死んでもいい。
そう思っていた。
自殺ではないけれど、うすぼんやりと、そんなことを思っていた。
だから自分の死も受け入れられたし、未練なんてない。
そう思っていた。
毎日毎日、同じ制服を着て。
毎日毎日、同じ駅に向かい。
毎日毎日、同じ電車に乗って、同じ高校に向かう。
そんな憂鬱でうんざりな毎日の繰り返しだったんだから。
だから――。
「本当に未練はないの?」
小鳥みたいに小さな女の子の声がして、私ははっと顔を上げた。
気が付くと、目の前には、白いワンピースを着た五、六歳ぐらいの女の子が立っている。
「ないけど?」
私はぶっきらぼうに答えた。
「それは困るわねぇ」
目の前の少女は、およそ小さな子供らしくない口調でそう言うと、海外の映画俳優みたいに肩をすくめた。
「なにせ、あなたには追加ボーナスが与えられたのだから」
「追加ボーナス?」
「そう。生前に善行を積んだ人へのボーナス。このボーナスを与えられた人には一か月間の猶予が与えられるの。その間に、あなたは未練を解消できるというわけ」
善行?
自分は生前そんなに良い人間だっただろうか。
と首をひねり、思い出す。
そう言えば私は、川に落ちそうになっていた子供を助けて死んだのだった。
あれが善行にあたるといえば、そうかもしれない。
「君は天使なの? 神様?」
私が尋ねると、少女はニコリと微笑んだ。
「まあ、そんなところ」
「そう。でも未練だなんて、そんなもの――」
と、言いかけて思い出す。
そういえば、私のパソコンの中にはあれがある。
誰かの目に触れる前に、あれは絶対に消去しなきゃ。
「……あったわ」
私が苦い口調で呟くと、少女は目を三日月のように細めて微笑んだ
「ならよかった。それじゃあ、あなたをこれから死の一か月前の世界に戻すわね。その間に、できる限りの未練を解消してきてね」
少女がパチンと指を鳴らす。
その瞬間、私の意識はふっと遠くなり――目の前は再び真っ暗闇に閉ざされた。
***
私――皆川茉夏は見慣れたベッドで目を覚ました。
はっとしてスマホの画面を見る。
日付は八月二十五日。
記憶によると昨日は九月二十五日だったはず。
ちょうど一か月前に戻っている。
ということは、あの女の子の言う通り、私は死んでしまたけど、ボーナスが与えられて未練を解消するために死の一か月前からやり直しの人生を送っているんだ。
夢じゃない。やり直しできる。一か月間だけ。
その間に、やるべきことをやらなくては。
「よいしょ」
私はのっそりとベッドから起き上がった。
さて、こうして生き返ったのだから、やることはただ一つ。
パソコンのあれを消去しなくては。
私はお母さんが昔使ってた分厚いノートパソコンを立ち上げ、ログイン画面を開いた。
「――あれ?」
だけど、あれにログインするためのパスワードが思い出せない。
心当たりのパスワードを二、三個打ち込んでみたのだけれど、いずれも「パスワードが違います」と表示される。
どうしよう。
額を冷汗が伝う。
でも、猶予は一か月あるんだし、その間にじっくりパスワードを思い出せばいい。
慌てることはない。きっとどこかにパスワードはメモしてあるはずだし、九月二十五日までに――。
と、そこまで考えて気づいた。
「……まてよ。今日は八月二十五日? ってことは――」
私はカレンダーを見た。
八月のカレンダーには、二十五日に赤で丸がしてあり、そこに「始業式」と書いてある。
今日から二学期の始まりだ。
時計を見ると、もう家を出なくてはいけない時間。
「いけない。遅刻しちゃう」
私は急いでパソコンをシャットダウンすると、二階の自分の部屋からリビングへと降りた。
「遅刻しないでね」とメモが添えられたトーストを牛乳で流し込み、高校の制服に着替えて家を出る。
家の外は、眩しい光で満ち溢れていた。
空は高く青く晴れ渡って、濃い夏草の匂いが、むわりと暑い空気に溶けこんでる。
その全てが、今の私には全てコントラストが強すぎて、眩しすぎて、何だかちょっぴり泣きそうになった。
「いけない、学校に急がないと」
私は自転車に飛び乗ると、最寄駅へと向かった。
最寄駅の「夏川駅」はその名の通り川のそばにある駅だ。
この川で私は一ヶ月後に亡くなり、十六歳で生涯を終える予定だ。
私はキラキラと夏の日差しを浴びて光る水面を見つめた。
この川で一生を終えるのは、そんなに悪くないように思えた。
だって綺麗だし、なんとなくロマンチックだし、電車にぶつかったりビルから飛び降りるよりずっとマシだと思う。
そんなことを考えながら、私はいつものように駅の一番線に行き、高校行きの電車に乗った。
私の通っている高校は、前期と後期の二期制のはずなんだけど、私たち生徒はみんな夏休み明けのことを「二学期」と呼んでいる。
だって夏休みの前と後とじゃ、教室の空気が全然違う。
なんとなくみんな浮かれてて、夏草みたいに青臭い。
それが、高校二年の二学期だ。
「――茉夏、おはよう」
私が溢れかえる夏の空気にぼうっと立ち尽くしていると、後ろから声がかかった。
長く伸ばした天パを三つ編みにした、色白の目の大きな女の子。美優だ。
「……あ、おはよう、美優」
と、返事をして、私は少しうつむいた。
何だか胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
