消しゴムを使いたい君に

 空虚に満ちたこの部屋。
 しーんと静まり返っていて、どんより暗い。
 何かをする気力が湧かなく、ただ僕は寝て時間を潰していた。
 ……本当に僕はこのままでいいのだろうか。
 ……一体僕は何をしたいんだ。
 大人しく僕は、雪奈と関わっていればこんなことにはならなかったのに。
 僕が文房具ミッションを計画したのは、実は彼女に初めて話しかけた時に、咄嗟に思い浮かんだもの。だから、大まかな内容しかその時には決めていなかった。
 そもそも僕は、家族以外の人と関わる気なんて全くなかったのだ。
 彼女に初めて声をかけられた時、人生終わったなと思った。
 いやぁ、友達探しに必死なのは分かるんだけどさ、どうして僕を選ぶかなぁ、と。
 別に彼女と友達になることを許可しなくてもよかった。
 でも彼女はすごく執着心が高そうで、一度目をつけられたら執拗に友達になることを促してきそうだ。
 逃げても無駄。
 彼女に酷いことをしたら離れられると考えた。けれど、彼女に嫌悪を向けられ、腹いせでいじめられるの可能性があるのが怖かったのだ。
 クラスでトップレベルに暗いクラスメイトの彼女とはいえ、油断は禁物。
 で、あんな酷いことをして今彼女とは疎遠状態になっているという訳である。
 これだから人と関わるのは嫌なんだ。
 …………でも僕はだんだん彼女のことが…‥。 
 忽然スマホが震えた。
 ふと手に取って、メールアプリを開けると、思わず目を丸くさせた。
 雪奈が、狂ったように僕に対する悪口を幾度となく送ってきたのだ。
 無視しようと思ったけれど、これは流石に無視できなかった。
 ……きっと怒っているだろうな。
 ……彼女は今限界状態なのだろう。
 ……でも、これがもし助けを呼んでいる意味だったら?
 ……潔白な雪奈が、こんなことを送るはずがない。
 そんなことが頭をよぎった。
 反射的にベッドから体を起こした。
 さっと服を着替え、彼女の家に向かった。
 ……ものすごく嫌な予感がする。
 一体なんだ。この心に黒く澄んでいる悪魔は。不気味な笑い声がする。
 もしかして、矢野さんの仕業?
 そんな気がする。
 ……ふざけやがって。
 電車に乗っている間、あの時の記憶が蘇った。
「殺すぞ!」と沙奈にカッターを向けられて脅迫されたこと。
 初めて彼女を家に招いた日、恐怖を覚えた。
 僕はずっと、彼女に怯えていた。彼女の本性を雪奈に伝えることが、怖くてできなかった。
 ……でも、こんな根性なしの僕があんな魔王を倒すことができるだろうか。
 途端、不安になってきた。
 家に帰ろうかな。僕は人とは関わらないって決めたはずじゃ…………。
 けれど、勝手に体が動き改札を出た。
 家に到着。
 意を決してチャイムを押した。
 すると、矢野さんが出てきた。
「ど、どうしてここに?」
 彼女は動揺していた。
「事情は後で話す。それより、ゆ、雪奈はどこ?」
「あー、ここにはいないよ。一人で銭湯に……」
 彼女の表情に嘘が滲み出ていた。
 嘘だろ。
 ……まさか本当に?
「嘘つけ。この家にいるんだろ。入っていい?」
「違うってば。入ってはダメ」
「何で入ったらダメなんだよ。どけろよ!」
 彼女を突き飛ばして、庭に入った。
 もし僕が庭に入らなかったらきっと人生は変わっていた。
 僕は見てはいけない物があると知らずに、庭に足を踏み入れた。
「…………は?」
 全身に冷たいものが走り、慄然とした。
 …………庭に雪奈が倒れ込んでいる。
 元気ではなさそうな表情で、危篤な状態に見える。
 ……見なければよかった。
 激しい後悔と失望、そして寂しさで心が満たされた。
「待って! こ、これは違うの!」
 彼女は体を大の字にして、雪奈を隠すように立った。
「……おかしいよ」
「これは忘れて。別に危なくないから……」
 いくら何でもふざけている。
 こんな状態なのに、危なくないはずがない。
「救助なんて呼ばなくていい。ほら、さっさと帰って」
 僕を強引に押して帰らせようとしている彼女。
 彼女が救助を呼んでほしくないのは、事情聴取が嫌なのだろう。
 何をしたかはよく分からないが、とにかく許せない。
「あのさぁ、この状態をしっかり見た?」
「え?」
 彼女は電撃が走ったのかぱたりと停止した。
「あ、あれ? ま、まさかね」
 彼女が雪奈に視線を移すと、「ええええ?」という叫び声を出した。
「ちょ、ちょっと、そこで何佇立してるの。助けを呼んでよ、早く!」
 随分と蒼白な顔で、焦っているのが窺える。
 やっと気づいたか。
 本当に彼女は許せない。
 
