魔宝審判

第一章

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 うら若い女性が、進也の眼前に立っていた。背丈は進也よりやや低いが、女性にしては高い方である。くっきりした目鼻立ちからは、意志の強さと知性が感じられる。しなやかで健康的な印象の美人だった。
 女性は、ゆったりと歩を進め始めた。一つくくりにしてサイドに垂らした、流麗な髪が上下に揺れる。唇を引き結んだ表情には、そこはかとなく決意が感じられた。
 進也は鼓動を高鳴らせながら、両腕をわずかに自分の腿から離した。受け入れる姿勢を取った形だ。
 女性が抱きついてきた。どこかぎこちない動作だ。柔らかい感触が、接触箇所を中心に広がる。進也もわずかに遅れて、女性の背中に手を回し、力を込める。
 すぐに、女の子の特有の優しい香りが鼻腔をくすぐり始めた。しだいに体温がじんわりと伝播し、進也の意識を埋め尽くした。
 数秒が経過。しだいに、女性の全身が淡い光を放ち始めた。光はやがて点滅を始めて、ふうっと消えた。
 するとその女性、橘柚季(たちばなゆづき)は身体を放し、進也からすっと距離を取った。
「おおー、過去一ぐらいの熱いハグだったね。みょーに気持ちが乗ってるように見えたけど。なになに、柚季。もしかして進也(しんや)くん、好きになっちゃった?」
 少し離れた場所で、岩に腰掛けた少女、安佐北(あさきた)あいかが興味深げに目を輝かせていた。
 柚季はパンパンと、わざとらしく手で服をはたいていた。しかし聞き捨てならない指摘を耳にして、きっとあいかに鋭い視線を向ける。
「またそんなわけのわからない……。からかうのもその辺にしておきなさいよ。ほんと、信じらんない。いったい何を根拠に、私がこの人を好きだなんて……」
「いやいや、何を言ってるんだよ。自分の現状をよーく確認してみなよ。ほっぺた、ありえないぐらい真っ赤っかじゃん」
 真顔のあいかはちょんちょんと、自分の頬を指でつついた。
「そんななりで何を言っても、説得力も迫力もなーんもないよ? 柚月って見かけは大人っぽくてモテそうなのに、男慣れしてないの面白いよね。どんだけ乙女なんだよ。溜まった魔力を逃すためだけの作業でしょ。ふつーはそこまで赤くはならないって。柚季の中の魔力が暴走する前に、むしろ柚季自身が先に暴走しちゃいそう。ある日、ドカーンって弾けて、きっと柚季はこう言うの。『進也くん、あたし、あなたのことが好きで好きで好きすぎて、もう、我慢が――」
 芝居じみたセリフが中断されたかと思うと、ガン、ガララ。重量のある物の落下音がした。進也は驚きとともに、犯人にすばやく視線を向ける。
 柚季だった。大きな瞳を怒りに燃やしている。
 やがてヒュンヒュンと音がし始めた。武器に使っているブーメランだ。
 あいかのすぐ近くの岩を破壊し、一時、地面に落下していた。だがすぐにふわりと浮き上がり、柚季の元へと戻ってき始めていた。魔力を通しているため、制御が効くのである。
 柚季は慣れた手つきで、パシリとブーメランを片手キャッチした。
「すばらしいわぁ、あいか。ほんっと、私、感心しちゃう。よくもまあそれだけある事ない事、ペラペラペラペラ、よく回る口をお持ちで」
 静かだが、強い怒りを感じさせる声音で言い放った。口元にこそ笑みがあるが、あいかに向ける目はまったく笑っていない。
「おおお……。普通、そこまでやる? ちょっと言ってみただけじゃんか」と、あいかは驚いた様子で、両目を大きく見開いている。
 進也は「えっと――なんかごめん」と、申し訳なさを口に出した。柚季に赤面されて、進也も少し恥ずかしくなり始めていた。
 すると柚季は、複雑そうな、だがいたわりの感じられる眼差しを向けてくる。
「いやいや、香坂君は謝る必要はないのよ。さっきは『この人』とか言っちゃって、ごめんね。私としたことが軽率だった。
 あとなんとなく服もはたいちゃったけど、汚いとかではないからね。あなたは命の恩人だし、感謝はしてるから。それは確かよ。本当にありがとう」
 いじらしくも丁寧な早口からは、誠実さが伝わってきた。
 相変わらず顔は赤く、柚季の魅力を何倍にも高めている。気持ちのこもった上目遣いも、くらりと来そうなぐらいかわいかった。「ごめんね」で語尾を上げる感じが、特に破壊力が高すぎだった。
(いつ見ても綺麗だよな。思春期の男としては、この美人のこれを目にして何も感じないってわけにはな)
 進也は考えを巡らせつつ、「ああ」とあいまいに返した。
 柚季とあいかは、「メディエイター」。進也たち「ハーモナイザー」と定期的にハグをして体内の魔力を放出しないと、魔力の過蓄積による暴走で、内側から崩壊してしまう。
 俺がしっかりしないとな。進也は、甘ったるい方向に持っていかれかけていた思考を切り替える。すぐに柚季が、訴えかけるような目を向けてきた。
「あと、わかってると思うけど、若干、本当に若干、顔に色みがかっているのは、ただの生理現象。純然たる生理現象よ。深い意味はないの、決して。あいかのたわごとは、真に受けちゃあダメ」
「男子と抱き合って生理現象で赤くなるって、照れまくりアンド焦りまくりなのが身体に現れてきてるだけだよね。なーんの言い訳にもなってないよ。『あたし、あなたと身体、密着させて、焦りまくりの照れまくりなんです』だなんでさー。あたしそれ、告白してるようなもんだと思うけど。愛の告白」
 懲りないあいかから、平静で率直なツッコミが入った。次の瞬間、ガガラゴロン! 先ほどと全く同じ現象が起きた。当然、犯人は柚季である。
「ふーん、まだ言うんだ? いい度胸ねぇ、あいか。もうどうなっても知らないわ」
柚季は眉をぴくぴくさせながら、地の底から響くような声を出した。
「ご、ごめんね、柚季! でもあたし、間違ったことは言ってないよ! 柚季はもう、素直になったほうが良いと思うよ!」
切実な感じであいかが叫んだ。すぐに、ガラドガッ! ゴゴロゴロ! ここ数分で三度目の、盛大な落下音があたりに鳴り響いた。

