デルフィニウム群青録 ―老舗旅館バイトにスカウトした野球部エースが、なぜか俺のお婿さんに立候補しました―




 ピピピ……とお決まりの電子音が鳴る。
 手探りでスマホの画面に触れてアラームを止める。それを3度繰り返してようやっと意識がはっきりしてくる。
 急に起き上がらず、ゆっくりストレッチをしながら身体を起こしていく。
 隣の布団はすでに綺麗に畳まれている。ここ1週間、毎朝の見慣れた光景である。

 俺は寝間着からジャージに着替えて部屋を出る。洗面所で顔を洗って口をすすぐ。
 さっぱりしたら足音をあまり立てないようにしてエレベーターで1階へ降りる。まだ6時なので夜勤の人以外はほとんど寝ている。
 つっかけサンダルに足を通して従業員口から外へ出る。朝日を浴びて伸びをひとつ。母屋の横にある水道からジョウロに水をくむ。

 正面玄関前の飛燕草の花壇へ近づいて土の様子を確かめる。やはり夏の日差しで土がよく乾く。じょうろで水をさしてやると、花も背筋を伸ばして気持ちよさそうにしているように見える。
 そんな風に飛燕草の手入れをしていると、軽やかな足音が聞こえてくる。


「潔貴、おはよう」
「ん、おはよう~」
「今日も眠そうだな」
 

 半袖半ズボンで、汗をかいている叶馬が帰ってきた。朝のランニングは彼の日課とのことで、日によって走る距離は違えど5kmから10kmは走っているらしい。
 学校のマラソン以外で、自主的にそんな距離を走るなんて俺には信じられない。しかも叶馬はよっぽどの大雨でない限り、必ず走りに行くと言っていた。勝手に5時過ぎには目が覚めてしまうというのもすごいと思う。


「水やりは終わったのか?」
「ん、終わったぁ」
「今日は俺たち午後からだろ? もう一回寝てきたらいいんじゃないか」
「うーん……そうだな」


 悪くない提案ではあった。思案しながら叶馬と一緒に母屋へ戻る。
 部屋へ戻ると、叶馬は着替えを持って汗を流しに風呂へ向かった。俺は朝風呂にあまり入らないので、ベッドに戻って二度寝を決め込むことに決めた。
 
 




 ――――……

 二度寝の後、身体が何かに押されているようで息苦しくなって意識が持ち上がる。


「ん……? 重い……」


 起き上がってみると、何故か叶馬が俺のベッドで寝ていた。なんでだ。セミダブルのベッドに叶馬と寝転んだらそりゃあ苦しいに決まっている。


「きょーま、起きろぉ」
「……ぐぅ」
「ぐぅ、じゃねえ」


 一向に起きる気配がないので、肩を揺らしてみる。


「そろそろ支度しないと朝飯食いっぱぐれるぞ~……って、うわぁ!」
「んー……」


 俺は叶馬の腕の中に抱きこまれてしまう。寝ぼけてイルカの抱き枕と勘違いしているらしい。なんで分かるのかって、抱き方がイルカと全く同じだからだ。


「叶馬! 起きろ! 俺はお前のイルカじゃないぞ!」
「んー……ん、あれ……いさき?」
「おう、はよ」
「……ごめん!」


 叶馬が、がばっと一気に起き上がる。いや、そんなに驚かなくてもいいだろ。俺のベッドに忍び込んできたのはお前の方なんだから。


「潔貴が気持ちよさそうに二度寝してるから、つられた」
「俺のせいにすんなぁ」


 俺は叶馬の腕に軽くパンチをお見舞いする。へへ、とだらしない顔で笑う。1週間で随分と心を開いてくれたものである。
 俺たちはのろのろと身体に鞭を打って支度を始めた。





 
――――……
 
「潔貴、今日はフロントへ早めに戻ってきてちょうだい」
「分かった」
「叶馬君も一緒に戻って、お部屋へのご案内を手伝ってくれるかしら」
「はい」


 チェックイン前のミーティングで各所の動きについて母さんが指示を出す。従業員のみなさんも各々の役割を確認して、お客様をお迎えする最終チェックに入る。
 俺と叶馬は大抵駐車場の案内からスタートして、混んできたら俺がフロント、叶馬は駐車場の案内を続けるか部屋への荷物運びに変わるパターンが午後勤務の時は多い。

 すでに8月で夏休みに入っているので平日だろうとお構いなく満員御礼である。俺は今日も一日頑張ろう、と叶馬に声をかけて拳を合わせた。

 15時のチェックインに合わせて多くのお客様がご到着された。インカムからは車の案内をこなす叶馬の声が聞こえてくる。


「潔貴、奥側満車になった」
「はい了解、じゃあ次の車から第2駐車場で! いつもよりちょっと早いけどチェックインやばい気がするから、戻ろう」
「了解」


 館内へ戻るとやはりチェックインの列ができてしまっていた。お疲れのところをチェックインで手間取らせるのはとても心苦しい。従業員も総出でやっているからこそ歯がゆい。
 
 俺は叶馬と一緒にバインダーで挟んだチェックインシートとペンを配る。通常、チェックインは専用のシステムがあり、カウンターに置いてある機器で行うが紙でも問題ない。後で俺がシステムに手入力すればいいだけだ。
 
 配り終えたら俺もチェックインのカウンターを開く。紙で受け付けるお客様をご案内し、叶馬がそのお客様たちをせっせと部屋まで案内してくれる。贔屓目のように思われるかもしれないが、叶馬は古参の従業員に負けず劣らず部屋の案内がスムーズだ。あっという間に行って帰ってくるが、丁寧に案内している。