 その後、救急車を呼んで現在病院。
「いやほんとにバカなの?」
「違うって、あれをした意図があるの」
 お互い、涙ぐんでいた。さっき彼女を叱咤しまくったが、もう今はそんな元気残っていない。
 だって、彼女の責任で雪奈が死ぬかもしれないから。
 怒りというより憔悴が勝っていた。
「……どういうこと? ……殺すために毒を食わしたんじゃないの?」
 彼女は一呼吸おいて話す。
「わたしはね、雪奈に休んでもらうように毒を食わしたの。あの毒、少量なら死に至らない。一時的に気絶するだけで、かつ確定に休めることができるから、毒を食わした。……だって、そうでもしないと雪奈は休まないから」
 彼女は、普段休むことを避けがちの雪奈を、確実に休ませる方法……毒を食わした。
 確かに今雪奈は、休めてはいる。
 が、だとしてもふざけてやがる。彼女は残忍な性格だ。
「……矢野さんを信じた僕がバカだった」
 彼女と初めて対面した時……彼女を僕の家に招いた日の帰り。
 雪奈を除いて彼女と二人で、作戦会議をした。題は雪奈がどうやって休むことは大事だと分からせるか。
 ——わたしが全部やるから、放っておいていいの。
「雪奈を悪化させたら殺すぞ!」とあの時カッターを向けられ、仕方なく彼女に従うしかなかったのだ。
 それが仇となり、今このような状況。
「一つ矢野さんに言えることがある」
「何?」
「度合いがすぎた行動をしすぎなんだよ」
「えっ?」
「毒を食わしたり、机を壊したり、人にカッターを向けたりと、やりすぎなんだよ」
「仕方ないじゃん。……そうでもしないと、雪奈を変えることできないし」
「…………」
 彼女が雪奈に対して優しく接しるようになったのは、もう雪奈をいじめるのは効果がないと断じたから。
 雪奈が沙奈を変えようとしているのに、変わろうとしなかったら疑う。疑われたら、尚更沙奈の言うことが雪奈は信用を持たなくなる。
 そうしたら、新しく立てた計画が崩れる。
 心配をかけないため、雪奈の前では『良い子』を沙奈は演じた。
 逆に雪奈がいないところで僕と沙奈が接する時は、彼女は『悪い子』を演じた。
 そう、僕はずっと彼女の罵倒雑言や暴力に耐えてきたのだ。
 彼女は最初から、僕なんて不要な存在だと感じていていたのだ。
 雪奈に怪しまれないことを第一に、彼女は行動していた。そう、自分に対する信用度を高めるために。
 実に小賢しくて、頭が狂っている奴だ。
「もういいよ。変わる意思がない矢野さんと、一緒にこうやって待っているなんてバカらしい。家に帰るよ」
「…………は? 待ってよ!」
 片手を掴まれ、引っ張られる。
「何だよ。僕は家に帰りたいんだ」
 雪奈に怒られるのが怖くなってきた。だって、暫く雪奈とは会っていない。きっと僕なんか忘れられている。
「確かにわたしが、大バカなことを犯したのは認める。以後絶対にわたしは変わると決意している。けど、そっちだって勇気がなさすぎるよ。ちょっと雪奈を傷つけたから、会わないって正直それはダサいよ」
 彼女と出会ってしまったから、僕の人生が失敗してしまった。
 急に『良い子』になりやがって、ふざけてやがる。
 彼女の本当の姿は、『悪い子』なんだ。
 この偽善者!
「もういいよ。帰らせてくれ」
「あっ」
 僕は彼女に背を向けて走り出した。
「後悔しても知らないからね!」
 そう彼女が脅していたが、無視。
 僕はとにかく走った。
 誰とも会いたくない。
 やっぱり、人と関わることが間違っていた。
 僕は再び、誰にも見られない暗くて深い底に潜り込む。
 自分の世界を大事にするのだ。
 家に着いて、ベッドに寝転んだ。
 もうどうでもいい。
 学校なんか行かない。
 この世界を、白紙にしたい。
 一から僕が作り上げたい。
 ゲーム機を起動しようと、立った時にとある言葉が頭をよぎった。
 ——きっと人間関係は、棘を受け取って与えての繰り返しで、磨かれるんだよ。
 …………。
 違う。
 僕は間違っていない。
 僕は絶対……。
 ……本当にこれで合っているのだろうか?
 更に、彼女の可愛らしい笑い声が耳に響く。
 やめろ。
 僕は、人と関わったせいでおかしくなった。
 でも、会いに行かなくていいのか?
 例えば、もし明日十分間だけ目が覚めて、それを最後に、人生に終止符を打ったら……。
 二度と会えなくなる。
 僕は…………。
 気づいたら、大雨が降っていた。
 雨が窓を叩く音が、僕を咎めているようだった。
 僕は目を瞑って寝た。