「宿題全部やった?」
屈託のない笑顔で笑う美優に、私は何とか言葉を返した。
「うん。昨日、徹夜してでかしたよ」
「私、実は読書感想文だけまだなんだ。大丈夫かな?」
「国語の藤原先生は優しいから大丈夫だと思うよ」
「でもさ、聞いたら西高は全然宿題無いんだって。羨ましい」
「へえ、いいなー。うちの高校、宿題多いもんね……」
なんてことのないいつもの会話。だけど私は、憂鬱な気分でいっぱいだった。
だって私は、この後の展開を知ってるんだから。
「おはよう、美優!」
大きな声で声をかけてきたのは、クラスメイトの沖田さんだ。
少し日焼けした肌に、男の子みたいに短い茶髪。
声がやたら大きくて、私はなんだか苦手なタイプ。
「あ、おはよう。オッキー」
美優が沖田さんに屈託のない笑顔を見せる。
それだけで、私の心臓はズキリと痛んだ。
「ねえねえ、こないだ言ってたグッズ、持ってきたよ!」
「え、本当? ありがとー」
美優は制服の裾をひらりと翻し、私の横を通って、沖田さんの元へと走っていってしまった。
私は頬杖をついて、窓の外へ視線を移した。
嘘みたいに晴れた青空に、白い雲が風でゆっくりと流れていく。
私と美優は、小学校のころからの親友だった。
小学校の頃は、毎日一緒に公園に遊びに行ったし、二人で秘密基地も作った。
中学校に入ると、部活も塾も一緒で、美優はいつも私にべったりだった。
一人だと寂しいという美優のために、志望校のレベルを一ランク落としてこの高校にも通ってる。
私だったら、本当はもっと上の偏差値の高校だって狙えたのに。
それがこの夏休みの補習授業で、美優は沖田さんと一緒になり、仲良くなってしまった。
同じYouTuberが好きで意気投合したんだって。
美優が「沖田さんとも友達になってあげて」って言うから、初めは私も沖田さんと仲良くしようと思った。
沖田さんが一学期の終わりごろから同じソフトボール部の女子たちに避けられてるのを知ってたし。
二人グループが三人グループになっても、それは別に構わないと思ってた。
だけど沖田さんは私が一緒にいても美優にばっかり話しかけるし、私の知らないYouTuberの話ばかりする。
私が気を使って話しかけてもなんだか気まずそうな顔をするし、私はどんどんグループにいずらくなってしまった。
そもそも、前まで同じ部活の女子とつるんでたのに何でハブられたんだろう。
沖田さんが元いたグループに戻ってくれればすべて丸く収まるのに。
そう思った私は、同じクラスのソフト部の女子たちに聞いてみた。
「ねえねえ、最近、沖田さんと一緒じゃないよね。何かあったの?」
私が尋ねると、ソフト部の女子たちは顔を見合わせた。
「何がって……あの子ってちょっと空気読めないでしょ」
「声も大きいし、デリカシーもないし」
「だから自然に離れただけ。別にいじめとかじゃないよ」
「そう……なんだ」
私が言うと、ソフト部のうちの一人が私を同情したような目で見た。
「そういえば、オッキーって最近、茉夏ちゃんたちのグループにやたらべったりしてない?」
「うん。美優と仲いいみたいで」
私が返事をすると、彼女たちは同情したような目で私を見た。
「えー。でも、茉夏ちゃんはオッキーのこと苦手なんだよね?」
「本格的にグループに入られる前に、何とかしたほうがいいよ」
「美優ちゃんと話し合って、オッキーにはグループ抜けてもらった方がいいって」
「う……うん」
ソフト部の女子たちの助言を受け、私は美優と沖田さんについて話し合いをすることにした。
「話って、何?」
「うん、実は沖田さんのことなんだけど……」
私はソフト部の女子たちから聞いた話を美優に話して聞かせた。
沖田さんがどんなに空気を読めなくて、デリカシーが無くて、人を傷つけたり、恥ずかしくて一緒にいたくないような行動を取ってるかっていうことを――少し話は盛ったけど大体聞いた通りにそのまま伝えた。
これで美優は私の元へ戻って来る。そう思ったんだけど――。
「酷いよ、茉夏」
美優は目に涙を貯めて私を睨んだ。
「オッキーは友達なのに、友達の言うことより、ソフト部の子たちの話を信じるの?」
友達? 冗談じゃない。
私がこんなに苦しい思いをしているのは、沖田さんのせいなのに。
「そりゃ美優は沖田さんと友達かもしれないけど、別に私は沖田さんと友達じゃないし」
私がありのままの事実を告げると、美優はショックを受けたように目を見開いた。
そして静かに唇を噛みしめると、美優は目を伏せてこう言い放った。
「……そう。じゃあいいよ。そんなに言うなら茉夏はソフト部の子たちと仲良くすれば。私はオッキーと友達だから」
その言葉に、私は心臓を引き裂かれるような思いになった。
美優なら私の味方になってくれると思ってた。
小学校のころ、犬にほえられて泣いている美優を助けたのも私だったし、男子に嫌がらせされたときに言い返してやったのも私だった。いつだって、私たちは一緒だった。
それなのに美優は、小学校のころからの親友の私より、夏休みに知り合ったばかりの沖田さんを取るんだ。
私って、その程度だったんだ。
そう思うと、自分がみじめで悲しくてやりきれなかった。
泣きたかった。
大声を出して叫びたかった。
なのに――。
去って行く美優の後ろ姿に、私は声をかけることすらできなかった。
私は死ぬ前の出来事を思い出し、ため息をつく。