☆ ☆ ☆

「あいか、牽制頼む!」叫んだ進也は駆け出した。
「あいよ!」かわいくも威勢のいい返答の一瞬後、火球がいくつも飛ぶ。進也の進行方向、迫るゴーレムの四本腕の二本に激突。腕の勢いが減じて、進也はゆうゆうとそれらを回避した。
 魔力暴走が近かった柚季の処置を終えて、三人は、ダンジョン最奥部の一室へと入った。すると地鳴りがして、壁からゴーレムが出現し、戦闘が始まっていた。
 ゴーレムの腕の、二本がなおも迫る。進也はガントレットで覆った左手を振るった。
 ガギン。鈍い音がしたが、ダメージはもらわなかった。ゴーレムの左パンチの軌道を変えた形だった。
 残った右が、唸りを上げて降ってくる。前に跳んで前転。すんでのところで回避し、ゴーレムの股をくぐり抜ける。
 素早く振り向くと同時に、右拳を振るった。左スネの裏にぶち当たり、ゴーレムはぐらりと進也側にバランスを崩す。
 すかさず右アッパーを振り抜いた。背中にヒットし、ゴーレムの身体はふわりと浮いた。するとバシビシッ。ゴーレムの腹側から衝突音がした。視認はできないが、音から判断するに柚季が二本のブーメランを命中させたのだろう。
(ここだ!)進也は全力のストレート。こちらに倒れてきていたゴーレムの背面に、クリーンヒットする。
 ズゥゥン! 地響きのような轟音がして、ゴーレムは崩れ落ちた。
「橘さん、グッジョブ! 助かったよ!」叫びながら進也は、ゴーレムを注視し続ける。慣性でわずかに動いていたが、やがて完全に動きを止めた。
 すると柚季が、そろそろとゴーレムに近づき始めた。まだ警戒している様子で、形の良い眉をわずかにひそめている。
 カタリ。不自然な物音がゴーレムから聞こえた。進也は背筋がゾッとする。
 ゴーレムが立った。信じられないぐらいすばやい挙動だ。機能停止が迫って、リミッターが外れでもしたのだろうか。
 両腕を頭上で組んだ。すぐさま振り下ろす。直下には柚季の頭。
 進也は駆けた。右手で柚季を突き飛ばす。
柚季は転んだ。しかし、危険領域から逃れた。
すぐに進也は、左手を頭上にかざした。
 ゴギガン! ただならぬ音が自分の左腕と頭蓋から響いた。すぐに激痛が来る。気が変になりそうな痛みだった。
(がっ!)進也は耐えきれず。地に膝を突いた。あまりのダメージに立ち上がれず、身体を地面に投げ出す。地面からの特大の反発力を受けた両足も、骨が折れたとしか思えない違和感があった。
 進也が苦しんでいると、頭上でドガバシ! ドオゥンンン! と何回か音がした。直後にゴトッと音がして、視界の端にゴーレムの左手が入る。
 両脇と膝裏に何かが触れた。人の腕の感触だった。次に進也は、自分の身体が浮き上がる感覚を得る。あいかと柚季が、協力して自分を運んでいるようだ。
 運ばれた進也は、十歩ほど離れた場所で下ろされた。視線の先では泣き顔のあいかが、グスグス言いながらカバンからビンの容器を取り出していた。
 あいかはフタを開き、中の液体を振りかけてきた。緑色の光の流れが、進也の身体に降り注ぐ。
 だんだんと腕、頭、両足の痛みが引いていき、身体に力が戻った。
回復した進也は、立ち上がった。視線の先には、バラバラになったゴーレムがいる。進也が殴打された直後のあいかたちの連撃で、完全に崩壊した様子である。
(何とか勝てたか。しかし、危なかったな)ほっとした進也は、顔を仲間のほうに向けた。
 ぎゅっと、誰かが右手を握ってきた。あいかだった。
「ぐすっ……。よかったぁ、無事だったぁ」とあいかは心底、安心した様子だった。よほど心配だったのだろう、大きな両目は涙でいっぱいで、鼻を何度もすすっている。
 安佐北あいかは十六才。進也や柚季の一つ下で、身体は小さく華奢である。栗色の髪はセミロングの長さで、ゆるくふわふわと小さな顔の周囲に広がっている。愛らしい目は人懐っこい印象で、全体的に小動物感がある女の子だった。
「本当にごめんなさい。私が油断したばっかりに、香坂君がひどい目に遭って……。というか香坂君、いつもそんな感じで……。もうなんて言ったらいいか」
 目を伏せたまま、柚季が申し訳なさそうに謝罪してくる。
「いや、別にいいよ。一番、丈夫な俺が、盾役になるのが適材適所だし。あと二人は、魔力の暴走だなんだで精神すり減らしてるだろうしさ。他で辛い思いは、できるだけさせたくないってのもあってだな」
 進也は、思いを率直に口にした。あいかと柚季はふうっと、微笑を浮かべた。心配の色はまだ感じられたが、それ以上に強く感じるのはいたわりと感謝だった。
「まあ何にせよ、今回も乗り切れて良かったな。みんな待ってるだろうし、帰るか!」
進也は、努めて明るい声で言った。あいかと柚季は応じるように、笑みを大きくする。

