「倉橋さんとはお知り合いになって長いんですか?」
「七年くらいですね。大学四年の時に一人旅で初めて西表島に行った時にツアーをしてくださったのが倉橋だったんですよ。西表を選んだのはたまたまでしたけど、あれが私の人生の分かれ道だったようです。安慶名さんは倉橋の所有している無人島をご存知ですか?」
「頂いた資料で拝見しました。虹色の湖って本当にあんなに美しいのですか?」
「ええ、それはもう」
興奮気味に話をしてくれる彼がたまらなく可愛い。
「あの日、偶然イリゼのお客さまがツアーをキャンセルされたとかで、倉橋があの虹色の湖のある無人島に連れて行ってくれたんです。あの神秘的な景色を見て、この会社で働きたい! って思いました。私も単純ですね」
「そんなことはありませんよ。きっとあなたの心に響いたのでしょう」
「安慶名さん、お優しいんですね」
にっこりと微笑むその笑顔を、伊織が独り占めしたいなどと考えているとは微塵にも思っていないだろう。
「あ、雨が止んだようですね」
彼の言葉に中庭を見ると、さっきまでの土砂降りが嘘のようにピタリと止んでいる。やはりカタブイだったようだ。
「雨も止んだことですし、着替えをお貸ししますので、せっかくですから少し外を散歩しに行きませんか?」
「それはとても嬉しいのですが……着替えをお借りするなんて御迷惑では?」
「迷惑なら最初から提案なんてしませんよ。少しお待ちください」
伊織はすぐに自室に戻り、彼の着れそうな服を探した。
どれも彼には大きそうで悩んだものの、とりあえずTシャツと紐で縛ることのできるズボンを選んだ。
これならなんとか彼にも着られるだろう。
着替えも必要だし、散歩のあとに彼に似合う服でも買いに行くことにしよう。
確かホテルの中に洋服を売っている店があったはずだ。
「これをどうぞ。部屋はあちらの部屋をお使いください」
「ありがとうございます、お借りします」
彼は着替えを手に急いで部屋に向かった。彼が伊織の服を着て出てくる。そう思うだけで伊織の胸が高鳴った。
あの服を彼がどう思うだろうか。
そんな些細なことも気になり落ち着かず、広縁の椅子に置きっぱなしになっていた本を手に取った。
ナツオの最新作は初っ端から引き込まれてしまうドキドキの展開だった。
いつもなら手放すこともなく一気に読み終えるが、彼と出会ってしまった今ではどんな始まりだったかも覚えていない。
それはそうだろう、伊織の気持ちはもうとっくに本から彼に移ってしまっているのだから。
あまりの緊張に右往左往したくなる気持ちをグッと抑えながら、伊織は本を手にその場に立ち尽くしていた。
しばらくして、カタンと音がして振り向いた。そこにはほんのりと頬を赤く染め、伊織の服に身を包んだ彼の姿があった。
思わず、可愛い! と言いたくなるのを必死に抑えた。だが、彼は伊織の反応を悪いように捉えてしまったようだ。
「すみません。安慶名さんの素敵なお洋服なんですが、私には似合わなくて……」
「いいえ! そんなことありませんよ。とてもよくお似合いです」
誤解をさせたくなくて食い気味に言ってしまい、彼は少し驚いていたが、すぐに安心したように笑顔を見せてくれた。
「サンダルを用意していますから、それを履いて散歩に行きましょう。よかったら案内をお願いできますか?」
「はい。もちろんです」
にこやかな笑顔を見せる彼と一緒に部屋を出ると、すぐに支配人が駆け寄ってきた。
「お車をご用意いたしますか?」
「いえ、この辺を散歩するだけですから大丈夫です」
「畏まりました。どうぞお気をつけてお過ごしください」
支配人に見送られながら、宿の玄関を出ると雨上がりの心地よい風が吹いてきた。