デルフィニウム群青録 ―老舗旅館バイトにスカウトした野球部エースが、なぜか俺のお婿さんに立候補しました―







 教室にいる面子を見て、「今日もダメだ」と小さく天を仰ぐ。
 見知った生徒数名と軽い挨拶を交わし、空いている窓際の席に座った。

 俺は自由参加の夏期講習スケジュールをスマホで見る。何度目を泳がせても、科目は1週間できれいに一周している。今日の数学が最後の望みだったのだが、儚く潰えた。

 脳裏に浮かぶのは従業員の皆さんの悲痛な顔と、鬼の形相のばあちゃん。

 結局、「夏休み限定アルバイターをひとりも勧誘できなかった」報告をしなければならないと思うと、ひどく憂鬱になる。

 俺は先生が来るまで机に突っ伏して現実逃避をしていたので、この後隣の席についた夏期講習と縁のなさそうな生徒に意識が向かなかった。







 ――――7月上旬。


「潔貴。夏休みにうちでアルバイトできそうな友達を勧誘してきておくれよ」
「え゛ッ」


 思わず喉奥から変な音が出て、白髪染めの匂いを思い切り吸ってしまう。盛大にむせ返った俺を鏡越しに「情けないねえ」という顔で見てくるばあちゃん。
 細かいところは手が届かないからと言うので手を貸しているというのに、ひどい顔を向けられている。
 ばあちゃんの言葉を頭の中でリピートしてかぶりを振った。


「いや、ちょっと厳しいと思うわ」
「なんでェ」
「高3って最後の部活の大会とかあるし、受験勉強する人も多いし、みんな忙しいんだよ」
「一人や二人いるでしょうに」
「まぁそうかもしれないけど……」
「とにかく、頼んだよ」


 この日、不承不承頷いてしまったせいで後悔することになるのだ。
 
 毎年夏はこの地方伝統の竜薬祭(りゅうやくさい)目当てで旅館に泊まるお客様が激増する。それに加えて、今年の頭に公開された映画のロケ地になったことで予約増加に拍車がかかった。いわゆる聖地巡礼である。
 
 繁忙期でないのにもかかわらずほぼ連日満室御礼。この調子でいくと祭りの時期はとんでもない忙しさになるのではないか?ということで、従業員の皆さんも気を揉んでいた。
 
 もちろんこの旅館の大女将であるばあちゃんも危惧していた。それでさっきの話が出てきた、それは分かる。

 俺は指令通りに心当たりのある同級生たちに声をかけて回った。
 しかし物の見事に玉砕し、夏休み序盤に行われる自由参加の夏期講習に最後の望みをかけたわけだが、先ほど負けが確定した。
 自由参加と言えど、初回授業に顔を出さずに2回目の講習から出席する生徒がいるとは考えにくかったからだ。







 ――――……

「紺野~聞いてるか~」
「あっ……すみません」
「ここの問5の答えは?」
「えーっと……」


 俺は慌ててノートに目を落とし、先生に指示された問題の答えを言う。
 それに対して先生は「はい正解、ぼーっとしてるくせに正解するのは素晴らしいな」と胡乱げな目で言ってくるので、へらりと笑って誤魔化した。
 この夏期講習に参加した主目的が人材探しであろうと、真面目に授業は聞いている。数学は一番の得意科目でもあるし。

 俺から視線を外して授業に戻った先生。ほっと胸を撫で下ろすと右隣から視線を感じた。

 短髪でガタイのいい生徒。心なしか机が小さく見える。
 授業開始時、彼の存在に気が付いて驚いた。まさか学校一の有名人が隣の席に座っていると思わなかったからだ。

 半袖シャツの胸ポケットの名札には、「柳瀬 叶馬(やなせ きょうま)」と書かれている。

 同じ3年生で野球部のエース。うちの高校は甲子園に出る年もある野球の強豪校だが、歴代選手の中でも群を抜いて将来有望と言われている生徒だ。
 
 なんでまた野球部のエースが夏期講習なんか……?と思考を巡らせると、つい先週県大会の決勝で敗退したのを思い出す。旅館ロビーの大きなテレビ前に近所の人たちが陣取って中継を応援していたのだが、パブリックビューイングさながらであった。
 
 目が合ったのは一瞬で、彼はすぐノートに目線を落とした。
 
 学校の有名人が隣の席に座っていると、そわそわと浮足立つ気持ちが湧いてくる。同い年とは信じがたい恵まれた体躯。うわぁ、ばあちゃんが働き手に欲しそう……。奥二重の眼差しは少し鋭かったが、整った眉とすっと通った鼻筋が綺麗だった。あぁ、磨けばフロント業務もできそうだねぇってばあちゃんが言いそう……。

 俺は頭の中が煩悩で一杯になって、授業どころの話ではなくなってしまった。

 しかし、どう転んでも彼を勧誘することは無理だろう。部活動が終わったとはいえ、将来への準備が色々とあるはずだ。そもそも俺は同じクラスになったことも、ちゃんと話したことすらない。どこにいても目立つ彼を遠目に眺めたことしかない。頭の中では分かっているのだが、ちらちらと視線を向けてしまうのはやめられなかった。

