ドラグニア国の上空は、いつもたくさんの竜が飛び交っている。太古より竜と共存しているこの国は、いつだって竜を守り、竜に守られていた。
今日の朝も、竜たちは悠々と空を飛ぶ。
雲の隙間から照らす光は、竜の影を落としながら白亜の城を照らしていた。バルコニーに竜の影が一瞬だけ過ぎるが、七人の侍女達はそれには目もくれず、姫の支度に追われていた。
侍女たちの動きを見ている姫はというと、装飾の施された椅子の上に座り、侍女たちに世話を焼かれている。健康的な背格好で、手足の先までもすらりとしている。
王国を統べていた女王が、床に臥せって早四年。姫は次期女王として、代理を務めていた。女王は日に日に目を開けている時間が減っている。このまま、別れを告げるのもそう遠くない出来事となるだろう。
召使いたちに支度や世話をされながら、姫は全てがどこか遠くの出来事のように感じていた。
肩甲骨まである茶色の長い髪は、編み込んで纏め上げられる。着せられる生成りのドレスには全面に刺繍やレースが施されており、齢十七歳の姫の若々しく美しい様を更に引き立てていた。
ふと、姫が窓の外を見下ろすと、王城へと続く道を一人の少年が歩いている。一回り大きいローブに身を包んだ少年の歩き方は凛々しく大人びた様子だ。
上空を飛ぶ竜が少年を見つけると、勢いよく急降下する。庶民は王城に立ち入ることを許されておらず、その規律を破ればたちまち王家の竜に食い殺されると言うのがこの国の常識だ。
姫は竜と民を愛している。だからこそ、竜も愛する姫を守るために来訪者ですら食い殺すのだと。この城に住み着いている者だけではない。庶民からも、そう囁かれている。
竜は恐ろしい生き物だ。姫はそれをよく知っている。
だから、少年が降りてくる竜を動揺もせずに真っすぐに見つめ返した時、姫は思わずあっと声を漏らしていた。
「姫様? いかがなさいましたか?」
長年世話をしてくれている侍女長の問いかけに、姫は咄嗟に首を横に振る。けれど、視線は相変わらず外に釘付けになっていた。
竜は少年に襲い掛からなかった。傍に降り立ち、口を大きく開けて威嚇しているように見えるが、少年はそれに怯えることもなく、竜に飛び上がるようにと片手で合図を出す。すると、竜は再び高く舞い上がった。
召使い達は誰も外の様子に気が付いていない。だが、当然のように王城には見張りの門番がいる。その者達が、少年に槍を向けている。槍に囲われた少年は、何用でこの城を訪れたのか。姫はとてつもない不安に襲われた。
どうか、あの者が辿り着きませんように。そんなことを、祈りたくなるくらいに。
「姫様、少し顔色が悪うございますが……何か温かい飲み物でも?」
「……ええ、今日は竜の羽ばたきのせいか寒いものね」
遠くに見える雪の積もった山にも、竜は住んでいる。ドラグニア国では、その竜山からの暴風を竜の羽ばたきと呼ぶ。王城まで届く竜の羽ばたきが、強く唸るような音を聞かせて姫の心をもかき乱す。
温かな紅茶を飲み、冷静になろうとしている姫の下に慌ただしく足音が迫ってくる。
「姫様! 失礼いたします!」
「何事ですか、慌ただしい」
まだ若い近衛の者が部屋に来るなり、侍女長が窘めるように告げる。しかし、近衛の者は焦った様子のまま報告を続けた。
「来訪者が、自らはアウステリアだと名乗っております!」
その瞬間、辺りの人間たちがざわめく。姫は思わず震えそうになる手でティーカップを机の上に置く。
周りの不安を煽らぬよう、自らの不安は隠し通す。国を治める者である以上、誰よりも気高くなければならない。表に出していいのは、品位ある毅然とした態度だけだ。
「皆、静まりなさい」
その場にいた者達が、一瞬で静まり返る。姫から発せられる言葉は、絶対的な命令だ。慌てふためいていた召使いたちも、次の瞬間にはピシッと背筋を伸ばして整列している。
それを見て姫は穏やかに微笑んで目を伏せる。相手が何者であろうと、自分の為すべきことをするまでだ。口を開く姫の表情は、決断に躊躇いがないことを思わせる凛々しいものだった。
