デルフィニウム群青録 ―老舗旅館バイトにスカウトした野球部エースが、なぜか俺のお婿さんに立候補しました―



 一日の仕事が終わり、風呂を済ませて自室に戻れたのは22時ちょっと前だった。部屋に入った勢いのままベッドに倒れこむ。ずっとインカムのイヤホンをつけていた左耳を掴み、回したり指で押したりして解す。
 
 仕事で特段いつもと変わったことはなかった。事あるごとに柳瀬君……叶馬のことを思い出してしまって、仕事に集中しなければと切り替えるのに神経を使ったのだ。
 
 寝落ちしそうになる身体へ鞭を打ち、勉強机に置いたスクールバッグから教科書を出す。明日から叶馬に勉強を教えるのに、どの範囲から始めるべきか考えておきたかった。
 
 まずは夏休みの課題から片付けてしまうのがいいよな……と、課題の一覧表を取り出した。ついでにスマホで写真を取っておこうと液晶を叩くと、LINEの通知が入っているのに気付く。

 企業アカウントからの通知だろうと何気なく開いたら、まさかの叶馬からだった。


「えっ!? うそっ」


 驚いてスマホを落としそうになる。
 なんだろう、明日も会うから今日は連絡なんて来ないと思ってたけれど。……もしや、と最悪の可能性が脳裏をよぎる。
 家族に反対されたとか?やっぱり大変そうだから断りの連絡とか?最悪のシナリオだけは何通りも想定できた。意を決して叶馬とのトークルームを開く。


『荷造りできた』


 簡潔な一言と、大きなボストンバッグの写真が送られてきていた。
 俺は思わずスマホをベッドに放って身体を突っ伏した。……よかった~!やっぱり行けなくなったって連絡だったらどうしようかと思った! 安堵した俺はのんびりと返信する。


『荷造りお疲れ様! 忘れ物あってもこっちで用意できるものは渡すから、あんまり心配しなくて大丈夫だよ』


 ポンッ、と送信の機械音が鳴る。これでよし、と思ったらすぐさま「既読」がついた。
 慌ててトーク一覧の画面に戻るが、あろうことか電話がかかってきた。


「電話!? えぇぇ、どうしよ」


 どうしようも何もない。今メッセージを送ったばかりなのに電話に出ないほうが不自然だ。俺は自分を叱咤して通話ボタンを押した。


「もしもしっ」
「もしもし、俺だけど」
「うん……お疲れさま?」
「フッ、ありがと」


 耳に入ってくる低い声のせいで首筋からじわじわと鳥肌が広がっていく。耳が、熱い。


「急にかけて悪い。今大丈夫か」
「ううん、全然大丈夫……っ」
「もう仕事は終わったのか?」
「うん。風呂から上がって、今自分の部屋」
「そか」


 わずかな沈黙だけで胃の下あたりを絞られるような感覚がする。何か、喋らなきゃ。


「何かあった……?」
 
 
 俺の問いかけに対して、叶馬は少し言いづらそうに話す。


「ちょっと恥ずかしい相談なんだけど」
「うん……?」
「……自分の枕、持って行ってもいいか?」
「え?」


 枕?と一瞬頭に浮かんだ疑問符はすぐに感嘆符に変わった。


「あ! 自分の枕の方が落ち着いて寝られるよな~!」
「うん、多分俺、枕が変わるとよく眠れなくて」
「分かるよ~お客様でも時々枕持参する人いらっしゃるから」
「そうなのか?」
「ほんとほんと、結構多いよ」
「そっか」


 電話口の声が少し安堵の温度に和らいだ。わざわざ聞いてくるなんて律儀だなと思う。
 気にしなくていいのに、と言った俺に、叶馬は言葉を続けた。


「実は枕だけじゃなくて……いつも抱いてる、ぬ……抱き枕があって」
「うん」
「……それも持って行っていいか?」


 ……いとおかしッ!!

 叶馬は俺の心臓を潰す気なのだろうか。ぐぅッ、と喉の奥で変な音が鳴った。
 あの筋骨隆々とした野球部のエースが!抱き枕持参でウチに来ると!?しかもわざわざ事前に了承を取ろうとするあたりがいとおかし。


「……潔貴?」
「あっ、ごめん、もちろんいいよ! しっかり眠れるように必要なものは全部運ぶから!」
「そうか、悪いな。それを確認したかっただけなんだ」
「気にしなくてよかったのに~」


 つとめて平然を装って言う。ギャップ萌えで悶えているなど絶対にバレたくない。
 しかし叶馬は真面目な声で「気にするに決まってるだろ」と続けて言った。


「だって……友達の家に泊まるのは初めてだから……気は使う」
「……可愛いッ」
「ん?」
「んんッ、なんでもない! 確認してくれてありがとな」
「うん」


 思わず小声で漏れた本音を誤魔化して、課題と勉強するのに必要な教科書やノートを忘れないようにね、と言っておく。
 叶馬はしっかり用意したらしく、持ってくる予定の教科書について順番に伝えてくれる。忘れ物がないか確認するなんて遠足前日の子供みたいで可愛いと思いながら聞いてしまったが、口には出していないからセーフ。

 忘れ物がなさそうだと確認出来て安心したようで、そろそろ電話を切るかという流れになった。


「じゃあ、明日な」
「うん、明日ね」
「……おやすみ、潔貴」
「おやすみ……叶馬」


 ゆっくりと電話を切った。まだ耳に残る叶馬の低い声が頭に響いている。
 
 時計を見るともうすぐ23時。うーん、あと2時間くらいは動悸のせいで目が冴えていそうだ。せっかくだし勉強でもしよう、と椅子を引いた。