☆ ☆ ☆

 ゴーレムを倒した進也たち三人は、ダンジョンを後にした。徒歩で草原を歩いて抜けて、大きな門の前に到達。守衛に許可を得て、扉を開いた。
 眼前に、洋風の街並みが広がった。進也たちの拠点、ウィリシアの街の大通りである。
 石畳の道の幅は広く、両側には木製の家屋や露店が並んでいた。道ゆく人々の多くは、ローブや鎧に身を包んでいる。どこかで肉を焼いているのか、香ばしい匂いがあたりに漂っている。
「お帰り、あいかちゃん! 今日も元気だね」果物や野菜がずらりと並ぶ屋台の奥から、壮年の青果売りの男性が笑いかけてきた。
 あいかはぶんぶん手を振って「たっだいまー♪ おっちゃんも元気そうでなにより〜」と朗らかに返す。
 少し歩いた進也たちは中央広場を通過し、ひときわ立派な洋館に入った。ギルドの本部である。
 受付まで至った進也は、「これ、よろしくお願いします」と、木製のカウンターに石片を置いた。ゴーレムの残骸から入手した、黒曜石である。今回のクエストの目標物だった。
 受付嬢は対価として、十枚ほどの銀貨を渡してきた。受け取った進也は礼を言い、本部を立ち去った。
「あーんなしんどい思いして、たったの二百ルブレ! ほーんとやんなっちゃうよねー! ぼったくりだよ、ぼったくり。労働力ぼったくり」
 あいかは不満げに言い放ち、右手に持った串刺しのフルーツを口に放り込んだ。小さな口でもぐもぐしていたが、「んー、おいひー」と幸せそうに表情をとろけさせた。
 フルーツは帰りしなに、青果売りの壮年男性からもらったようだ。相当、気に入られているらしい。
「まあ仕方ないわよ。強いとはいっても、ゴーレムはどこでもいるし。取れる素材の希少性がねぇ」と柚月が落ち着いた調子で返した。
「というか、進也くんごめんね。あたしら、進也くんに頼りすぎだよね。……今日なんか、命危ない感じだったし」
「気にすんなよ。俺も駆け出しの頃は、先輩冒険者にかなり頼ってたし、ちょっとずつ成長してくれたらいいよ。そうやって頑張っていけば、いつか帰れる日も来るだろうしさ」
 しょぼんとした風のあいかに、進也は努めて明るい声で励ました。「うん、がんばる」と、殊勝な感じの返事が来た。
 進也たちは皆、ある日、突然にこの世界に転移させられている。先ほどの進也「帰る」は、現代日本への帰還を意味する。
 また、進也は冒険者歴二年である。ハーモナイザーとしてメディエイターのあいかと柚月の施術をしながら、先輩冒険者として面倒も見ているという形だった。
 会話を交わしながら、進也たち三人は家々の間の道を進んでいった。やがて城壁と、そのすぐ手前の一軒家が視界に入ってくる。進也たち三人の住居である。
「いやー、なんやかんやいろいろあったけど。帰って来れたねー、我が家!」
 両手を開いて伸びをするような姿勢で、あいかが元気な声を出した。
「『帰って来れたね』。──うん、本当にそうよね。無事に戻れない人も少なくないんだし。ありがたいことだと思わないと」
「まーったく柚月ってば。いちいちそんな感じで、雰囲気暗くしてどうするんだよ。家から出かけてった結果、帰って来れないかもなんてのは、日本にいたっておんなじだよ? 確率がちょっとだけ違うだけじゃん。ポジティブに行こうよ」
 沈んだ調子の柚月に対して、あいかはあくまで明るく答えた。
「それはそうだけど……」と、柚月は言葉を濁す。
「あいかの言う通りだよ。あんまり気負わずに、深刻になりすぎずに行こう。むしろこの状況を楽しむぐらいでいたほうが、生き延びられる可能性が──」
 進也が明るい声を出した時だった。視界の端がきらりとした。はっとして目をやると、城壁の向こう側、雲の一群から白い光が差し込んできていた。