はあ。
「生前善行を積んだ」って神様は言ってたけど、私は全然善い人間なんかじゃない。
「――茉夏、茉夏っ」
ハッとして顔を上げると、目の前には美優と、その後ろに隠れるようにして、少し気まずそうな顔をした沖田さんがいた。
「始業式、オッキーも一緒に行っても良いかな? ソフト部の子たち、もう行っちゃったみたいで」
本当はわざと沖田さん抜きで体育館に移動したって知っているはずなのに、偶然居なかったみたいな言い方で美優が言う。
「……あ、うん。いいよ」
私はとりあえず笑顔を作ってうなずいた。
三人で一緒に体育館へと向かう。
廊下には同じように体育館へと向かう人で溢れていて、私たちは自然と二対一に分かれて歩くことになってしまった。
前を歩くのが美優と沖田さん。後ろを歩くのが私。
三人とか五人のグループってこういうのがあるから嫌なんだよね。
……うう、胃が痛くなってきた。
どうか、周りのみんなが私を変な目で見ませんように。
――と、私の目に一人の男子の後頭部が目に飛び込んできた。
灰色の無機質な人混みから頭一つ抜け出てる背の高い男子、黒谷くんだ。
背がすごく高くて、眼鏡をかけていて、サラサラの黒髪に色白の肌。
よく見ると整った顔はしてるんだけど、いつも無口で何を考えてるんだか分からない涼しい顔をしてる。
虐められているというわけではなさそうだけど、黒谷くんは教室でも移動教室でもいつも一人だ。
私だったら耐えられない。
そう思うんだけど、黒谷くんは周りを気にする様子もなく、人波を悠々と泳ぐように進んでいく。
いいな。
同じぼっちでも男子だと女子ほどは目立たないし、そういうのも気にならないんだろう。
私も男子に生まれればよかったのかな。
なんて考えて思い出す。
そういえば――。
「やり直し」の前の人生で、私は一度、黒谷くんに話しかけたことがあったっけ。
あれは、ちょうど美優と喧嘩した直後のことだった。
教室で一人になった私は、なんとなく誰とでもいいから会話がしたいと思ったんだ。
それで、何かのきまぐれだったんだろう。
私は普段全く会話なんかしない黒谷くんに声をかけたんだ。
「黒谷くん、何の本読んでるの?」
黒谷くんはいつも一人で本を読んでるけど、いつも深緑のブックカバーを付けていて何の本を読んでいるのか分からない。
だからそんな風に声をかけたんだけど――。
黒谷くんはビクリと身を震わせ、驚いたようにほんの少し目を見開くと、無言でブックカバーをはずした。
そこには『藍の道化師』と書かれていた。作者は「屋根野いもり」と言う人らしい。
屋根野いもり……?
私も読書は好きなほうだけど、全然聞いたこともない名前だ。
「いもり? 変な名前」
私が思わずそう口にすると、黒谷くんは氷のように冷たい瞳で私を睨んだ。
「――皆川さんには分からないだろうね」
その言葉に、私も思わずむっとなる。
なんとなく、私が何のとりえもない凡人みたいに思われたみたいでいやな気分になったのだ。
今にして思えば、人の好きな作家に向かって「変な名前」なんて言うのは確かに失礼だったんだけどね。
とにかく、やり直す前の人生では私は黒谷くんを怒らせた。
だから今回の人生では黒谷くんに関わるのはやめておこう。
私はそう心に決めた。
「――茉夏、茉夏っ」
と、美優の声で、私は我に返った。
「どうしたの? 始業式、終わったよ? 教室に戻ろう」
「ああ、うん。そうしよっか」
私は笑顔を作ると、来た時と同じように美優と沖田さんと一緒に教室へと戻った。
来た時同様、美優は沖田さんと話し込んでいて、一人になっている私を気にする様子もない。
(……まあ、いっか)
どうせ私は一か月後には死ぬんだ。
沖田さんを美優から遠ざけたところで、私が死んだら美優は一人ぼっちになってしまう。
それだったら、美優には沖田さんと仲良くなってもらった方がいい。
そのほうが、私が死んだときのダメージも少ないだろうし。
それに、せっかくボーナスとしてもらった貴重な一か月を沖田さんとの争いで無駄に消耗するのももったいない。
それより、もっと有意義に過ごしたほうがいい。
……でも、有意義に過ごすって、いったいどんな風に?
教室に戻ると、私は授業もそっちのけで、これからの一か月間をどう過ごすのか計画を立てることにした。
せっかくだから「死ぬまでにしたい100のことリスト」でも作ってみようかな。
私はルーズリーフを一枚用意すると、そこにいつか見た映画のまねをして死ぬまでにしたいことリストを作ることにした。
・あれのパスワードを思い出す(最優先事項! 絶対に忘れないように‼)
・英華堂のビッグチョコレートパフェを食べに行く
・ねこカフェに行く
・電車の旅に出る
・お弁当を持ってピクニックに行く
・学校を一日サボって好き勝手過ごす
・彼氏を作る
・沖縄の海でダイビングをする
・エアーズロックで愛を叫ぶ
……うーん、なんか現実的じゃないなあ。
ダイビングをするだとかエアーズロックで愛を叫ぶだとか、お金もかかるし一か月以内に実行できそうもないし、彼氏を作るなんて、もっと現実味がない。
もし万が一できたとしても、一か月後には彼女が死んじゃうなんてかわいそうだしね。
私は腕組みをしてルーズリーフと睨めっこをした。
この中ですぐにでもできそうなことってどれだろう。
パフェを食べに行くこと? 電車の旅……とか?
