校舎を出るとうだるような暑さにげんなりする。いつもであれば。
しかし今はそれどころじゃない。学校一の有名人と言っても過言ではない将来有望の野球部エースが、俺のことを待っているのだ。
安井先生の術中に嵌まり、うちでのアルバイトを柳瀬君へお願いすることになった。その対価はアルバイトの賃金と俺が勉強を教えること。
教えるとなれば教科書が必要なわけだが、教材の半分くらいを学校のロッカーに置きっぱなしにしていた俺は慌ててそれを回収してきた。空同然だったスクールバッグの中身がみっちりと教材で埋まり、肩ひもが肌に食い込んでくる。
慌ててローファーを履いて昇降口に出ると、本当に柳瀬君がいた。遠目に見ると高い身長が余計に目立つ。
今日二人で帰ることになったのは柳瀬君が誘ってくれたからだ。恐らく、バイトでどんな仕事をさせられるのか気になったのだろう。そりゃそうだ。
俺は小走りで柳瀬君のもとへ近づく。こんな炎天下の中で待たせてしまって申し訳ない!
「ごめん! お待たせ!」
「大丈夫。そんなに急がなくてよかったのに」
「いやいや、暑いのに待たせられないって」
にわかに微笑んだ柳瀬君が「じゃあ帰るか」と言うので、頷いて一緒に歩き出す。
学校の最寄り駅までは10分程度でいつもなら暑さにうんざりするが、今はすべての神経が柳瀬君に注がれているので気にならない。
せっかくだから何か話しかけないと、と思うが胸がドキドキして思考が空回りする。こんなの初めてフロントに立った時以来かもしれない。
ぐるぐる考えながら歩いていると、柳瀬君との距離が空いてしまう。脚のリーチが違うので当然だ。非力な足の回転率を上げてついていく。すると、前を歩いていた柳瀬君がちょうど振り向いた。
「ごめん、早かったよな」
「ううん! 俺が遅いだけだから」
「いや、絶対俺が早かった。……っと」
「わっ」
少し道幅が狭くなるところで、前から自転車、後ろから車がやってくる。
柳瀬君は車道側に立って俺を住宅の壁へ抑えるようにして寄る。
ふわりと爽やかな制汗剤の香りがする。目の前には厚い胸板。見上げた先には日焼けした首に逞しく浮かぶ筋と血管。顔を横へ向けて車と自転車を確認してくれているようで、深めの彫の下で長いまつ毛が黒々と輝いている。整った造形に思わず見惚れてしまう。
「行ったな」
「あ、ありがとう」
「……鞄、持つぞ」
「え?」
柳瀬君は少し考えるような顔をしてから、俺の肩にかかる鞄の紐をするっと持ち上げた。一気に軽くなった肩に驚く。
「いや、大丈夫だから、そんなに重いの持たせられないって! 大事な腕と肩なのに」
「俺には全く重くないから、平気だ」
「野球部のエースに荷物持ちなんかさせたら、俺がばあちゃんに雷落とされるから……!」
慌てて軽い口調になってしまった。知り合って間もないのに馴れ馴れしいよな。
荷物を持たせていることと馴れ馴れしく接したことの両方とも申し訳なくなってあたふたする。
「じゃあ俺の持って」
「えぇ……」
半ば強引に柳瀬君の鞄を渡される。案の定めっちゃ軽い。
尚も食い下がろうとしたが、柳瀬君がさっさと歩き始めてしまったので仕方なく甘えることにした。
駅に着くまで、柳瀬君はさっきよりもずっとゆっくり歩いてくれて、それもまた俺の胸をかきむしるようだった。
昼下がりの駅は人が少ない。ホームに滑り込んできた電車内もほとんど人がいない。
がら空きの座席の一番端を空けて座る柳瀬君。これは……その隙間を埋めればいいのか?
