「すぐに飛行機のチケットを取りますね」
「いえ、私もうすぐ夏季休暇を取る予定でしたので、旅行がてら西表まで自分で行ってみますよ。何も決めないでいくのも楽しいでしょう」
伊織の言葉に倉橋さんは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「その気持ちわかります。きっと安慶名さんも離島の美しさに嵌りますよ」
彼は胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚の名刺をくれた。
「石垣島イリゼリゾート? これ、浅香さんの……」
「そこには俺と蓮見専用の部屋があるので、予約なしでいつでも泊まれるんです。良かったらそこにも足を運んでみてください」
「でも、特別な部屋なんでしょう? 私が泊まってもいいんですか?」
「もちろんです。安慶名さんにはいつもお世話になっていますから。ホテルには私からも連絡を入れておきますのでご安心ください。あ、そうそう、その部屋には女性を自由に連れ込んでも大丈夫ですよ」
パチンとウィンクして見せる倉橋さんはもちろん伊織の性的指向など知らない。
実は、伊織はゲイだ。自分がゲイだと自覚をしたのは中学校に入学したとき。
だが伊織にゲイだと自覚させたのはクラスメイトや教師といった実在の人物ではない。
小学生の伊織の夢に出てきた可愛らしい赤ちゃん。それが始まりだった。
初めてその子が夢に現れたのは、小学校に入学してしばらく経った頃。
可愛い泣き声をあげる顔も見えないその子は真っ白なおくるみの中で、小さな手足をバタバタと動かしていた。
当時の伊織には周りに小さな赤ちゃんがいる家庭はなかったから全く知らない赤ちゃんだ。
ただの夢のはずだが、伊織は妙にその赤ちゃんのことが気になった。
そして、その日からその子は定期的に伊織の夢の中に現れる。しかも不思議なことに少しずつ成長して大きくなっていった。
顔だけはぼんやりとしてよくわからないが、寝返りをうち、座れるようになり、ハイハイができるようになってく。
成長を見守ってきたからか、初めて立ち上がったのを見た朝は「やった!」という自分の声で目を覚ましたくらい嬉しかった。
そうしていつしか、伊織はその子が夢に現れる日を心待ちにするようになっていた。
その間隔はまちまちで三日続けてその子の夢を見ることもあれば、数ヶ月出てこないこともある。
数ヶ月間隔が空いた時は、あの子に何かあったのではないかと不安でたまらなかった。
夜寝るたびに今日こそは現れるようにと願い、ようやく夢に出てきたその子は、男の子用の琉装を纏い、ハチマキと呼ばれる金色の帽子をつけ、同じ色の太い帯を締めていた。
伊織はその時初めてその子が男の子だったことを知った。その子の夢を見始めてから実に三年の月日が流れていた。
それでもその子を可愛いと思う気持ちに変化はなく、むしろ、琉装を着ていたことで同じ沖縄にいるのだと分かり、いつか実際に会えるかもしれないと期待するようになった。
それからもちょくちょくその子は伊織の夢に現れ、ぼんやりと靄がかかっていた顔は成長ともに少しずつ見えてきた。
黒目が大きく鼻と口は小さくて、日に焼けているのか少し茶色味がかかった髪はその子にとてもよく似合っていた。
天使のような穏やかで優しい笑顔を見せるその子を、いつしか伊織は好きになっていた。それが十三歳の春だった。
その子が男の子だということで自分の感情に戸惑いもあったが、その子の夢を見て初めて夢精をした時に自分がそういう気持ちで彼を好きなのだと理解した。
一般的に男性を好きになる男をゲイというが、伊織は夢の中のその子だけが好きな存在であり、クラスメイトやその他の男に一度も感情を乱されたことはない。もちろん女性も同じだ。
だから厳密に言えばゲイというわけではないのかもしれないが、伊織の中ではその子以外に好きになれないのだから自分はゲイなのだと納得していた。
「私はゲイなので女性を連れ込むようなことはありませんよ」
長い付き合いになるのなら倉橋さんにもいつかは話そうと思っていたが、不意にカミングアウトをしてみた。
彼はどんな反応をするだろう?