色々と悩んだ末、私は決めた。
そうだ。明日は学校をズル休みしよう。
それで、電車に乗って降りたことのない駅で降りてみる。
そこでおしゃれなカフェとかレストランに入ってお昼ご飯を食べるんだ。
お金は、お正月に貰ったお年玉がまだたくさん残ってるはず。
せっかく死ぬんだし、残しておいても無駄になるから使い果たしちゃおう。
計画を立てているうちに、私はなんだかワクワクしてきた。
ふわふわと心に羽が生えたみたいに軽い気持ちになって、エアーズロックだろうがどこだろうがいけそうな気分。
こんなに明るい気持ちになったのは久しぶりだった。
どうせ一度死んでしまった人生。
これからは、私は好きに生きるんだ。
***
翌朝、私はお母さんが仕事に行ったのを確認すると、スマホで学校へと連絡をした。
「……すみません、ちょっと風邪気味で、学校を休みます」
「そうですか。担任に伝えておくね、お大事に」
電話に出たのは教頭先生で、特に診断書を出せだとか親の許可がどうのだとか言うこともなく、あっさりと電話を切った。
「ふう……」
私はドキドキする胸を押さえて深呼吸をした。
こんな風に学校をズル休みするのは初めてだ。
私はクローゼットを開け、お気に入りの私服に着替える。
夏空みたいな水色のTシャツの袖には、可愛らしい黒のリボンがひらひらと揺れている。
「やっぱりこのリボン、可愛いなあ」
私は鏡の前でくるりと一回転をしてうっとりとした。
「このリボンが無ければ上品で可愛いのに」と何度もお母さんがリボンを取ろうとしたけど、それを止めて死守したかいがあったな。
ボトムスには、「何でこの色なの? 汚れちゃうじゃない」とこれまたお母さんが苦い顔をした白のショートパンツを合わせる。うん、可愛い。
「よし、これで完成っ」
私はいつもより軽い足取りで自転車に飛び乗ると、夏川駅へと向かった。
いつものように川の横を通り、自転車を止め、長い階段を上り、駅のホームに立つ。
ほどなくして上り列車がやってきて、一番線に人の波が吸い込まれていった。
一番線には上り列車がやって来る。
大きな会社や学校がある街の中央部には上り電車で行く必要があるため、今の時間は必然的に一番線のほうが人が多い。
私は電車に収容されていく人の波を見送りながら、人のまばらな二番線のベンチに腰かけた。
なんだか不思議な気持ち。
まだ死んでもいないのに、自分が人間社会から隔絶された幽霊か何かになったみたいな気分になる。
だれも私のことなんか見ていないはずなのに、なんだかそわそわと落ち着かない気持ち。
だけど一方で、何にも縛られていないような開放感があった。
今日は学校に行かなくてもいい。
自由なんだ。
そう思うと胸がわくわくした。
やがて、二番線に下り列車がやって来た。
「まもなく、二番線に電車が到着します。お乗りの方は――」
私は数人の乗客が下りるのを見計らい、意を決して電車に飛び乗った。
幸いなことに、まだ通勤通学の時間帯なのに座席に座ることができた。
ほっと一息ついたとたん、ゆっくりと列車が動き出す。
一駅、二駅。
街の景色が過ぎるごとに乗客が下りていき、人がすっかりまばらになる。
窓の外は、さっきまでの街中の光景とは異なり、いつのまにか田んぼの広がるのどかな景色になっていた。
風が通るたびに田んぼの緑が波のように揺れ、遠くには青い山々が光る。
私は窓の外の景色に心癒されつつも、何となく不安になっていた。
どうしよう。
まさか普段の駅から数駅離れるだけでこんなに田舎になるとは思ってもみなかった。
お昼は適当に駅前で食べる予定だったけど、ひょっとして駅前に何もないほどの田舎の可能性もあるかもしれない。
かといって自分の住む町と似たような街でもつまらないし。
そんなことを考えている間にも、駅はどんどん過ぎていく。
停まる駅はたくさんあるのに、自分の降りるべき駅が分からなかった
「次は、春海駅ー、春海駅ー」
ハッとして顔を上げる。
降りたことはないけれど、聞いたことのある名前の駅だ。
確か駅前に人気のパンケーキ屋さんがあったはず。
私は鞄をひっつかみ、思い切って列車を下りた。
改札を出ると外はピクニックでもできそうなポカポカ陽気。
日差しはまだ暑いけど、昨日までのギラギラとした夏の暑さは収まり、秋みたいな風が腕に吹きつけて気持ちが良かった。
「さて……と」
私はスマホを取り出し、前にSNSで見たパンケーキ屋さんを検索した。
駅前にはドトールやスタバもあるけれど、どうせなら個人経営のおしゃれなカフェに行きたい。
地図によるとここから歩いて十五分くらいみたいだけど――。
私は辺りをキョロキョロしながら知らない街を歩いた。
知らない建物。
知らない看板。
知らない景色と匂い。
やがてミントグリーンの壁のおしゃれなカフェが見えてきた。だけど――。
看板には『CLOSED 開店11:00~』と書かれている。
まだ開いてないみたい。
どうしよう。どこかで時間をつぶさないと。
私がキョロキョロと辺りを見回していると、一件の本屋さんが目に飛び込んできた。
古い木造住宅をリフォームしたみたいな店舗。入り口には赤と紫のペチュニアが咲いている。
白い窓枠の窓には黒猫のステッカーが張ってあって「黒猫堂書店」と書いてあるのが見えた。
わあ、素敵な本屋さん。
私は気が付いたら、黒猫堂書店のドアを押していた。
「いらっしゃい」
白い髭を蓄えた老紳士がはたきを片手に出迎えてくれる。
「わあ」
私は思わず声を上げた。
店の中は外から見るよりもずっと広い。
文庫本に単行本。参考書に雑誌、マンガ。小さなレターセットや文房具。
店の中に置かれている商品を見るだけで、なんだか心臓がどきどきと高鳴った。
入ったことのない本屋さんって、なんでこんなにワクワクするんだろう。
――と、私が本屋さんの中を一周していると、ふと今月の新刊コーナーにこんなポップを見つけた。
『春海町出身作家! 屋根野いもりさんの最新作!』
屋根野いもり?