「謁見の準備を」
そう言うと、机の上に置いたティーカップが下げられる。
せっかく淹れてもらったばかりの紅茶を楽しめる時間だったのに。少し惜しみながら姫は部屋を出た。
アウステリア。この国で唯一、竜を育てる資格を持つ一族達。彼らは庶民と共に暮らすが、厳格に言えば彼らは王宮に仕える者で、王族に物言いを唱えることの出来る地位にいる。
少なくとも、使用人達を管理している執事よりは王族に近い存在だ。
ただ、懸念が一つ。アウステリアは途絶えている筈だった。アウステリア一族最後の一人、ジル・アウステリアが死去してもう一年が過ぎようとしていた。
なぜ今更、アウステリアを名乗る者が出てくるのだろう。しかも、あんな少年が竜にいとも容易く命じることが出来たのも謎だ。
(ジル殿は、子がいないと言っていた)
恐らく、偽物だろうと思いながらも謁見を許可したのは、自らが抱いた違和感を取り除くためだった。
謁見の間に置かれている玉座に座る。姫は手を重ね、ドレスの上に置くように乗せる。背筋はきっちりと伸ばし、高貴な態度を取って扉を開くように命じる。
「謁見を許可します」
少し険しい顔つきになるのは無理もないことだろう。先ほど見た光景は、姫にとって信じられないものだったのだから。
扉が開き、中に入ってきた少年は、片膝をついて深々と頭を下げた。亜麻色のさらりとした髪が垂れる。ジルには似ても似つかない子だと思った。
「謁見の許しを頂けたこと、感謝いたします」
それだけを告げて口を閉ざしてしまった少年に、恐らくこういう場は不慣れなのだろう、と思った姫が促す。
「名を名乗りなさい」
「私は名を持ちません。ただ、アウステリアと」
竜を育てる者が名を持たないなどと、聞いたことが無かった姫は面食らった。名は授かりものだ。育て上げることを使命とする者達にとって、重要なものであるはずだ。それを一番理解していたジルが、自らの子に名をつけないなどあり得るだろうか?
「父であるジル・アウステリアは私に名を付けませんでした」
姫の心を見透かしたように、少年は言う。ジルを理解しているように語る少年に対して、姫は無性に悔しくて仕方なかった。
「ジル殿が我が子に名付けをしないなど、ありえません」
少し感情的な物言いになってしまいながらも、姫は冷たく言い放った。だが少年もそれに怯むことなく、淡々と口にする。
「事実です。父、ジル・アウステリアは……王城の危機に参じる、と告げて以来音沙汰がありません」
姫の指がピクリ、と動いた。
(もしかして、この子はジル殿が亡くなっていることを知らない?)
もしも少年の言うことが事実であれば、ジルと少年は互いに唯一の身内である。その身内に何も知らせないことがあっていいのだろうか、と姫は少し迷いを見せた。
少年は頭を下げたまま、またしても何も言わなくなった。そこで姫は立ち上がると、兵士たちに命令を下す。
「……城の者は下がりなさい」
「姫様、しかし」
この少年の目的がなんなのか分からない。けれどやはり、ここは生前王家に尽くしてくれたジルに報いる意味も込めて、アウステリアを名乗るこの少年に向き合ってみようと思った。
兵士たちが皆、謁見の間から立ち去ると姫は改めて玉座に座りなおし、少年を見下ろして言う。
「あなたが知りたいことは、ジル殿の生死についてですか?」
「……いえ。私は、父がまだ生きているとは思っておりません」
少年は顔を伏せたまま首を横に振る。そこで姫は自分が思い違いをしていたことに気が付く。この少年は、ジルの弔いに来たわけではないのだ。
「姫、私が知りたいのはただ一つです。四年前、父が王城に参じたあの日に、何があったのかを教えていただきたい」
その言葉で、姫はようやく思い至った。
(この者はきっと、私を糾弾しに来たのだ)
少年は顔を上げる。その顔には確かに、ジルの面影があるように感じられる。姫は、思わず指先を丸めていた。
「私には知る権利があるはずだ。父の死について。そして……竜が墜ちたあの日のことを」