 チェックインのラッシュが終わり少し落ち着いてきたところで、家族連れのお客様が到着された。


「おかえりなさいませ。ご予約のお名前をお伺いしてよろしいでしょうか」


 チェックインのカウンターに立ったのは男性で、少し離れたソファに女性が座った。彼女の膝の上に座る年少くらいの男の子がぐずっているようだ。


「ご記入ありがとうございます。本日はどちらかに寄ってからお越しいただいたのですか?」
「はい、サファリパークに行ってから来ました」
「それはそれは、お子様はきっと楽しんでいたでしょう」
「えぇ……ただサファリパークを出た後からどうも機嫌が悪くなってしまって。余程楽しかったんだと思います」


 父親らしき男性だけでなく、母親らしき女性へも館内の案内をするついでに、俺はある物を持ってカウンターを出た。ソファに座る女性の前に膝をつく。


「奥様、お疲れ様でございます。少々不躾なご提案で恐れ入りますが、もしよろしければ一度お子様のお熱を計ってみてはいかがでしょうか」
「えっ……あ、はい」


 俺は女性の目の前で体温計をアルコールシートで除菌して差し出す。体温計を受け取り、子供の脇にはさむ。数秒後、体温計に表示されたのはおよそ平熱とは言い難い温度だった。


「あら! こんなに熱があったなんて気づかなかったわ……」
「それで泣いていたのか、ごめんな気付いてやれなくて」
「すみません、助かりました」
「とんでもないことでございます。あと、よろしければお部屋に往診の医師を呼ぶこともできますがいかがでしょうか」
「いいんですか……!?」


 女性が目を丸くして驚く。


「もちろんでございます。慣れない土地で病院を探すのは大変でしょう。飛燕館が懇意にしている腕の良い内科医がおりますので、すぐに連絡をして来てもらいます」
「ありがとうございます……」


 俺は館内の案内を簡単に済ませて、部屋への案内を頼もうとする。しかしこのご家族には別途お渡ししておきたいものもあった。
 案内係を探して周りを見渡すと、ちょうど叶馬が戻って事の成り行きを見ていたらしい。
 しかも彼の手には俺がご家族に渡しておきたいものが握られていた。俺はそれを見て内心驚き、感動した。


「ありがとう! よく分かったね」
「前に潔貴から教わったからな」


 叶馬が持っていたのは“看病セット”だ。氷嚢や冷えピタなど看病するときに必要なものを箱に詰めており、体調が優れないお客様へ渡している。
 

「廊下の製氷機も教えてあげてくれる?」
「了解」


 俺は叶馬に部屋への案内を任せ、医者への電話を急いだ。
 
 子供を診てくれた医者によると、軽い風邪だろうということで薬を処方された。男の子の熱はその日の夜までに下がったとご両親から報告があり、ほっと胸を撫で下ろした。




 ――――……
 
 夜、叶馬と風呂に入りながら仕事であったことを振り返るのがお決まりになっていた。


「潔貴は本当にいろんなことに気が付いてすごいな」
「ん? そうか?」
「子どもの熱に気付いたのが早かった」
「あぁ、あれは俺自身の経験のおかげだと思う」


 叶馬が続きを聞きたそうな顔をするので、話してやることにする。


「俺、昔は本当に体が弱くてさ。しょっちゅう風邪引いたり熱出したりしてたんだ。だから何となくそうかなーと思って」
「そうだったのか」
「うん、今はそれほどじゃないけどな。叶馬は?」
「俺はほとんど風邪引いたことない」
「えー、すごっ! インフルとかは?」
「多分1回かかったことあるか、ないかくらい」
「元気一杯なのが一番だよ」


 笑って言いながら前髪をかき上げて後ろへ流す。叶馬が何やら言いたげな視線を向けてくるので首を傾げる。


「どした?」
「潔貴のおでこが綺麗だなと思って」
「あー、ちっちゃい頃、でこが丸いってよく言われた」
「うん、丸くて綺麗で可愛い」
「なんじゃそれ」


 目を細めて微笑む叶馬の顔がかっこよくて、俺はでこを隠すため湯の中に顔を隠した。
 昼間のことを振り返る中で、俺もひとつ思い出した。


「叶馬さ」
「ん?」
「今日、看病セット持ってきてくれたじゃん」
「うん」
「すごい、感動した」
「なんで?」
「俺がちょこっと教えただけのことだったのに、よく覚えてたなぁって」


 落ちてきた前髪を耳にかける。感心した気持ちを笑顔で伝えると、叶馬が視線を横へ逸らす。


「……潔貴に教わったからな」
「でも、ちょっとしか話してなかったからさ。俺の話を覚えててくれたのも嬉しかったし、フォローのタイミングも完璧で、すごいかっこよかった」
「……あんま、褒めんな。調子乗る」
「えぇ? 照れてんの?」


 口元を手で覆って顔を背けた叶馬の腕を掴んで、顔を覗き込む。その顔は見事に真っ赤で、逆上せてしまったかと疑うほどだ。


「ふふ、真っ赤」
「……見るな」
「やだよ、珍しいもん。見せてよ、って、うわっ!」
「潔貴っ」


 叶馬に近づこうと立ち上がったが、足を滑らせて後ろへ倒れ……なかった。

 叶馬が見事な反射神経で俺を抱きとめてくれた。


「あっぶな……」
「ごめん……」
「風呂ではしゃいだらダメだろ」
「んうッ! ごめんってぇ」
「もうここで大人しくしてろ」


 叶馬の腕の中に閉じ込められて鼻をつままれた。その後も叶馬に離してもらえず、背中にぴったりとくっついた胸板の厚さや心音を感じながら、そわそわと落ち着かない入浴時間になった。