 一週間後、僕は動き出した。


 んー、んー。
 あれ? ここは?
 声が上手く出せない。
 見慣れない白い天井が、ぼんやりと見えた。
 ああ、ここは天国か。
 …………。
 天国だと思われるところでも夢を見た。

 中学の修学旅行中なのにも関わらず私は、人目がつきにくい所にあるベンチに座って、小説を読んでいた。
 苦痛で無意味な時間を過ごすより、楽しくて有意義な時間を過ごした方がいい。
 本来グループ行動をしなければならないのだが、トイレに行く、と誤魔化して一人になった。
 このまま早く修学旅行が終わってくれないかなぁ。
 そう切願していると、黄色い声をかけられた。
 私に話しかけてくる人なんてあの子しかいない。
「こんなところで何してるの?」
 別のクラスの沙奈は不思議そうに訊ねてきた。
 この修学旅行は、同じクラス内でしかグループを作れなかったので、彼女とは別のグループ。
「何してるって……見れば分かるじゃん。読書だよ」
「また読書してるー」
 どうせ彼女は、いつも通り揶揄いに来たのだろう。修学旅行中でもするなんて、心底呆れる。
「……何か悪い?」
 ため息混じりに私は質問した。
「別に悪くはないよ」
「じゃあ読書再開。邪魔しないで」
「そうなんだけどさ、本当にそれでいいの?」
「……何が?」
「折角の修学旅行なのに、読書するなんて勿体ないと思わないの?」
「……別に。私の遊園地の行動班、全員一軍男子だし。その中に『場外雪奈』というハズレキャラが混ざっている。はっきり言って、一緒に行動する意味がない」
「…………」
 彼女は黙り込んだ。
 全く、おとなしく彼女のグループの子と楽しいことすればいいのに。
「全く……今のこの一分で二ページは読めた。何してくれるんだよ……あー!」
 小説を盗られた。
「返してよ」
「……逃げると頑張るのバランスが吊り合ってないんだよ、雪奈は」
「はあ?」
「勉学に関しては、凄い頑張ってると認める。だけど、それ以外のことについては逃げてばかり」
「あ、そう……」
「その理由を考えてみたんだけどね、やっぱり頑張りすぎなんだよ。自分の限界を常に超えようとして、勉学以外のことに傾注しない。だって、限界を超えられる保証がないと脳が断じているから」
 それで?
「何が言いたいのかというと、とにかく休んでほしい。友達作るとか早く走れるようになるとか、そんなのどうでもいい。このまま変わらなくてもいい。休ませて、その間にわたしが雪奈を超えようという魂胆なんかじゃない。休んでくれないから、わたしに意地悪されるんだよ」
 最後に彼女は、「無理しないでね」と言った。
 久しぶりだった。
 彼女は温かくて優しい。
「さてと、わたしと一緒に行動しよう」
 そう促されたので、「うん」と答えた。
「はいこれ、わたしのと同じカチューシャ」
「えー、これつけるのはちょっと恥ずかしいかな……」
「折角なんだからつけないと。これつけたら今より千倍可愛くなるよ」
 そんな魔法のカチューシャなんてないはずだけれど、つけた。
 そして彼女が持ってきたデジタルカメラで私を撮った。
 もういいや、と思った。
「これでオッケー。よし、残りの時アトラクションに乗ろう」
 手を掴まれ、一緒に歩いた。
 あとは彼女と、一緒に楽しんだ。
 その修学旅行が終わった翌日、私は無理して勉強した。すると彼女はいつも通り私を蔑むようになった。
 彼女が私に意地悪している本当の理由は、私が休まなかったから。彼女は、意地悪をすることにより、私をあえて厭世的な気持ちにさせ休んでもらうという魂胆なのだろう。
 ……高校受験だって控えているのに。
 だから私は、休むことを嫌った。