☆ ☆ ☆

「『転移』だ! あいか、フェザー!」進也は叫んで、駆け出した。
「りょーかい!」威勢良く応じてあいかは杖を振るう。すると進也の身体は、ふわりと一メートルほど浮いた。わずかに間を置いて、さらに浮上。城壁を飛び越えて着地し、進也は光の方向に走り始める。
 視界の先の草地の上に、人間が横たわっていた。気を失っているのか、身じろぎ一つしない。
 日本の学校のものと思われる、セーラー服を身につけている。身体の華奢さも考慮すると、女の子であるようだ。
(まだ襲われてないか。──良かった)安堵した進也は、さらにスピードを上げた。一刻も早く、女の子を危険地帯から遠ざけたかった。
 だが、ボココッ。唐突な異音と同時に、進也と女性の間の地面が盛り上がった。すぐに土と土の間の至るところから、紫色の粘体が地表に出現。一ヶ所に集って四角錐に近い形状を成した。粘体系のモンスター、パープルスラッジである。
 進也が警戒を高めた次の瞬間、パープルスラッジはボヨンと音を立てて女性の頭へ飛び掛かる。リング形状になったかと思うと、口と鼻を完全に覆った。
(呼吸を邪魔して! くそっ! 妙な知識を持ってやがる!)
 焦りを強めながらも、進也は右拳をテイクバック。すぐさま女性の首の横、パープルスラッジの端を目掛けて振り下ろす。
 しかし、グニッ。パンチを受けて薄く広がりはしたものの、すぐに元の形状に戻った。ダメージが行った様子はない。ゴムの塊を殴ったような感触だった。
 唐突に女の子が目を見開いた。呼吸の阻害という刺激によって、意識を取り戻したようだ。
 すぐに首の異物に気がつき、両手を持っていって握りこんだ。必死でパープルスラッジを引き剥がそうとする。だが剥がれない。めいっぱい力をかけているようだが、びくともしなかった。
 女の子は足をばたつかせた。顔は紅潮し始めており、面持ちはいかにも苦しげだ。そしてふうっと、女の子は再び気絶した。
(気を失って……。やばいぞ、このままじゃ窒息死だ!)進也はどうにかすべく、頭を必死に回転させる。
「アイス!」女性の高い声が聞こえたかと思うと、ヒュン、ピキパキッ! 何かが飛来しパープルスラッジに命中。一瞬にして凍りついた。
「よくやった、あいか!」進也は左手を地面に突いた。間髪入れずに、握り込んだ右手を振り下ろす。
 渾身の一撃が、凍ったパープルスラッジにヒットした。バリンッ! 盛大な音がして、氷にいくつものヒビが入った。やがてあちこちから割れ始め、何十もの破片になった。
 パープルスラッジの絶命を認めた進也は、女の子の首に手をかけた。まだまとわりついている氷片を、手早く剥がしていく。
 数秒ですべて除去し終えて、「大丈夫か!」と、進也は強く女の子に呼びかけた。しかし返事がない。

☆ ☆ ☆

 進也は即座に女の子の腕の横に移動した。心臓マッサージを施す意図だ。両手を重ねて、胸を圧迫しようとする。
「かはっ、けはっ!」女の子が急にむせ始めた。進也ははっとして組んだ両手を元に戻す。