 観察している内に、彼が黒板の問題をノートに写した後、途中式や答えを書いていないことに気付く。整った眉がぎゅっと顔の中心に寄って悩んでいる様子もあった。

 結局授業が終わるまで彼はずっとそんな調子で、皆が帰る中、ゆっくりと片付けて疲れた顔をしていた。

 俺は、ばあちゃんが欲しそうな人材だなということは置いておいて、ノートを貸すくらいは申し出ようかと逡巡していた。だから俺もゆっくり片づけをしていたのだが、そこで声がかかる。


「柳瀬、さすがに難しかっただろ」
「すんません、全然分からなかったです」


 数学の安井先生が苦笑いで声をかけた。それに対し、少し落ち込んだ声で彼が返事をする。
 確かに今日の授業は数3の内容で、しかも応用問題ばかりだった。自由参加の夏期講習だけはある。

 きっと部活動が忙しくてあまり勉強できなかったのだろうな、大変そうだな、と思いながら荷物をまとめた。安井先生が気にかけているなら、わざわざ俺がノートを貸すこともないだろうと立ち上がり椅子をしまった。


「と、そこでだ、紺野」
「へっ?」


 まさか呼び止められると思っていなかった俺は肩を揺らす。


「お前が勉強を教えてやってくれ」
「え!?」


 安井先生の視線が、なぜかばあちゃんのとダブる。とても力強い圧を感じる。
 しかし俺も負けてばかりはいられない……!


「いやぁ……家の手伝いがあるのでちょっと……」


 正当な理由だと思う。俺の家が旅館を経営しているのは安井先生もよく知っているのだし。しかし先生は俺の言うことを予測していたように続ける。

 
「今年は例年以上にお客さんが多くて大変なんだろう? 誉澄(ほずみ)がお前も人手探しさせられていると言っていた気がするが、人手は見つかったのか?」
「う……ええっと……」


 あんのバカ兄貴……ッ!

 俺は年の離れた兄の顔を思い浮かべてむかっ腹を立てる。本当に口が軽いな!
 安井先生はしてやったり、という顔をしている。そう、この安井先生は兄と同級生で、俺はこの高校に入る前から知った仲だ。
 いまいち話がつかめていない彼が首を傾げるので、安井先生が補足する。


「紺野の家は、有名な温泉旅館なんだ。飛燕館(ひえんかん)って知らないか?」
「知ってます。有名ですよね」
「旅館が忙しい年、夏休み限定で学生のアルバイトを雇うんだ。俺はこいつの兄貴と同級生で、何度か手伝ったことがある。結構もらえるぞ」


 いやぁ、野球部のエースにも知ってもらえているのはありがたい。ありがたいけれども!
 安井先生は人差し指と親指で丸を作らないで! うちの夏短期バイトが割と破格の時給なのは間違いないけれども!

 
「大女将の指令を完遂できないのはなぁ、どうなんだろうなぁ」
「ぐ……ッ」


 ばあちゃんの名前を出されると、俺は手も足も出せない。
 安井先生はどんどん猛追してくる。


「柳瀬は紺野から勉強を教わりつつ小遣い稼ぎもできて一石二鳥だ、興味無いか?」
「俺は、ありがたいですけど……」
「だそうだぞ、紺野。柳瀬なら手伝いにもぴったりの人材だろう?」


 安井先生からのとどめの一手、とばかりの攻撃に、俺は息も絶え絶えである。


「それはもう……本当に……! 柳瀬君って逞しくて力もありそうだし、大人っぽくてカッコいい顔だからお客さんに好かれそうだし、何よりうちのばあちゃんが絶対に欲しがる逸材だろうし、俺としても野球部のエースとお近づきになれるならなりたいですけど……ッ!」
「おーい紺野、本音が全部漏れてるぞ」
 

 自身の中で「ろくに話したこともない相手にお願いしていいのか」という気持ちと、ぜひスカウトさせてほしいという気持ちが葛藤して口から溢れる。
 あえて見ないようにしていた柳瀬君へそっと目を向ける。
 椅子に座ったままの彼が、立ち上がった俺を見上げる形になる。困ったように少し垂れた眉と、綺麗な黒い瞳が俺の心臓を鷲掴みにしてくる。まるで甘える大型犬のような顔で……! 反則だ!


「よければぜひ、ウチでアルバイトをお願いします……ッ!」


 俺は気付いたら頭を下げながら右手を差し出していた。勢い余って告白みたいになってしまい、頭が冷えてくると急激に恥ずかしくなってくる。恥ずかしさに耐えきれず手を引っ込めそうになったところ、大きくて分厚い手につかまって阻止される。


「……よろしく」


 はにかんだ笑顔に映える白い歯。あぁ、間違いなくばあちゃんが欲しがりそうな人材である。