 更にはこんな夢も見た。
「あんた達何やってんの!」
 中学一年生なりたての頃。ヤンキー系の上級生にいじめられていた。
 中学校ってこんなに酷くて地獄のような場所なんだ、と絶望しかけていた時沙奈がそう声を上げた。
 ……助けに来てくれたの?
「チビが。近寄るんじゃねえ」
「誰がチビだって?」
「来ちゃダメ。私を置いて逃げて……」
 そう切願したが彼女はそばにあった廊下用のゴミ箱を持ち上げた。
「はあ? おいそれで何する気だよ……」
「お前の存在はゴミ以下!」
 そのゴミ箱をいじめっ子に投げた。
 中のゴミが散らばり、ほこりが飛び散る。
「もう帰ろう」
 咳込みながらも私は彼女について行った。
「ええ? 学校帰るの?」
「うん。あんな修羅場いても仕方ない」
「でも……」
「あんなカスみたいな奴とは関わったらダメ。帰るよ」
 とはいえ彼女はかっこよかった。
 あれは勇気がないとできないこと。
 罪悪感と彼女の感銘が混ざった、複雑な気持ちのまま、家に帰った。
 翌日彼女は、先生に叱られたらしいが、全く気にしている様相はなかった。

 
 という風に、沙奈は尊敬できる人なんだ。
 時には度合いがすぎたことをやった。『悪い子』に思われるかもしれない。
 けれどそれは、私を守るという気持ちが強すぎるから。
 決して、私を殺したいという気持ちはないんだ。
 そう、私の命を第一に彼女は行動してくれたんだ。
 彼女は世界で一番優しいから…………。
 

 あ、あれ。
 目が覚めると、そこは病院だった。
 体がずっしり重い。
 どうしてこんなところに?
 ああ、そうか。
 毒を摂取して、生死を彷徨ってたんだ。
 ——ということは私は生きている?
 相部屋で、私の他に二人年配の方がいる。
 私の簡易的な部屋には、ベッドとテレビぐらいしかない。
 ベッドの下に私の鞄が置かれていた。
 中を開けると、私の部屋にあった物が色々と入っていた。
 小説が入っていたので読もうとした時、相部屋のドアが開いた。
 誰かの見舞いだろうか。
 と思った刹那、私に抱きつく物が現れた。
「あぁー! 生きててよかったよー!」
 沙奈だった。
 私が今本当に生きているということが実感できて、激しい嬉しさが私を襲った。
「ごめんね。毒なんて食わして」
 あの時の彼女とは違う。心底反省したように彼女は謝罪する。
「わたしが雪奈を確実に休ませるためにあんなことをしたの。雪奈のためを思ってやったことが、失敗した……」
 滂沱の涙が流れてきた。
 彼女が今まで私にやってきた愚業は、演技だったと述べた。
「今までにやった沙奈の行動を許してあげる」
「え? ……どうして? 今まで散々酷いことしてきたのに」
「酷いことをしてきたのは事実だよ。……でもさ」
「うん」
「私のことを誰よりも心配してたからあんなことをしたんでしょ?」
 彼女は呻き声をあげた。
 嗚咽も出している。
「そうだよ。もう毎日が心配で……いつ過労で倒れるか分からない焦燥感に煽られて……」
「私のこと、それほど大事な存在なんだね」
 お腹辺りを強く掴まれる。
「そんなの当たり前じゃん。今更何言ってるの」
 ああ、嬉しい。
 ずっと、この時間が続いてほしい。
 もし世界に一人だけのりを私とつけるなら、きっと彼女。
 世界で一番、離れてほしくない人物。
 彼女と助け合ってきたからこそ、私と彼女は今こうやって生きている。
「ねえ、顔を上げて」
「何?」
 彼女の顔は、涙で濡れていて仄かに赤かった。
「今までごめんね。中々沙奈と二人きりで向き合う時間が取れなくて。この時間が欲しかったんでしょ?」
 暫し俯いた後、「うんっ」と彼女は快く答えた。
 なるほど。
 点と点が繋がった。
 彼女は私がいないと寂しい性格なんだ。
 その後、面会時間ギリギリまで彼女と喋った。
 どうして私は、彼女と二人きりで何かをするという楽しさを忘れていたのだろうか。
 彼女と遊ぶなんていつでもできる、と考えていたから。
 けれど、いつ彼女が死ぬか分からない。いつ私が死ぬかも分からない。
 それなのに、自分の利益を優先して勉強したり……。
 そんな自分を叱咤した。