俺は迷って固まる。それを不思議そうに見上げた柳瀬君が自分の空いたスペースを手で叩く。あ、そうですよね、そこに座ります。
柳瀬君に示された通り隣へ座ると、太い腕が俺の貧弱な腕を圧迫する。こんなところでも体格の差を感じてしまってなんだか情けない。俺はいくら食べても肉がつかないタイプなんだよ。
「紺野」
「はいっ」
「……俺、怖いか?」
「え?」
柳瀬君の背後に垂れた尻尾の幻覚が見える。完全に気のせいだが耳も垂れているようだ。しおらしい雰囲気はこれまで彼に持っていた“一匹狼”のイメージとは異なる。
「……怖がらせるつもりはなかったんだ」
「怖くない!」
「……本当か?」
小首を傾げた柳瀬君に激しく首肯してみせる。すると少しだけ尻尾が持ち上がったようだ。
「よかった」
「俺の方こそ、変な態度とってごめん。やっぱり野球部のエースで有名だから、緊張して」
「……普通に接してくれたら、嬉しい」
「うん。そうだよな、ごめん」
ふるふる、と首を振って微笑んでくれる。初めて年相応だと感じられる様子に、俺の緊張もほどけてくる。
そりゃあ肩書だけで距離を取られたら嫌だよな。俺にも少しだけ覚えはあるし。
俺は改まった態度をやめるよう意識しながら、柳瀬君に聞きたかったことをたずねる。
「さっきは安井先生に乗せられて流れでお願いしちゃったけど、バイト、本当にいいの?」
「ん。紺野と、紺野の家族がいいなら、やってみたい」
「俺としてはすごくありがたいよ。家族も絶対喜ぶと思う」
「いつから行っていいんだ?」
「いやぁ、正直てんてこ舞いだから明日からでもうちは全然大歓迎、ハハハ……」
さっと腕時計の針を見る。あと2時間ほどで15時からのチェックインが始まる。その時の駐車場の車整理やら部屋の案内やらの大変さを思い出して乾いた笑いが出てきてしまう。
「じゃあ、明日から世話になる」
「ええっ!? マジで言ってる……?」
「まじ」
柳瀬君がまじめな顔で口を真一文字に引き結んだ。マジかぁ。
俺は驚いた風でいて、内心喜びでこそばゆい気持ちがした。
「柳瀬君ちって最寄りは?」
「竜門」
「あ、隣駅か。となると家から飛燕館までどれくらいだろ」
「多分、チャリで30分はかからないくらいだと思う」
「だよね」
結構遠いな。体力のある柳瀬君ならいざ知らず、俺みたいな軟弱者は一駅だろうと電車に乗る距離だ。
「もし柳瀬君とご家族がよければ、うちは泊まり込みでも全然大丈夫だよ。食事ももちろん働く人たちの分は三食提供だし」
「そこまでしてもらっていいのか?」
「働いてくれる人たちがなるべく嫌にならないように気を付けてるだけなんだけどね……祭の時期ってだけでヤバいのに、急に聖地巡礼のお客様も増えちゃったから」
柳瀬君は飛燕館がなぜ今年はヤバいのか気になったようなので、いきさつを話した。もちろん、ばあちゃんが俺に課した無理な指令についても暴露してやった。
俺の話にどこか面白いところがあったのか、柳瀬君は時々「フッ」と笑いながら聞いてくれた。
「紺野の家族は面白そうだな」
「面白いっていうか、俺以外がみんな変わり者なんだよ」
「俺は紺野も面白いと思う」
「えぇ?」
二人で笑いあうと腕同士触れる面積が増える。柳瀬君の身体は俺よりも体温が高いようだ。
「もし大丈夫なら、今日これから挨拶しに行ってもいいか」
「そこまでしなくても……手伝ってもらうのはこっちだし」
「いや、ちゃんと挨拶はしておきたい」
「……ありがとね。今日は平日でちょっと余裕あるから、ウチは全然大丈夫」
柳瀬君の意思が固く、そういう筋を通そうとするところもカッコいいなと思った。
そうして俺たちは二人連れだって飛燕館の最寄り駅の薬山で下車した。