どこかで聞いたことがあるような――。
私がふと本に手を伸ばすと、横から同じように大きな男の人の手がにゅっと出てきた。
「あっ……すみませ……」
手を引っ込め、慌てて手の主の顔を見上げる。
そこにいたのは、背が高くて、色白で、眼鏡をかけた見覚えのある男子だった。
「――黒谷くん」
私が思わず声に出すと、黒谷くんは少し驚いたように目を見開いた。
白い喉ぼとけがごくりと上下するのが見えた。
「皆川さん……何でここに?」
それはこっちが聞きたいよ。
そう思っていた。
自殺ではないけれど、うすぼんやりと、そんなことを思っていた。
だから自分の死も受け入れられたし、未練なんてない。
そう思っていた。
毎日毎日、同じ制服を着て。
毎日毎日、同じ駅に向かい。
毎日毎日、同じ電車に乗って、同じ高校に向かう。
そんな憂鬱でうんざりな毎日の繰り返しだったんだから。
だから――。
「本当に未練はないの?」
小鳥みたいに小さな女の子の声がして、私ははっと顔を上げた。
気が付くと、目の前には、白いワンピースを着た五、六歳ぐらいの女の子が立っている。
「ないけど?」
私はぶっきらぼうに答えた。
「それは困るわねぇ」
目の前の少女は、およそ小さな子供らしくない口調でそう言うと、海外の映画俳優みたいに肩をすくめた。
「なにせ、あなたには追加ボーナスが与えられたのだから」
「追加ボーナス?」
「そう。生前に善行を積んだ人へのボーナス。このボーナスを与えられた人には一か月間の猶予が与えられるの。その間に、あなたは未練を解消できるというわけ」
善行?
自分は生前そんなに良い人間だっただろうか。
と首をひねり、思い出す。
そう言えば私は、川に落ちそうになっていた子供を助けて死んだのだった。
あれが善行にあたるといえば、そうかもしれない。
「君は天使なの? 神様?」
私が尋ねると、少女はニコリと微笑んだ。
「まあ、そんなところ」
「そう。でも未練だなんて、そんなもの――」
と、言いかけて思い出す。
そういえば、私のパソコンの中にはあれがある。
誰かの目に触れる前に、あれは絶対に消去しなきゃ。
「……あったわ」
私が苦い口調で呟くと、少女は目を三日月のように細めて微笑んだ
「ならよかった。それじゃあ、あなたをこれから死の一か月前の世界に戻すわね。その間に、できる限りの未練を解消してきてね」
少女がパチンと指を鳴らす。
その瞬間、私の意識はふっと遠くなり――目の前は再び真っ暗闇に閉ざされた。
***
私――皆川茉夏は見慣れたベッドで目を覚ました。
はっとしてスマホの画面を見る。
日付は八月二十五日。
記憶によると昨日は九月二十五日だったはず。
ちょうど一か月前に戻っている。
ということは、あの女の子の言う通り、私は死んでしまたけど、ボーナスが与えられて未練を解消するために死の一か月前からやり直しの人生を送っているんだ。
夢じゃない。やり直しできる。一か月間だけ。
その間に、やるべきことをやらなくては。
「よいしょ」
私はのっそりとベッドから起き上がった。
さて、こうして生き返ったのだから、やることはただ一つ。
パソコンのあれを消去しなくては。
私はお母さんが昔使ってた分厚いノートパソコンを立ち上げ、ログイン画面を開いた。
「――あれ?」
だけど、あれにログインするためのパスワードが思い出せない。
心当たりのパスワードを二、三個打ち込んでみたのだけれど、いずれも「パスワードが違います」と表示される。
どうしよう。
額を冷汗が伝う。
でも、猶予は一か月あるんだし、その間にじっくりパスワードを思い出せばいい。
慌てることはない。きっとどこかにパスワードはメモしてあるはずだし、九月二十五日までに――。
と、そこまで考えて気づいた。
「……まてよ。今日は八月二十五日? ってことは――」
私はカレンダーを見た。
八月のカレンダーには、二十五日に赤で丸がしてあり、そこに「始業式」と書いてある。
今日から二学期の始まりだ。
時計を見ると、もう家を出なくてはいけない時間。
「いけない。遅刻しちゃう」
私は急いでパソコンをシャットダウンすると、二階の自分の部屋からリビングへと降りた。
「遅刻しないでね」とメモが添えられたトーストを牛乳で流し込み、高校の制服に着替えて家を出る。
家の外は、眩しい光で満ち溢れていた。
空は高く青く晴れ渡って、濃い夏草の匂いが、むわりと暑い空気に溶けこんでる。
その全てが、今の私には全てコントラストが強すぎて、眩しすぎて、何だかちょっぴり泣きそうになった。
「いけない、学校に急がないと」
私は自転車に飛び乗ると、最寄駅へと向かった。
最寄駅の「夏川駅」はその名の通り川のそばにある駅だ。
この川で私は一ヶ月後に亡くなり、十六歳で生涯を終える予定だ。
私はキラキラと夏の日差しを浴びて光る水面を見つめた。
この川で一生を終えるのは、そんなに悪くないように思えた。
だって綺麗だし、なんとなくロマンチックだし、電車にぶつかったりビルから飛び降りるよりずっとマシだと思う。
そんなことを考えながら、私はいつものように駅の一番線に行き、高校行きの電車に乗った。
私の通っている高校は、前期と後期の二期制のはずなんだけど、私たち生徒はみんな夏休み明けのことを「二学期」と呼んでいる。
だって夏休みの前と後とじゃ、教室の空気が全然違う。
なんとなくみんな浮かれてて、夏草みたいに青臭い。
それが、高校二年の二学期だ。
「――茉夏、おはよう」
私が溢れかえる夏の空気にぼうっと立ち尽くしていると、後ろから声がかかった。
