まだまだ残暑が続く九月の半ば過ぎ。
放課後になると同時に電源が切られる教室と違い常に冷房のきいている職員室内で、俺は背中に冷や汗を流していた。
「……青野優吾くん」
「……はい」
俺が所属しているクラスの担任である中林先生が、普段よりも幾分か低い声で俺の名前を呼んだ。
中林先生のすぐ横に立っているものの、椅子に座って机に両肘をつき組んだ手を額に当ててかつ顔を俯かせているので、俺の目線からは表情は見えない。が、穏やかな顔をしていないのはわかる。
「お前は真面目で気が利くし、前向きで優しいから生徒たちからの人望もある。二年の今現在まで無遅刻無欠席で提出物も必ず出すうえに、面倒なことや手伝いもすすんでしてくれるから教師陣からの評判も上々だ。そんな生徒はなかなかいない。俺は青野のことをとても評価しているし、自慢の生徒だと思っている」
唐突な称賛の数々。こんなことを言われるのは滅多にないから、「でへへ、ありがとうございます」くらい言ったかもしれない。こんな空気感でなければ。
「なのに、なぜだ……」
「…………」
「なぜ……ッ」
中林先生が苦しげに呻いたあと悲痛な面持ちで顔を上げ、机に並べていた紙たちを勢いよく俺に掲げて見せた。
「なぜお前はこんなにも勉強ができないんだぁぁぁ!」
「うぐッ……」
中林先生が俺に見せてきたのは、長期明けすぐに行われた学力テストの俺の答案用紙たちだ。
それぞれの紙の端の方には、全て足してようやく三十に到達するかしないかという、見るも無惨な数字が赤色でしっかりと書かれている。
そう、俺は壊滅的に頭が悪い。
中林先生が言ったように、課題の提出は必ずしている。小学生の頃から欠かしたことがないのは密かな自慢だ。授業もサボりどころか居眠りだってしたことがない。テスト前はちゃんと勉強するし、予習復習だって普段からしている。
それなのに、俺はテストでいい点数を取ったことがない。よくて赤点のラインを一桁点ほど超えるくらいだ。
中学、高校と学年が上がっていくにつれてだんだん内容が難しくなっていき、最近では赤点にすら到達できない教科が増えてきて、長期休みに入る前の期末テストでは過去最低の合計点数を叩き出してしまった。これより下回ることがないよう、長期休み中も課題にプラスして自分でできる予習復習を行っていた。学力テストは問題なくこなせるだろうと自信が持てるくらいには。
しかし結果は大惨敗。期末テストのときよりも点数が更に落ちてしまった。
自分の答案用紙なのに見ていられなくて目を逸らす。そんな俺の反応を見て中林先生は深くため息を吐き、憐憫を孕んだ目で答案用紙を見下ろした。
「このテストは成績に影響はしないが……今回は過去一だぞ。正否はさて置き出された課題も全てしっかりやってるのに、どうしてテストはできないんだ」
「それは……俺も知りたいです」
中林先生がまたため息を吐く。
こんな悲惨な結果を見たら誰だって盛大にため息を吐きたくなるよな。中林先生は特にそうだと思う。一年生の頃からなにかと気にかけて自身の担当教科の英語意外にも率先していろいろ教えてくれたのは中林先生だったから。結果が全く伴っていなくて本当に申し訳ない。
「お前は素行が良いから今までなんとかなってきたが……これが続くようじゃさすがにまずい」
「えっ……り、留年ってことですか!?」
「最悪そうなる」
中林先生の真剣な表情を見るに冗談や脅しで言っているのではないことがよくわかる。
留年はさすがにまずい。
成績不振での留年の場合、病気ややむを得ない事情とは違い世間と社会の目は相当厳しくなるだろう。就職にだって影響する。
もし俺がまともに就職できず、ニートにでもなってしまったら……家族に迷惑をかけるどころではないぞ。
「次の中間テスト、最低でも二教科は赤点を回避しなければ留年にまた一歩近付くだろう」
「そ、そんな……」
これ以上足掻いたって点数が伸びる気が全くしないのに……一体どうしたら……。俺の無い頭じゃ、勉強する以外の対策が思い浮かばない。
頭を抱えて唸っていれば、中林先生が真剣な表情を一変させいつも通りのちょっと胡散臭い笑顔を浮かべた。
「というわけで、そんな大ピンチな青野に強力な助っ人を用意した」
「……助っ人?」
「失礼します。中林先生はいらっしゃいますか?」
「お、ナイスタイミング。おーい白井、こっちこっち」
中林先生が発した名前に、俺は身を固くする。