 毒を食っただけとはいえ、予想より長く入院することになった。
 何か、突然体調が急変することがあるらしい。
 今は、普通に元気。若干体が重いなぁ、と感じるだけ。
 毎日沙奈は見舞いに来てくれた。
「そういえば幸太は来ないの?」と訊いてみたことがあった。が、「……あんな奴知らないし」と冷淡な言い方で返ってきた。
 連絡しても返信は来ないし、どうしたのだろうか。
 私は無事なので、もう悲しまなくていいのに。
 鞄の中を漁る。
 桜の花びらの絵や、まだ未完成の文房具暗号があった。他には筆箱とか、スケッチブックとか……。
 これは全部、彼女が家から持ってきてくれた物。一部「これ何?」と問われたことがあったが、「秘密。気にしないで」と返して誤魔化した。
 仕方ないので、絵を描こう。
 彼と映画を観た絵を描いて、涕涙した。

「んー、暇」
 今日で約一週間の入院生活が終わる。
 結局、幸太は来てくれない。
 特に体に異変は起きなかったので、安堵した。
 今日でここを離れるから、ちょっとだけ掃除しよう。
 小さいテレビとかベッドの下を、前に沙奈と作ったスライムで掃除する。
 そんな風に、半分諦めかけていた時。
 相部屋のドアが開く音がした。
 誰かが出たのだろうか。
 いや、誰かが入ってきたかもしれない。
 自分の部屋の簡易的なカーテンをチラッと開けた時。
「え!」
 まさかの幸太が来た。
 少し痩せているように見える。
「う、嘘」
「……ごめん。今まで会えなくて」
 緊張しがちに彼が入って来た。
「別にそんなのいいよ……」
 私は怒ったりなんかしないのに。
 今まで彼が引きこもっていたのは、あの喧嘩をしたから。
 あの程度の喧嘩で引きこもるなんて……彼は繊細な性格なんだと強く感じた。
「もう大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「そう」
 彼は話題を変える。
「そういえば、文房具暗号って持ってる?」
「持ってるよ」
 ファアルから文房具暗号を出した。
「最後のヒントを教えてあげる」
「うん」
「百八十度回転させて、空いているマスに大文字の『V』を書く。最後、桜の絵の中央に貼る。さて、帰ろうかな」
「ええ? ちょ……」
 彼は去って行った。
 ……もしかして!
 追う前に早速暗号を解いてみた。
 ……すると、とある英単語が浮かんだ。これを桜の絵の中央にのりで貼った。
 …………これってまさか!
 震撼した。
 心が高揚し、息が荒くなる。
 体がぐらついた。
 そういうことか。
 先に彼が帰った理由が判明した。
 これが彼のさりげないメッセージ。
 だから彼は、早く帰った。
 そう、これが完成して見せられるのが、恥ずかしいから。
 ……とにかく追わないと。
 この紙を持って私は、彼を追う。
 ……いた!
 彼は閑静なリノリウムの廊下を歩いていた。
 勢いで私は抱擁し、その紙を渡した。
「わあっ」
「ええ? だ、誰?」
 彼は振り返ると、素っ頓狂な声を漏らした。動揺しているように見える。
 でも離れない。
 離れたくない。
「ど、どうして? 帰る準備は?」
「えへへへへへへへへへへ」
 彼は状況を理解したのか、振り向いて抱擁してきた。
 こんな廊下のど真ん中で、ちょっと場所が合っていない気がするけれど、まあいいや。
 暫く、沈黙が流れる。
「全く、桜が咲くの早いよ。あれ、春に完成するのが僕のプランだったのに」
 つまり私は、彼の想定以上に物事が早く進んだということになる。
 何で桜の絵を描かせたかは、春を意識したからだそう。
「そういえばさ、文房具ミッションってあれは私に対する挑戦状じゃないの?」
「詳しく言うと?」
「私と初めて会話したあの時からすでに、私のこと気になってたんじゃない?」
 彼は照れたように笑う。
「実はね……入学当初、僕と気が合いそうな人だなと思った。だけど、人と関わりたくないっていう自分の中での制約があってね、それで中々話しかけられなかった」
 人と関わるといじめられる、みたいなことを彼は断じていたから。
「でもね、負けたよ」
「えっ?」
「僕が『消しゴム』という文房具ミッションを発表するのを躊躇ったのは、あれは演出。そう、雪奈に僕との友達関係を破壊させるか僕と別れるっていう二択の選択肢をあげた。けど、その選択肢を無視して僕との友達関係を破壊せずにミッションを達成できた」
「うん」