これで嫌がってさっきの話が無しになるのであればそれもまた受け入れよう。
そう思っていたが、彼は驚くどころか伊織に笑顔を向けてきた。
「そうでしたか。別に男性でも構いませんよ。好きに使ってくださって結構です」
ここまで表情を変えずに受け入れてもらえたのは初めてかもしれない。
大学時代、周平さんに打ち明けた時もすぐに受け入れてくれたが、伝えたその瞬間はさすがに表情に驚きが見えていた。
「ありがとうございます。ですが、私は自分がゲイだと自認してからは一生添い遂げたいと思う人とだけ付き合おうと決めましたから……。一人でゆっくり過ごさせていただきますね」
「安慶名さんらしいですね。そういう気持ち、大切だと思います。私もいつかそういう人に巡り会えたらとは思いますが、なかなか難しいですね。自分だけを見つめてくれる人に出会いたいとはずっと思ってはいるんですがね……」
彼の少し寂しげな表情がなんだかとても心に残った。
男女問わず自由奔放に遊んでいるようなイメージだったが、彼の根本にはそうさせてしまうような何か深い闇があるのかもしれない。
彼から話を受けて一週間後、夏季休暇をとった伊織は石垣島行きの航空券を手に東京を飛び立った。
そういえば那覇より先には行ったことがなかった。
飛行機の中で、予習をしておこうと思って倉橋さんの会社<K.Yリゾート>の資料を広げた。
素晴らしい大自然の神秘に思わず「おおっ」と声が漏れた。
同じ沖縄とはいえ、やはり日本最後の秘境の島と呼ばれるだけあって、自然の美しさは大きな建物が立ち並ぶ那覇とは比べ物にならない。
特に倉橋さんの所有する無人島の中心にあるという虹色に光る湖の写真。
写真でさえこれほど美しいのだから、実物は相当のものだろう。
石垣島イリゼリゾートに宿泊した人のみの特別ツアーか。なるほど、こういうところが倉橋さんらしい。
石垣島に到着し、空港を出ると途端に刺すような日差しが襲ってきた。やはり真夏だけあって太陽の光がものすごい。
ジリジリと肌を焦がすような日差しに幼少時代を思い出した。
――沖縄の日差しは強いけれど、日陰に入ると風があるから涼しいんだよ。
祖父にそう言われていたことを思い出す。日陰に入ると、サァーッと涼しい風が流れて一気に身体を冷やしてくれた。
この涼しさはあの頃と変わらない。本島も離島もこのあたりは似ているのかもしれない。
そんな懐かしさを覚えながら、石垣島を少し観光することにした。
レンタカーを借り、倉橋さんに教えてもらった沖縄そば屋で食事をする。海岸線を走っていると太陽の光を受けて宝石のように輝く青い海が伊織の目を楽しませてくれる。
本島の海も透き通るような青色で美しかったけれど、こっちの海はまた格別だ。なんせ海の色が違う。
途中で車を止め、倉橋さんのおすすめだという古ぼけたビーチに足を踏み入れた。観光マップにも載っていないビーチだけあって、本当に観光客は一人もいない。とうの昔に寂れてしまったようなビーチだ。
なぜ勧めてくれたんだろうと思う反面、彼のことだから何か理由があるに違いないと絶大の信頼をおいている。
「おおっ!」
さらさらとした砂地を進んだ奥にあったのはまさしく絶景。
驚くほど白い砂浜にエメラルドグリーンの美しい海。岩場の窪みには熱帯魚が泳いでいる。
こんなに美しい場所は、多分地元の人の中でも知っている人は少ないだろう。
そんな場所を倉橋さんがちゃんと把握していることに驚かされる。交友関係の広い彼だからこそ知り得た情報なのだろう。
伊織は大きな岩の影に腰を下ろし、しばらくの間その美しい景色を眺めて過ごした。
遠くのほうで少し黒い雲が出始めたのを見つけた。もしかしたらカタブイ(沖縄の方言でスコールのこと)が降るかもしれない。伊織は急いで車に戻った。
「いえ、私もうすぐ夏季休暇を取る予定でしたので、旅行がてら西表まで自分で行ってみますよ。何も決めないでいくのも楽しいでしょう」