近付いてくる気配におそるおそる振り返れば、そこには俺が唯一苦手とする男が爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。
こいつは白井透。
スラッと高い身長にモデル並みのスタイル、そしてその体型に似合ったしゅっとして華やかな顔がよく目立つ俺と同じ高校二年生。
切れ長の目に、どこから光が入っているのか常にきらきらとしている瞳、それを縁取る長いまつ毛、すっと通った鼻筋に薄い唇、全てが完璧なパーツで、全てが完璧な配置。芸能人ですと言われても何ら違和感のない、妙にオーラのある男だ。
それに加え、成績優秀、運動神経抜群、人当たりもよくてコミュニケーション能力がすごく高いから友達が多い。ついでに彼に想いを寄せている人間も多く、間違いなく俺たちが通っている学校で一番の人気者だ。
しかし俺は、そんな誰にでも好かれる白井が苦手だ。理由はまぁ……いろいろある。どれもしょうもないものだけど。
ただこのことは誰にも言ったことがない。言ったとて誰からも共感してもらえないだろうから。
一応俺はクラスでは人格者で通っているが、白井の人望には到底敵わない。「俺、白井苦手なんだよねー」なんて言った日には全員から糾弾され、見せしめの処刑の如く校内を引き摺り回されるだろう。そんな目に遭いたくないので白井に対する印象はひた隠しにし、ボロを出さないためにできるだけ関わらないようにしていた。
しかしそんな白井を、中林先生は手招きしてこちらに導いている。助っ人だないんて言って。
嫌な予感がして中林先生の方に向き直れば、先生はにっこりといい笑顔を浮かべた。
「一年のとき同じクラスだったから、お互い知ってるだろ。喜べ青野、強力な助っ人の白井だ」
「助っ人……あぁ、あの件ですか」
俺の隣りに立った白井は俺の顔を覗き込んで「よろしく」と微笑んだ。途端に白井に後光がさし、背後には美しい花が咲き乱れる幻覚が見えた。
やめろ、俺相手に花を背負うな。
「せ、先生、助っ人ってなんのことですか!」
白井から顔を逸らして中林先生に詰め寄る。先生は相変わらずなんてことないように笑っていて、俺の嫌な予感はむくむくと大きくなっていった。
「白井に、青野が困ってるから勉強見てやってくれって頼んだら快く頷いてくれたんだよ。よかったなぁ」
「なっ……」
なんでそんな勝手なことを、という言葉は咄嗟に飲み込む。先生は俺のためを思って行動してくれているんだから失礼なことは言えない。でも、なんでよりによって白井なんだ。しかもなぜ白井は快く頷いてるんだ、接点のない他人に勉強を教えるなんてこの上なく面倒なのに。
「なんだ、嬉しくないのか?白井から教わるなんて滅多にできないんだぞ?」
「嬉しくない、っていうか……」
だめだ、嫌だって気持ちを顔に出しちゃ。俺が苦手だと思ってると白井本人に知られたら速攻で全校生徒にバレてしまう。
「白井の貴重な時間を俺なんかのために割いてもらうのは申し訳ないです。たぶん白井が思っている以上に俺はバカだし……。それにこういうときこそ自分でなんとかした方が、今後の力になると思うんです!だから白井の助けは……」
「自分でなんともならなかったから今こうなっちゃってるんだぞ」
なんとか笑顔を取り繕いそれらしいことを言い連ねたが、中林先生の呆れた声と共に飛んできた言葉で見事に撃沈した。その通りすぎて反論の余地もない。
「青野、気を遣ってくれてありがとう」
項垂れながらもどうにか言い逃れられないかと考えている俺の肩に白井の手が乗せられる。おそるおそる振り向けば、白井は笑みを浮かべながらも真剣な眼差しで俺を見ていた。
「でも俺は大丈夫だよ。人に教えると復習にもなるし、時間は有り余ってるから」
「い、いや、でも……」
「それに、友達が困っているのを見過ごすことはできない。俺にできることがあるなら頼ってほしい、力になる。俺は青野にも笑って卒業してほしいんだ」
「うっ……」
あーーーーー、もう、これ、これだよ。俺が白井を苦手と思う理由。
いやに輝いて見える瞳でこちらを真っ直ぐに見つめながら、いいヤツしか言わないような言葉をストレートに投げかけてくる。しかも全く嘘がない。こういう言葉はたいてい多少のお世辞が入ったりするが、白井は心の底からそう思って言っているのだ。なんなら思ってなかったら言葉にしないまである。だから白井からは胡散臭さは感じないしみんな白井を信頼している。