「本当は雪奈と別れようと思ったよ。別れて、また僕は一人の世界に潜り込もう、と。でも、あまりにも雪奈がしっかりした子だから……」
「元々私はしっかりした子じゃなかったよ。幸太と出会ったから、しっかりした子になっただけで」
 彼と出会ってから間違いなく私は変わった。同時に気づかされたことが大きく分けて三つあった。
「私、幸太と出会ってから気づいたことが三つあるの。知りたい?」
「うん、一つ目は?」
「自分に無理をしないこと。定期的にシャープ芯を入れることを大事にする。常に自分の限界を越えようと、生きなくていいってことに私は気づいた」
 これにさえもっと早く気づいていたら、沙奈に毒を食わされることはなかった。
 私は今まで、頑張りすぎた。
 人の心配ばかりして、自分の心配は後回しになった。
 これの繰り返しで、だんだん私の疲労が溜まっていった。
 幾らでも伏線はあったのに。
 それに気づかなかった私は、愚鈍。
「……なるほど。二つ目は?」
「今まで私ね、地位を上げたいから人と積極的に関わってきたんだ。でも、最近気づいたの。地位を上げるために人と関わるんじゃない。どれだけ人とかけがえのない思い出を作ることができるかの方が大事。スクールカーストなんかいう意味不明な制度に囚われなくていい。友達なんか少なくてもいい。人間は、地位なんかよりも中身の方が大事なんだと気づいた」
 彼と出会うまでは、本当に人と関わることを避けていた。
 一人でこの世界を生きていく。
 それが一番賢くて正しい生き方だと考えていた。
 でも今は違う。
 人と関わることにより、新たな体験に出会えた。
 家族以外の人と笑い合い、時に一緒に泣いたり、葛藤したり。
 それが楽しい。
 人と心を通わせることが、こんなにも楽しいなんて、もっと早く気づきたかった。
「…………うん。三つ目は?」
 私は一呼吸おいて話す。
「私と幸太が出会ったのって、きっとノートに文字を書くという行為の繰り返しで出会ったんだよ。ノートには、色んな思い出が書かれている。その思い出が積み重なって、出会ったの。更に言うと、私と映画を観たり、私と花火大会に行ったりという思い出があるから、今こうやって抱擁しているの」
「…………」
 ノートに文字を書くのは己の判断。
 だから、彼と出会ったのは奇跡でも偶然でもない。
「これでも」
「…………」
 幾度となく私は、ノートに文字を書くのをやめようかなと思ったことがある。
 つまり、思い出を作らないという意味。
 これの何が問題かというと、思い出を作りたいと思わないほど気力がないってこと。
「幸太は」
「…………」
 誰にも邪魔をされなくて快感を得られる勉強と読書しかしなかった。
 それ以外のことをする気力が薄まっていった。
 何か失敗したら、その気持ちが加速する。
 この悪循環で、心がボロボロになった。
「ノートに」
「…………」
 人生に終止符を打ちたい。
 ノートを白紙にしてしまえば、全ての記憶が抹消される。
 今までの失敗が全て、なかったことにできる。
 一から書き上げて、完璧の人生を作り上げたい。
 そうしたいと幾度も切願した。
「消しゴムを使いたい?」
「…………」
 でも、私は変わった。
 彼と出会ってから、私は間違えなく変わらされた。
 ノートは、彼に関する内容で埋まっていった。
 他人のことを書くのは、気持ち悪くなんかない。
 私はもう今までの私とは違う。
 喰らえ、渾身の一撃を。
「ちなみに私は——消しゴムを使いたくない君に」
 途端彼は、私から二歩下がった。
 時間が止まったような感覚に陥る。
 途端彼は固まった。
 そして数秒後……。
「……え?」
「あああああっ! ど、どうして雪奈はここまで……」
 彼は倒れ込んで慟哭した。
 途端、雪がはらはらと優雅に降り始めた。
 普段泣かない彼が、涙していた。
 ここは病院なのに。
 もし誰かに見つかったら、面倒なことになる。
 でも、非難することができなかった。
 止めることができなかった。
 私は人に下じきを使って使われての繰り返しでここまで生きてこれたんだ。
 ありがとう。
 私一人だけじゃ、きっと今日まで生きられなかった。
 もう、怖くなんかない。
「あのさ」
「何?」
 彼は顔を上げて私を見つめる。
「消しゴムを使いたくない君に」
 彼が立ち上がるまで、時間が止まったような錯覚に陥った。
 彼に声をかけられるまで私は、ここから動けなかった。