真っすぐに姫を捉えた少年の瞳は、あまりにも美しい琥珀色をしていた。
今日の朝も、竜たちは悠々と空を飛ぶ。
雲の隙間から照らす光は、竜の影を落としながら白亜の城を照らしていた。バルコニーに竜の影が一瞬だけ過ぎるが、七人の侍女達はそれには目もくれず、姫の支度に追われていた。
侍女たちの動きを見ている姫はというと、装飾の施された椅子の上に座り、侍女たちに世話を焼かれている。健康的な背格好で、手足の先までもすらりとしている。
王国を統べていた女王が、床に臥せって早四年。姫は次期女王として、代理を務めていた。女王は日に日に目を開けている時間が減っている。このまま、別れを告げるのもそう遠くない出来事となるだろう。
召使いたちに支度や世話をされながら、姫は全てがどこか遠くの出来事のように感じていた。
肩甲骨まである茶色の長い髪は、編み込んで纏め上げられる。着せられる生成りのドレスには全面に刺繍やレースが施されており、齢十七歳の姫の若々しく美しい様を更に引き立てていた。
ふと、姫が窓の外を見下ろすと、王城へと続く道を一人の少年が歩いている。一回り大きいローブに身を包んだ少年の歩き方は凛々しく大人びた様子だ。
上空を飛ぶ竜が少年を見つけると、勢いよく急降下する。庶民は王城に立ち入ることを許されておらず、その規律を破ればたちまち王家の竜に食い殺されると言うのがこの国の常識だ。
姫は竜と民を愛している。だからこそ、竜も愛する姫を守るために来訪者ですら食い殺すのだと。この城に住み着いている者だけではない。庶民からも、そう囁かれている。
竜は恐ろしい生き物だ。姫はそれをよく知っている。
だから、少年が降りてくる竜を動揺もせずに真っすぐに見つめ返した時、姫は思わずあっと声を漏らしていた。
「姫様? いかがなさいましたか?」
長年世話をしてくれている侍女長の問いかけに、姫は咄嗟に首を横に振る。けれど、視線は相変わらず外に釘付けになっていた。
竜は少年に襲い掛からなかった。傍に降り立ち、口を大きく開けて威嚇しているように見えるが、少年はそれに怯えることもなく、竜に飛び上がるようにと片手で合図を出す。すると、竜は再び高く舞い上がった。
召使い達は誰も外の様子に気が付いていない。だが、当然のように王城には見張りの門番がいる。その者達が、少年に槍を向けている。槍に囲われた少年は、何用でこの城を訪れたのか。姫はとてつもない不安に襲われた。
どうか、あの者が辿り着きませんように。そんなことを、祈りたくなるくらいに。
「姫様、少し顔色が悪うございますが……何か温かい飲み物でも?」
「……ええ、今日は竜の羽ばたきのせいか寒いものね」
遠くに見える雪の積もった山にも、竜は住んでいる。ドラグニア国では、その竜山からの暴風を竜の羽ばたきと呼ぶ。王城まで届く竜の羽ばたきが、強く唸るような音を聞かせて姫の心をもかき乱す。
温かな紅茶を飲み、冷静になろうとしている姫の下に慌ただしく足音が迫ってくる。
「姫様! 失礼いたします!」
「何事ですか、慌ただしい」
まだ若い近衛の者が部屋に来るなり、侍女長が窘めるように告げる。しかし、近衛の者は焦った様子のまま報告を続けた。
「来訪者が、自らはアウステリアだと名乗っております!」
その瞬間、辺りの人間たちがざわめく。姫は思わず震えそうになる手でティーカップを机の上に置く。
周りの不安を煽らぬよう、自らの不安は隠し通す。国を治める者である以上、誰よりも気高くなければならない。表に出していいのは、品位ある毅然とした態度だけだ。
「皆、静まりなさい」
その場にいた者達が、一瞬で静まり返る。姫から発せられる言葉は、絶対的な命令だ。慌てふためいていた召使いたちも、次の瞬間にはピシッと背筋を伸ばして整列している。
それを見て姫は穏やかに微笑んで目を伏せる。相手が何者であろうと、自分の為すべきことをするまでだ。口を開く姫の表情は、決断に躊躇いがないことを思わせる凛々しいものだった。
「謁見の準備を」
そう言うと、机の上に置いたティーカップが下げられる。