白井は本当に優しくていいやつだ。
だから、苦手なのだ。自分の上っ面だけの優しさが惨めに思えるから。
脳裏に、呆れ、失望、怒り、様々な悪意のこもった視線がフラッシュバックする。
それを必死に追い出しながら、俺は小さくため息を吐いた。
周りは俺を「優しくて人の為に動けるいい人」だと評価するけれど、本当はそんな人間じゃない。
困っていそうな人を助けるのも、先生の手伝いを率先してやるのも、頼まれごとに快く頷くのも。本当はそんな面倒なこと、やりたくない。でも俺は、他人に優しくして、気を遣って、本心ではいらついているのに笑顔を見せ続けた。その方が誰とも衝突せず生きやすかったからだ。
でも高校に入学して、俺のような偽物じゃない善人に出会って、自分の上っ面だけの人間性を突きつけられて、こんな自分が心底嫌に思った。
同じようなことをしているのに、俺と白井は全く違う。表の皮を剥がされ、俺が嫌な自分自身を直視させられる。だから苦手だ。
「ほら、白井もこう言ってくれてるんだから甘えておけ。お前にとっても悪い話じゃないんだからさ」
中林先生が俺の上腕辺りをばしばし叩いたことで、俺は我に返った。物思いに耽ってしまっていたが、そうだった、今はそんなことを考えてる場合ではなかった。
白井の方を見れば、「そうそう」なんてにこやかに頷いて中林先生の言葉に同意している。おまけに近くの席の先生も「こんなこと滅多にないよ」なんて援護し始めてしまった。
いやだ、白井には頼りたくない……というか一緒にいたくない。
でもピンチなのには変わりない。白井以外の人が俺の勉強を見るなんて面倒なことを快く引き受けてくれるとも限らない。そうなったらまた俺は悲惨な点数を取って、留年……。
こういうのなんていうんだっけ……八方塞がり?
もう……頷くしかないじゃないか。
「じゃあ……お言葉に甘えて……白井、よろしくお願いします」
俺は上手く笑顔を作れていないのを自覚しながらも、最後にはそう言うことしかできなかった。
―――
翌日の放課後。
俺と白井は早速、教室の俺の席で向かい合っていた。
今は、俺がどの程度できるのかを知りたいと言った白井が俺の学力テストの答案用紙を真剣な表情で見ている。なので現状その白井の顔を眺めることしか俺にできることはない。
放課後を迎えるまで、白井の助っ人を断る口実を何度も考えたが、結局有効そうなものが思い浮かぶことはなかった。浮かんだとて、白井の善意百パーセントの表情を見たら嘘をついた罪悪感でいたたまれなくなるのは目に見えている。
しかも勉強を見てくれるのは俺のクラスの教室でとなったから、必然的にクラスメイトにも俺と白井がなにかしらしているというのが知られるというわけで。白井を邪険に扱ってしまったが最後、俺はクラスメイトから卒業するまで冷めた視線を向けられるだろう。そうなるくらいなら、しばらくは吸収できるところはして、頃合いを見て独り立ちするのがいいかもしれない。
ごちゃごちゃと悩んでしまったが、結局はそういう結論に至りこうやって大人しく向かい合っているのである。
……それにしてもこの男は、同性の自分から見ても感心してしまうくらいきれいな顔をしているな。
顔だけじゃなく性格も頭もよくて運動もできて、声もバリトンで耳心地がよくてスタイルも抜群で。
俺は所謂モブ顔の平均身長だが、なにか一つでも白井と同じような要素があれば少しくらいモテたりしたんだろうかと羨んだこともあった。苦手意識が先行していたためほんの一瞬だったけども。
ただ、たとえ苦手であってもかっこいい男のことはちゃんとかっこいいと思う。答案用紙を眺めているだけなのに美しい絵画を見ている気持ちになるくらいには。
「……うん、なるほど。大体わかった」
分析が終わったらしい白井が何度か頷いて顔を上げる。そして俺に答案用紙を返したあと鞄からペンとルーズリーフを一枚取り出した。
「確か、最低二教科は赤点を回避しないといけないんだったよね。本当は全教科を満遍なくやったほうがいいんだろうけど、今の青野には少し大変だろうから、中間テストは主に理系科目に絞って勉強していこう」
「俺、理系科目苦手……」
「うん、見ててわかった。ただ点数上げやすいのは理系科目だと思う。ひとつの公式さえ覚えれば、赤点以上は余裕で取れるから」
そう言いながら、白井はさらさらとルーズリーフになにかを書いていく。その字までもきれいだった。