 私はまだ文房具ミッションが終わってないことに気づいた。
 消しゴムで最終とは、彼は言っていなかった。
 ……もしかして、やっぱり彼は私と別れたい?
 しかし彼は、「友達契約は破局された」と述べた。
 ……つまり、私と彼は別れずに済むってこと?
 更に嬉しいことが起きた。

 三月下旬。
 各地で桜が咲き、麗らかな春。
 程よく暖かく、過ごしやすい気候。
 都会の高層ビルからは、市街地の奥方にピンク色の景色が広がっているのを見ることができた。
「あー、もうわたし達高校二年生かぁ」
 沙奈がそんなことを呟く。確かにそうである。
「来年も雪奈と同じクラスになれたらいいなぁ」
 そう願望する彼。それに彼女は「僻んでいる訳じゃないけどさ、二人ってほんと仲いいよね」と返した。
 私は彼と顔を見合わせた後、「やめてよー、そんなこと言うのー」と彼女の背中を軽く叩いた。
 実は今日、私と彼女の誕生日。だから、何か彼がサプライズを隠し持っているはず。という期待がある。それに鶴首して待っている。
「二人も随分と仲良しそうに見えるね」
「え?」という二人の声が揃った。すると二人は微笑した。
「こんな奴と仲良しじゃないし」
「僕も意見同じだね」
 とか言っているけれど、嘘なんだろうなぁ。 
 だって今二人は手を繋いでいるし。
「じゃあ今手を繋いでいるのは何?」
「ああこれは、矢野さんを魔界へと運ぼうとしているんだ」
「ちょ、何その苦すぎる言い訳はっ」
 腹を抱えて笑った。

 その後、文房具店に向かった。
「今まで、そんなに筆記具について触れなかったよね」
 到着し、私はそう訊いた。
「まあね。筆記具って、一番奥が深いと思うんだ」
「どう奥が深いの?」
 彼女は不思議そうに質問する。彼と彼女が関わっていったら、自然と彼女は文房具に興味を持ち始めた。
「三千円超えの筆記具なんて全然あるし、種類も多い。ここで一つ、僕流の筆記具の選びを伝授してあげよう」
 彼は試し書きコーナーで適当なシャーペンを取った。
「三つ選ぶ時に重要な観点があって、『書きやすさ』と『持ちやすさ』と『書き味』の三つ」
「詳しく言うと?」
「『書きやすさは』名前の通りどれだけ書きやすいか、『持ちやすさ』はグリップ力があるか……そして『書き味』なんだけど……」
 ここで彼は笑った。
「どれだけ心地良い音かってことだね。一回これ使ってみて」
 シャーペンの下部に真鍮、上部に木が使われていて、ずっしりと重い。
「あー、そういうこと……」
 筆記してみると、確かに鈍いような音が発生した。彼女に渡すと、同じような反応をした。
「主にその三つが大事で、あとボールペンだったらインクの発色や滑らかさも関わってくる」
「例えば?」
 今度はボールペンを渡された。
「書いてみて、カリカリとしない筆記感で、かつインクが掠れなくて滑らかで濃いボールペンがおすすめ」
「ふーん」
 書いてみると滑らかに書けた。かつ、書きやすくて持ちやすい。こういうのを良いボールペンって言うのだろう。
 彼が文房具にハマったのは、筆記具のおかげ。初めて知ったが、彼はふらっと寄った文房具店で、とあるペンに衝撃を受けたから文房具にハマったんだとか。
 だからこんなに熱弁しているのだろう。
 何だか、今まで勉強で筆記具を使っていたのに新鮮。
「筆記具は文房具の中でもマニアックで奥の深い部類。拘ったら、きっと書くことの楽しさを見つけられるだろう。筆記具に拘るか拘らないかは、あなた次第っていうやつだね、へへへ」