 しばらくせき込んでいた女の子だったが、やがてゆっくりと目を開けた。呼吸も次第に、落ち着いたものに変わっていった。大事には至らなかったようだ。
「進也くん!」あいかの声がした。振り向くと、あいかと柚季が駆け寄ってきていた。二人とも、心配そうな面持ちをしている。
 あいかと柚季が近くにしゃがみこんだ。ほぼ同時に、女の子が目を開いた。「え、青空? 私、自分の部屋で──。……ここは?」とぼんやりした調子でつぶやく。
「質問に質問で返すようで申し訳ないけど、君は、日本の中学生であってるかな?」
 進也は優しく聞こえるよう、やんわりと問いを投げかけた。
「はい、そうです。でも何でそんなこと……、ここはどこか、外国なんですか? 家のベッドで眠りについたはずなのに、何でこんな草の上に……。それとあなたたちの格好。なんだかファンタジーっぽいというか……」
 疑問を口にした女の子は、不安げに目を伏せた。
 するとすうっと柚季がしゃがみ込み、女の子の頬に右手を当てた。
「落ち着いて。私はあなたの味方よ。私たちはこの世界に慣れているし、これからは守ってあげられる。さっきみたいな危険な事態には、そうそうならないはずよ。だから安心して。まず、名前を教えてもらっていいかな?」
 慈しみのこもった微笑を浮かべつつ、柚季は丁寧に言葉を紡いだ。
葉山果奈(はやまかな)、です。そうだ、さっき危ないところを助けてもらったんだ。なのに私、お礼も言わずに自分のことばっかり……」
 悔いるような調子で反省を口にしたかと思うと、果奈は上半身を起こした。
「皆さん、ありがとうございました。あなたたちがあのスライムの化け物をやっつけてくれなかったら、私はきっとあのまま窒息死していました」
「いいっていいって。困ったときはお互い様だし。あと、とりまその丁寧口調をやめようよ。ここじゃあ先輩も後輩も中学生も高校生もないんだしさ。
 あ、あたしは安佐北あいかね。日本じゃあ女子高生やってました。趣味兼副業は、実家がやってる喫茶店の看板娘! こっちに来る前は、お客さんのアイドル的立ち位置でバリバリ働いてたんだよ」
 元気いっぱいにあいかが返事した。
(「副業」なあ。ワードのチョイスには違和感しかない。年下に誤った語法を吹き込んでくれるなよな。まあでもこういう時のあいかは、雰囲気が明るくなっていいな)
 釣られて小さく微笑んだ果奈を見て、進也は微笑ましい思いを抱く。
「そしてこちらは橘柚季ちゃん。そちらにおわす、私たちのパーティーの黒一点、香坂進也くんにお熱です。いや、これほんとよ」
「またそんなたわごとを……。どれだけ引っ張るのよ、その話題」明るさ全開のあいかの他人紹介に、柚季が即座に突っ込んだ。漫才めいたやり取りに、果奈は小さく笑った。
 精神状態が良い方向に向かったのか会話が弾むにつれて果奈は笑顔が多くなっていた。(もともとよく笑う子なんだろうな)と、進也は予想をつけていた。
 そこで進也はふうっと息を吐き、気持ちを整えた。「果奈ちゃん、よく聞いて」と切り出し、最も重要な事柄を果奈に告げ始める。