長く伸ばした天パを三つ編みにした、色白の目の大きな女の子。美優だ。
「……あ、おはよう、美優」
と、返事をして、私は少しうつむいた。
何だか胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
「宿題全部やった?」
屈託のない笑顔で笑う美優に、私は何とか言葉を返した。
「うん。昨日、徹夜してでかしたよ」
「私、実は読書感想文だけまだなんだ。大丈夫かな?」
「国語の藤原先生は優しいから大丈夫だと思うよ」
「でもさ、聞いたら西高は全然宿題無いんだって。羨ましい」
「へえ、いいなー。うちの高校、宿題多いもんね……」
なんてことのないいつもの会話。だけど私は、憂鬱な気分でいっぱいだった。
だって私は、この後の展開を知ってるんだから。
「おはよう、美優!」
大きな声で声をかけてきたのは、クラスメイトの沖田さんだ。
少し日焼けした肌に、男の子みたいに短い茶髪。
声がやたら大きくて、私はなんだか苦手なタイプ。
「あ、おはよう。オッキー」
美優が沖田さんに屈託のない笑顔を見せる。
それだけで、私の心臓はズキリと痛んだ。
「ねえねえ、こないだ言ってたグッズ、持ってきたよ!」
「え、本当? ありがとー」
美優は制服の裾をひらりと翻し、私の横を通って、沖田さんの元へと走っていってしまった。
私は頬杖をついて、窓の外へ視線を移した。
嘘みたいに晴れた青空に、白い雲が風でゆっくりと流れていく。
私と美優は、小学校のころからの親友だった。
小学校の頃は、毎日一緒に公園に遊びに行ったし、二人で秘密基地も作った。
中学校に入ると、部活も塾も一緒で、美優はいつも私にべったりだった。
一人だと寂しいという美優のために、志望校のレベルを一ランク落としてこの高校にも通ってる。
私だったら、本当はもっと上の偏差値の高校だって狙えたのに。
それがこの夏休みの補習授業で、美優は沖田さんと一緒になり、仲良くなってしまった。
同じYouTuberが好きで意気投合したんだって。
美優が「沖田さんとも友達になってあげて」って言うから、初めは私も沖田さんと仲良くしようと思った。
沖田さんが一学期の終わりごろから同じソフトボール部の女子たちに避けられてるのを知ってたし。
二人グループが三人グループになっても、それは別に構わないと思ってた。
だけど沖田さんは私が一緒にいても美優にばっかり話しかけるし、私の知らないYouTuberの話ばかりする。
私が気を使って話しかけてもなんだか気まずそうな顔をするし、私はどんどんグループにいずらくなってしまった。
そもそも、前まで同じ部活の女子とつるんでたのに何でハブられたんだろう。
沖田さんが元いたグループに戻ってくれればすべて丸く収まるのに。
そう思った私は、同じクラスのソフト部の女子たちに聞いてみた。
「ねえねえ、最近、沖田さんと一緒じゃないよね。何かあったの?」
私が尋ねると、ソフト部の女子たちは顔を見合わせた。
「何がって……あの子ってちょっと空気読めないでしょ」
「声も大きいし、デリカシーもないし」
「だから自然に離れただけ。別にいじめとかじゃないよ」
「そう……なんだ」
私が言うと、ソフト部のうちの一人が私を同情したような目で見た。
「そういえば、オッキーって最近、茉夏ちゃんたちのグループにやたらべったりしてない?」
「うん。美優と仲いいみたいで」
私が返事をすると、彼女たちは同情したような目で私を見た。
「えー。でも、茉夏ちゃんはオッキーのこと苦手なんだよね?」
「本格的にグループに入られる前に、何とかしたほうがいいよ」
「美優ちゃんと話し合って、オッキーにはグループ抜けてもらった方がいいって」
「う……うん」
ソフト部の女子たちの助言を受け、私は美優と沖田さんについて話し合いをすることにした。
「話って、何?」
「うん、実は沖田さんのことなんだけど……」
私はソフト部の女子たちから聞いた話を美優に話して聞かせた。
沖田さんがどんなに空気を読めなくて、デリカシーが無くて、人を傷つけたり、恥ずかしくて一緒にいたくないような行動を取ってるかっていうことを――少し話は盛ったけど大体聞いた通りにそのまま伝えた。
これで美優は私の元へ戻って来る。そう思ったんだけど――。
「酷いよ、茉夏」
美優は目に涙を貯めて私を睨んだ。
「オッキーは友達なのに、友達の言うことより、ソフト部の子たちの話を信じるの?」
友達? 冗談じゃない。
私がこんなに苦しい思いをしているのは、沖田さんのせいなのに。
「そりゃ美優は沖田さんと友達かもしれないけど、別に私は沖田さんと友達じゃないし」
私がありのままの事実を告げると、美優はショックを受けたように目を見開いた。
そして静かに唇を噛みしめると、美優は目を伏せてこう言い放った。
「……そう。じゃあいいよ。そんなに言うなら茉夏はソフト部の子たちと仲良くすれば。私はオッキーと友達だから」
その言葉に、私は心臓を引き裂かれるような思いになった。
美優なら私の味方になってくれると思ってた。
小学校のころ、犬にほえられて泣いている美優を助けたのも私だったし、男子に嫌がらせされたときに言い返してやったのも私だった。いつだって、私たちは一緒だった。
それなのに美優は、小学校のころからの親友の私より、夏休みに知り合ったばかりの沖田さんを取るんだ。
私って、その程度だったんだ。
そう思うと、自分がみじめで悲しくてやりきれなかった。
泣きたかった。