 その後、彼女を除いて彼と海に行く。
 どうやら、沙奈には秘密のことを海でやるらしい。
 一体何だろう?
「秘密のことかぁ」と彼女はどこか嬉しそうに言った。
「オタくんさ、先に外出てくれない?」
「うん」
 先に彼は外に出た。
「わたしはここで待っておくけどさ、雪奈にこれあげる」
 彼女はメモ帳の紙を二枚ちぎった。一枚には『沙奈』、もう一枚には『雪奈』と書いた。
「……まさか」
 彼女はのりをつけて貼った。
「これあげる。忘れないでね」
 受け取ると、彼女の温かさを感じられた。
 私は彼女に「ありがとう」と微笑んだ。
 大切に持っておこう。
 忘れないでおこう。
 だって沙奈は大切な妹だから。

「文房具にはコンパスとかマーカーとかテープなどがある」
 前方には海が広がっている。ベンチに私と彼は座っていた。
「僕はミッションで、付箋、のり、ハサミ、シャープ芯、色鉛筆、下じき、そして消しゴムを出した」
「そうだね」
 彼は深呼吸して、「本当に最後のミッションを課す」と言った。
「文房具は、使うだけの物か、使うだけじゃない物か。どちらか自分が思うものを選んで、最初に書く。この方眼ノートに三百文字以上で書くこと。理由もつける」
 方眼ノートをもらった。
「えっ? そのテーマに沿っていることを三百文字以上書けばミッション達成できるの?」
「まあね」
 最後のミッションにふさわしい題。
 こんなの、今まで彼と関わってきたら、簡単な問題。
『使うだけじゃない物』を選んだ。
 理由は色々ある。きっと、人によって答えが違う。
 適当な文章を書いて文字数稼ぎしないように書く。
 …………。
 文房具は生活を便利にするための道具。
 文房具は作られた意図がある。
 例えば付箋は、ただの紙製の貼る物じゃない。
 何か覚えておきたいことを書いて、忘れられないようにする。
 これは、使うだけじゃない。覚える、という意味も含まれている。
 下じきだって、ただの薄い板じゃない、
 安定した筆記を得ることができる。
 使うだけじゃない、快適を得る、という意味も含まれている。
 したがって私は、文房具は使うだけじゃない物と考える…………。
 三百文字以上書けたので、彼に渡した。
「うん、ミッション達成っと。コンプリートだ」
 ノートを鞄にしまうと彼は、途端私を見つめた。
「へ? 何?」
「雪奈ってさ」
「うん」
「やっぱりサプライズ楽しみにしてるでしょ」
「あ」
 まるで的を射られたような気分になった。
 やっぱりサプライズあるんだ。
「ミッションを全て達成したってことで、一つ重要なことを教えよう」
 このタイミングで重要なこと……。
「この最後のミッションを達成したことにより、絶交という約束は破局されて」
「うん」
 彼は胸ポケットに挟んでいたボールペンと、付箋を出した。
 何かを書いた後それを渡してきた。
『恋人関係に昇格する』と赤字で書かれていた。
「ええええ?」
 その瞬間、仄かに温かく優しい風が吹き、甘い匂いが漂った。
 私がずっと望んでいたことがついに叶った。
 ああ、こんなことあっていいのだろうか。
 激しい幸福感で心が満たされる。
 同時に、涙が流れてきた。
 何で?
 友達関係のはずじゃないの?
 …………。
 私と彼はもう友達関係なんかじゃない。
 それが決まった。
 じゃあ、もうあれをやってもいいよね。
 ……ここで意を決してするしかない!
 私に背を向けて勝手に帰ろうとしている彼に「待って」と声をかけた。
 彼はゆっくり振り向く。
 滅多に泣かない彼が、涙を流していた。
「あのっ」
「う、うん」
 風が吹き終わった時、私は話す。
「私と一緒に色鉛筆で人生を描いていかない?」
 暫し俯いた後、顔を上げた。
 そして…………。
「勿論っ。ハサミでこの関係を切ったりなんかしないから」と快く返事をした。
 途端、柔らかくて優しい風が吹いた。

 私が幸太のことをどう思っているかは、ノートに書いてあるけれど絶対に見せられないなぁ。