そういえば誰かが、白井のノートは丁寧に要点がまとめられていて非常にわかりやすく読みやすかったと言っていたのを聞いたことがある。さすがに欠点が無さすぎて引く。
そうして数分後。ペンを置いた白井は何かを書き込んでいたルーズリーフを「はいこれ」と差し出してきた。
「文系科目の軽い勉強方法をメモしておいたから、自分で勉強するときは参考にしてみて」
「え、あ、ありがとう」
俺のために書いてくれていたのか。……というか、勉強方法なんてものが存在するんだな、知らなかった。
ルーズリーフをありがたく受け取って、俺がそれを鞄の中にしまい込んでいる間に白井は今度はスマホを取り出してすいすい操作しだし、カレンダーアプリを表示した画面を二人で覗き込める形で見せてきた。
「お互いに予定あるだろうから毎日は難しいけど、俺は基本的に火曜日と木曜日以外の放課後は空いてる。青野は何曜日が都合いい?」
「あー、えっと俺は……火曜日と金曜日以外なら空いてる」
「じゃあ放課後に集まるのは月曜日と水曜日の二日間でいい?」
「う、うん……」
俺の返事を聞いた白井は、俺の目の前でカレンダーの月曜日と水曜日の欄に「青野と勉強会」と予定を打ち込んだ。
勝手に見てしまって申し訳ないが、白井のカレンダーの火曜日と木曜日の欄に「バイト」って文字が見えたぞ。それに加えて、放課後に友達とかと遊びに行っているのも見たことがあるから、俺が想像しているより白井は勉強に時間を割いているわけではないのかも。
やっぱり頭の作りが元から違うんだな……。
「でも二日間かぁ……。しばらく様子見て、足りなそうだったら休日も集まろう」
「えっ!?いやいやいやそこまではいいよ!」
想定外な提案に俺は必死に首を横に振った。
「でも、今の感じだと結構ぎりぎりだよ?」
「そっ……うかもだけど、貴重な休日にまで俺の勉強なんかに付き合わせるのは申し訳なさすぎるから!他の日は教えてもらったことを元に自分で頑張れるし!」
というのは正真正銘本心ではあるが、大半を占めているのは休日にまで白井と顔を合わせたくないという思いである。苦手なやつと勉強会とは言え何度も共に過ごすのは結構きつい。勘弁してくれ。
内心焦りながらもこれまで数え切れないほど使ってきた所謂人好きのする笑顔を浮かべて「そこまで気遣わないで!」と、さも白井のためというような口調で言った。
頼む、これで引き下がってくれ。
「うーん……あのさ青野、俺別に気を遣ってるわけじゃないよ」
しかし、俺の願いとは裏腹に、白井は微笑しながら子どもに言い聞かせるような声色で言った。
「今回のことを引き受けたの、半分は青野のためだけど、もう半分は自分のためなんだ」
「……え?」
どういう、意味だ?
意味がわからず首を傾げる。そんな俺を見て、白井はくすっと笑みをこぼした。
「青野って俺のこと苦手だろ?でも俺は、青野とは仲良くなりたいって思ってるんだ」
「………………え?」
びしっと身体が固まる。
今、なんて……?
「それと青野、無理して周りに気遣ってるだろ。潰れてしまわないかって、ずっと心配してたんだ」
「え……え?ちょ、待って?」
突然の情報量に頭がついていけない。
というか、え、うそだろ?
白井、俺が苦手と思ってること、知ってたの?なんで?しかも無理して気遣ってるって……どうしてそのことも?
顔を上げておそるおそる白井を見る。
彼は「どうしたの?」なんて不思議そうに首を傾げていた。
なんでそんな普通なんだ。おかしいだろ。知ってるのに、なんで……。
混乱が収まらなくて、思わず頭を抱える。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、白井は「とにかく!」と明るく言って手を叩いた。
「今回こういう機会をもらえて、俺はすごく嬉しいんだ」
「…………」
「勉強を見る対価だと思って、俺とも仲良くしてくれよ、青野」
そう言った白井は、今日見た中で一番きらきらした笑顔を浮かべていた。
……い、意味がわからない。
なんで、自分を苦手と思っている相手が目の前にいて、しかもしばらく勉強を見なければならないのにそんな笑顔を浮かべられるんだ。
誰にでも優しくて、親切で、顔も良くて運動ができるのに驕ることなく、誰からも好かれるいい奴なのに……途端に何を考えているかわからない、得体の知れない人間に思えてきて……。
なんかこいつ……怖い!
これが、俺の白井への感情に「恐怖」が追加された瞬間だった。