☆ ☆ ☆

「ここは日本どころか地球のどこかですらなくて、日本に帰れるのは『審判の日』にだけ。それも『魔宝』を持っている人だけ……。噓でしょ、そんなことって……」
 進也が説明した深刻な事実を受けて、果奈は呆然としたようだった。
「残念だけど、これが現実なんだ。果奈ちゃん、ケータイ持ってる?」
 淡々と進也が問うと「持ってるよ」と、果奈はスクールバッグの中を漁り出した。
 すぐにスマホが出てきた。「でも何でケータイ? まさか、これが繋がらないとか?」
 果奈の発した疑問に、進也は無言で頷いた。果奈は訝しげにスマホを操作し、耳に当てた。
「なにこれ、プルルルすら言わない。完全な無音? ──家族と外国は何回か行ったけど、こんなの初めて。やっぱりここって……」
 顔を上げた果奈は、進也を見つけてきた。顔つきには、混乱と怯えが滲んでいる。
「そう、『異世界』なんだ。ケータイが機能しないとか、地球社会の常識が通用しない面はたくさんある。当然それだけ、危険は多い。
 でもさっきも言ったけど、俺たちがついてる。いや、俺たちだけじゃあない。おんなじ境遇になった人が協力してギルドを作ってて、みんなで協力体制を取ってるんだよ。ちなみに俺たちは、ウィリシアってギルドに所属してる。本部はここから割と近くだよ」
 元気づけるべくはきはきと喋るも、果奈の表情は浮かないままだ。
 決意を固めた進也は、両手で果奈の両肩を掴んだ。
「君はこれから、俺たちと一緒にウィリシア・ギルドの本部に行く。そこでこの世界での立ち回りや、生きていくための力を身につけるんだ。心配しないで。ウィリシアはきちんとした団体だし、君を手荒に扱ったりはしない。というか、万が一そんな真似をしてきたら言ってくれ。俺たち三人で、本部をぶっ潰してやるから。こう見えても俺、けっこう強いんだ」
 進也は全力で力説した。両側のあいかと柚月も、果奈に暖かい視線を送っている。
「ありがとう。正直まだ状況についていけてないし、不安はすごく大きいけど、──私、がんばるね。家族も友達も、みんな向こうで待ってるんだもん。俯いてる暇はないよね」
 きっぱり言い切ると、果奈は健気に笑った。
(ちょっとは前向きになれたか。良かった。でもここからだ、大事なのは)
 あいかたちと仲良さげに会話する果奈を見やりつつ、進也は静かに思考を巡らしていた。