大声を出して叫びたかった。
なのに――。
去って行く美優の後ろ姿に、私は声をかけることすらできなかった。
私は死ぬ前の出来事を思い出し、ため息をつく。
はあ。
「生前善行を積んだ」って神様は言ってたけど、私は全然善い人間なんかじゃない。
「――茉夏、茉夏っ」
ハッとして顔を上げると、目の前には美優と、その後ろに隠れるようにして、少し気まずそうな顔をした沖田さんがいた。
「始業式、オッキーも一緒に行っても良いかな? ソフト部の子たち、もう行っちゃったみたいで」
本当はわざと沖田さん抜きで体育館に移動したって知っているはずなのに、偶然居なかったみたいな言い方で美優が言う。
「……あ、うん。いいよ」
私はとりあえず笑顔を作ってうなずいた。
三人で一緒に体育館へと向かう。
廊下には同じように体育館へと向かう人で溢れていて、私たちは自然と二対一に分かれて歩くことになってしまった。
前を歩くのが美優と沖田さん。後ろを歩くのが私。
三人とか五人のグループってこういうのがあるから嫌なんだよね。
……うう、胃が痛くなってきた。
どうか、周りのみんなが私を変な目で見ませんように。
――と、私の目に一人の男子の後頭部が目に飛び込んできた。
灰色の無機質な人混みから頭一つ抜け出てる背の高い男子、黒谷くんだ。
背がすごく高くて、眼鏡をかけていて、サラサラの黒髪に色白の肌。
よく見ると整った顔はしてるんだけど、いつも無口で何を考えてるんだか分からない涼しい顔をしてる。
虐められているというわけではなさそうだけど、黒谷くんは教室でも移動教室でもいつも一人だ。
私だったら耐えられない。
そう思うんだけど、黒谷くんは周りを気にする様子もなく、人波を悠々と泳ぐように進んでいく。
いいな。
同じぼっちでも男子だと女子ほどは目立たないし、そういうのも気にならないんだろう。
私も男子に生まれればよかったのかな。
なんて考えて思い出す。
そういえば――。
「やり直し」の前の人生で、私は一度、黒谷くんに話しかけたことがあったっけ。
あれは、ちょうど美優と喧嘩した直後のことだった。
教室で一人になった私は、なんとなく誰とでもいいから会話がしたいと思ったんだ。
それで、何かのきまぐれだったんだろう。
私は普段全く会話なんかしない黒谷くんに声をかけたんだ。
「黒谷くん、何の本読んでるの?」
黒谷くんはいつも一人で本を読んでるけど、いつも深緑のブックカバーを付けていて何の本を読んでいるのか分からない。
だからそんな風に声をかけたんだけど――。
黒谷くんはビクリと身を震わせ、驚いたようにほんの少し目を見開くと、無言でブックカバーをはずした。
そこには『藍の道化師』と書かれていた。作者は「屋根野いもり」と言う人らしい。
屋根野いもり……?
私も読書は好きなほうだけど、全然聞いたこともない名前だ。
「いもり? 変な名前」
私が思わずそう口にすると、黒谷くんは氷のように冷たい瞳で私を睨んだ。
「――皆川さんには分からないだろうね」
その言葉に、私も思わずむっとなる。
なんとなく、私が何のとりえもない凡人みたいに思われたみたいでいやな気分になったのだ。
今にして思えば、人の好きな作家に向かって「変な名前」なんて言うのは確かに失礼だったんだけどね。
とにかく、やり直す前の人生では私は黒谷くんを怒らせた。
だから今回の人生では黒谷くんに関わるのはやめておこう。
私はそう心に決めた。
「――茉夏、茉夏っ」
と、美優の声で、私は我に返った。
「どうしたの? 始業式、終わったよ? 教室に戻ろう」
「ああ、うん。そうしよっか」
私は笑顔を作ると、来た時と同じように美優と沖田さんと一緒に教室へと戻った。
来た時同様、美優は沖田さんと話し込んでいて、一人になっている私を気にする様子もない。
(……まあ、いっか)
どうせ私は一か月後には死ぬんだ。
沖田さんを美優から遠ざけたところで、私が死んだら美優は一人ぼっちになってしまう。
それだったら、美優には沖田さんと仲良くなってもらった方がいい。
そのほうが、私が死んだときのダメージも少ないだろうし。
それに、せっかくボーナスとしてもらった貴重な一か月を沖田さんとの争いで無駄に消耗するのももったいない。
それより、もっと有意義に過ごしたほうがいい。
……でも、有意義に過ごすって、いったいどんな風に?
教室に戻ると、私は授業もそっちのけで、これからの一か月間をどう過ごすのか計画を立てることにした。
せっかくだから「死ぬまでにしたい100のことリスト」でも作ってみようかな。
私はルーズリーフを一枚用意すると、そこにいつか見た映画のまねをして死ぬまでにしたいことリストを作ることにした。
・あれのパスワードを思い出す(最優先事項! 絶対に忘れないように‼)
・英華堂のビッグチョコレートパフェを食べに行く
・ねこカフェに行く
・電車の旅に出る
・お弁当を持ってピクニックに行く
・学校を一日サボって好き勝手過ごす
・彼氏を作る
・沖縄の海でダイビングをする
・エアーズロックで愛を叫ぶ
……うーん、なんか現実的じゃないなあ。
ダイビングをするだとかエアーズロックで愛を叫ぶだとか、お金もかかるし一か月以内に実行できそうもないし、彼氏を作るなんて、もっと現実味がない。
もし万が一できたとしても、一か月後には彼女が死んじゃうなんてかわいそうだしね。
私は腕組みをしてルーズリーフと睨めっこをした。
この中ですぐにでもできそうなことってどれだろう。
パフェを食べに行くこと? 電車の旅……とか?