伊織の言葉に倉橋さんは一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに笑顔になった。
「その気持ちわかります。きっと安慶名さんも離島の美しさに嵌りますよ」
彼は胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚の名刺をくれた。
「石垣島イリゼリゾート? これ、浅香さんの……」
「そこには俺と蓮見専用の部屋があるので、予約なしでいつでも泊まれるんです。良かったらそこにも足を運んでみてください」
「でも、特別な部屋なんでしょう? 私が泊まってもいいんですか?」
「もちろんです。安慶名さんにはいつもお世話になっていますから。ホテルには私からも連絡を入れておきますのでご安心ください。あ、そうそう、その部屋には女性を自由に連れ込んでも大丈夫ですよ」
パチンとウィンクして見せる倉橋さんはもちろん伊織の性的指向など知らない。
実は、伊織はゲイだ。自分がゲイだと自覚をしたのは中学校に入学したとき。
だが伊織にゲイだと自覚させたのはクラスメイトや教師といった実在の人物ではない。
小学生の伊織の夢に出てきた可愛らしい赤ちゃん。それが始まりだった。
初めてその子が夢に現れたのは、小学校に入学してしばらく経った頃。
可愛い泣き声をあげる顔も見えないその子は真っ白なおくるみの中で、小さな手足をバタバタと動かしていた。
当時の伊織には周りに小さな赤ちゃんがいる家庭はなかったから全く知らない赤ちゃんだ。
ただの夢のはずだが、伊織は妙にその赤ちゃんのことが気になった。
そして、その日からその子は定期的に伊織の夢の中に現れる。しかも不思議なことに少しずつ成長して大きくなっていった。
顔だけはぼんやりとしてよくわからないが、寝返りをうち、座れるようになり、ハイハイができるようになってく。
成長を見守ってきたからか、初めて立ち上がったのを見た朝は「やった!」という自分の声で目を覚ましたくらい嬉しかった。
そうしていつしか、伊織はその子が夢に現れる日を心待ちにするようになっていた。
その間隔はまちまちで三日続けてその子の夢を見ることもあれば、数ヶ月出てこないこともある。
数ヶ月間隔が空いた時は、あの子に何かあったのではないかと不安でたまらなかった。
夜寝るたびに今日こそは現れるようにと願い、ようやく夢に出てきたその子は、男の子用の琉装を纏い、ハチマキと呼ばれる金色の帽子をつけ、同じ色の太い帯を締めていた。
伊織はその時初めてその子が男の子だったことを知った。その子の夢を見始めてから実に三年の月日が流れていた。
それでもその子を可愛いと思う気持ちに変化はなく、むしろ、琉装を着ていたことで同じ沖縄にいるのだと分かり、いつか実際に会えるかもしれないと期待するようになった。
それからもちょくちょくその子は伊織の夢に現れ、ぼんやりと靄がかかっていた顔は成長ともに少しずつ見えてきた。
黒目が大きく鼻と口は小さくて、日に焼けているのか少し茶色味がかかった髪はその子にとてもよく似合っていた。
天使のような穏やかで優しい笑顔を見せるその子を、いつしか伊織は好きになっていた。それが十三歳の春だった。
その子が男の子だということで自分の感情に戸惑いもあったが、その子の夢を見て初めて夢精をした時に自分がそういう気持ちで彼を好きなのだと理解した。
一般的に男性を好きになる男をゲイというが、伊織は夢の中のその子だけが好きな存在であり、クラスメイトやその他の男に一度も感情を乱されたことはない。もちろん女性も同じだ。
だから厳密に言えばゲイというわけではないのかもしれないが、伊織の中ではその子以外に好きになれないのだから自分はゲイなのだと納得していた。
「私はゲイなので女性を連れ込むようなことはありませんよ」
長い付き合いになるのなら倉橋さんにもいつかは話そうと思っていたが、不意にカミングアウトをしてみた。
彼はどんな反応をするだろう?