せっかく淹れてもらったばかりの紅茶を楽しめる時間だったのに。少し惜しみながら姫は部屋を出た。
アウステリア。この国で唯一、竜を育てる資格を持つ一族達。彼らは庶民と共に暮らすが、厳格に言えば彼らは王宮に仕える者で、王族に物言いを唱えることの出来る地位にいる。
少なくとも、使用人達を管理している執事よりは王族に近い存在だ。
ただ、懸念が一つ。アウステリアは途絶えている筈だった。アウステリア一族最後の一人、ジル・アウステリアが死去してもう一年が過ぎようとしていた。
なぜ今更、アウステリアを名乗る者が出てくるのだろう。しかも、あんな少年が竜にいとも容易く命じることが出来たのも謎だ。
(ジル殿は、子がいないと言っていた)
恐らく、偽物だろうと思いながらも謁見を許可したのは、自らが抱いた違和感を取り除くためだった。
謁見の間に置かれている玉座に座る。姫は手を重ね、ドレスの上に置くように乗せる。背筋はきっちりと伸ばし、高貴な態度を取って扉を開くように命じる。
「謁見を許可します」
少し険しい顔つきになるのは無理もないことだろう。先ほど見た光景は、姫にとって信じられないものだったのだから。
扉が開き、中に入ってきた少年は、片膝をついて深々と頭を下げた。亜麻色のさらりとした髪が垂れる。ジルには似ても似つかない子だと思った。
「謁見の許しを頂けたこと、感謝いたします」
それだけを告げて口を閉ざしてしまった少年に、恐らくこういう場は不慣れなのだろう、と思った姫が促す。
「名を名乗りなさい」
「私は名を持ちません。ただ、アウステリアと」
竜を育てる者が名を持たないなどと、聞いたことが無かった姫は面食らった。名は授かりものだ。育て上げることを使命とする者達にとって、重要なものであるはずだ。それを一番理解していたジルが、自らの子に名をつけないなどあり得るだろうか?
「父であるジル・アウステリアは私に名を付けませんでした」
姫の心を見透かしたように、少年は言う。ジルを理解しているように語る少年に対して、姫は無性に悔しくて仕方なかった。
「ジル殿が我が子に名付けをしないなど、ありえません」
少し感情的な物言いになってしまいながらも、姫は冷たく言い放った。だが少年もそれに怯むことなく、淡々と口にする。
「事実です。父、ジル・アウステリアは……王城の危機に参じる、と告げて以来音沙汰がありません」
姫の指がピクリ、と動いた。
(もしかして、この子はジル殿が亡くなっていることを知らない?)
もしも少年の言うことが事実であれば、ジルと少年は互いに唯一の身内である。その身内に何も知らせないことがあっていいのだろうか、と姫は少し迷いを見せた。
少年は頭を下げたまま、またしても何も言わなくなった。そこで姫は立ち上がると、兵士たちに命令を下す。
「……城の者は下がりなさい」
「姫様、しかし」
この少年の目的がなんなのか分からない。けれどやはり、ここは生前王家に尽くしてくれたジルに報いる意味も込めて、アウステリアを名乗るこの少年に向き合ってみようと思った。
兵士たちが皆、謁見の間から立ち去ると姫は改めて玉座に座りなおし、少年を見下ろして言う。
「あなたが知りたいことは、ジル殿の生死についてですか?」
「……いえ。私は、父がまだ生きているとは思っておりません」
少年は顔を伏せたまま首を横に振る。そこで姫は自分が思い違いをしていたことに気が付く。この少年は、ジルの弔いに来たわけではないのだ。
「姫、私が知りたいのはただ一つです。四年前、父が王城に参じたあの日に、何があったのかを教えていただきたい」
その言葉で、姫はようやく思い至った。
(この者はきっと、私を糾弾しに来たのだ)
少年は顔を上げる。その顔には確かに、ジルの面影があるように感じられる。姫は、思わず指先を丸めていた。
「私には知る権利があるはずだ。父の死について。そして……竜が墜ちたあの日のことを」
真っすぐに姫を捉えた少年の瞳は、あまりにも美しい琥珀色をしていた。