色々と悩んだ末、私は決めた。
そうだ。明日は学校をズル休みしよう。
それで、電車に乗って降りたことのない駅で降りてみる。
そこでおしゃれなカフェとかレストランに入ってお昼ご飯を食べるんだ。
お金は、お正月に貰ったお年玉がまだたくさん残ってるはず。
せっかく死ぬんだし、残しておいても無駄になるから使い果たしちゃおう。
計画を立てているうちに、私はなんだかワクワクしてきた。
ふわふわと心に羽が生えたみたいに軽い気持ちになって、エアーズロックだろうがどこだろうがいけそうな気分。
こんなに明るい気持ちになったのは久しぶりだった。
どうせ一度死んでしまった人生。
これからは、私は好きに生きるんだ。
***
翌朝、私はお母さんが仕事に行ったのを確認すると、スマホで学校へと連絡をした。
「……すみません、ちょっと風邪気味で、学校を休みます」
「そうですか。担任に伝えておくね、お大事に」
電話に出たのは教頭先生で、特に診断書を出せだとか親の許可がどうのだとか言うこともなく、あっさりと電話を切った。
「ふう……」
私はドキドキする胸を押さえて深呼吸をした。
こんな風に学校をズル休みするのは初めてだ。
私はクローゼットを開け、お気に入りの私服に着替える。
夏空みたいな水色のTシャツの袖には、可愛らしい黒のリボンがひらひらと揺れている。
「やっぱりこのリボン、可愛いなあ」
私は鏡の前でくるりと一回転をしてうっとりとした。
「このリボンが無ければ上品で可愛いのに」と何度もお母さんがリボンを取ろうとしたけど、それを止めて死守したかいがあったな。
ボトムスには、「何でこの色なの? 汚れちゃうじゃない」とこれまたお母さんが苦い顔をした白のショートパンツを合わせる。うん、可愛い。
「よし、これで完成っ」
私はいつもより軽い足取りで自転車に飛び乗ると、夏川駅へと向かった。
いつものように川の横を通り、自転車を止め、長い階段を上り、駅のホームに立つ。
ほどなくして上り列車がやってきて、一番線に人の波が吸い込まれていった。
一番線には上り列車がやって来る。
大きな会社や学校がある街の中央部には上り電車で行く必要があるため、今の時間は必然的に一番線のほうが人が多い。
私は電車に収容されていく人の波を見送りながら、人のまばらな二番線のベンチに腰かけた。
なんだか不思議な気持ち。
まだ死んでもいないのに、自分が人間社会から隔絶された幽霊か何かになったみたいな気分になる。
だれも私のことなんか見ていないはずなのに、なんだかそわそわと落ち着かない気持ち。
だけど一方で、何にも縛られていないような開放感があった。
今日は学校に行かなくてもいい。
自由なんだ。
そう思うと胸がわくわくした。
やがて、二番線に下り列車がやって来た。
「まもなく、二番線に電車が到着します。お乗りの方は――」
私は数人の乗客が下りるのを見計らい、意を決して電車に飛び乗った。
幸いなことに、まだ通勤通学の時間帯なのに座席に座ることができた。
ほっと一息ついたとたん、ゆっくりと列車が動き出す。
一駅、二駅。
街の景色が過ぎるごとに乗客が下りていき、人がすっかりまばらになる。
窓の外は、さっきまでの街中の光景とは異なり、いつのまにか田んぼの広がるのどかな景色になっていた。
風が通るたびに田んぼの緑が波のように揺れ、遠くには青い山々が光る。
私は窓の外の景色に心癒されつつも、何となく不安になっていた。
どうしよう。
まさか普段の駅から数駅離れるだけでこんなに田舎になるとは思ってもみなかった。
お昼は適当に駅前で食べる予定だったけど、ひょっとして駅前に何もないほどの田舎の可能性もあるかもしれない。
かといって自分の住む町と似たような街でもつまらないし。
そんなことを考えている間にも、駅はどんどん過ぎていく。
停まる駅はたくさんあるのに、自分の降りるべき駅が分からなかった
「次は、春海駅ー、春海駅ー」
ハッとして顔を上げる。
降りたことはないけれど、聞いたことのある名前の駅だ。
確か駅前に人気のパンケーキ屋さんがあったはず。
私は鞄をひっつかみ、思い切って列車を下りた。
改札を出ると外はピクニックでもできそうなポカポカ陽気。
日差しはまだ暑いけど、昨日までのギラギラとした夏の暑さは収まり、秋みたいな風が腕に吹きつけて気持ちが良かった。
「さて……と」
私はスマホを取り出し、前にSNSで見たパンケーキ屋さんを検索した。
駅前にはドトールやスタバもあるけれど、どうせなら個人経営のおしゃれなカフェに行きたい。
地図によるとここから歩いて十五分くらいみたいだけど――。
私は辺りをキョロキョロしながら知らない街を歩いた。
知らない建物。
知らない看板。
知らない景色と匂い。
やがてミントグリーンの壁のおしゃれなカフェが見えてきた。だけど――。
看板には『CLOSED 開店11:00~』と書かれている。
まだ開いてないみたい。
どうしよう。どこかで時間をつぶさないと。
私がキョロキョロと辺りを見回していると、一件の本屋さんが目に飛び込んできた。
古い木造住宅をリフォームしたみたいな店舗。入り口には赤と紫のペチュニアが咲いている。
白い窓枠の窓には黒猫のステッカーが張ってあって「黒猫堂書店」と書いてあるのが見えた。
わあ、素敵な本屋さん。
私は気が付いたら、黒猫堂書店のドアを押していた。
「いらっしゃい」
白い髭を蓄えた老紳士がはたきを片手に出迎えてくれる。
「わあ」
私は思わず声を上げた。
店の中は外から見るよりもずっと広い。
文庫本に単行本。参考書に雑誌、マンガ。小さなレターセットや文房具。
店の中に置かれている商品を見るだけで、なんだか心臓がどきどきと高鳴った。
入ったことのない本屋さんって、なんでこんなにワクワクするんだろう。
――と、私が本屋さんの中を一周していると、ふと今月の新刊コーナーにこんなポップを見つけた。
『春海町出身作家! 屋根野いもりさんの最新作!』
屋根野いもり?
どこかで聞いたことがあるような――。
私がふと本に手を伸ばすと、横から同じように大きな男の人の手がにゅっと出てきた。
「あっ……すみませ……」
手を引っ込め、慌てて手の主の顔を見上げる。
そこにいたのは、背が高くて、色白で、眼鏡をかけた見覚えのある男子だった。
「――黒谷くん」
私が思わず声に出すと、黒谷くんは少し驚いたように目を見開いた。
白い喉ぼとけがごくりと上下するのが見えた。
「皆川さん……何でここに?」
それはこっちが聞きたいよ。