これで嫌がってさっきの話が無しになるのであればそれもまた受け入れよう。
そう思っていたが、彼は驚くどころか伊織に笑顔を向けてきた。
「そうでしたか。別に男性でも構いませんよ。好きに使ってくださって結構です」
ここまで表情を変えずに受け入れてもらえたのは初めてかもしれない。
大学時代、周平さんに打ち明けた時もすぐに受け入れてくれたが、伝えたその瞬間はさすがに表情に驚きが見えていた。
「ありがとうございます。ですが、私は自分がゲイだと自認してからは一生添い遂げたいと思う人とだけ付き合おうと決めましたから……。一人でゆっくり過ごさせていただきますね」
「安慶名さんらしいですね。そういう気持ち、大切だと思います。私もいつかそういう人に巡り会えたらとは思いますが、なかなか難しいですね。自分だけを見つめてくれる人に出会いたいとはずっと思ってはいるんですがね……」
彼の少し寂しげな表情がなんだかとても心に残った。
男女問わず自由奔放に遊んでいるようなイメージだったが、彼の根本にはそうさせてしまうような何か深い闇があるのかもしれない。
彼から話を受けて一週間後、夏季休暇をとった伊織は石垣島行きの航空券を手に東京を飛び立った。
そういえば那覇より先には行ったことがなかった。
飛行機の中で、予習をしておこうと思って倉橋さんの会社<K.Yリゾート>の資料を広げた。
素晴らしい大自然の神秘に思わず「おおっ」と声が漏れた。
同じ沖縄とはいえ、やはり日本最後の秘境の島と呼ばれるだけあって、自然の美しさは大きな建物が立ち並ぶ那覇とは比べ物にならない。
特に倉橋さんの所有する無人島の中心にあるという虹色に光る湖の写真。
写真でさえこれほど美しいのだから、実物は相当のものだろう。
石垣島イリゼリゾートに宿泊した人のみの特別ツアーか。なるほど、こういうところが倉橋さんらしい。
石垣島に到着し、空港を出ると途端に刺すような日差しが襲ってきた。やはり真夏だけあって太陽の光がものすごい。
ジリジリと肌を焦がすような日差しに幼少時代を思い出した。
――沖縄の日差しは強いけれど、日陰に入ると風があるから涼しいんだよ。
祖父にそう言われていたことを思い出す。日陰に入ると、サァーッと涼しい風が流れて一気に身体を冷やしてくれた。
この涼しさはあの頃と変わらない。本島も離島もこのあたりは似ているのかもしれない。
そんな懐かしさを覚えながら、石垣島を少し観光することにした。
レンタカーを借り、倉橋さんに教えてもらった沖縄そば屋で食事をする。海岸線を走っていると太陽の光を受けて宝石のように輝く青い海が伊織の目を楽しませてくれる。
本島の海も透き通るような青色で美しかったけれど、こっちの海はまた格別だ。なんせ海の色が違う。
途中で車を止め、倉橋さんのおすすめだという古ぼけたビーチに足を踏み入れた。観光マップにも載っていないビーチだけあって、本当に観光客は一人もいない。とうの昔に寂れてしまったようなビーチだ。
なぜ勧めてくれたんだろうと思う反面、彼のことだから何か理由があるに違いないと絶大の信頼をおいている。
「おおっ!」
さらさらとした砂地を進んだ奥にあったのはまさしく絶景。
驚くほど白い砂浜にエメラルドグリーンの美しい海。岩場の窪みには熱帯魚が泳いでいる。
こんなに美しい場所は、多分地元の人の中でも知っている人は少ないだろう。
そんな場所を倉橋さんがちゃんと把握していることに驚かされる。交友関係の広い彼だからこそ知り得た情報なのだろう。
伊織は大きな岩の影に腰を下ろし、しばらくの間その美しい景色を眺めて過ごした。
遠くのほうで少し黒い雲が出始めたのを見つけた。もしかしたらカタブイ(沖縄の方言でスコールのこと)が降るかもしれない。伊織は急いで車に戻った。

